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事大 じだい 主義 しゅぎ (じだいしゅぎ)とは、明確 めいかく な信念 しんねん がなく、強 つよ いものや風潮 ふうちょう に迎合 げいごう することにより、自己 じこ 実現 じつげん を目指 めざ す行動 こうどう 様式 ようしき である[1] [2] 。東 ひがし アジア では外交 がいこう 政策 せいさく の方針 ほうしん として用 もち いられたこともある。
事大 じだい とは、大 だい に事 こと ( つか ) えること、つまり、強 つよ い勢力 せいりょく に付 つ き従 したが うことを意味 いみ し、その語源 ごげん は『孟子 もうし 』の「以小事大 じだい 」(=小 しょう を以って大 だい に事 つか える)の一節 いっせつ にある。孟子 もうこ では、中国 ちゅうごく の戦国 せんごく 時代 じだい の諸国 しょこく 群雄割拠 ぐんゆうかっきょ において、越 こし が呉 ご に仕 つか えた例 れい を挙 あ げている。つまり「小国 しょうこく のしたたかな外交 がいこう 政策 せいさく (知恵 ちえ )」というのが本来 ほんらい の意味 いみ であったが、漢 かん 代 だい 以降 いこう 、中国 ちゅうごく では冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい すなわち周辺 しゅうへん 諸国 しょこく にとっての事大 じだい 朝貢 ちょうこう 体制 たいせい が築 きず かれることになる。こういった背景 はいけい から中国 ちゅうごく (中原 なかはら )への事大 じだい 主義 しゅぎ と小中 こなか 華 はな 思想 しそう は複雑 ふくざつ な緊張 きんちょう ・影響 えいきょう 関係 かんけい を保 たも った。
538年 ねん 、百済 くだら は泗沘 に遷都 せんと し、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 国家 こっか の完成 かんせい と中国 ちゅうごく 南朝 なんちょう 文化 ぶんか を直 じき 写 うつ した新都 しんと の造営 ぞうえい を目指 めざ して梁 りょう へ朝貢 ちょうこう する。百済 くだら 聖王 せいおう 代 だい は、524年 ねん 、534年 ねん 、541年 ねん 、549年 ねん に梁 りょう へ朝貢 ちょうこう したが、541年 ねん の朝貢 ちょうこう を『梁 はり 書 しょ 』は、「累 るい りに使 つかい を遣 つかわ して万物 ばんぶつ を献 けん じ、並 なみ に涅槃 ねはん などの経 けい 義 よし 、毛 もう 詩 し 博士 はかせ 、並 なみ に工匠 こうしょう 、画師 えし などを請ふ。勅 みことのり して並 なみ に之 これ を給 きゅう ふ」と記録 きろく している[3] 。百済 くだら の梁 りょう への朝貢 ちょうこう は、仏教 ぶっきょう 、儒教 じゅきょう をはじめとする南朝 なんちょう 文化 ぶんか の総合 そうごう 的 てき 摂取 せっしゅ を目指 めざ していた[3] 。さらに百済 くだら は、梁 はり に「講 こう 礼 れい 博士 はかせ 」、すなわち『礼 れい 記 き 』の学者 がくしゃ の派遣 はけん と「五経 ごきょう 博士 はかせ 」の派遣 はけん をも要請 ようせい していた[3] 。梁 りょう の武 たけ 帝 みかど の仏教 ぶっきょう 思想 しそう の中心 ちゅうしん は、般若 はんにゃ 経 けい と涅槃 ねはん 経 けい であるが、最 もっと も深 ふか く傾倒 けいとう したのは涅槃 ねはん 仏性 ぶっしょう であり、それは、中国 ちゅうごく 江南 こうなん で盛 さか んだった涅槃 ねはん 学派 がくは の影響 えいきょう をうけており、529年 ねん の武 たけ 帝 みかど の捨身 しゃしん では、同 どう 泰 たい 寺 てら で涅槃 ねはん 経 けい を講 こう じた。したがって、百済 くだら が「涅槃 ねはん 等 とう の経 けい 義 よし 」の下賜 かし を梁 りょう に申請 しんせい したことは、南朝 なんちょう 仏教 ぶっきょう の動向 どうこう を的確 てきかく に把握 はあく した武 たけ 帝 みかど の思想 しそう をみきわめた措置 そち である。それは、百済 くだら の首都 しゅと に寺院 じいん を建立 こんりゅう し、梁 はり の年号 ねんごう 「大通 だいつう 」をとって大通 だいつう 寺 てら と名 な づけたことと共通 きょうつう する、百済 くだら 聖王 せいおう の事大 じだい 主義 しゅぎ を感 かん じ取 と ることができる[3] 。
弊 へい 邑本海外 かいがい 之 の 小 しょう 邦 くに 也,自 じ 歷世 れきせい 以來 いらい ,必行事大 じだい 之 の 禮 れい ,然 しか 後 こう 能 のう 保有 ほゆう 其國家 こっか ,故 ふる 頃 ころ 嘗臣事 しんじ 于大金 きん 。及金國 こく 鼎 かなえ 逸 いつ ,然 しか 後 こう 朝貢 ちょうこう 之 の 禮 れい 始 はじめ 廢 はい 矣。越 えつ 丙 へい 子 こ 歲 とし ,契 ちぎり 丹 に 大擧 たいきょ 兵 へい ,闌 たけなわ 入 いれ 我 わが 境 さかい ,橫行 おうこう 肆暴。至 いたり 己 おのれ 卯 う ,我 わが 大國 たいこく 遣 や 帥 そち 河 かわ 稱 たたえ ,扎臘領 りょう 兵 へい 來 らい 救 すくえ ,一掃 いっそう 其類。小國 しょうこく 以蒙賜 たまもの 不 ふ 貲,講 こう 投 とう 拜 はい 之 の 禮 れい ,遂 とげ 向 こう 天 てん 盟 めい 告 つげ ,以萬 まん 世 せい 和好 かずよし 爲 ため 約 やく ,因 いん 請歲進貢 しんこう 賦 ふ 所 しょ 便 びん 。
弊 へい 邑はもともと
海外 かいがい の
小 しょう 邦 くに であります。
歴史 れきし が
始 はじ まって
以来 いらい 、
必 かなら ず
事大 じだい の
礼 れい を
行 おこな い、そうして
国家 こっか を
保 たも ってきました。それゆえ、
近頃 ちかごろ かつて
大金 たいきん に
臣事 しんじ していましたが、
金 かね 国 こく が
敗亡 はいぼう するに
及 およ んで
初 はじ めて
朝貢 ちょうこう の
礼 れい を
取 と りやめました。(しかし)
丙 へい 子 こ の
年 とし (
一 いち 二 に 一 いち 六 ろく )を
過 す ぎると、
契 ちぎり 丹 に が
大挙 たいきょ 派兵 はへい してわが
境域 きょういき 内 ない に
乱入 らんにゅう して
好 す き
勝手 かって 暴行 ぼうこう しました。
己 おのれ 卯 う (
一 いち 二 に 一 いち 九 きゅう )になると、わが
大国 たいこく (
元 もと )が
軍 ぐん 帥 そち の
河 かわ 稱 しょう と扎臘を
派遣 はけん して
領 りょう 兵 へい が
助 たす けに
来 き てくださり、
奴 やつ らを
一掃 いっそう してくださいました。
小国 しょうこく にとってその
大 だい 恩 おん はつぐなえないほどであります
[4] 。
— 高 だか 麗 うらら 史 し 、世 よ 家 か 第 だい 二 に 十 じゅう 三 さん 、高 こう 宗 むね 十 じゅう 九 きゅう (一 いち 二 に 三 さん 一 いち )年 ねん 冬 ふゆ 十 じゅう 一 いち 月 がつ
モンゴル帝国 ていこく の高 こう 麗 うらら 支配 しはい 時 じ に忠 ちゅう 烈 れつ 王 おう がモンゴル皇帝 こうてい に陳情 ちんじょう した書面 しょめん では、高 こう 麗 うらら は「海外 かいがい の小 しょう 邦 くに 」であり、有史 ゆうし 以来 いらい 、必 かなら ず「事大 じだい の礼 れい 」を行 おこな って臣事 しんじ し、大国 たいこく に対 たい して常 つね に「朝貢 ちょうこう の礼 れい 」を行 おこな ってきたことが力説 りきせつ されている[4] 。
