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きのえうま改革かいかく

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きのえうま改革かいかく
きのえうま改革かいかく当時とうじ軍国ぐんこくつとむしょ会議かいぎ
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 갑오개혁
漢字かんじ きのえうま改革かいかく
発音はつおん カボゲヒョク
日本語にほんごみ: こうごかいかく
マ字まじ転写てんしゃ
英語えいご
Gabo gaehyeok
Gabo Reform
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きのえうま改革かいかく(こうごかいかく)は、1894ねん干支えときのえうま)から1895ねんにかけて大日本帝国だいにっぽんていこく指導しどうしたおこなわれた朝鮮ちょうせん開化かいか中心ちゅうしんとした保護ほごこく状態じょうたい朝鮮ちょうせんにおける近代きんだい国内こくない改革かいかく[1]

大日本帝国だいにっぽんていこくから国内こくない改革かいかく要求ようきゅうされた当初とうしょ朝鮮ちょうせん国王こくおうこうはじめ改革かいかくこばんだものの、のち拒否きょひしたのは閔族およきよし鴻章こうしう袁世凱ひとしによるもので自身じしん意志いしではないとして許可きょかをし、きむひろししゅう政権せいけん誕生たんじょうする。急進きゅうしんてき改革かいかくだと守旧しゅきゅう反対はんたいしたが、租税そぜい金納きんのう通貨つうか改革かいかく身分みぶん差別さべつ撤廃てっぱい刑罰けいばつ縁坐えんざせい拷問ごうもん廃止はいしなど数々かずかず改革かいかくおこなった。しかし、1895ねん4がつさんこく干渉かんしょうのち朝鮮半島ちょうせんはんとう王妃おうひ閔妃びんび中心ちゅうしんしんちからつよまると、開化かいか政権せいけん内務ないむ大臣だいじんだったほおおよげこう[2]同年どうねん8がつ彼女かのじょから謀反むほんうたがいをかけられ、日本にっぽん亡命ぼうめいする。その閔妃びんび主導しゅどうしん内閣ないかくまれ、改革かいかく停滞ていたいしたものの、同年どうねん10がつ8にち閔妃びんび殺害さつがいおつ事変じへん)されると改革かいかく再開さいかい(おつ改革かいかく)された。1895ねんから1896ねんにかけておこなわれた乙未おとみ改革かいかくきのえうま改革かいかく一部いちぶとし、1894-1896ねん改革かいかく全体ぜんたいを「きのえうま改革かいかく」とぶこともある[1]きのえうまさらちょう(갑오경장)とも[3]。1896ねん2がつ11にちこうむねしんによってロシア公使館こうしかん逃亡とうぼうしてかん播遷こすと、しん新内しんないかく成立せいりつさせておつ改革かいかくにおける近代きんだい停滞ていたいさせた。これは、朝鮮半島ちょうせんはんとうめぐにち戦争せんそう朝鮮ちょうせん保護ほごこく方針ほうしんから併合へいごうへする方向ほうこうへの転換てんかんへとつながった[1]

概要がいよう

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朝鮮ちょうせんでは各地かくちらんつづいていた。1894ねんきのえうま農民のうみん戦争せんそうこり、朝鮮ちょうせんちからおよばずきよし救援きゅうえん要請ようせいし、きよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい天津てんしん条約じょうやくもとづき日本にっぽん朝鮮ちょうせんへの出兵しゅっぺい申告しんこくしたものの、そのなかきよし朝鮮ちょうせん属領ぞくりょうしょうしており、朝鮮ちょうせん独立どくりつこくとしてみる日本にっぽんには到底とうてい看過かんかできないものであった[3]日本にっぽんはこの独立どくりつ問題もんだいなんとかせんがためかんじょうげんソウル特別とくべつ)に朝鮮ちょうせん公使こうしとして大鳥おおとり圭介けいすけおくり、また邦人ほうじん護衛ごえいするためにすみぶつうら条約じょうやくだい款にもとづき護衛ごえいへい日本にっぽん公使館こうしかんのあるきょうじょう出兵しゅっぺいした[3] (なお、日本にっぽん朝鮮ちょうせんとのあいだには、「護衛ごえいへい派遣はけん権利けんり保留ほりゅうせきスル往復おうふく」も存在そんざいした)。6月28にち大鳥おおとり公使こうし朝鮮ちょうせん政府せいふ独立どくりつこくであるかかをうたところ[4]、6月30にち朝鮮ちょうせん政府せいふ独立どくりつこくであると回答かいとうした[4]日本にっぽん朝鮮ちょうせん恒久こうきゅうてき安定あんていんがため、以下いかような朝鮮ちょうせん内政ないせい改革かいかくあんを6がつ28にち閣議かくぎ決定けっていし、これを機密きみつ命令めいれいとして大鳥おおとり公使こうしおくり、7がつ3にち、5かじょう改革かいかくあんもっ朝鮮ちょうせん内政ないせい改革かいかくせつもとめた[3][4]

