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宋 そう 時 じ 烈 れつ
各種 かくしゅ 表記 ひょうき ハングル :
호:우암,화양동주 자:영보 漢字 かんじ :
號 ごう :尤 ゆう 庵 あん 、華陽 かよう 洞 ほら 主 ぬし 字 じ :英 えい 甫 はじめ 発音 はつおん :
ホ:ウアム、ファヤンドンチュ チャ:ヨンポ 日本語 にほんご 読 よ み:
ごう:ゆうあん、かようどうしゅ あざな:えいほ ロ ろ ーマ字 まじ 転写 てんしゃ :
Ho:uam,hwayang-dongju Ja:yeongbo 各種 かくしゅ 表記 ひょうき (本名 ほんみょう )ハングル :
송시열 漢字 かんじ :
宋 そう 時 じ 烈 れつ 発音 はつおん :
ソン・シヨル 日本語 にほんご 読 よ み:
そう じれつ ロ ろ ーマ字 まじ 転写 てんしゃ :
Song Siyeol テンプレートを表示 ひょうじ
宋 そう 時 じ 烈 れつ (そう じれつ、송시열 、1607年 ねん - 1689年 ねん )は、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の政治 せいじ 家 か 。儒学 じゅがく 者 しゃ 。本 ほん 貫 ぬき は恩 おん 津 つ 宋 そう 氏 し [1] 。字 じ は「英 えい 甫 はじめ 」、号 ごう は「尤 ゆう 庵 あん 」、「華陽 かよう 洞 ほら 主 ぬし 」。「宋 そう 子 こ 」と尊称 そんしょう される[2] 。孝 こう 宗 むね のころから粛宗 のころまで仕 つか えた。
忠清 ただきよ 道 どう 沃川郡 ぐん (現在 げんざい の忠清 ただきよ 北道 ほくどう 沃川郡 ぐん )の生 う まれ。1633年 ねん に科挙 かきょ に合格 ごうかく し、官界 かんかい 入 い り。仁 じん 祖 そ の第 だい 2王子 おうじ 、鳳 おおとり 林 はやし 大 まさる 君 くん の師傅 しふ (守役 もりやく )となった。3年 ねん 後 ご の1636年 ねん 翌年 よくねん の1637年 ねん の丙 へい 子 こ の乱 らん においては、大義名分 たいぎめいぶん 論 ろん を唱 とな え明朝 みょうちょう に協力 きょうりょく し清朝 せいちょう に対 たい しては北 きた 伐 き するよう主張 しゅちょう した。この役 やく による王位 おうい 継承 けいしょう 争 あらそ いの結果 けっか が第 だい 2王子 おうじ の守役 もりやく に過 す ぎなかった彼 かれ の将来 しょうらい を決定 けってい づけた。仁 じん 祖 そ 王 おう の子 こ 、昭 あきら 顕 あきら 世子 せいし は乱 らん に朝鮮 ちょうせん が敗北 はいぼく した結果 けっか 、清朝 せいちょう に人質 ひとじち として差 さ し出 だ され満州 まんしゅう に抑留 よくりゅう された。昭 あきら 顕 あきら 世子 せいし は帰国 きこく 後 ご に、親 おや 清 きよし 的 てき で西洋 せいよう 文明 ぶんめい に感化 かんか された彼 かれ を疎 うと んだ仁 ひとし 祖 そ 王 おう によって毒殺 どくさつ され、代 か わりに弟 おとうと の鳳 おおとり 林 はやし 大 まさる 君 くん が新 あら たに世子 せいし となった。
1649年 ねん 鳳 おおとり 林 はやし 大 まさる 君 くん が孝 こう 宗 むね 王 おう として即位 そくい すると、王 おう の守役 もりやく だった宋 そう 時 じ 烈 れつ も政権 せいけん で頭角 とうかく を現 あらわ し以後 いご 、影響 えいきょう 力 りょく を増大 ぞうだい させていくことになる。
しかし、1668年 ねん の右 みぎ 議 ぎ 政 せい 、1673年 ねん の左 ひだり 議 ぎ 政 せい に任官 にんかん してのち野 の に下 くだ った。その後 ご は、郷里 きょうり に隠遁 いんとん と「王 おう による招聘 しょうへい 」(敦 あつし 召)による再 さい 出仕 しゅっし を繰 く り返 かえ し、政権 せいけん での西人 せいじん 、老 ろう 論 ろん の巨頭 きょとう として党争 とうそう に重要 じゅうよう な位置 いち にいた。隠遁 いんとん の最中 さいちゅう でも儒学 じゅがく 者 しゃ たちが彼 かれ の庵 あん に押 お しかけ「山岳 さんがく 政治 せいじ 」「山林 さんりん 宰相 さいしょう 」としてその実力 じつりょく をしめした。
