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事大じだい主義しゅぎ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

事大じだい主義しゅぎ(じだいしゅぎ)とは、明確めいかく信念しんねんがなく、つよいものや風潮ふうちょう迎合げいごうすることにより、自己じこ実現じつげん目指めざ行動こうどう様式ようしきである[1][2]ひがしアジアでは外交がいこう政策せいさく方針ほうしんとしてもちいられたこともある。

事大じだいとは、だいことつかえること、つまり、つよ勢力せいりょくしたがうことを意味いみし、その語源ごげんは『孟子もうし』の「以小事大じだい」(=しょうを以ってだいつかえる)の一節いっせつにある。孟子もうこでは、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい諸国しょこく群雄割拠ぐんゆうかっきょにおいて、こしつかえたれいげている。つまり「小国しょうこくのしたたかな外交がいこう政策せいさく知恵ちえ)」というのが本来ほんらい意味いみであったが、かんだい以降いこう中国ちゅうごくではさつふう体制たいせいすなわち周辺しゅうへん諸国しょこくにとっての事大じだい朝貢ちょうこう体制たいせいきずかれることになる。こういった背景はいけいから中国ちゅうごく中原なかはら)への事大じだい主義しゅぎ小中こなかはな思想しそう複雑ふくざつ緊張きんちょう影響えいきょう関係かんけいたもった。

朝鮮ちょうせん

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百済くだら

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538ねん百済くだら泗沘遷都せんとし、中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっか完成かんせい中国ちゅうごく南朝なんちょう文化ぶんかじきうつした新都しんと造営ぞうえい目指めざしてりょう朝貢ちょうこうする。百済くだら聖王せいおうだいは、524ねん534ねん541ねん549ねんりょう朝貢ちょうこうしたが、541ねん朝貢ちょうこうを『はりしょ』は、「るいりに使つかいつかわして万物ばんぶつけんじ、なみ涅槃ねはんなどのけいよしもう博士はかせなみ工匠こうしょう画師えしなどを請ふ。みことのりしてなみこれきゅうふ」と記録きろくしている[3]百済くだらりょうへの朝貢ちょうこうは、仏教ぶっきょう儒教じゅきょうをはじめとする南朝なんちょう文化ぶんか総合そうごうてき摂取せっしゅ目指めざしていた[3]。さらに百済くだらは、はりに「こうれい博士はかせ」、すなわち『れい』の学者がくしゃ派遣はけんと「五経ごきょう博士はかせ」の派遣はけんをも要請ようせいしていた[3]りょうたけみかど仏教ぶっきょう思想しそう中心ちゅうしんは、般若はんにゃけい涅槃ねはんけいであるが、もっとふか傾倒けいとうしたのは涅槃ねはん仏性ぶっしょうであり、それは、中国ちゅうごく江南こうなんさかんだった涅槃ねはん学派がくは影響えいきょうをうけており、529ねんたけみかど捨身しゃしんでは、どうたいてら涅槃ねはんけいこうじた。したがって、百済くだらが「涅槃ねはんとうけいよし」の下賜かしりょう申請しんせいしたことは、南朝なんちょう仏教ぶっきょう動向どうこう的確てきかく把握はあくしたたけみかど思想しそうをみきわめた措置そちである。それは、百済くだら首都しゅと寺院じいん建立こんりゅうし、はり年号ねんごう大通だいつう」をとって大通だいつうてらづけたことと共通きょうつうする、百済くだら聖王せいおう事大じだい主義しゅぎかんることができる[3]

高麗こうらい王朝おうちょう

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へい邑本海外かいがいしょうくに也,歷世れきせい以來いらい,必行事大じだいれいしかこうのう保有ほゆう國家こっかふるころ臣事しんじ于大きん。及金こくかなえいつしかこう朝貢ちょうこうれいはじめはい矣。えつへいとしちぎり大擧たいきょへいたけなわいれわがさかい橫行おうこう肆暴。いたりおのれわが大國たいこくそちかわたたえ,扎臘りょうへいらいすくえ一掃いっそう其類。小國しょうこく以蒙たまもの貲,こうとうはいれいとげこうてんめいつげ,以まんせい和好かずよしためやくいん請歲進貢しんこうしょ便びん

へい邑はもともと海外かいがいしょうくにであります。歴史れきしはじまって以来いらいかなら事大じだいれいおこない、そうして国家こっかたもってきました。それゆえ、近頃ちかごろかつて大金たいきん臣事しんじしていましたが、かねこく敗亡はいぼうするにおよんではじめて朝貢ちょうこうれいりやめました。(しかし)へいとしいちいちろく)をぎると、ちぎり大挙たいきょ派兵はへいしてわが境域きょういきない乱入らんにゅうして勝手かって暴行ぼうこうしました。おのれいちいちきゅう)になると、わが大国たいこくもと)がぐんそちかわしょうと扎臘を派遣はけんしてりょうへいたすけにてくださり、やつらを一掃いっそうしてくださいました。小国しょうこくにとってそのだいおんはつぐなえないほどであります[4] — だかうららだいじゅうさんこうむねじゅうきゅういちさんいちねんふゆじゅういちがつ

モンゴル帝国ていこくこううらら支配しはいちゅうれつおうがモンゴル皇帝こうてい陳情ちんじょうした書面しょめんでは、こううららは「海外かいがいしょうくに」であり、有史ゆうし以来いらいかならず「事大じだいれい」をおこなって臣事しんじし、大国たいこくたいしてつねに「朝貢ちょうこうれい」をおこなってきたことが力説りきせつされている[4]

朝鮮ちょうせん王朝おうちょう

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ホンタイジに土下座どげざするじん
これ以降いこう朝鮮ちょうせん事大じだいさき清朝せいちょう変更へんこうすることになった。