日本にっぽんかつ朝鮮ちょうせんとの旧交きゅうこうとなりこのみおもんじ、東亜とうあ大局たいきょくかんが他国たこく率先そっせんして修好しゅうこう条約じょうやく締結ていけつし、朝鮮ちょうせんいち独立どくりつこくなることを列国れっこくあかりかにした。しかるに朝鮮ちょうせんいたずらにきゅうしょう墨守ぼくしゅしていま宿弊しゅくへい除去じょきょせず、内乱ないらん相次あいついでおこり、つい自主じしゅ独立どくりつ基礎きそ破壊はかいし、屢屢しばしばるい隣邦りんぽうおよぼし、のべいて東亜とうあ大局たいきょく平和へいわみださんとするおそれあるにいたった。くのごときは我国わがくに隣邦りんぽう情誼じょうぎおいても、また自衛じえいみちおいても拱手こうしゅ傍観ぼうかんするのうはざるしょである。いん朝鮮ちょうせん政府せいふ秕政ひせい改革かいかくみちこうそく自主じしゅ独立どくりつげ、王国おうこく栄光えいこう永遠えいえん維持いじする長計ちょうけいこうずべし。

  • いちかんしょくもりあかりかにし、地方ちほう官吏かんりじょうへい矯正きょうせいすべし
  • いち外国がいこく交渉こうしょうことむべおもんじ、しょくもり其人をえらぶべし。
  • いち裁判さいばん公正こうせいにすべし。
  • いち会計かいけい出納すいとう厳正げんせいにすべし。
  • いち兵制へいせい改良かいりょうし、警察けいさつせいしつらえくべし。
  • いちぬさせい改定かいていすべし。
  • いち交通こうつう便びんおこすべし。

その、7がつ9にち日本にっぽん要求ようきゅうれられ、朝鮮ちょうせん国王こくおうおのれれをつみする」のみことのり[3]改革かいかくかんする国王こくおうみことのりさとし[4]発布はっぷし、7がつ10日とおかには「校正こうせいちょう設置せっちかんするみことのりさとし」が発布はっぷされ[4]さる正煕せいききむはじめかん曹寅うけたまわげて改革かいかく委員いいんにんじて、日本にっぽん公司こうし以下いかこまかい改革かいかくあん[4]提示ていじし、改革かいかく協議きょうぎはじまった[3]