ホンタイジに土下座 どげざ する仁 じん 祖 そ これ以降 いこう 、朝鮮 ちょうせん は事大 じだい 先 さき を清朝 せいちょう に変更 へんこう することになった。
冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい による外交 がいこう を「事大 じだい 外交 がいこう 」と呼 よ ぶ場合 ばあい があり、この意味 いみ では新 しん 羅 ら ・高 こう 麗 うらら ・李 り 朝 ちょう など新 しん 羅 ら 以降 いこう の朝鮮半島 ちょうせんはんとう に生 う まれた王朝 おうちょう の多 おお くは、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の中原 なかはら を制 せい した統一 とういつ 国家 こっか に対 たい して事大 じだい してきたことになる。しかし中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう へ朝貢 ちょうこう しつつも、新 しん 羅 ら や高麗 こうらい は中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう との対決 たいけつ や独自 どくじ の皇帝 こうてい 号 ごう の使用 しよう なども行 おこな い、硬軟 こうなん 織 お り交 ま ぜた対 たい 中 ちゅう 政策 せいさく を取 と った。しかし李 り 朝 ちょう の場合 ばあい 、その政策 せいさく は『事大 じだい 交隣』といわれ、事大 じだい 主義 しゅぎ が外交 がいこう 方針 ほうしん として強 つよ いものだったとされる。李 り 朝 ちょう を開 ひら いた李 り 成桂 せいけい は、威 い 化 か 島 とう 回 かい 軍 ぐん (1388年 ねん )の際 さい に「小 しょう をもって大 だい に事 ごと (つか)ふるは保 ほ 国 こく の道 みち 」と唱 とな えて明 あかり との開戦 かいせん を決定 けってい した当時 とうじ の高麗 こうらい 政権 せいけん を倒 たお し、明王 みょうおう 朝 あさ を開 ひら いた朱 しゅ 元 もと 璋 あきら もこれに応 こた えて李 り 朝 ちょう 建国 けんこく 直後 ちょくご の1392年 ねん に「声 こえ 教 きょう 自 みずか ら由 よ らしむ」ことを条件 じょうけん に独立 どくりつ を保証 ほしょう する事 こと を約 やく した。
李 り 成桂 せいけい は1392年 ねん 、明 あかり が冊 さつ 封 ふう した高麗 こうらい 王 おう の禑 王 おう 、昌 あきら 王 おう と恭 きょう 譲 ゆずる 王 おう を廃位 はいい して高麗 こうらい 王位 おうい を簒奪 さんだつ して高麗 こうらい 王 おう を称 しょう した後 のち 、すぐに明 あきら に使節 しせつ を送 おく り、権 けん 知 ち 高麗 こうらい 国事 こくじ としての地位 ちい を認 みと められたが、洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど は王朝 おうちょう が交代 こうたい したことで、国号 こくごう を変更 へんこう するよう命 めい じた。これをうけた李 り 成桂 せいけい は、重臣 じゅうしん 達 たち と共 とも に国号 こくごう 変更 へんこう を計画 けいかく し、朝鮮 ちょうせん と和 かず 寧 やすし の二 ふた つの候補 こうほ を準備 じゅんび し、洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど に選 えら んでもらった[5] 。和 かず 寧 やすし は李 り 成桂 せいけい の出身 しゅっしん 地 ち の名 な であったが[5] 、北元 きたもと の本拠地 ほんきょち カラコルム の別名 べつめい でもあったので、洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど は、前漢 ぜんかん の武 たけ 帝 みかど に滅 ほろ ぼされた衛 まもる 氏 し 朝鮮 ちょうせん の名前 なまえ であり、平壌 ぴょんやん 付近 ふきん の古 いにしえ 名 めい である朝鮮 ちょうせん を選 えら んだ。国号 こくごう を洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど に選 えら んでもらったことは、事大 じだい 主義 しゅぎ を象徴 しょうちょう していると揶揄 やゆ されるが(例 たと えば黄 き 文雄 ふみお は、「李 り 朝 ちょう の太 ふとし 祖 そ ・李 り 成桂 せいけい は、『易姓革命 えきせいかくめい 』によって高麗 こうらい 朝 ちょう を簒奪 さんだつ した事実 じじつ と実権 じっけん 支配 しはい の獲得 かくとく を明 あきら の太 ふとし 祖 そ に認知 にんち させるため、国家 こっか 主権 しゅけん を明 あかり に売 う り渡 わた し、明 あかり の属国 ぞっこく と決 き め込 こ んだ。朝鮮 ちょうせん の国号 こくごう と王位 おうい を明 あかり によって下賜 かし されるかたちをとったのである」と述 の べている[6] )[5] 、新 しん 王朝 おうちょう が擬 なずらえ 定 じょう した朝鮮 ちょうせん の国号 こくごう は、朝鮮 ちょうせん 初 はつ である檀 だん 君 くん 朝鮮 ちょうせん と朝鮮 ちょうせん で民 みん を教化 きょうか した箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん を継承 けいしょう する意図 いと があり[7] 、首都 しゅと が漢 かん 陽 ひ に置 お かれたのは、檀 だん 君 くん 朝鮮 ちょうせん と箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん の舞台 ぶたい であるためである。新 しん 王朝 おうちょう は、檀 だん 君 くん と箕 み 子 こ を直結 ちょっけつ させることにより、正統 せいとう 性 せい の拠 よ り所 どころ にする意図 いと を持 も っていた。朝鮮 ちょうせん という国名 こくめい は、殷 いん の賢人 けんじん 箕 み 子 こ が、周 しゅう の武 たけ 王 おう によって朝鮮 ちょうせん に封 ふう ぜられた故事 こじ に基 もと づく由緒 ゆいしょ ある中国 ちゅうごく 的 てき な呼称 こしょう であるため[8] 、洪 ひろし 武 たけ 帝 みかど は、新 しん 王朝 おうちょう が箕 み 子 こ の伝統 でんとう を継承 けいしょう する「忠実 ちゅうじつ な属国 ぞっこく 」となり、自 みずか らは箕 み 子 こ を朝鮮 ちょうせん に封 ふう じた周 しゅう の武 たけ 王 おう のような賢君 けんくん になりたいと祈念 きねん した[9] 。従 したが って、中国 ちゅうごく への事大 じだい 主義 しゅぎ を国是 こくぜ とする新 しん 王朝 おうちょう が、周 しゅう の武 ぶ 王 おう が朝鮮 ちょうせん に封 ふう じた箕 み 子 こ の継承 けいしょう を意図 いと する朝鮮 ちょうせん の国号 こくごう を奏請 そうせい したことは適切 てきせつ であった[10] 。
