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じゅん

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じゅん
ちょう
だい23だい国王こくおう
1950ねん朝鮮ちょうせん戦争せんそう大半たいはん焼失しょうしつしている。
王朝おうちょう ちょう
在位ざいい期間きかん 1800ねん8がつ18にち - 1834ねん12月13にち
せいいみな 玜(イ・ゴン、이공)
おおやけたから(コンボ、공보)
ごう じゅんとき(スンジェ、순재)
諡号しごう ふちとくあらわどうけいひとしじゅん禧体せいしこりいのち欽光すずけいつぎてんはいごくたかしもとあつしきゅう懿行あきらりん熙化浚烈大中おおなかいたるせいひろしくんあきら謨乾はじめたいとおるあきらうんひろもと高明こうめい博厚ひろあつ剛健ごうけんいきせいけいすべたれれきたていさおひろしはんぶん安武やすたけやすしえいけいなりこう大王だいおう
せんつとむおう清国きよくにによる)[1][2]
びょうごう じゅん
生年せいねん いぬいたかし55ねん6月18にち
1790ねん7がつ29にち
没年ぼつねん みちこう14ねん11月13にち
1834ねん12月13にち
ちち せい
はは 綏嬪ぼく
おうきさきおうはい じゅんもとおうきさききん
よしぼく
子女しじょ 孝明たかあき世子せいし
陵墓りょうぼ じんりょう
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じゅん(スンジョ、じゅんそ、순조1790ねん7がつ29にち - 1834ねん12月13にち)は、朝鮮ちょうせんだい23だい国王こくおう在位ざいい1800ねん - 1834ねん)。いみなは玜(コン)。おおやけたから(コンボ)。ごうじゅんとき(スンジェ)。おくりなふちとくあらわどうけいひとしじゅん禧体せいしこりいのち欽光すずけいつぎてんはいごくたかしもとあつしきゅう懿行あきらりん熙化浚烈大中おおなかいたるせいひろしくんあきら謨乾はじめたいとおるあきらうんひろもと高明こうめい博厚ひろあつ剛健ごうけんいきせいけいすべたれれきたていさおひろしはんぶん安武やすたけやすしえいけいなりこう大王だいおう清国きよくにからの諡号しごうせんつとむおう[1])。もとびょうごうは「じゅんむね」だったが、1857ねんに「じゅん」とあらためられた。

せい次男じなんははは綏嬪ぼくで、こう懿王きさき養子ようしあに文孝ふみたか世子せいし死後しご1800ねん世子せいしになり、同年どうねん即位そくいした。えいであるさだじゅんおうきさき摂政せっしょうへき政治せいじ主導しゅどうしたが、1805ねんにはじゅんもとおうきさきほんぬきでもある安東あんどうきむによるいきおいどう政治せいじはじまっており、次代じだい国王こくおうけんむね次々つぎつぎだい国王こくおうあきらむねまでつづくこととなる。じゅん安東あんどうきむ牽制けんせいするためにゆたか壌趙重用じゅうようして、1827ねん孝明たかあき世子せいしけんむねちち)が摂政せっしょうになったが、1830ねん孝明たかあき世子せいしのために失敗しっぱいした。1834ねん11月に死去しきょ享年きょうねん45(まん44さいぼつ)。

りょうソウル特別とくべつみずくさ内谷うちたにほらにあるじんりょう

きよしからおくられた諡号しごうは、「せんつとむおう」である[2]諡号しごうに「つつしつとむ」の文字もじ使用しようしており、朝鮮ちょうせん国王こくおう従順じゅうじゅんであってしいというきよし希望きぼうれるが、この諡号しごうは、治世ちせいちゅう公式こうしき記録きろくから徹底てっていしてのぞかれており、『朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく』、朝鮮ちょうせん国王こくおう行状ぎょうじょう、『りょうぶん』といったほとんどすべての公式こうしき記録きろくからのぞかれ、外交がいこう文書ぶんしょ以外いがいにはほとんど使用しようされなかった。『朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく』は、しんから諡号しごうさずかった事実じじつ記録きろくするのみでおくられた諡号しごう記録きろくしていない。その理由りゆうは、「夷狄いてき」とみなしたきよしからの諡号しごう恥辱ちじょくかんじていたからであり、表向おもてむきはきよしたいして朝貢ちょうこうさつふう事大じだいをおこない、恭順きょうじゅん姿勢しせいよそおうが、きよしたいする反発はんぱつぬぐがた根付ねついていた[2]

じゅん命令めいれいにより編纂へんさんされた『まん要覧ようらん』には、松島まつしま現在げんざい竹島たけしま)が于山とう[3]だとする『東国とうごく文献ぶんけん備考びこう』からの転記てんきがあることから、大韓民国だいかんみんこく竹島たけしま独島どくと領有りょうゆう根拠こんきょひとつとしている。

家系かけい[編集へんしゅう]

后妃こうひ[編集へんしゅう]

後宮こうきゅう[編集へんしゅう]

おうきさきとのあいだに2なん3じょぼくとのあいだに1じょわせて2なん4じょもうけたが、孝明たかあき世子せいしまごにあたるけんむねのこして早世そうせいけんむねむすめ1にんじゅんからみて曾孫そうそん)も夭折ようせつじゅんむすめたちも子供こども早世そうせいしたり、未婚みこんのまま死去しきょしたりと、子孫しそんのこせなかったため、じゅん子孫しそん現在げんざいつたわっていない。また、まごけんむね死去しきょにより、ちちせい男系だんけい子孫しそん断絶だんぜつした。

系図けいず[編集へんしゅう]

じゅん親類しんるい近親きんしん祖先そせん詳細しょうさい

そうけんじ世子せいし━━━┳懿昭まご
              ┃ 
           ┣22だいせい━23だいじゅん孝明たかあき世子せいしつばさむね)━24だいけんむね
       ┃
       ┣おん彦君ちょんけい大院君たいいんくん━25だいあきらむね
       ┃
       ┣おんしんくんみなみのべくん養子ようし)━きょうせん大院君たいいんくん━26だいこうはじめ
          ┃
          ┗おんぜんきみ


じゅん登場とうじょうする作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b “조선 후기 왕들, 청나라로부터 받은 시호 철저히 숨겼다”. 朝鮮日報ちょうせんにっぽう. (2007ねん9がつ11にち). オリジナルの2013ねん10がつ13にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131013094349/https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2007/09/11/2007091100074.html 
  2. ^ a b c きよし諡号しごうかくした朝鮮ちょうせん後期こうき国王こくおうたち”. 朝鮮日報ちょうせんにっぽう. (2007ねん9がつ16にち). オリジナルの2007ねん10がつ9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071009174825/http://www.chosunonline.com/article/20070916000002 
  3. ^ まん要覧ようらん軍政ぐんせいへんよん海防かいぼう東海とうかい
    輿地よちこころざしうんうつりょう于山みな于山こく于山そくやまと所謂いわゆる松島まつしま

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい:
せい
朝鮮ちょうせん国王こくおう
だい23だい:1800ねん - 1834ねん
次代じだい:
けんむね