だいいちじょう 中央ちゅうおう政府せいふ制度せいどより地方ちほう制度せいどいたるまで適宜てきぎ改革かいかく人材じんざい選抜せんばつすべきこと
いち有司ゆうし百官ひゃっかん職制しょくせいさるあかりすること
いちおようち外交がいこうつとむこれ政府せいふ統括とうかつし、掌理しょうりゆえごとくにして、ろく曹判しょせめわかしょくあたり、世道せどうあらた権限けんげん旧例きゅうれいる、
いち宮廷きゅうてい庶務しょむ治國ちこく庶政しょせい劃然かくぜん區別くべつし、所属しょぞくしょ官吏かんりおおむ一切いっさい國政こくせい關係かんけいからず、
いちかく外國がいこく交渉こうしょう通商つうしょうこと關係かんけい重大じゅうだいなるをもって、よろしこれつつし重責じゅうせき大臣だいじんげてこれてのひららしむべし、
いち官衙かんがにして政令せいれいくだりふに必要ひつようなるものはこれそんすべく、有名ゆうめい無実むじつ官廳かんちょうこれはいすべし、其他各署かくしょ合併がっぺいつとめてはんり簡にくべし、
いちげんじょうせるしゅうこおりけんさかいは其數過多かたなるがごとし、適宜てきぎ合併がっぺいしてつとめて其數をげん冗費じょうひ省略しょうりゃくすべし、ただしさまたよう注意ちゅういようす、
いち大小だいしょう官吏かんりしょくにんぶんしてかならからざるしゃのみこれそんし、きょしつらえ冗員じょういんおおむたっ汰すべし、
いちれきぎょう格式かくしきなりれい廃除はいじょして、ひろ人材じんざいきょぐるのひらくべし、
いちものおさめてかんを授くるはへいしょうやすし、これ嚴禁げんきんすべし、
いち大小だいしょう官吏かんりの俸禄は時宜じぎ参酌さんしゃくし、あかりかにがくすうさだめてなまいとなかどやしなえふにらしむべし、
いち大小だいしょう官吏かんりぜにぶつ賄賂わいろさくするの悪習あくしゅうほうしょうもうけて嚴禁げんきんすべし、
いち大小だいしょう官吏かんりなみ地方ちほうかんわたしいとなむのへいは、ほうしょう設定せっていしてげん矯正きょうせいすべし、
だいじょう 財政ざいせいせいとみげんひらくべきこと
いち國家こっか出入でいりざい審査しんさ明確めいかくにして制度せいどあかりかにすべし、
いち会計かいけい出納すいとう政務せいむいむ明正あきまさなずらえなるべし、
いちすみやかに貨幣かへい制度せいど改定かいていすべし、
いちかくみち畓はかずがくあかりにし、租賦のりつ改定かいていすべし、
いち各種かくしゅ租税そぜいほう改定かいていし、あわせて税源ぜいげんひらくべし、
いちささえ款のはなは緊要きんようならざるしゃおおむげんしょうし、其進款のすべきものりきめて請求せいきゅうすべし、
いちかんどうどおり衢を平坦へいたん広闊こうかつにし、きょうじょう開港かいこう塲間には鐵道てつどう布設ふせつし、かくどうしゅう府縣ふけん鎮には電線でんせんつうじて往來おうらい消息しょうそく便びんにすべし、
いちかく開港かいこう塲の税関ぜいかん一切いっさい事務じむ朝鮮ちょうせんこくみずか管理かんりして、あずかせしむからず、
だいさんじょう 法律ほうりつおよ裁判さいばんほう整頓せいとんすべきこと
いちげんじょう法律ほうりつ時宜じぎてきせざるものおおむかわやめし、時宜じぎ参酌さんしゃくしてべつほうしょうていむべし、
いち裁判さいばんほう改正かいせいして司法しほう公正こうせいさるあかりすべし、
だいよんじょう そく兵備へいび警察けいさつ整理せいりし、國内こくない變亂へんらんしずめ、あわせて國家こっか安寧あんねい保持ほじすべきこと
いち士官しかん養成ようせいすべし、
いち従來じゅうらい水陸すいりくへいおおむたっかわし、財力ざいりょくゆるかぎ新式しんしき軍隊ぐんたい増設ぞうせつすべし、
いち警察けいさつもうけはもっと緊要きんようなるをもって、きょうじょうはじかく邑に衙署をぶんしつらえ章程しょうていいむじょうすべし、
だいじょう 一般いっぱんがくせい約定やくじょうすべきこと
いち一般いっぱんがくせい時宜じぎ参酌さんしゃくして改正かいせいし、かく地方ちほう小學校しょうがっこうぶんしつらえわらわよう教養きょうようすべし、
いち小學しょうがくもう漸次ぜんじいとぐちかばすすみて中學ちゅうがく大學だいがくしつらえくべし、
いち生徒せいとちゅう俊秀しゅんしゅうなるもの選抜せんばつして、外國がいこく分遣ぶんけん留學りゅうがくせしむべし、

7がつ16にち朝鮮ちょうせん政府せいふ大体だいたい了承りょうしょうすると大鳥おおとり公使こうし返答へんとうしたが、大鳥おおとり公使こうし朝鮮ちょうせん政府せいふ公文こうぶん要求ようきゅうしたところ、朝鮮ちょうせん政府せいふは7がつ18にち大鳥おおとり公司こうじたい以下いかのようにつたえた[3][4]