韓国 かんこく 人 じん 学者 がくしゃ である鄭 てい 容 ひろし 和 わ は、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の建国 けんこく 者 しゃ たちが東 あずま 周 あまね を建設 けんせつ し、中原 なかはら の大中 おおなか 華 はな に次 つ ぐ一 ひと つの小 しょう 中華 ちゅうか を建立 こんりゅう するという「ある種 しゅ の意志 いし 」があったことを指摘 してき しており、これについて東北 とうほく 師範 しはん 大学 だいがく 副 ふく 学長 がくちょう の韓 かん 東 あずま 育 いく は、「(周 しゅう (東 あずま 周 あまね )の武 たけ 王 おう によって箕 み 子 こ は朝鮮 ちょうせん に封 ふう ぜられたが、その東 あずま 周 あまね を建設 けんせつ し、中原 なかはら の大中 おおなか 華 はな に次 つ ぐ一 ひと つの小 しょう 中華 ちゅうか を建立 こんりゅう するという意志 いし が李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の建国 けんこく 者 しゃ たちにあったという)こうした事実 じじつ は、なぜ朝鮮 ちょうせん が積極 せっきょく 的 てき に中華 ちゅうか 秩序 ちつじょ 、すなわち中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん とした世界 せかい 秩序 ちつじょ に参与 さんよ したのかを理解 りかい させる重要 じゅうよう な鍵 かぎ となる。したがって、朝鮮 ちょうせん は『檀 だん 君 くん 朝鮮 ちょうせん 』ではなく『箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん 』を根拠 こんきょ として、当時 とうじ の文明 ぶんめい 基準 きじゅん であった中華 ちゅうか 文明 ぶんめい 秩序 ちつじょ の関係 かんけい の中 なか において文明 ぶんめい 国家 こっか としてのプライド を表現 ひょうげん しようとした。すなわち、朝鮮 ちょうせん は中国 ちゅうごく との同質 どうしつ 化 か を通 つう じて周辺 しゅうへん 国家 こっか との格差 かくさ を浮 う き彫 ぼ りにし、朝鮮 ちょうせん の東 ひがし アジア文明 ぶんめい 共同 きょうどう 体内 たいない における地位 ちい を高 たか めようとしたのである。こうした理由 りゆう によって、朝鮮 ちょうせん 国家 こっか の根本 こんぽん 大法 たいほう である『経国 けいこく 大典 たいてん 』「礼典 れいてん 」の中 なか に事大 じだい 的 てき 内容 ないよう を付 つ け加 くわ え、それを国内 こくない 法 ほう のシステムとして実際 じっさい に運用 うんよう した。朝鮮 ちょうせん の為政者 いせいしゃ たちは、事大 じだい 表現 ひょうげん として朝貢 ちょうこう は理 り の当然 とうぜん なることを認 みと め、『小国 しょうこく の大国 たいこく に侍 さむらい 奉 たてまつ するは、まさに朝 あさ 聘と貢献 こうけん の儀礼 ぎれい を保持 ほじ すべし』『朝貢 ちょうこう は臣下 しんか の応 おう に做すべきの事 こと なり』と述 の べている」と評 ひょう している[11] 。
16世紀 せいき に朱子学 しゅしがく の系統 けいとう 化 か が進 すす むと、事大 じだい の姿勢 しせい はより強化 きょうか されていく事 こと になる。つまり、冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい を明確 めいかく に君臣 くんしん 関係 かんけい と捉 とら え、大義名分 たいぎめいぶん 論 ろん を基 もと に「事大 じだい は君臣 くんしん の分 ぶん 、時勢 じせい に関 かか わらず誠 まこと をつくすのみ」と、本来 ほんらい 保 ほ 国 こく の手段 しゅだん に過 す ぎなかった事大 じだい 政策 せいさく それ自体 じたい が目的 もくてき 化 か されるようになる。朝鮮 ちょうせん 燕 つばめ 行使 こうし だった趙 ちょう 憲 けん は、時 とき の明 あかり の皇帝 こうてい 万 まん 暦 れき 帝 みかど より謁見 えっけん を賜 たまわ る栄誉 えいよ を受 う け、大明 だいめい 帝国 ていこく の一員 いちいん (冊 さつ 封 ふう 国 こく )として世界 せかい 秩序 ちつじょ に参画 さんかく していることに感激 かんげき し、三 さん 跪九叩頭 こうとう しながら喜 よろこ びの涙 なみだ を流 なが すまでになった[12] 。またこうした影響 えいきょう は李 り 朝 ちょう の内政 ないせい 面 めん にも表 あらわ れ、明人 あきと であればたとえ海賊 かいぞく であったとしても処刑 しょけい することは出来 でき ず、明 あかり へ丁重 ていちょう に輸送 ゆそう しなければならなかった[13] 。そのため、後期 こうき 倭 やまと 寇 と直接 ちょくせつ 対峙 たいじ した地方 ちほう の武将 ぶしょう 達 たち は戦闘 せんとう のさ中 ちゅう に日本人 にっぽんじん と明人 あきと の判別 はんべつ をつけるという難題 なんだい に晒 さら され、明人 あきと を殺害 さつがい したとして処罰 しょばつ される者 もの すら存在 そんざい した[14] 。
こうした姿勢 しせい は、李 り 朝 ちょう 末期 まっき においてもなお継続 けいぞく され、清 きよし 皇帝 こうてい を天子 てんし として事大 じだい することを名目 めいもく として、近代 きんだい 化 か に反対 はんたい する勢力 せいりょく が存在 そんざい し、彼等 かれら は事大 じだい 党 とう などと呼 よ ばれた。対 たい して近代 きんだい 化 か 論者 ろんしゃ には欧米 おうべい 中心 ちゅうしん の世界 せかい 認識 にんしき と伝統 でんとう 的 てき 小中 こなか 華 はな 思想 しそう を結合 けつごう させ、清朝 せいちょう を侮蔑 ぶべつ したものも多 おお かった。黄 き 文雄 ふみお は、「朝鮮 ちょうせん が清国 きよくに の属国 ぞっこく であったことは、『万国 ばんこく 公法 こうほう 』(国際 こくさい 法 ほう )や当時 とうじ の清 きよし と李 り 朝 ちょう 朝鮮 ちょうせん の政治 せいじ ・軍事 ぐんじ ・外交 がいこう 関係 かんけい の現実 げんじつ に照 て らし合 あ わせれば明 あき らかな国際 こくさい 常識 じょうしき だった」として、「李 り 朝 ちょう 朝鮮 ちょうせん の末期 まっき に登場 とうじょう した開化 かいか 派 は は、清 きよし への事大 じだい をやめて独立 どくりつ を獲得 かくとく しようとしたため、事大 じだい 派 は (属国 ぞっこく 派 は )に対抗 たいこう する「独立 どくりつ 派 は 」と称 しょう されていたことも忘 わす れてはならない」と評 ひょう している[15] 。
李 り 朝 ちょう は建国 けんこく 時 じ から明王 みょうおう 朝 あさ に対 たい する事大 じだい 主義 しゅぎ を堅持 けんじ したが、1637年 ねん の丙 へい 子 こ の乱 らん の際 さい 、仁 じん 祖 そ が漢江 かんこう 南岸 なんがん の三田洞 みたほら (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) にある清 きよし 王朝 おうちょう 軍 ぐん 本営 ほんえい に出向 でむ き、ホンタイジ が天子 てんし であることを三 さん 跪九叩頭 こうとう の礼 れい によって認 みと めることを、臣下 しんか の面前 めんぜん で屈辱 くつじょく 的 てき におこない、臣従 しんじゅう を誓 ちか わせられ、屈辱 くつじょく 的 てき な三田 みた 渡 わたる の盟約 めいやく を余儀 よぎ なくされると、事大 じだい 主義 しゅぎ の基本 きほん が揺 ゆ らぐようになる。