さつふう体制たいせいによる外交がいこうを「事大じだい外交がいこう」と場合ばあいがあり、この意味いみではしんこううららちょうなどしん以降いこう朝鮮半島ちょうせんはんとうまれた王朝おうちょうおおくは、中国ちゅうごく大陸たいりく中原なかはらせいした統一とういつ国家こっかたいして事大じだいしてきたことになる。しかし中国ちゅうごく王朝おうちょう朝貢ちょうこうしつつも、しん高麗こうらい中国ちゅうごく王朝おうちょうとの対決たいけつ独自どくじ皇帝こうていごう使用しようなどもおこない、硬軟こうなんぜたたいちゅう政策せいさくった。しかしちょう場合ばあい、その政策せいさくは『事大じだい交隣』といわれ、事大じだい主義しゅぎ外交がいこう方針ほうしんとしてつよいものだったとされる。ちょうひらいた成桂せいけいは、とうかいぐん1388ねん)のさいに「しょうをもってだいごと(つか)ふるはこくみち」ととなえてあかりとの開戦かいせん決定けっていした当時とうじ高麗こうらい政権せいけんたおし、明王みょうおうあさひらいたしゅもとあきらもこれにこたえてちょう建国けんこく直後ちょくご1392ねんに「こえきょうみずからしむ」ことを条件じょうけん独立どくりつ保証ほしょうすることやくした。

成桂せいけい1392ねんあかりさつふうした高麗こうらいおうおうあきらおうきょうゆずるおう廃位はいいして高麗こうらい王位おうい簒奪さんだつして高麗こうらいおうしょうしたのち、すぐにあきら使節しせつおくり、けん高麗こうらい国事こくじとしての地位ちいみとめられたが、ひろしたけみかど王朝おうちょう交代こうたいしたことで、国号こくごう変更へんこうするようめいじた。これをうけた成桂せいけいは、重臣じゅうしんたちとも国号こくごう変更へんこう計画けいかくし、朝鮮ちょうせんかずやすしふたつの候補こうほ準備じゅんびし、ひろしたけみかどえらんでもらった[5]かずやすし成桂せいけい出身しゅっしんであったが[5]北元きたもと本拠地ほんきょちカラコルム別名べつめいでもあったので、ひろしたけみかどは、前漢ぜんかんたけみかどほろぼされたまもる朝鮮ちょうせん名前なまえであり、平壌ぴょんやん付近ふきんいにしえめいである朝鮮ちょうせんえらんだ。国号こくごうひろしたけみかどえらんでもらったことは、事大じだい主義しゅぎ象徴しょうちょうしていると揶揄やゆされるが(たとえば文雄ふみおは、「ちょうふとし成桂せいけいは、『易姓革命えきせいかくめい』によって高麗こうらいちょう簒奪さんだつした事実じじつ実権じっけん支配しはい獲得かくとくあきらふとし認知にんちさせるため、国家こっか主権しゅけんあかりわたし、あかり属国ぞっこくんだ。朝鮮ちょうせん国号こくごう王位おういあかりによって下賜かしされるかたちをとったのである」とべている[6][5]しん王朝おうちょうなずらえじょうした朝鮮ちょうせん国号こくごうは、朝鮮ちょうせんはつであるだんくん朝鮮ちょうせん朝鮮ちょうせんみん教化きょうかした朝鮮ちょうせん継承けいしょうする意図いとがあり[7]首都しゅとかんかれたのは、だんくん朝鮮ちょうせん朝鮮ちょうせん舞台ぶたいであるためである。しん王朝おうちょうは、だんくん直結ちょっけつさせることにより、正統せいとうせいどころにする意図いとっていた。朝鮮ちょうせんという国名こくめいは、いん賢人けんじんが、しゅうたけおうによって朝鮮ちょうせんふうぜられた故事こじもとづく由緒ゆいしょある中国ちゅうごくてき呼称こしょうであるため[8]ひろしたけみかどは、しん王朝おうちょう伝統でんとう継承けいしょうする「忠実ちゅうじつ属国ぞっこく」となり、みずからは朝鮮ちょうせんふうじたしゅうたけおうのような賢君けんくんになりたいと祈念きねんした[9]したがって、中国ちゅうごくへの事大じだい主義しゅぎ国是こくぜとするしん王朝おうちょうが、しゅうおう朝鮮ちょうせんふうじた継承けいしょう意図いとする朝鮮ちょうせん国号こくごう奏請そうせいしたことは適切てきせつであった[10]

韓国かんこくじん学者がくしゃであるていひろしは、朝鮮ちょうせん建国けんこくしゃたちがあずまあまね建設けんせつし、中原なかはら大中おおなかはなひとつのしょう中華ちゅうか建立こんりゅうするという「あるしゅ意志いし」があったことを指摘してきしており、これについて東北とうほく師範しはん大学だいがくふく学長がくちょうかんあずまいくは、「(しゅうあずまあまね)のたけおうによって朝鮮ちょうせんふうぜられたが、そのあずまあまね建設けんせつし、中原なかはら大中おおなかはなひとつのしょう中華ちゅうか建立こんりゅうするという意志いし朝鮮ちょうせん建国けんこくしゃたちにあったという)こうした事実じじつは、なぜ朝鮮ちょうせん積極せっきょくてき中華ちゅうか秩序ちつじょ、すなわち中国ちゅうごく中心ちゅうしんとした世界せかい秩序ちつじょ参与さんよしたのかを理解りかいさせる重要じゅうようかぎとなる。したがって、朝鮮ちょうせんは『だんくん朝鮮ちょうせん』ではなく『朝鮮ちょうせん』を根拠こんきょとして、当時とうじ文明ぶんめい基準きじゅんであった中華ちゅうか文明ぶんめい秩序ちつじょ関係かんけいなかにおいて文明ぶんめい国家こっかとしてのプライド表現ひょうげんしようとした。すなわち、朝鮮ちょうせん中国ちゅうごくとの同質どうしつつうじて周辺しゅうへん国家こっかとの格差かくさりにし、朝鮮ちょうせんひがしアジア文明ぶんめい共同きょうどう体内たいないにおける地位ちいたかめようとしたのである。こうした理由りゆうによって、朝鮮ちょうせん国家こっか根本こんぽん大法たいほうである『経国けいこく大典たいてん』「礼典れいてん」のなか事大じだいてき内容ないようくわえ、それを国内こくないほうのシステムとして実際じっさい運用うんようした。朝鮮ちょうせん為政者いせいしゃたちは、事大じだい表現ひょうげんとして朝貢ちょうこう当然とうぜんなることをみとめ、『小国しょうこく大国たいこくさむらいたてまつするは、まさにあさ聘と貢献こうけん儀礼ぎれい保持ほじすべし』『朝貢ちょうこう臣下しんかおうに做すべきのことなり』とべている」とひょうしている[11]