内政ないせい改革かいかくすですう年来ねんらいみずからその必要ひつようを咸じてゐるところであるから日本にっぽん政府せいふ勧告かんこく異議いぎはないけれども、いま日本にっぽん政府せいふ強大きょうだい兵力へいりょくきょうじょう駐屯ちゅうとんせしめ、げん改革かいかく実行じっこう期限きげんうながすがごときはつい内政ないせい干渉かんしょういやひなきのうはず。此際日本にっぽん政府せいふおいさきづその軍隊ぐんたい撤退てったいし、内政ないせい改革かいかくかんする公然こうぜん照会しょうかいを撤囘せらるるならば、朝鮮ちょうせんかならみずか改革かいかくげ、日本にっぽん政府せいふ好意こういしゃすべし

しかし、きよしが「きよしへい大挙たいきょしてにゅうかんすべき」をこえたたして朝鮮ちょうせん政府せいふおどにちかんあいだ交渉こうしょう妨害ぼうがいしていたことが発覚はっかくしたため[4]、7がつ19にち日本にっぽん朝鮮ちょうせん政府せいふに、しんへい撤去てっきょ朝鮮ちょうせん独立どくりつ抵触ていしょくするしんかんあいだ条約じょうやく破棄はきもとめた[3] (なお、きよしたいして、日本にっぽん当初とうしょからにちしん両国りょうこく助力じょりょくによる朝鮮ちょうせん改革かいかくもとめていたが、きよし拒絶きょぜつしていた)。回答かいとう期限きげんぎた7がつ23にちきょうじょうかったところ朝鮮ちょうせんへいとの戦闘せんとう[3]日本にっぽんぐんけいぶくみや占領せんりょうし、開化かいか中心ちゅうしんとしたきむひろししゅう政権せいけん誕生たんじょうする。朝鮮ちょうせん国王こくおうだかむね改革かいかくこばんだのはつま一族いちぞくである閔族( 外戚がいせき)およきよし鴻章こうしう袁世凱ひとし意見いけんによるもので国王こくおう意志いしではないとし、7がつ24にちに「新政しんせいみことのりさとし」「大院君たいいんくん政務せいむ委任いにんみことのりさとし」「閔族処刑しょけいみことのりさとし」をくだした[3]

流刑りゅうけい処罰しょばつされた閔族

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こうむねによる「閔族処刑しょけいみことのりさとし」にもとづき、以下いかろくにんの閔族が流罪るざいけいしょされた[5]

7がつ27にち改革かいかく中心ちゅうしん機関きかんとして軍国ぐんこくつとむしょ設置せっちされ、つぎのような改革かいかくすすめられた。

  1. 中国ちゅうごく年号ねんごう使用しようめ、開国かいこく紀年きねん変更へんこう
  2. 宮内くない政府せいふ分離ぶんり
  3. ろく(吏曹、曹、れい曹、兵曹へいそうけい曹、こう曹)をはち衙門(内務ないむ外務がいむささえ財務ざいむ)、軍務ぐんむ法務ほうむ学務がくむ工務こうむのう商務しょうむ)に再編さいへん
  4. 科挙かきょ廃止はいし
  5. 封建ほうけんてき身分みぶんせい廃止はいし
  6. 奴婢ぬひ白丁はくちょう廃止はいし
  7. 人身じんしん売買ばいばい禁止きんし
  8. 拷問ごうもん廃止はいし
  9. 罪人ざいにん連座れんざほう廃止はいし
  10. 早婚そうこん禁止きんし
  11. 寡婦かふ再婚さいこん許諾きょだく
  12. 財政ざいせい改革かいかく
  13. 租税そぜい金納きんのう
  14. 通貨つうか銀本位ぎんほんいせい
  15. 度量衡どりょうこう統一とういつ

12月には軍国ぐんこくつとむしょ廃止はいしされ、きのえさる政変せいへん失敗しっぱいして日本にっぽん亡命ぼうめいしていたほおおよげこう内務ないむ大臣だいじんとなり、つづつぎのような改革かいかくすすめられた。

  1. 政府せいふ内閣ないかくとし、近代きんだいてき内閣ないかく制度せいど導入どうにゅう
  2. ひろしはん14じょう発布はっぷ
  3. 八道はちどうじゅうさんせいえる地方ちほう制度せいど改革かいかく
  4. 税制ぜいせい制度せいど改革かいかく
  5. 近代きんだいてき警察けいさつ軍事ぐんじ制度せいど確立かくりつ
  6. 司法しほう制度せいど近代きんだい