朝鮮 ちょうせん では、清 きよし 王朝 おうちょう が支配 しはい する中国 ちゅうごく はもはや中華 ちゅうか 文明 ぶんめい が消滅 しょうめつ した「腥 なまぐさ 穢 けがれ 讐域 (生臭 なまぐさ く汚 よご れた仇敵 きゅうてき の地 ち )」であり、大中 おおなか 華 はな である明王 みょうおう 朝 あさ が消滅 しょうめつ したことにより、地上 ちじょう に存在 そんざい する中華 ちゅうか は朝鮮 ちょうせん のみとみて、朝鮮 ちょうせん の両 りょう 班 はん は自国 じこく を「小 しょう 華 はな 」「小中 こなか 華 はな 」と自称 じしょう し、中華 ちゅうか 文明 ぶんめい の正統 せいとう 継承 けいしょう 者 しゃ は朝鮮 ちょうせん であるという強 つよ い誇 ほこ りをもつようになる[16] 。このような認識 にんしき は、孝 こう 宗 むね の意 い により宋 そう 時 じ 烈 れつ が推進 すいしん した北 きた 伐 き 計画 けいかく (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) が誕生 たんじょう するなどしたが、歳月 さいげつ とともに弱体 じゃくたい 化 か する[17] 。このような状況 じょうきょう に危機 きき 感 かん を覚 おぼ えた正 せい 祖 そ は、1800年 ねん に明王 みょうおう 朝 あさ 皇帝 こうてい 毅 あつし 宗 むね の慰霊 いれい 祭 さい をおこない、明王 みょうおう 朝 あさ 皇帝 こうてい の歴代 れきだい の事績 じせき と「丙 へい 子 こ 胡乱 うろん 」のときに、朝鮮 ちょうせん の宗主 そうしゅ 国 こく である明王 みょうおう 朝 あさ が朝鮮 ちょうせん に施 ほどこ した恩恵 おんけい を祈念 きねん して李 り 義 よし 駿 しゅん に『尊 みこと 周 しゅう 彙編 』の編纂 へんさん を命 めい じた[17] 。
李 り 朝 ちょう の事大 じだい 主義 しゅぎ は伝統 でんとう 的 てき な華 はな 夷 えびす 秩序 ちつじょ で合理 ごうり 化 か された。李 り 朝 ちょう における華 はな 夷 えびす 秩序 ちつじょ は、自 みずか らを中華 ちゅうか に並 なら ぶ文明 ぶんめい 国 こく とする一方 いっぽう で、政治 せいじ 的 てき には明 あかり に事大 じだい する臣下 しんか と位置 いち づけていた。17世紀 せいき 、女 おんな 真 しん 族 ぞく の清朝 せいちょう が漢 かん 族 ぞく の明朝 みょうちょう に取 と って代 が わり中原 なかはら 支配 しはい を確立 かくりつ させると、李 り 朝 ちょう の儒者 じゅしゃ たちはそれまで夷狄 いてき 、禽獣 きんじゅう と蔑 さげす んできた女 おんな 真 しん 族 ぞく に中華 ちゅうか を継承 けいしょう する資格 しかく を認 みと めず、李 り 朝 ちょう こそが唯一 ゆいいつ の中華 ちゅうか 文明 ぶんめい の継承 けいしょう 者 しゃ だと自負 じふ する一方 いっぽう 、現実 げんじつ には清朝 せいちょう に抗 あらが い難 がた く、丙 へい 子 こ の乱 らん により仁 じん 祖 そ は三 さん 跪九叩頭 こうとう の礼 れい をもって清 きよし への臣従 しんじゅう を誓 ちか わされることになる。丙 へい 子 こ の乱 らん の際 さい 、清朝 せいちょう を蛮夷 ばんい だとして、最後 さいご まで主戦 しゅせん 論 ろん を主張 しゅちょう し、降参 こうさん 後 ご 、斥和臣 しん として捕 とら えられ、瀋陽 しんよう で処刑 しょけい された洪 ひろし 翼 つばさ 漢 かん の『尊 みこと 周 しゅう 彙編 』には「列聖 れっせい 相承 そうしょう ,世 せい 藩 はん 職 しょく 修 おさむ ,事大 じだい 一 いち 心 しん (先祖 せんぞ 代々 だいだい から中華 ちゅうか の藩屏 はんぺい として仕 つか え、強大 きょうだい な主君 しゅくん に一意 いちい 専心 せんしん 仕 つか えるのみ)」とある[18] 。
李 り 朝 ちょう の事大 じだい 主義 しゅぎ の実際 じっさい の要因 よういん としては高句麗 こうくり 滅亡 めつぼう 後 ご には朝鮮半島 ちょうせんはんとう の諸 しょ 国家 こっか には中原 なかはら に覇 は を唱 とな える中華 ちゅうか 帝国 ていこく や満州 まんしゅう ・蒙 こうむ 古 いにしえ の遊牧 ゆうぼく 帝国 ていこく に対 たい し軍事 ぐんじ 的 てき に防戦 ぼうせん できず、また高麗 こうらい の元 もと への降伏 ごうぶく 以降 いこう は朝鮮 ちょうせん 独自 どくじ の皇帝 こうてい 号 ごう の使用 しよう が厳 きび しく中華 ちゅうか 帝国 ていこく から監 かん 視 し されるようになったため、事大 じだい 主義 しゅぎ を安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 じょう も取 と らざるを得 え なかったことなどがあげられている。李 り 朝 ちょう 末期 まっき には政変 せいへん が起 お きるたびに、清 きよし 、ロシア帝国 ていこく 、大日本帝国 だいにっぽんていこく 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく など、さまざまな国家 こっか に事大 じだい 先 さき を変 か え、国内 こくない の統一 とういつ が取 と れなくなり、ついには大日本帝国 だいにっぽんていこく との併合 へいごう を余儀 よぎ なくされることとなった。
韓国 かんこく においては、高 こう 宗 はじめ や閔妃 びんび の事大 じだい 先 さき を次々 つぎつぎ に変 か えた行動 こうどう を、朝鮮 ちょうせん の独立 どくりつ を守 まも るためであったと評価 ひょうか しているが、李 り 朝 ちょう 末期 まっき はすでに独立 どくりつ 国 こく と呼 よ べるような状態 じょうたい ではなく、崔 ちぇ 基 はじめ 鎬 や呉善花 おぞんふぁ らのように、それを場当 ばあ たり的 てき な対応 たいおう に過 す ぎないと評 ひょう する研究 けんきゅう 者 しゃ もある。
韓国 かんこく の朴 ぼく 正煕 せいき 元 もと 大統領 だいとうりょう は自著 じちょ 『国家 こっか ・民族 みんぞく ・私 わたし 』で、「我 わ が半 はん 万 まん 年 ねん の歴史 れきし は、一言 ひとこと で言 い って退嬰 たいえい と粗雑 そざつ と沈滞 ちんたい の連鎖 れんさ 史 し であった」「姑息 こそく 、怠惰 たいだ 、安逸 あんいつ 、日和見 ひよりみ 主義 しゅぎ に示 しめ される小児 しょうに 病的 びょうてき な封建 ほうけん 社会 しゃかい の一 ひと つの縮図 しゅくず に過 す ぎない」「わが民族 みんぞく 史 し を考察 こうさつ してみると情 なさ けないというほかない」「われわれが真 しん に一大 いちだい 民族 みんぞく の中興 ちゅうこう を期 き するなら、まずどんなことがあっても、この歴史 れきし を改新 かいしん しなければならない。このあらゆる悪 あく の倉庫 そうこ のようなわが歴史 れきし は、むしろ燃 も やして然 しか るべきである」と述 の べている[19] 。朴 ほお は朝鮮 ちょうせん 史 し における事大 じだい 主義 しゅぎ と属国 ぞっこく 性 せい を自覚 じかく し、自著 じちょ 『韓 かん 民族 みんぞく の進 すす むべき道 みち 』で韓国 かんこく 人 じん の「自律 じりつ 精神 せいしん の欠如 けつじょ 」「民族 みんぞく 愛 あい の欠如 けつじょ 」「開拓 かいたく 精神 せいしん の欠如 けつじょ 」「退廃 たいはい した国民 こくみん 道徳 どうとく 」「怠惰 たいだ と不 ふ 労働 ろうどう 所得 しょとく 観念 かんねん 」「企業 きぎょう 心 しん の不足 ふそく 」「悪性 あくせい 利己 りこ 主義 しゅぎ 」「名誉 めいよ 観念 かんねん の欠如 けつじょ 」「健全 けんぜん な批判 ひはん 精神 せいしん の欠如 けつじょ 」を批判 ひはん し、「民族 みんぞく の悪 わる い遺産 いさん 」の一 ひと つとして事大 じだい 主義 しゅぎ を挙 あ げ批判 ひはん している[20] 。