16世紀せいき朱子学しゅしがく系統けいとうすすむと、事大じだい姿勢しせいはより強化きょうかされていくことになる。つまり、さつふう体制たいせい明確めいかく君臣くんしん関係かんけいとらえ、大義名分たいぎめいぶんろんもとに「事大じだい君臣くんしんぶん時勢じせいかかわらずまことをつくすのみ」と、本来ほんらいこく手段しゅだんぎなかった事大じだい政策せいさくそれ自体じたい目的もくてきされるようになる。朝鮮ちょうせんつばめ行使こうしだったちょうけんは、ときあかり皇帝こうていまんれきみかどより謁見えっけんたまわ栄誉えいよけ、大明だいめい帝国ていこく一員いちいんさつふうこく)として世界せかい秩序ちつじょ参画さんかくしていることに感激かんげきし、さん跪九叩頭こうとうしながらよろこびのなみだながすまでになった[12]。またこうした影響えいきょうちょう内政ないせいめんにもあらわれ、明人あきとであればたとえ海賊かいぞくであったとしても処刑しょけいすることは出来できず、あかり丁重ていちょう輸送ゆそうしなければならなかった[13]。そのため、後期こうきやまと直接ちょくせつ対峙たいじした地方ちほう武将ぶしょうたち戦闘せんとうのさちゅう日本人にっぽんじん明人あきと判別はんべつをつけるという難題なんだいさらされ、明人あきと殺害さつがいしたとして処罰しょばつされるものすら存在そんざいした[14]

こうした姿勢しせいは、ちょう末期まっきにおいてもなお継続けいぞくされ、きよし皇帝こうてい天子てんしとして事大じだいすることを名目めいもくとして、近代きんだい反対はんたいする勢力せいりょく存在そんざいし、彼等かれら事大じだいとうなどとばれた。たいして近代きんだい論者ろんしゃには欧米おうべい中心ちゅうしん世界せかい認識にんしき伝統でんとうてき小中こなかはな思想しそう結合けつごうさせ、清朝せいちょう侮蔑ぶべつしたものもおおかった。文雄ふみおは、「朝鮮ちょうせん清国きよくに属国ぞっこくであったことは、『万国ばんこく公法こうほう』(国際こくさいほう)や当時とうじきよしちょう朝鮮ちょうせん政治せいじ軍事ぐんじ外交がいこう関係かんけい現実げんじつらしわせればあきらかな国際こくさい常識じょうしきだった」として、「ちょう朝鮮ちょうせん末期まっき登場とうじょうした開化かいかは、きよしへの事大じだいをやめて独立どくりつ獲得かくとくしようとしたため、事大じだい属国ぞっこく)に対抗たいこうする「独立どくりつ」としょうされていたこともわすれてはならない」とひょうしている[15]

ちょう建国けんこくから明王みょうおうあさたいする事大じだい主義しゅぎ堅持けんじしたが、1637ねんへいらんさいじん漢江かんこう南岸なんがん三田洞みたほら朝鮮ちょうせんばんにあるきよし王朝おうちょうぐん本営ほんえい出向でむき、ホンタイジ天子てんしであることをさん跪九叩頭こうとうれいによってみとめることを、臣下しんか面前めんぜん屈辱くつじょくてきにおこない、臣従しんじゅうちかわせられ、屈辱くつじょくてき三田みたわたる盟約めいやく余儀よぎなくされると、事大じだい主義しゅぎ基本きほんらぐようになる。朝鮮ちょうせんでは、きよし王朝おうちょう支配しはいする中国ちゅうごくはもはや中華ちゅうか文明ぶんめい消滅しょうめつした「なまぐさけがれ讐域生臭なまぐさよごれた仇敵きゅうてき)」であり、大中おおなかはなである明王みょうおうあさ消滅しょうめつしたことにより、地上ちじょう存在そんざいする中華ちゅうか朝鮮ちょうせんのみとみて、朝鮮ちょうせんりょうはん自国じこくを「しょうはな」「小中こなかはな」と自称じしょうし、中華ちゅうか文明ぶんめい正統せいとう継承けいしょうしゃ朝鮮ちょうせんであるというつよほこりをもつようになる[16]。このような認識にんしきは、こうむねによりそうれつ推進すいしんしたきた計画けいかく朝鮮ちょうせんばん誕生たんじょうするなどしたが、歳月さいげつとともに弱体じゃくたいする[17]。このような状況じょうきょう危機ききかんおぼえたせいは、1800ねん明王みょうおうあさ皇帝こうていあつしむね慰霊いれいさいをおこない、明王みょうおうあさ皇帝こうてい歴代れきだい事績じせきと「へい胡乱うろん」のときに、朝鮮ちょうせん宗主そうしゅこくである明王みょうおうあさ朝鮮ちょうせんほどこした恩恵おんけい祈念きねんしてよし駿しゅんに『みことしゅう彙編』の編纂へんさんめいじた[17]