粛宗治下 ちか の1689年 ねん 、南 みなみ 人 じん 派 は の唱 とな える禧嬪張 ちょう 氏 し 所生 しょせい の王子 おうじ ・昀 への元子 もとこ (王位 おうい 継承 けいしょう 順位 じゅんい 第 だい 1位 い )冊立 さくりつ に西人 せいじん 派 は のイデオローグ として反対 はんたい したため、済州 さいしゅう 島 とう に流 なが されることになった(己 おのれ 巳 み 換 かわ 局 きょく )が、その途中 とちゅう で死 し を賜 たまわ った。
宋 そう 時 じ 烈 れつ は朱子学 しゅしがく の熱心 ねっしん な原理 げんり 主義 しゅぎ 者 しゃ であり、大義名分 たいぎめいぶん 論 ろん で清朝 せいちょう の明朝 みんちょう 侵入 しんにゅう を批判 ひはん し、清朝 せいちょう への北 きた 伐 き を主張 しゅちょう した。また李 り 滉 ひろし の学説 がくせつ を退 しりぞ けるなど朱子学 しゅしがく の自由 じゆう な研究 けんきゅう を否定 ひてい した。
同姓 どうせい 同 どう 本 ほん 娶 めと らず[ 編集 へんしゅう ]
1669年 ねん 、宋 そう 時 じ 烈 れつ は儒教 じゅきょう の倫理 りんり を推 お し進 すす め、同姓 どうせい での結婚 けっこん を不倫 ふりん として厳禁 げんきん するように建議 けんぎ した。
これは同姓 どうせい かつ同 おな じ本 ほん 貫 ぬき の者 もの 同士 どうし の結婚 けっこん を禁止 きんし したもので「同姓 どうせい 同 どう 本 ほん 不 ふ 娶 めと 」と呼 よ ばれるものである。この結果 けっか 、同姓 どうせい 同 どう 本 ほん の男女 だんじょ は結婚 けっこん は認 みと められず、生 う まれた子 こ どもは私生児 しせいじ の扱 あつか いを受 う けることになった。
この制度 せいど の導入 どうにゅう に伴 ともな い身分 みぶん 間 あいだ の貴 き 賤結婚 けっこん も避 さ けられるようになった。
このような身分 みぶん 制度 せいど の固定 こてい は朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう 滅亡 めつぼう まで継続 けいぞく することになった。それのみならず「同姓 どうせい 娶 めと らず」の倫理 りんり は現在 げんざい の大韓民国 だいかんみんこく の民法 みんぽう 規定 きてい にも影響 えいきょう を残 のこ している(1997年 ねん に大韓民国 だいかんみんこく 民法 みんぽう の第 だい 809条 じょう 1号 ごう (en:Article 809 of the Korean Civil Code )にある「同姓 どうせい 同 どう 本 ほん 不 ふ 娶 めと 」規定 きてい に憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ による違憲 いけん 判決 はんけつ がでたため現在 げんざい は廃止 はいし )。
『尤 ゆう 庵 あん 集 しゅう 』
『宋 そう 書 しょ 拾遺 しゅうい 』
『朱子 しゅし 大全 たいぜん 箚疑』
『程 ほど 書 しょ 分類 ぶんるい 』
『宋 そう 子 こ 大全 たいぜん 』
『三 さん 学士 がくし 伝 でん 』
肖像 しょうぞう 画 が 『宋 そう 時 じ 烈 れつ 像 ぞう 』(画像 がぞう 参照 さんしょう 、(1778年 ねん ごろ製作 せいさく 、韓国 かんこく 国立 こくりつ 中央 ちゅうおう 博物館 はくぶつかん 所蔵 しょぞう ))は大韓民国 だいかんみんこく 国宝 こくほう 239号 ごう (1987年 ねん 12月26日 にち 指定 してい )に指定 してい されている。