浜田 はまだ 耕 こう 策 さく は、「朝鮮 ちょうせん の歴史 れきし は、中国 ちゅうごく 諸 しょ 王朝 おうちょう にたいする事大 じだい 性 せい や、南北 なんぼく から頻 しき りに侵略 しんりゃく を蒙 こうむ った面 めん を強調 きょうちょう する史観 しかん にややもすると陥 おちい るが、これでは朝鮮 ちょうせん 史 し を見 み る視点 してん が固定 こてい 化 か してしまうこと、また、渤海史 し とこれに先行 せんこう する高句麗 こうくり 、扶余 など東北 とうほく アジアの諸 しょ 民族 みんぞく の歴史 れきし を視野 しや においた視角 しかく から朝鮮 ちょうせん 史 し を再 さい 構成 こうせい すべきことを李 り (李 り 佑 たすく 成 なり 、朝鮮 ちょうせん 語 ご : 이우성 、成 なり 均 ひとし 館 かん 大学 だいがく )論文 ろんぶん から教 おそ わったのである」と述 の べている[21] 。
大原 おおはら 志麻 しま は、韓 かん 流 りゅう 時代 じだい 劇 げき を評 ひょう するなかで、「朝鮮 ちょうせん は、東 ひがし アジア の外交 がいこう 関係 かんけい の一 ひと つの特徴 とくちょう である事大 じだい 外交 がいこう をとってきたが、それは文化 ぶんか の先進 せんしん 国 こく である中国 ちゅうごく に尊敬 そんけい を表 あらわ すもので、『文化 ぶんか 水準 すいじゅん の遅 おく れた』蒙 こうむ 古 ふる 、女 おんな 真 しん 、日本 にっぽん には自尊心 じそんしん を打 う ち出 だ した。その中 なか でもとりわけ蒙 こうむ 古 いにしえ は一貫 いっかん して、高貴 こうき な朝鮮 ちょうせん 人 じん と対比的 たいひてき に野蛮 やばん そのものと描 えが かれている。『武人 ぶじん 時代 じだい 』では、李 り 成桂 せいけい が女 おんな 真 しん 族 ぞく であることは影 かげ をひそめ、李 り 義方 よしえ の六 ろく 世 せい 孫 まご であることが強調 きょうちょう されている」と指摘 してき している[22] 。
屋山 ややま 太郎 たろう は、「朴 ぼく 氏 し は政治 せいじ 、経済 けいざい を通 つう じて中国 ちゅうごく にのめり込 こ み、米国 べいこく に行 い って日本 にっぽん の悪口 わるぐち を並 なら べ立 た てた。まさに、大衆 たいしゅう 迎合 げいごう の政治 せいじ を繰 く り広 ひろ げているが、この姿 すがた こそが千 せん 年 ねん にわたる朝鮮 ちょうせん の歴史 れきし への回帰 かいき である。韓国 かんこく に染 し み渡 わた っているのは儒教 じゅきょう 思想 しそう である。日本 にっぽん にも儒教 じゅきょう 思想 しそう はあるが、仏教 ぶっきょう の平等 びょうどう 思想 しそう で中和 ちゅうわ されて、それほど浸透 しんとう していない。韓国 かんこく の儒教 じゅきょう は徹底 てってい して上下 じょうげ 関係 かんけい にこだわる事大 じだい 主義 しゅぎ である。大 おお きいものには従 したが うということだから、中国 ちゅうごく 、米国 べいこく には従 したが う。日本 にっぽん は、中華 ちゅうか 思想 しそう からみて下 した の位置 いち にいなければならないのである」と指摘 してき している[23] 。
宮脇 みやわき 淳子 じゅんこ は、「初 はじ めて朝鮮半島 ちょうせんはんとう の人々 ひとびと に民族 みんぞく 意識 いしき が芽生 めば えたのは、彼 かれ らは認 みと めたくないとしても、1910年 ねん の日 にち 韓 かん 併合 へいごう 以降 いこう です。日本 にっぽん 文化 ぶんか が急激 きゅうげき に入 はい ってくることで日本人 にっぽんじん との違 ちが いを知 し り、自分 じぶん たちのアイデンティティ が生 う まれました。それまで彼 かれ らはずっと、シナ を仰 あお ぎ見 み る事大 じだい 主義 しゅぎ 、小中 こなか 華 はな 主義 しゅぎ の中 なか で、何 なん の疑 うたが いもなくシナ文明 ぶんめい の範疇 はんちゅう のもとで生 い きてきました。異分子 いぶんし である日本 にっぽん という鏡 かがみ を得 え て、初 はじ めて『朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく 』が生 う まれたのです。筑波大 つくばだい 大学院 だいがくいん 教授 きょうじゅ ・古田 ふるた 博司 ひろし 先生 せんせい は、さらに韓国 かんこく が『島 しま 化 か 』したことを指摘 してき しています。日 にち 韓 かん 併合 へいごう でシナからもぎ取 と られていきなり近代 きんだい に放 ほう り込 こ まれ、日本 にっぽん の敗戦 はいせん 後 ご は38度 ど 線 せん で分断 ぶんだん されて島 しま になった。その島 しま では、中国 ちゅうごく の属国 ぞっこく だったという記憶 きおく が風化 ふうか して民族 みんぞく 主義 しゅぎ が台頭 たいとう しますが、もともとシナと一体化 いったいか していた地域 ちいき が、急 きゅう に国民 こくみん 国家 こっか になろうと思 おも ったら歴史 れきし を改竄 かいざん するしか方法 ほうほう がない。もともと自律 じりつ 性 せい があって自分 じぶん たち独自 どくじ の文化 ぶんか に正統 せいとう 性 せい があるというようなウソ をつくり上 あ げるしかないとおっしゃっています。その意味 いみ では、今 いま 、韓国 かんこく は歴史 れきし ドラマ という手段 しゅだん で、新 あら たな建国 けんこく 神話 しんわ をつくり上 あ げている最中 さいちゅう だといえるのかもしれません」と指摘 してき している[24] 。
李 り 朝 ちょう 時代 じだい 、朝鮮 ちょうせん の歴史 れきし 家 か の間 あいだ で確立 かくりつ された見解 けんかい は、朝鮮 ちょうせん の起源 きげん を中国 ちゅうごく の難民 なんみん にさかのぼり、朝鮮 ちょうせん の歴史 れきし を中国 ちゅうごく とつながる王朝 おうちょう の長 なが い連続 れんぞく だと考 かんが えた。殷 いん からの難民 なんみん の箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん と新 しん 羅 ら (新 しん 羅 ら の前身 ぜんしん の辰 たつ 韓 かん は秦 はた からの難民 なんみん )はこのように価値 かち づけられ、檀 だん 君 くん 朝鮮 ちょうせん と高句麗 こうくり は重要 じゅうよう だとは考 かんが えられなかった[25] 。この見解 けんかい によると、箕 み 子 こ が朝鮮半島 ちょうせんはんとう に詩 し 、音楽 おんがく 、医学 いがく 、貿易 ぼうえき 、政治 せいじ システム を持 も って来 き た物語 ものがたり は、トロイ の難民 なんみん アイネイアース によるローマ建国 けんこく と同様 どうよう に考 かんが えられていた[26] 。しかし1930年代 ねんだい に、申 さる 采 さい 浩 ひろし の影響 えいきょう を受 う けたナショナリズム の高揚 こうよう から、中国 ちゅうごく の箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん の建国 けんこく 物語 ものがたり より、檀 だん 君 くん 朝鮮 ちょうせん の建国 けんこく 物語 ものがたり の方 ほう が重要 じゅうよう 視 し されるようになり[26] 、朝鮮 ちょうせん では自国 じこく 文化 ぶんか 尊重 そんちょう ということから、民族 みんぞく 文化 ぶんか を形成 けいせい する檀 まゆみ 君 くん 朝鮮 ちょうせん がだんだん有利 ゆうり となる[27] 。