ちょう事大じだい主義しゅぎ伝統でんとうてきはなえびす秩序ちつじょ合理ごうりされた。ちょうにおけるはなえびす秩序ちつじょは、みずからを中華ちゅうかなら文明ぶんめいこくとする一方いっぽうで、政治せいじてきにはあかり事大じだいする臣下しんか位置いちづけていた。17世紀せいきおんなしんぞく清朝せいちょうかんぞく明朝みょうちょうってわり中原なかはら支配しはい確立かくりつさせると、ちょう儒者じゅしゃたちはそれまで夷狄いてき禽獣きんじゅうさげすんできたおんなしんぞく中華ちゅうか継承けいしょうする資格しかくみとめず、ちょうこそが唯一ゆいいつ中華ちゅうか文明ぶんめい継承けいしょうしゃだと自負じふする一方いっぽう現実げんじつには清朝せいちょうあらががたく、へいらんによりじんさん跪九叩頭こうとうれいをもってきよしへの臣従しんじゅうちかわされることになる。へいらんさい清朝せいちょう蛮夷ばんいだとして、最後さいごまで主戦しゅせんろん主張しゅちょうし、降参こうさん、斥和しんとしてとらえられ、瀋陽しんよう処刑しょけいされたひろしつばさかんの『みことしゅう彙編』には「列聖れっせい相承そうしょうせいはんしょくおさむ事大じだいいちしん先祖せんぞ代々だいだいから中華ちゅうか藩屏はんぺいとしてつかえ、強大きょうだい主君しゅくん一意いちい専心せんしんつかえるのみ)」とある[18]

ちょう事大じだい主義しゅぎ実際じっさい要因よういんとしては高句麗こうくり滅亡めつぼうには朝鮮半島ちょうせんはんとうしょ国家こっかには中原なかはらとなえる中華ちゅうか帝国ていこく満州まんしゅうこうむいにしえ遊牧ゆうぼく帝国ていこくたい軍事ぐんじてき防戦ぼうせんできず、また高麗こうらいもとへの降伏ごうぶく以降いこう朝鮮ちょうせん独自どくじ皇帝こうていごう使用しようきびしく中華ちゅうか帝国ていこくからかんされるようになったため、事大じだい主義しゅぎ安全あんぜん保障ほしょうじょうらざるをなかったことなどがあげられている。ちょう末期まっきには政変せいへんきるたびに、きよしロシア帝国ていこく大日本帝国だいにっぽんていこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなど、さまざまな国家こっか事大じだいさきえ、国内こくない統一とういつれなくなり、ついには大日本帝国だいにっぽんていこくとの併合へいごう余儀よぎなくされることとなった。

韓国かんこくにおける評価ひょうか

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韓国かんこくにおいては、こうはじめ閔妃びんび事大じだいさき次々つぎつぎえた行動こうどうを、朝鮮ちょうせん独立どくりつまもるためであったと評価ひょうかしているが、ちょう末期まっきはすでに独立どくりつこくべるような状態じょうたいではなく、ちぇはじめ呉善花おぞんふぁらのように、それを場当ばあたりてき対応たいおうぎないとひょうする研究けんきゅうしゃもある。

韓国かんこくぼく正煕せいきもと大統領だいとうりょう自著じちょ国家こっか民族みんぞくわたし』で、「はんまんねん歴史れきしは、一言ひとことって退嬰たいえい粗雑そざつ沈滞ちんたい連鎖れんさであった」「姑息こそく怠惰たいだ安逸あんいつ日和見ひよりみ主義しゅぎしめされる小児しょうに病的びょうてき封建ほうけん社会しゃかいひとつの縮図しゅくずぎない」「わが民族みんぞく考察こうさつしてみるとなさけないというほかない」「われわれがしん一大いちだい民族みんぞく中興ちゅうこうするなら、まずどんなことがあっても、この歴史れきし改新かいしんしなければならない。このあらゆるあく倉庫そうこのようなわが歴史れきしは、むしろやしてしかるべきである」とべている[19]ほお朝鮮ちょうせんにおける事大じだい主義しゅぎ属国ぞっこくせい自覚じかくし、自著じちょかん民族みんぞくすすむべきみち』で韓国かんこくじんの「自律じりつ精神せいしん欠如けつじょ」「民族みんぞくあい欠如けつじょ」「開拓かいたく精神せいしん欠如けつじょ」「退廃たいはいした国民こくみん道徳どうとく」「怠惰たいだ労働ろうどう所得しょとく観念かんねん」「企業きぎょうしん不足ふそく」「悪性あくせい利己りこ主義しゅぎ」「名誉めいよ観念かんねん欠如けつじょ」「健全けんぜん批判ひはん精神せいしん欠如けつじょ」を批判ひはんし、「民族みんぞくわる遺産いさん」のひとつとして事大じだい主義しゅぎ批判ひはんしている[20]

浜田はまだこうさくは、「朝鮮ちょうせん歴史れきしは、中国ちゅうごくしょ王朝おうちょうにたいする事大じだいせいや、南北なんぼくからしきりに侵略しんりゃくこうむっためん強調きょうちょうする史観しかんにややもするとおちいるが、これでは朝鮮ちょうせん視点してん固定こていしてしまうこと、また、渤海とこれに先行せんこうする高句麗こうくり扶余など東北とうほくアジアのしょ民族みんぞく歴史れきし視野しやにおいた視角しかくから朝鮮ちょうせんさい構成こうせいすべきことをたすくなり朝鮮ちょうせん: 이우성なりひとしかん大学だいがく論文ろんぶんからおそわったのである」とべている[21]