ところが、1895ねん5がつ政権せいけん内部ないぶ対立たいりつで、きむひろししゅう内閣ないかく崩壊ほうかいする。ほおおよげこうつぎぼくじょう内閣ないかくでも内務ないむ大臣だいじんとなるが、さんこく干渉かんしょう結果けっか朝鮮ちょうせんでの日本にっぽん影響えいきょうりょくよわまり、王妃おうひ閔妃びんび中心ちゅうしんしんちからつよまった。ほおおよげこうは8がつ謀反むほんうたがいをかけられ、また日本にっぽん亡命ぼうめいする。そのしん内閣ないかくまれ、改革かいかく停滞ていたいすることとなった。

改革かいかくは10月8にち閔妃びんび殺害さつがいおつ事変じへん)されたのちおつ改革かいかくがれる。

内閣ないかく

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校正こうせいちょう

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校正こうせいちょう任命にんめい以下いかとお[5]

政府せいふしん役員やくいん

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軍国ぐんこくつとむしょ会議かいぎ

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はち衙門の官制かんせい

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  • 総理そうり大臣だいじん きむひろししゅう
  • 内務ないむ大臣だいじん 閔泳たち
  • ささえ大臣だいじん さかなまことなか
  • 工務こうむ大臣だいじん じょただしあつし
  • 軍務ぐんむ大臣だいじん けいとお
  • 警務けいむ使 やす駉寿
  • 宮内くない大臣だいじん 
  • 外務がいむ大臣だいじん きむまことうえ
  • 法務大臣ほうむだいじん いんようもとむ
  • 学務がくむ大臣だいじん ぼくじょう
  • のうしょう大臣だいじん いむ世永よなが

背景はいけい評価ひょうか

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もともと日本にっぽん政府せいふ江華島こうかとう条約じょうやくにちちょう修好しゅうこう条規じょうき)で朝鮮ちょうせん独立どくりつ世界せかい一番いちばんはやみとめていた(というより、朝鮮ちょうせん清朝せいちょうさつふう体制たいせいから脱却だっきゃく独立どくりつこくとなることをのぞんでいた)が、朝鮮ちょうせん宗主そうしゅこくである清朝せいちょう政府せいふによって干渉かんしょう妨害ぼうがいされ改革かいかくすすんでいなかった。

当時とうじ日本にっぽん明治維新めいじいしんころから)の朝鮮ちょうせん王朝おうちょうではきょうせん大院君たいいんくん閔妃びんびあいだはげしい宮廷きゅうてい権力けんりょく闘争とうそうひろげられ、さらに、それとはまたべつ次元じげんで、事大じだい主義しゅぎ開化かいかとのあいだ権力けんりょく闘争とうそう相俟あいまって、混乱こんらん複雑ふくざつ様相ようそうていしていた。みずのえうま事変じへん(1882ねんきょうせん大院君たいいんくんしんられるというようなことがきたりした。さら閔妃びんびをはじめとする閔氏一族いちぞくは、それまでの親日しんにち政策せいさく開化かいか)からさつふう体制たいせい宗主そうしゅこくであるきよしへの事大じだい主義しゅぎ政策せいさくへと方向ほうこう転換てんかんしていた。

そのような朝鮮ちょうせん開化かいかたいする清朝せいちょう政府せいふ干渉かんしょう妨害ぼうがいによる近代きんだいへのおくれは開化かいか突出とっしゅつ行動こうどうみ、きのえさる政変せいへんきる一因いちいんともなった。かぶとさる政変せいへん開化かいか粛清しゅくせいされる過程かていで、福澤ふくさわ諭吉ゆきちらは朝鮮ちょうせん王朝おうちょう中華ちゅうか思想しそう小中こなかはな思想しそうへの固執こしつしょがたいものをり「だつろん」を展開てんかいした。