申 さる 采 さい 浩 ひろし にとって、箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん の否認 ひにん は朝鮮 ちょうせん 史 し の自主 じしゅ 性 せい を確立 かくりつ し、事大 じだい 主義 しゅぎ を否定 ひてい するうえで不可欠 ふかけつ のことであった[28] 。現在 げんざい 、箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん の歴史 れきし は「封建 ほうけん 的 てき 支配 しはい 階級 かいきゅう 、事大 じだい 主義 しゅぎ 者 しゃ 、大国 たいこく 至上 しじょう 主義 しゅぎ 者 しゃ によって、不道徳 ふどうとく に歪 ゆが められた」と主張 しゅちょう する北朝鮮 きたちょうせん の歴史 れきし 家 か によって攻撃 こうげき され続 つづ けており[29] 、1959年 ねん に箕 み 子 こ 朝鮮 ちょうせん を「封建 ほうけん 的 てき 支配 しはい 階級 かいきゅう の事大 じだい 主義 しゅぎ の産物 さんぶつ であり、朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく への侮辱 ぶじょく 」[30] と看做 みな す金 きむ 日成 いるそん 主席 しゅせき の指示 しじ によって平壌 ぴょんやん の箕 み 子 こ 陵 りょう は破壊 はかい され[31] 、跡地 あとち は凱旋 がいせん 青年 せいねん 公園 こうえん となった。
北朝鮮 きたちょうせん においても、金 きむ 日成 いるそん 国家 こっか 主席 しゅせき (当時 とうじ )は、朝鮮 ちょうせん における事大 じだい 主義 しゅぎ は封建 ほうけん 統治 とうち 者 しゃ のみならず、朝鮮 ちょうせん 革命 かくめい 運動 うんどう 家 か にも蔓延 まんえん しているとし、その例 れい として「朝鮮 ちょうせん 共産党 きょうさんとう の承認 しょうにん 取消 とりけし 問題 もんだい 」を挙 あ げている。彼 かれ らは派閥 はばつ 抗 こう 争 そう を繰 く り返 かえ し、それぞれがコミンテルン に事大 じだい し、自 じ 派 は の正統 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう したことで、結局 けっきょく は承認 しょうにん を取 と り消 け される憂 う き目 め にあったとし、朝鮮 ちょうせん 革命 かくめい 運動 うんどう を成就 じょうじゅ させるには「主体 しゅたい 」を打 う ち立 た てなければならないとした。北朝鮮 きたちょうせん の公式 こうしき イデオロギー である主体 しゅたい 思想 しそう の名称 めいしょう は、「事大 じだい 主義 しゅぎ の克服 こくふく 」という意味 いみ が込 こ められている。
黄 き 文雄 ふみお は、「それでも半島 はんとう として『事大 じだい (弱国 じゃっこく が強国 きょうこく に仕 つか える)』せざるをえない宿命 しゅくめい がある。それは単 たん に地政学 ちせいがく 的 てき 宿命 しゅくめい だけでなく、精神 せいしん 構造 こうぞう 的 てき なしくみでもある。だから韓国 かんこく 人 じん もつらいのだなと同情 どうじょう もする。確実 かくじつ に『事大 じだい 』は唐 から 以来 いらい 、1000余 よ 年 ねん にわたり半島 はんとう の精神 せいしん 伝統 でんとう となり、さだめでもある。もちろん時代 じだい によってもその強弱 きょうじゃく の程度 ていど はちがう。たとえば、高麗 こうらい 朝 あさ よりも李 り 朝 ちょう のほうが強 つよ く、しかも徹底的 てっていてき である。かりに亡国 ぼうこく しても大中 おおなか 華 はな への忠 ちゅう は決 けっ して捨 す てないという徹底 てってい ぶりであった。明 あきら から清 きよし へと、牛 うし から馬 うま へ乗 の り換 か える際 さい 、朝鮮 ちょうせん の朱子学 しゅしがく 者 しゃ は死 し 忠 ちゅう を頑 かたく なに守 まも り通 とお すことが『美徳 びとく 』とまで説 と いた。中華 ちゅうか 帝国 ていこく への朝貢 ちょうこう 国家 こっか の中 なか で、朝鮮 ちょうせん が『下 した 国 こく の下 した 国 こく 』ともっとも蔑視 べっし されてきたことは、尹 いん 昕 の『渓 けい 陰 かげ 漫筆 まんぴつ 』に描 えが かれている。それでも『事大 じだい 一 いち 心 しん 』を守 まも りきってきたことは、ほめてあげてもよいだろう。だが、『事大 じだい 』をめぐる南北 なんぼく の差 さ も大 おお きい。たとえば、北 きた のほうは高句麗 こうくり 時代 じだい 以来 いらい の隋 ずい 唐 とう への強 つよ い抵抗 ていこう と長 なが い独自 どくじ の歴史 れきし があった。現在 げんざい の北朝鮮 きたちょうせん は『事大 じだい 』よりもチュチェ を強調 きょうちょう し、『独立 どくりつ 自尊 じそん 』の気風 きふう も強 つよ い。だが、チュチュを強調 きょうちょう しすぎると北朝鮮 きたちょうせん のように孤立 こりつ してしまうという半島 はんとう としてのさだめもある。もちろん事大 じだい の相手 あいて をどう選 えら ぶかによっても、その国 くに の運命 うんめい が決 き められる。戦後 せんご 、日 ひ 米 べい を選 えら んだのが今日 きょう の韓国 かんこく のさだめ、中 なか ソ を選 えら んだのが北朝鮮 きたちょうせん のさだめとなる。それが朝鮮 ちょうせん 事大 じだい 史 し の歩 あゆ みから生 う まれた歴史 れきし 的 てき 産物 さんぶつ としての国家 こっか の運命 うんめい ともいえよう。そのような長 なが い歴史 れきし の流 なが れからも、その精神 せいしん 構造 こうぞう を採 と ることがで きる。…事大 じだい の反面 はんめん は『弱者 じゃくしゃ いじめ』である。強者 きょうしゃ を恐 おそ れるあまり、そのうらみつらみから逆 ぎゃく に徹底的 てっていてき に弱者 じゃくしゃ いじめをする。この韓国 かんこく 人 じん の民族 みんぞく 性 せい をよく知 し っている中国人 ちゅうごくじん は、韓国 かんこく 人 じん に対 たい して徹底的 てっていてき に高 こう 圧 あつ 的 てき な統治 とうち を行 おこ ない、効果 こうか を上 あ げたのだ。相手 あいて を『復仇 ふっきゅう を断念 だんねん させるまで、徹底的 てっていてき に弾圧 だんあつ 』するというマキャベリ の主張 しゅちょう と同 おな じ理論 りろん の『韓非子 かんぴし 』の教 おし えを、中国 ちゅうごく はすでに2000年 ねん 余 あま り前 まえ から実践 じっせん してきたので、韓国 かんこく 人 じん は『大国 たいこく 人 じん 』に対 たい しては1000年 ねん 以上 いじょう も前 まえ にすでに抵抗 ていこう をあきらめている」と評 ひょう している[32] 。
日本 にっぽん には、中国 ちゅうごく 諸 しょ 王朝 おうちょう の冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい 下 か に入 はい り、これを政策 せいさく 的 てき に利用 りよう しようとした歴史 れきし がある。