大原おおはら志麻しまは、かんりゅう時代じだいげきひょうするなかで、「朝鮮ちょうせんは、ひがしアジア外交がいこう関係かんけいひとつの特徴とくちょうである事大じだい外交がいこうをとってきたが、それは文化ぶんか先進せんしんこくである中国ちゅうごく尊敬そんけいあらわすもので、『文化ぶんか水準すいじゅんおくれた』こうむふるおんなしん日本にっぽんには自尊心じそんしんした。そのなかでもとりわけこうむいにしえ一貫いっかんして、高貴こうき朝鮮ちょうせんじん対比的たいひてき野蛮やばんそのものとえがかれている。『武人ぶじん時代じだい』では、成桂せいけいおんなしんぞくであることはかげをひそめ、義方よしえろくせいまごであることが強調きょうちょうされている」と指摘してきしている[22]

屋山ややま太郎たろうは、「ぼく政治せいじ経済けいざいつうじて中国ちゅうごくにのめりみ、米国べいこくって日本にっぽん悪口わるぐちならてた。まさに、大衆たいしゅう迎合げいごう政治せいじひろげているが、この姿すがたこそがせんねんにわたる朝鮮ちょうせん歴史れきしへの回帰かいきである。韓国かんこくわたっているのは儒教じゅきょう思想しそうである。日本にっぽんにも儒教じゅきょう思想しそうはあるが、仏教ぶっきょう平等びょうどう思想しそう中和ちゅうわされて、それほど浸透しんとうしていない。韓国かんこく儒教じゅきょう徹底てっていして上下じょうげ関係かんけいにこだわる事大じだい主義しゅぎである。おおきいものにはしたがうということだから、中国ちゅうごく米国べいこくにはしたがう。日本にっぽんは、中華ちゅうか思想しそうからみてした位置いちにいなければならないのである」と指摘してきしている[23]

宮脇みやわき淳子じゅんこは、「はじめて朝鮮半島ちょうせんはんとう人々ひとびと民族みんぞく意識いしき芽生めばえたのは、かれらはみとめたくないとしても、1910ねんにちかん併合へいごう以降いこうです。日本にっぽん文化ぶんか急激きゅうげきはいってくることで日本人にっぽんじんとのちがいをり、自分じぶんたちのアイデンティティまれました。それまでかれらはずっと、シナあお事大じだい主義しゅぎ小中こなかはな主義しゅぎなかで、なんうたがいもなくシナ文明ぶんめい範疇はんちゅうのもとできてきました。異分子いぶんしである日本にっぽんというかがみて、はじめて『朝鮮ちょうせん民族みんぞく』がまれたのです。筑波大つくばだい大学院だいがくいん教授きょうじゅ古田ふるた博司ひろし先生せんせいは、さらに韓国かんこくが『しま』したことを指摘してきしています。にちかん併合へいごうでシナからもぎられていきなり近代きんだいほうまれ、日本にっぽん敗戦はいせん38せん分断ぶんだんされてしまになった。そのしまでは、中国ちゅうごく属国ぞっこくだったという記憶きおく風化ふうかして民族みんぞく主義しゅぎ台頭たいとうしますが、もともとシナと一体化いったいかしていた地域ちいきが、きゅう国民こくみん国家こっかになろうとおもったら歴史れきし改竄かいざんするしか方法ほうほうがない。もともと自律じりつせいがあって自分じぶんたち独自どくじ文化ぶんか正統せいとうせいがあるというようなウソをつくりげるしかないとおっしゃっています。その意味いみでは、いま韓国かんこく歴史れきしドラマという手段しゅだんで、あらたな建国けんこく神話しんわをつくりげている最中さいちゅうだといえるのかもしれません」と指摘してきしている[24]

北朝鮮きたちょうせんにおける評価ひょうか

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ちょう時代じだい朝鮮ちょうせん歴史れきしあいだ確立かくりつされた見解けんかいは、朝鮮ちょうせん起源きげん中国ちゅうごく難民なんみんにさかのぼり、朝鮮ちょうせん歴史れきし中国ちゅうごくとつながる王朝おうちょうなが連続れんぞくだとかんがえた。いんからの難民なんみん朝鮮ちょうせんしんしん前身ぜんしんたつかんはたからの難民なんみん)はこのように価値かちづけられ、だんくん朝鮮ちょうせん高句麗こうくり重要じゅうようだとはかんがえられなかった[25]。この見解けんかいによると、朝鮮半島ちょうせんはんとう音楽おんがく医学いがく貿易ぼうえき政治せいじシステムって物語ものがたりは、トロイ難民なんみんアイネイアースによるローマ建国けんこく同様どうようかんがえられていた[26]。しかし1930年代ねんだいに、さるさいひろし影響えいきょうけたナショナリズム高揚こうようから、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん建国けんこく物語ものがたりより、だんくん朝鮮ちょうせん建国けんこく物語ものがたりほう重要じゅうようされるようになり[26]朝鮮ちょうせんでは自国じこく文化ぶんか尊重そんちょうということから、民族みんぞく文化ぶんか形成けいせいするまゆみくん朝鮮ちょうせんがだんだん有利ゆうりとなる[27]さるさいひろしにとって、朝鮮ちょうせん否認ひにん朝鮮ちょうせん自主じしゅせい確立かくりつし、事大じだい主義しゅぎ否定ひていするうえで不可欠ふかけつのことであった[28]現在げんざい朝鮮ちょうせん歴史れきしは「封建ほうけんてき支配しはい階級かいきゅう事大じだい主義しゅぎしゃ大国たいこく至上しじょう主義しゅぎしゃによって、不道徳ふどうとくゆがめられた」と主張しゅちょうする北朝鮮きたちょうせん歴史れきしによって攻撃こうげきされつづけており[29]1959ねん朝鮮ちょうせんを「封建ほうけんてき支配しはい階級かいきゅう事大じだい主義しゅぎ産物さんぶつであり、朝鮮ちょうせん民族みんぞくへの侮辱ぶじょく[30]看做みなきむ日成いるそん主席しゅせき指示しじによって平壌ぴょんやんりょう破壊はかいされ[31]跡地あとち凱旋がいせん青年せいねん公園こうえんとなった。