そうこうしてるうちに、にちしん戦争せんそう日本にっぽんきよしやぶったので、こうはじめ開化かいかへの障害しょうがいとなるきよし圧力あつりょく日本にっぽんぐん武力ぶりょくによって排除はいじょされたと判断はんだんし、開化かいか主張しゅちょうれ、日本にっぽん明治維新めいじいしん経験けいけん身分みぶん制度せいど撤廃てっぱい人材じんざい登用とうよう司法しほう制度せいどとう)からまなび、以下いか、それまで清朝せいちょう政府せいふはん強制きょうせいされていた律令りつりょう制度せいど文化ぶんか奴婢ぬひ白丁はくちょうなどの賤民せんみん制度せいど身分みぶん制度せいど律令りつりょう制度せいど特徴とくちょうである)とう悪弊あくへい、つまりは途方とほうもない旧弊きゅうへいである中華ちゅうか思想しそう悪弊あくへいから脱却だっきゃくせんと改革かいかくあん断行だんこうしたものである。

この改革かいかくにおける日本にっぽん影響えいきょうと、朝鮮ちょうせん近代きんだいあたえた影響えいきょう程度ていどについて、歴史れきしあいだ議論ぎろんつづいている。

きのえうま改革かいかく日本にっぽん明治維新めいじいしんており、つぎのような強烈きょうれつ改革かいかくをもたらした。

  1. 朝鮮ちょうせん主権しゅけんこくとなる。きよしとのむねぞく関係かんけい廃止はいしし、完全かんぜん独立どくりつする。
  2. 国王こくおう単独たんどくで(りょうはんによらず)施政しせいおこなう。
  3. 才能さいのうあるもの教育きょういく機会きかいあたえられる。
  4. 軍隊ぐんたい素性すじょうによらず、徴兵ちょうへいによってきずかれる。
  5. 人材じんざい門地もんちによらず実力じつりょく登用とうようとする。
  6. かわ加工かこうとそれにかかわるもの賎業せんぎょうとはなされない。
  7. 奴隷どれいせいおよ身分みぶんせい廃止はいし

当時とうじ朝鮮ちょうせん支配しはいロシア帝国ていこく日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくといった朝鮮ちょうせんへの影響えいきょうりょくきそ外部がいぶからの開国かいこく改革かいかく近代きんだいといったつよ圧力あつりょくにさらされていた。かぶとうま改革かいかくしゅとして、親日しんにち官僚かんりょう集団しゅうだんによっておこなわれた。

こののちさんこく干渉かんしょうきるが、それを重視じゅうしした朝鮮ちょうせん王朝おうちょうではしん威勢いせいつよくなり、またもや事大じだい主義しゅぎ朝鮮ちょうせん王朝おうちょう席巻せっけんし、ごうやした日本にっぽん政府せいふによりしん首魁しゅかいであった閔妃びんび殺害さつがいされるなど事態じたい悪化あっか一途いっと辿たどった。最終さいしゅうてきにはつまである閔妃びんび殺害さつがいされ、自身じしんころされそうになったこうむね日本にっぽん政府せいふ恐怖きょうふ失望しつぼうし、かん播遷おこないロシア帝国ていこく保護ほごはいったことによってこの改革かいかくすことになる。

そのような経緯けいいれば、このかぶとうま改革かいかく朝鮮ちょうせん王朝おうちょう朝鮮ちょうせん民衆みんしゅう近代きんだいへの意思いしにもとづく自発じはつてき改革かいかくではなく、にちしん戦争せんそう勝者しょうしゃである日本にっぽんからの軍事ぐんじてき圧力あつりょく穏便おんびんにやりごそうとした事大じだい主義しゅぎによるものであることをしめしていることがあきらかである。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 海野うみの福寿ふくじゅにちしんにち戦争せんそう集英社しゅうえいしゃ集英社しゅうえいしゃばん日本にっぽん歴史れきし18〉p.81-92、1992ねん11月、ISBN 4-08-195018-0
  2. ^ 大韓民国だいかんみんこく国旗こっきである太極たいきょくのデザインを考案こうあんした人物じんぶつ
  3. ^ a b c d e f g h i j ささえ交渉こうしょう外史がいし 葛生くずう能久よしひさ 1938ねん
  4. ^ a b c d e f g h にちしん戦史せんし だいかん しおしま仁吉にきち 1895ねん
  5. ^ a b にちしん海陸かいりく実戦じっせん 続編ぞくへん 伊沢いさわ孝雄たかお 1894ねん
  6. ^ a b c d e f g きょう城府じょうふ きょう城府じょうふ 1934ねん

関連かんれん項目こうもく

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