「後 こう 漢書 かんしょ 」によると建 たて 武 たけし 中元 ちゅうげん 2年 ねん (57年 ねん )、博多湾 はかたわん 沿岸 えんがん に所在 しょざい したと見 み られる倭 やまと 奴 やつ 国 こく の首長 しゅちょう が、後 こう 漢 かん の光武 みつたけ 帝 みかど から倭 やまと 奴 やつ 国王 こくおう に冊 さつ 封 ふう されて金 きむ 印 しるし (委 ゆだね 奴 やつ 国王 こくおう 印 しるし )の賜 たまもの 与 あずか を受 う けており、また倭国 わのくに 王 おう の帥 そち 升 ます が永 えい 初 はじめ 元年 がんねん (107年 ねん )に生 なま 口 くち を献 けん じてきたとする記述 きじゅつ がある。この朝貢 ちょうこう は5世紀 せいき 末 すえ 頃 ごろ まで断続 だんぞく 的 てき に行 おこな われた。この時期 じき の倭国 わのくに 王 おう (倭 やまと の五 ご 王 おう )は、中国 ちゅうごく 史書 ししょ に名 な が見 み える者 もの が、讃 たたえ 、珍 ちん 、済 すみ 、興 きょう 、武 たけ という5名 めい おり、これら五 ご 王 おう は4世紀 せいき 後期 こうき から朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ の伽耶 かや 諸国 しょこく 群 ぐん へ資源 しげん ・利権 りけん 獲得 かくとく のために介入 かいにゅう しようとしたため、その地 ち の冊 さつ 封 ふう を受 う け大義名分 たいぎめいぶん を得 え ようとしたものと考 かんが えられている。
室町 むろまち 幕府 ばくふ の3代 だい 将軍 しょうぐん 足利 あしかが 義満 よしみつ は九州 きゅうしゅう の商人 しょうにん ・肥 こえ 富 とみ なる者 もの から対 たい 明 あきら 貿易 ぼうえき が莫大 ばくだい な利益 りえき を生 う むことを伝聞 でんぶん した。だが明 あかり は華 はな 夷 えびす 思想 しそう のイデオロギー から、朝貢 ちょうこう を建前 たてまえ とする貿易 ぼうえき のみ認 みとめ る。義満 よしみつ は1401年 ねん 5月 がつ 13日 にち 、肥 こえ 富 とみ と仏 ふつ 僧 そう ・祖 そ 阿 おもね を明 あかり に派遣 はけん し、国交 こっこう を申 もう し入 い れた。明 あかり の使者 ししゃ は翌 よく 1402年 ねん 8月 がつ 3日 にち に来日 らいにち し、義満 よしみつ の申請 しんせい をき届 きとど ける旨 むね の国書 こくしょ を手交 しゅこう し、ここにいわゆる勘合 かんごう 貿易 ぼうえき が開始 かいし された。明 あかり の使者 ししゃ が携 たずさ える国書 こくしょ には「爾 しか 日本 にっぽん 国王 こくおう 源 みなもと 道義 みちよし 」即 すなわ ち、義満 よしみつ を明 あかり の冊 さつ 封 ふう 国 こく の王 おう として認 みと めるという意味 いみ の表記 ひょうき があった。対 たい して義満 よしみつ は、明 あかり への国書 こくしょ に明 あかり 帝 みかど の臣下 しんか という意味 いみ の「臣 しん 源 げん 」と記 しる した。義満 よしみつ の国内 こくない での権力 けんりょく の確立 かくりつ には潤沢 じゅんたく な資金 しきん を要 よう する。故 ゆえ に莫大 ばくだい な利益 りえき を上 あ げる対 たい 明 あかり 貿易 ぼうえき を継続 けいぞく する上 じょう で、冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい 下 か に下 くだ ることは必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ であり、義満 よしみつ は名 な を捨 す て利 り を取 と ったものと言 い える。当時 とうじ これには幕府 ばくふ 内部 ないぶ にも批判 ひはん があったが、義満 よしみつ の権勢 けんせい の前 まえ では公 おおやけ の発言 はつげん ができず、各々 おのおの の日記 にっき などに記 しる すのみであった。義満 よしみつ の死後 しご 、こうした批判 ひはん は表 ひょう に現 あらわ れ、勘合 かんごう 貿易 ぼうえき はいったん廃止 はいし されるも、6代 だい 将軍 しょうぐん ・足利 あしかが 義教 よしのり がのちに再開 さいかい する。
一方 いっぽう で、日本 にっぽん には中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん とする事大 じだい 的 てき 世界 せかい 観 かん への拒否 きょひ 反応 はんのう も強 つよ く、倭 やまと 王 おう (一般 いっぱん に筆者 ひっしゃ は聖徳太子 しょうとくたいし とされる)から隋 ずい の煬帝 に宛 あ てた国書 こくしょ の書 か き出 だ し「日 にち 出處 しゅっしょ 天子 てんし 致書日沒 にちぼつ 處 しょ 天子 てんし 無 む 恙云云 うんぬん 」は対等 たいとう 外交 がいこう を明確 めいかく にしたものとして有名 ゆうめい であるが、煬帝は中華 ちゅうか 的 てき 世界 せかい 観 かん と相容 あいい れないこの文面 ぶんめん に立腹 りっぷく したと伝 つた えられる。
また第 だい 1次 じ 朝鮮 ちょうせん 出兵 しゅっぺい (文 ぶん 禄 ろく の役 やく )の講和 こうわ 交渉 こうしょう で、豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし は文 ぶん 禄 ろく 5年 ねん (1596年 ねん )9月 がつ 、来朝 らいちょう した明 あかり の使節 しせつ と会見 かいけん した。秀吉 ひでよし は明 あかり の降伏 ごうぶく の報告 ほうこく を事前 じぜん に受 う けるも、それは虚偽 きょぎ の報告 ほうこく であり、実際 じっさい の明 あかり の使節 しせつ の国書 こくしょ の内容 ないよう は秀吉 ひでよし を「日本 にっぽん 王 おう と認 みと め、朝貢 ちょうこう を許 ゆる す」といったものであった。秀吉 ひでよし はこれを日本 にっぽん を属国 ぞっこく 視 し するものとし、かえって激怒 げきど し、使者 ししゃ を追 お い返 かえ して朝鮮 ちょうせん への再度 さいど 出兵 しゅっぺい を決定 けってい した。
江戸 えど 期 き の複数 ふくすう の笑話 しょうわ 本 ほん に、儒学 じゅがく 者 しゃ が四谷 よつや から新宿 しんじゅく (当時 とうじ は田舎 いなか であった)に引越 ひっこ し、なぜわざわざ不便 ふべん な土地 とち へ引 ひ っ越 こ すのかと聞 き かれ「唐 とう に三里 さんり 近 ちか いからだ」とまじめに答 こた えたという小咄 こばなし が記載 きさい されている。これは笑話 しょうわ としての創作 そうさく であるが、当時 とうじ の儒学 じゅがく 者 しゃ が唐 とう を孔子 こうし の本国 ほんごく として偶像 ぐうぞう 視 し する傾向 けいこう が風刺 ふうし されるという当時 とうじ の社会 しゃかい 的 てき 風潮 ふうちょう を伝 つた えている。
米 べい 国民 こくみん 政府 せいふ のアンガー高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん に万歳 ばんざい 三唱 さんしょう する琉球 りゅうきゅう 人 じん
琉球 りゅうきゅう 王国 おうこく では明 あきら ・清 きよし 両 りょう 王朝 おうちょう から冊 さつ 封 ふう を受 う けていたことから、日本 にっぽん 本土 ほんど よりは事大 じだい 主義 しゅぎ の影響 えいきょう が強 つよ かった。朝鮮 ちょうせん よりも更 さら に小国 しょうこく であるため、自前 じまえ の兵力 へいりょく だけで他国 たこく の侵略 しんりゃく を防 ふせ ぐのが困難 こんなん だったからである。