北朝鮮きたちょうせんにおいても、きむ日成いるそん国家こっか主席しゅせき当時とうじ)は、朝鮮ちょうせんにおける事大じだい主義しゅぎ封建ほうけん統治とうちしゃのみならず、朝鮮ちょうせん革命かくめい運動うんどうにも蔓延まんえんしているとし、そのれいとして「朝鮮ちょうせん共産党きょうさんとう承認しょうにん取消とりけし問題もんだい」をげている。かれらは派閥はばつこうそうかえし、それぞれがコミンテルン事大じだいし、正統せいとうせい主張しゅちょうしたことで、結局けっきょく承認しょうにんされるにあったとし、朝鮮ちょうせん革命かくめい運動うんどう成就じょうじゅさせるには「主体しゅたい」をてなければならないとした。北朝鮮きたちょうせん公式こうしきイデオロギーである主体しゅたい思想しそう名称めいしょうは、「事大じだい主義しゅぎ克服こくふく」という意味いみめられている。

文雄ふみおは、「それでも半島はんとうとして『事大じだい弱国じゃっこく強国きょうこくつかえる)』せざるをえない宿命しゅくめいがある。それはたん地政学ちせいがくてき宿命しゅくめいだけでなく、精神せいしん構造こうぞうてきなしくみでもある。だから韓国かんこくじんもつらいのだなと同情どうじょうもする。確実かくじつに『事大じだい』はから以来いらい、1000ねんにわたり半島はんとう精神せいしん伝統でんとうとなり、さだめでもある。もちろん時代じだいによってもその強弱きょうじゃく程度ていどはちがう。たとえば、高麗こうらいあさよりもちょうのほうがつよく、しかも徹底的てっていてきである。かりに亡国ぼうこくしても大中おおなかはなへのちゅうけっしててないという徹底てっていぶりであった。あきらからきよしへと、うしからうまえるさい朝鮮ちょうせん朱子学しゅしがくしゃちゅうかたくなにまもとおすことが『美徳びとく』とまでいた。中華ちゅうか帝国ていこくへの朝貢ちょうこう国家こっかなかで、朝鮮ちょうせんが『したこくしたこく』ともっとも蔑視べっしされてきたことは、いんの『けいかげ漫筆まんぴつ』にえがかれている。それでも『事大じだいいちしん』をまもりきってきたことは、ほめてあげてもよいだろう。だが、『事大じだい』をめぐる南北なんぼくおおきい。たとえば、きたのほうは高句麗こうくり時代じだい以来いらいずいとうへのつよ抵抗ていこうなが独自どくじ歴史れきしがあった。現在げんざい北朝鮮きたちょうせんは『事大じだい』よりもチュチェ強調きょうちょうし、『独立どくりつ自尊じそん』の気風きふうつよい。だが、チュチュを強調きょうちょうしすぎると北朝鮮きたちょうせんのように孤立こりつしてしまうという半島はんとうとしてのさだめもある。もちろん事大じだい相手あいてをどうえらぶかによっても、そのくに運命うんめいめられる。戦後せんごべいえらんだのが今日きょう韓国かんこくのさだめ、なかえらんだのが北朝鮮きたちょうせんのさだめとなる。それが朝鮮ちょうせん事大じだいあゆみからまれた歴史れきしてき産物さんぶつとしての国家こっか運命うんめいともいえよう。そのようななが歴史れきしながれからも、その精神せいしん構造こうぞうることがで きる。…事大じだい反面はんめんは『弱者じゃくしゃいじめ』である。強者きょうしゃおそれるあまり、そのうらみつらみからぎゃく徹底的てっていてき弱者じゃくしゃいじめをする。この韓国かんこくじん民族みんぞくせいをよくっている中国人ちゅうごくじんは、韓国かんこくじんたいして徹底的てっていてきこうあつてき統治とうちおこない、効果こうかげたのだ。相手あいてを『復仇ふっきゅう断念だんねんさせるまで、徹底的てっていてき弾圧だんあつ』するというマキャベリ主張しゅちょうおな理論りろんの『韓非子かんぴし』のおしえを、中国ちゅうごくはすでに2000ねんあままえから実践じっせんしてきたので、韓国かんこくじんは『大国たいこくじん』にたいしては1000ねん以上いじょうまえにすでに抵抗ていこうをあきらめている」とひょうしている[32]

日本にっぽん

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日本にっぽんには、中国ちゅうごくしょ王朝おうちょうさつふう体制たいせいはいり、これを政策せいさくてき利用りようしようとした歴史れきしがある。

