ちゅうれつおう

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ちゅうれつおう おう
こううらら
だい25だい国王こくおう
王朝おうちょう こううらら
在位ざいい期間きかん 1274ねん7がつ24にち - 1298ねん3月2にち
1298ねん9月13にち - 1308ねん7がつ30にち
諡号しごう ちゅうれつけいこう大王だいおう
生年せいねん はしひらた3ねん2がつ26にち
1236ねん4がつ3にち
没年ぼつねん 至大しだい元年がんねん7がつ13にち
1308ねん7がつ30にち
ちち 元宗もとむね
はは じゅんけいふときさき
おうきさきおうはい そうきよしおうきさき
さだしんぬし
よしあきらいん
子女しじょ 下記かき参照さんしょう
陵墓りょうぼ けいりょう
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ちゅうれつおう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 충렬왕
漢字かんじ ちゅうれつおう
発音はつおん チュンニョルワン
日本語にほんごみ: ちゅうれつおう
マ字まじ King Chungnyeol
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ちゅうれつおう(ちゅうれつおう、1236ねん4がつ3にち - 1308ねん7がつ30にち)はだい25だい高麗こうらいおう在位ざいい1274ねん - 1298ねん復位ふくい1298ねん - 1308ねん)。

だい24だい高麗こうらいおう元宗もとむねいみなは昛、はつは諶、賰、諡号しごうちゅうれつけいこう大王だいおう1260ねん太子たいし世子せいし)となり、1271ねん6がつもと婚姻こんいん許諾きょだくて、クビライ公主こうしゅゆるがせ魯掲さと迷失(クトゥルク=ケルミシュ)[1]めとり、翌年よくねん帰国きこくふたたもともどり、元宗もとむねふたた帰国きこくし、王位おういについた。

ぶんながやく弘安ひろやすやくにおいてはもと日本にっぽん侵攻しんこう進言しんげんし、兵力へいりょく経費けいひ提供ていきょうする[2][3][4] とともに毎年まいとしもと莫大ばくだい貢物みつぎもの人員じんいん[5]ひとし頻繁ひんぱんおく忠義ちゅうぎしめした。これにより国内こくない経済けいざい疲弊ひへいし、これをうれいた臣下しんかによって廃位はいいとなったがもとちからにより復位ふくいした。こののちさら親元おやもと政策せいさくつらぬき、えびすふく辮髪べんぱつれい[6](1278ねん)をすほか、以降いこうおうもと宮廷きゅうていそだち、ちゅうせんおうは「えきれいひろしはな」(イジリブカ)、ちゅう粛王は「おもね剌忒訥失さと」(アラトナシリ)、ちゅうめぐみおうは「ひろしとうしつさと」(ブダシリ)というモンゴルふうっている。