守 まもり 礼 れい 門 もん の扁額 へんがく 「守 まもり 禮 れい 之 の 邦 くに 」とは、「中華 ちゅうか 皇帝 こうてい に対 たい して臣従 しんじゅう の礼 れい を守 もり っている国 くに (邦 くに )」を意味 いみ しており、琉球 りゅうきゅう 事大 じだい 主義 しゅぎ を具現 ぐげん 化 か した言葉 ことば であった。つまり守 まもり 礼 れい 門 もん とは、朝鮮 ちょうせん の迎 むかい 恩 おん 門 もん に相当 そうとう する門 もん だったのである。琉球 りゅうきゅう 国王 こくおう とその家臣 かしん は首 くび 里 さと 城 じょう にて三 さん 跪九叩頭 こうとう の礼 れい を冊 さつ 封 ふう 使 し に対 たい して行 い った。
琉球 りゅうきゅう 王国 おうこく は、明治 めいじ 政府 せいふ によって沖縄 おきなわ 県 けん が設置 せっち され、大日本帝国 だいにっぽんていこく に併合 へいごう されたが、更 さら にその後 ご の沖縄 おきなわ 戦 せん によって、「大日本帝国 だいにっぽんていこく よりも更 さら に強 つよ いアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 」を身 み を以って見 み せ付 つ けられたことで、沖縄 おきなわ の事大 じだい 主義 しゅぎ は一 ひと つの転機 てんき を迎 むか えた。
戦後 せんご 、収容 しゅうよう 所 しょ に入 い れられていた住民 じゅうみん らが帰還 きかん した際 さい 、那覇 なは 市 し にあった山下 やました 町 まち が、山下 やました 奉文 ともゆき 陸軍 りくぐん 大将 たいしょう を想起 そうき させるということからペリー区 く に改称 かいしょう するなど[注釈 ちゅうしゃく 1] 、占領 せんりょう 当局 とうきょく に迎合 げいごう した改名 かいめい が行 おこな われた。
そして1960年 ねん より米 べい 国民 こくみん 政府 せいふ によって「高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん 資金 しきん 」が設 もう けられた。これは、高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん の自由 じゆう 裁量 さいりょう で管内 かんない の市町村 しちょうそん に資金 しきん を投入 とうにゅう するというものであった。市町村 しちょうそん の首長 しゅちょう は高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん に取 と り入 い るべく「琉米親善 しんぜん 委員 いいん 会 かい 」を組織 そしき し、米 べい 国民 こくみん 政府 せいふ が推奨 すいしょう する「琉米親善 しんぜん 」を演出 えんしゅつ した。高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん の地方 ちほう 視察 しさつ は、さながら君主 くんしゅ の行幸 ぎょうこう の観 かん を呈 てい し、中 なか には「高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん 閣下 かっか 」に万歳 ばんざい 三唱 さんしょう する者 もの も出 で た。
また大宜味 おおぎみ 朝 ちょう 徳 とく のように、戦前 せんぜん は大日本帝国 だいにっぽんていこく の御稜威 みいつ を喧伝 けんでん して南進 なんしん 論 ろん を鼓舞 こぶ し、戦後 せんご は一転 いってん して米 べい 国民 こくみん 政府 せいふ の威光 いこう を借 か りてアメリカの協力 きょうりょく の下 した に「琉球 りゅうきゅう 独立 どくりつ 」を訴 うった えるなど、常 つね に「宗主 そうしゅ 国 こく 」の意 い に沿 そ った主張 しゅちょう を展開 てんかい する政治 せいじ 家 か もいた。
一方 いっぽう 、前述 ぜんじゅつ の朴 ぼく 正煕 せいき 大統領 だいとうりょう の批判 ひはん のように、琉球 りゅうきゅう 王国 おうこく 及 およ び沖縄 おきなわ 県 けん ・琉球 りゅうきゅう 独立 どくりつ 運動 うんどう における事大 じだい 主義 しゅぎ についても、厳 きび しく批判 ひはん している者 もの もいる。
『新 しん 講 こう 沖縄 おきなわ 一 いち 千 せん 年 ねん 史 し 』を著 あらわ した新屋敷 しんやしき 幸 さいわい 繁 しげる は、第 だい 二 に 尚 しょう 氏 し 王 おう 統 みつる への易姓革命 えきせいかくめい が行 おこな われたときに毛 もう 興 きょう 文 ぶん (安里 あさと 大 だい 親 おや )が叫 さけ んだ「物 もの 呉 くれ いゆすど我 わが 御 ご 主 あるじ 、内間 うちま 御 ご 鎖 くさり ど我 わが 御 ご 主 あるじ (物 もの をくれる方 ほう こそ我 われ らが主君 しゅくん 、内間 うちま 御 ご 鎖 くさり (後 ご の尚 なお 円 えん )殿 どの こそが我 われ らが主君 しゅくん )」は、実力 じつりょく 者 しゃ に迎合 げいごう し、利権 りけん に群 むら がり、人権 じんけん を無視 むし した行為 こうい [注釈 ちゅうしゃく 2] を正当 せいとう 化 か したスローガンに他 た ならない、と厳 きび しい筆誅 ひっちゅう を加 くわ えている。
沖縄 おきなわ 学 がく の大家 たいか 伊波 いは 普猷 ふゆう も、自著 じちょ 『古 こ 琉球 りゅうきゅう 』で沖縄 おきなわ 人 じん の欠点 けってん として「事大 じだい 主義 しゅぎ 」「忘恩 ぼうおん 気質 きしつ 」を挙 あ げ、他府県 たふけん 人 じん から侮 あなど られるのは、言語 げんご 風俗 ふうぞく が異 こと なるからではなく、このような県民 けんみん 性 せい であるからだとし、「彼 かれ ら(沖縄 おきなわ 人 じん )は自分 じぶん らの利益 りえき のためには友 とも を売 う る、師 し も売 う る、場合 ばあい によっては国 くに も売 う る 」[要 よう ページ番号 ばんごう ] 「沖縄 おきなわ 人 じん は市民 しみん としても人類 じんるい としても極々 ごくごく つまらない者 もの である」と強 つよ く批判 ひはん している。
しかしアメリカも、沖縄 おきなわ の日本 にっぽん への帰属 きぞく 意識 いしき を削 そ ぐことはできず、アメリカへの事大 じだい 主義 しゅぎ は長 なが く続 つづ かず、1950年代 ねんだい には本土 ほんど 復帰 ふっき 運動 うんどう が始 はじ まり、1970年 ねん に米 べい 軍 ぐん 兵士 へいし による不祥事 ふしょうじ (交通 こうつう 事故 じこ )が立 た て続 つづ けに起 お こったことでピークに達 たっ した。コザ暴動 ぼうどう が発生 はっせい するとアメリカに琉球 りゅうきゅう を分離 ぶんり しておくことは不可能 ふかのう と考 かんが えさせ、1972年 ねん に沖縄 おきなわ 返還 へんかん ・日本 にっぽん に復帰 ふっき した。
「琉球 りゅうきゅう 」呼称 こしょう の拒絶 きょぜつ 感情 かんじょう [ 編集 へんしゅう ]
「琉球 りゅうきゅう 」という呼称 こしょう は、自称 じしょう の「ウチナー」や明治 めいじ 以降 いこう の「沖縄 おきなわ 」とは異 こと なり、明 あきら ・清 きよし 両 りょう 王朝 おうちょう や米国 べいこく から与 あた えられた(呼 よ ばれた)国名 こくめい (地域 ちいき 名 めい )であって、外来 がいらい 勢力 せいりょく に対 たい する事大 じだい 主義 しゅぎ を象徴 しょうちょう する呼称 こしょう であるという主張 しゅちょう があり、特 とく に復帰 ふっき 直後 ちょくご はそれに対 たい する拒絶 きょぜつ 感情 かんじょう が強 つよ く、王国 おうこく 時代 じだい に育 はぐく まれ「琉球 りゅうきゅう 文化 ぶんか 」と呼 よ ばれたものについても、「沖縄 おきなわ 文化 ぶんか 」とい換 いか える例 れい があったという[33] 。