こう漢書かんしょ」によるとたてたけし中元ちゅうげん2ねん(57ねん)、博多湾はかたわん沿岸えんがん所在しょざいしたとられるやまとやつこく首長しゅちょうが、こうかん光武みつたけみかどからやまとやつ国王こくおうさつふうされてきむしるしゆだねやつ国王こくおうしるし)のたまものあずかけており、また倭国わのくにおうそちますえいはじめ元年がんねん107ねん)になまくちけんじてきたとする記述きじゅつがある。この朝貢ちょうこう5世紀せいきすえごろまで断続だんぞくてきおこなわれた。この時期じき倭国わのくにおうやまとおう)は、中国ちゅうごく史書ししょえるものが、たたえちんすみきょうたけという5めいおり、これらおうは4世紀せいき後期こうきから朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ伽耶かや諸国しょこくぐん資源しげん利権りけん獲得かくとくのために介入かいにゅうしようとしたため、そのさつふう大義名分たいぎめいぶんようとしたものとかんがえられている。

室町むろまち幕府ばくふの3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ九州きゅうしゅう商人しょうにんこえとみなるものからたいあきら貿易ぼうえき莫大ばくだい利益りえきむことを伝聞でんぶんした。だがあかりはなえびす思想しそうイデオロギーから、朝貢ちょうこう建前たてまえとする貿易ぼうえきのみみとめる。義満よしみつは1401ねん5がつ13にちこえとみふつそうおもねあかり派遣はけんし、国交こっこうもうれた。あかり使者ししゃよく1402ねん8がつ3にち来日らいにちし、義満よしみつ申請しんせいをききとどけるむね国書こくしょ手交しゅこうし、ここにいわゆる勘合かんごう貿易ぼうえき開始かいしされた。あかり使者ししゃたずさえる国書こくしょには「しか日本にっぽん国王こくおうみなもと道義みちよしすなわち、義満よしみつあかりさつふうこくおうとしてみとめるという意味いみ表記ひょうきがあった。たいして義満よしみつは、あかりへの国書こくしょあかりみかど臣下しんかという意味いみの「しんげん」としるした。義満よしみつ国内こくないでの権力けんりょく確立かくりつには潤沢じゅんたく資金しきんようする。ゆえ莫大ばくだい利益りえきげるたいあかり貿易ぼうえき継続けいぞくするじょうで、さつふう体制たいせいくだることは必要ひつよう不可欠ふかけつであり、義満よしみつったものとえる。当時とうじこれには幕府ばくふ内部ないぶにも批判ひはんがあったが、義満よしみつ権勢けんせいまえではおおやけ発言はつげんができず、各々おのおの日記にっきなどにしるすのみであった。義満よしみつ死後しご、こうした批判ひはんひょうあらわれ、勘合かんごう貿易ぼうえきはいったん廃止はいしされるも、6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりがのちに再開さいかいする。

一方いっぽうで、日本にっぽんには中国ちゅうごく中心ちゅうしんとする事大じだいてき世界せかいかんへの拒否きょひ反応はんのうつよく、やまとおう一般いっぱん筆者ひっしゃ聖徳太子しょうとくたいしとされる)からずい煬帝てた国書こくしょし「にち出處しゅっしょ天子てんし致書日沒にちぼつしょ天子てんし云云うんぬん」は対等たいとう外交がいこう明確めいかくにしたものとして有名ゆうめいであるが、煬帝は中華ちゅうかてき世界せかいかん相容あいいれないこの文面ぶんめん立腹りっぷくしたとつたえられる。

まただい1朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいぶんろくやく)の講和こうわ交渉こうしょうで、豊臣とよとみ秀吉ひでよしぶんろく5ねん(1596ねん)9がつ来朝らいちょうしたあかり使節しせつ会見かいけんした。秀吉ひでよしあかり降伏ごうぶく報告ほうこく事前じぜんけるも、それは虚偽きょぎ報告ほうこくであり、実際じっさいあかり使節しせつ国書こくしょ内容ないよう秀吉ひでよしを「日本にっぽんおうみとめ、朝貢ちょうこうゆるす」といったものであった。秀吉ひでよしはこれを日本にっぽん属国ぞっこくするものとし、かえって激怒げきどし、使者ししゃかえして朝鮮ちょうせんへの再度さいど出兵しゅっぺい決定けっていした。

江戸えど複数ふくすう笑話しょうわほんに、儒学じゅがくしゃ四谷よつやから新宿しんじゅく当時とうじ田舎いなかであった)に引越ひっこし、なぜわざわざ不便ふべん土地とちすのかとかれ「とう三里さんりちかいからだ」とまじめにこたえたという小咄こばなし記載きさいされている。これは笑話しょうわとしての創作そうさくであるが、当時とうじ儒学じゅがくしゃとう孔子こうし本国ほんごくとして偶像ぐうぞうする傾向けいこう風刺ふうしされるという当時とうじ社会しゃかいてき風潮ふうちょうつたえている。

琉球りゅうきゅう王国おうこく沖縄おきなわけん

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べい国民こくみん政府せいふのアンガー高等こうとう弁務べんむかん万歳ばんざい三唱さんしょうする琉球りゅうきゅうじん

琉球りゅうきゅう王国おうこくではあきらきよしりょう王朝おうちょうからさつふうけていたことから、日本にっぽん本土ほんどよりは事大じだい主義しゅぎ影響えいきょうつよかった。朝鮮ちょうせんよりもさら小国しょうこくであるため、自前じまえ兵力へいりょくだけで他国たこく侵略しんりゃくふせぐのが困難こんなんだったからである。

まもりれいもん扁額へんがくまもりれいくに」とは、「中華ちゅうか皇帝こうていたいして臣従しんじゅうれいもりっているくにくに)」を意味いみしており、琉球りゅうきゅう事大じだい主義しゅぎ具現ぐげんした言葉ことばであった。つまりまもりれいもんとは、朝鮮ちょうせんむかいおんもん相当そうとうするもんだったのである。琉球りゅうきゅう国王こくおうとその家臣かしんくびさとじょうにてさん跪九叩頭こうとうれいさつふう使たいしてった。

琉球りゅうきゅう王国おうこくは、明治めいじ政府せいふによって沖縄おきなわけん設置せっちされ、大日本帝国だいにっぽんていこく併合へいごうされたが、さらにその沖縄おきなわせんによって、「大日本帝国だいにっぽんていこくよりもさらつよアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく」をを以ってけられたことで、沖縄おきなわ事大じだい主義しゅぎひとつの転機てんきむかえた。

戦後せんご収容しゅうようしょれられていた住民じゅうみんらが帰還きかんしたさい那覇なはにあった山下やましたまちが、山下やました奉文ともゆき陸軍りくぐん大将たいしょう想起そうきさせるということからペリー改称かいしょうするなど[注釈ちゅうしゃく 1]占領せんりょう当局とうきょく迎合げいごうした改名かいめいおこなわれた。

そして1960ねんよりべい国民こくみん政府せいふによって「高等こうとう弁務べんむかん資金しきん」がもうけられた。これは、高等こうとう弁務べんむかん自由じゆう裁量さいりょう管内かんない市町村しちょうそん資金しきん投入とうにゅうするというものであった。市町村しちょうそん首長しゅちょう高等こうとう弁務べんむかんるべく「琉米親善しんぜん委員いいんかい」を組織そしきし、べい国民こくみん政府せいふ推奨すいしょうする「琉米親善しんぜん」を演出えんしゅつした。高等こうとう弁務べんむかん地方ちほう視察しさつは、さながら君主くんしゅ行幸ぎょうこうかんていし、なかには「高等こうとう弁務べんむかん閣下かっか」に万歳ばんざい三唱さんしょうするものた。

また大宜味おおぎみちょうとくのように、戦前せんぜん大日本帝国だいにっぽんていこく御稜威みいつ喧伝けんでんして南進なんしんろん鼓舞こぶし、戦後せんご一転いってんしてべい国民こくみん政府せいふ威光いこうりてアメリカの協力きょうりょくしたに「琉球りゅうきゅう独立どくりつ」をうったえるなど、つねに「宗主そうしゅこく」の沿った主張しゅちょう展開てんかいする政治せいじもいた。

一方いっぽう前述ぜんじゅつぼく正煕せいき大統領だいとうりょう批判ひはんのように、琉球りゅうきゅう王国おうこくおよ沖縄おきなわけん琉球りゅうきゅう独立どくりつ運動うんどうにおける事大じだい主義しゅぎについても、きびしく批判ひはんしているものもいる。

しんこう沖縄おきなわいちせんねん』をあらわした新屋敷しんやしきさいわいしげるは、だいしょうおうみつるへの易姓革命えきせいかくめいおこなわれたときにもうきょうぶん安里あさとだいおや)がさけんだ「ものくれいゆすどわがあるじ内間うちまくさりわがあるじものをくれるほうこそわれらが主君しゅくん内間うちまくさりなおえん殿どのこそがわれらが主君しゅくん)」は、実力じつりょくしゃ迎合げいごうし、利権りけんむらがり、人権じんけん無視むしした行為こうい[注釈ちゅうしゃく 2]正当せいとうしたスローガンにならない、ときびしい筆誅ひっちゅうくわえている。

沖縄おきなわがく大家たいか伊波いは普猷ふゆうも、自著じちょ琉球りゅうきゅう』で沖縄おきなわじん欠点けってんとして「事大じだい主義しゅぎ」「忘恩ぼうおん気質きしつ」をげ、他府県たふけんじんからあなどられるのは、言語げんご風俗ふうぞくことなるからではなく、このような県民けんみんせいであるからだとし、「かれら(沖縄おきなわじん)は自分じぶんらの利益りえきのためにはともる、る、場合ばあいによってはくに[ようページ番号ばんごう]沖縄おきなわじん市民しみんとしても人類じんるいとしても極々ごくごくつまらないものである」とつよ批判ひはんしている。

しかしアメリカも、沖縄おきなわ日本にっぽんへの帰属きぞく意識いしきぐことはできず、アメリカへの事大じだい主義しゅぎながつづかず、1950年代ねんだいには本土ほんど復帰ふっき運動うんどうはじまり、1970ねんべいぐん兵士へいしによる不祥事ふしょうじ交通こうつう事故じこ)がつづけにこったことでピークにたっした。コザ暴動ぼうどう発生はっせいするとアメリカに琉球りゅうきゅう分離ぶんりしておくことは不可能ふかのうかんがえさせ、1972ねん沖縄おきなわ返還へんかん日本にっぽん復帰ふっきした。

琉球りゅうきゅう呼称こしょう拒絶きょぜつ感情かんじょう

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琉球りゅうきゅう」という呼称こしょうは、自称じしょうの「ウチナー」や明治めいじ以降いこうの「沖縄おきなわ」とはことなり、あきらきよしりょう王朝おうちょう米国べいこくからあたえられた(ばれた)国名こくめい地域ちいきめい)であって、外来がいらい勢力せいりょくたいする事大じだい主義しゅぎ象徴しょうちょうする呼称こしょうであるという主張しゅちょうがあり、とく復帰ふっき直後ちょくごはそれにたいする拒絶きょぜつ感情かんじょうつよく、王国おうこく時代じだいはぐくまれ「琉球りゅうきゅう文化ぶんか」とばれたものについても、「沖縄おきなわ文化ぶんか」といいかえるれいがあったという[33]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1957ねんには戦前せんぜんからの山下やましたまちもどされた。なおマシュー・ペリー同地どうちたなどのいわれはない。
  2. ^ だいいちしょう尚徳しょうとくおう世子せいしはこの殺害さつがいされ、その死体したいはバラバラにかれたうえ、くびさとじょううち放置ほうちされたという。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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