略歴りゃくれき関連かんれん年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 1236ねん こうみやこにてもとしゅうじゅんけいふときさききんあいだ長男ちょうなんとしてまれる。
  • 1256ねん
    • 11月 宗室そうしつはじめやすおおやけおう絪のむすめとする(さだしんぬし)。[7]
  • 1258ねん
  • 1260ねん
    • 8がつ 世子せいしとなる。
  • 1269ねん
    • 4がつ 世子せいしちゅうれつおう)、モンゴルに入朝にゅうちょう
  • 1270ねん
  • 1271ねん
  • 1272ねん
    • 2がつ だかうらら帰国きこく[6]
    • 3がつ クビライにもとむね復位ふくいしゃし、日本にっぽんへの遠征えんせいには助成じょせいするむね提言ていげん[9]
    • 12月 もと入朝にゅうちょう
  • 1273ねん
  • 1274ねん
    • 元朝がんちょう高麗こうらい戦艦せんかんさんひゃくそう造船ぞうせんめいじ、日本にっぽん遠征えんせいのため(もと寇)戦艦せんかん大小だいしょうきゅうひゃくそう準備じゅんびさせる。[3]
    • 5がつ つばめきょうにてクトゥルク=ケルミシュと婚姻こんいん
    • 6がつ 元宗もとむね死去しきょ
    • 8がつ ちゅうれつおう帰国きこくして王位おういく。
    • 10月 ぶんながやく
  • 1275ねん
    • ふけふけこく軍民ぐんみんいたる魯花あか(daruγがんまači)そうかんかれる。
    • 9月 王子おうじおう謜(ちゅうせんおう)が公主こうしゅクトゥルク=ケルミシュの所生しょせいとしてまれる。
    • 10がつ もとの駙馬こくとなったことにともな官制かんせい格下かくさげする。
  • 1276ねん
    • 通文みちふみかん[10]く。
    • 3がつ 王室おうしつ儀礼ぎれい名称めいしょう格下かくさげする。
    • 12月 まえ貞和さだかずみやぬしたいする公主こうしゅクトゥルク=ケルミシュの誣告ぶこく事件じけん
  • 1277ねん
    • 1がつ 王子おうじおう謜を世子せいし冊立さくりつする。
    • 7がつ 公主こうしゅによる国王こくおう殴打おうだ事件じけんきる。
    • 12月 かねかたけい誣告ぶこく事件じけんきる。
  • 1278ねん
    • 2がつ 弁髮べんぱつえびすふくれい[11]くだす。
    • 4がつ 公主こうしゅとともに入朝にゅうちょう
    • 7がつ クビライに謁見えっけん高麗こうらい一連いちれん事件じけんについて事実無根じじつむこん釈明しゃくめいし、みずからやかねかたけいらの潔白けっぱくしょうするためばくきた叛乱はんらん討伐とうばつ日本にっぽん遠征えんせいへの兵力へいりょく助成じょせいもうるが、高麗こうらい窮状きゅうじょううったえて日本にっぽん遠征えんせいへの再度さいど遠征えんせいについてはむことをい、あわせてひろしちゃおかダルガチたちを元朝がんちょう本国ほんごく送還そうかんさせることをう。ちゅうれつおう、クビライより「駙馬高麗こうらいおう」のかねしるしたまものあずかされる。
    • 10月 誣告ぶこく事件じけんかかわった汾禧兄弟きょうだい処刑しょけいする。
    • 11月 汾禧兄弟きょうだい後援こうえんしていたひろしちゃおか上訴じょうそにより、クビライ、ただしれつおう入朝にゅうちょうめいず。
  • 1279ねん
  • 1280ねん
    • 2がつ 忻都ひろしちゃおか日本にっぽんへのさとし使もりただし斬殺ざんさつ理由りゆう早期そうき出兵しゅっぺい提案ていあんするが、クビライはみなみそうくだへい戦艦せんかんととのわないためこれを退しりぞける。
    • 6がつ クビライ、范文とら討議とうぎ江南こうなんくだへいもちいたさいせいぐん再編さいへんすすめさせる。
    • 8がつ ただしれつおう入朝にゅうちょう。クビライ、日本にっぽん遠征えんせい参加さんかするしょしょう招集しょうしゅうし、遠征えんせい基本きほん方針ほうしんめる。あわせて日本にっぽん遠征えんせいせい日本にっぽんゆき中書ちゅうしょしょう設置せっちされ、忻都ひろしちゃおか范文とらさんめい同行どうこうしょう中書ちゅうしょみぎすすむ任命にんめいされる。ちゅうれつおう、クビライに謁見えっけんして日本にっぽん遠征えんせいについて7つの希望きぼう条項じょうこう上奏じょうそうし、クビライこれをれる。
    • 9がつ ひらけきょう帰還きかんする。
    • 10がつ ただしれつおう、「開府かいふどうさんつかさ中書ちゅうしょひだり丞相じょうしょうくだり中書ちゅうしょしょうごと」の官位かんいさずかる。
    • 11月 元朝がんちょう使者ししゃはっし、兵船へいせんきゅうひゃくそうなど準備じゅんび完了かんりょうしたこと報告ほうこくする。また、ちゅうれつおうせいひがしぎょうしょう長官ちょうかんのひとりにくわえること、かねかたけいなど高麗こうらい将兵しょうへいにもモンゴルぐんなみの官位かんい称号しょうごう授与じゅよなどを要請ようせいする。
  • 1281ねん 弘安ひろやすやく
    • 1がつ クビライ、おもね剌罕(アラカン)・忻都・ひろしちゃおか・范文とららを招集しょうしゅう日本にっぽんへの出征しゅっせい命令めいれいくだす。
    • 2月 しょしょうつばめきょう出発しゅっぱつ下旬げじゅんかねかたけいひらけきょう帰還きかんしクビライの命令めいれい伝達でんたつ
    • 3月16にち きんかたけいらを合浦がつぽ派遣はけんする。
    • 3月18にち 忻都・ひろしちゃおか遠征えんせいぐんひきいて到着とうちゃくする。
    • 3月19にち ただしれつおう、クビライからの「駙馬国王こくおう」の宣命せんみょうと「中書ちゅうしょひだりすすむゆき中書ちゅうしょしょうごと」のしるしる。
    • 3月20にち ただしれつおう、忻都・ひろしちゃおか遠征えんせいについて討議とうぎする。ちゅうれつおう南面なんめんし、忻都らひがしめんする。忻都ら合浦がつぽ出発しゅっぱつする。
    • 4がつ ただしれつおう合浦がつぽ行幸ぎょうこうする。
    • 5月3にち 忻都・ひろしちゃおかかねかたけいひきいる東路あずまじぐん合浦がつぽより日本にっぽんけて出征しゅっせいする。
    • 7がつ16にち ただしれつおう合浦がつぽより帰還きかんする。
    • 7がつ21にち きんかたけいらから太宰府だざいふでのせんほうける。
    • 8がつ16にち べつしょうきむひろしばしら合浦がつぽより行宮あんぐういたり、東征とうせいぐん敗報はいほうかねかたけいらが合浦がつぽ帰還きかんしたことをげる。
    • うるう8がつ2にち きんかたけい行宮あんぐうにて謁する。
    • うるう8がつ24にち ただしれつおうひだりはん派遣はけんし忻都・ひろしちゃおか・范文とら慰労いろうする。忻都らきたかえする。
  • 1282ねん
  • 1287ねん
    • 5月 ナヤンの叛乱はんらんこうするためせいひがしぎょう尚書しょうしょしょう設置せっちされ、ただしれつおう同行どうこうしょうだい3であるたいらあきら政事せいじ任命にんめいされる。
  • 1290ねん
  • 1291ねん
    • もと高麗こうらい連合れんごうぐん高麗こうらい領内りょうない侵入しんにゅうしたカダアン一派いっぱ鎮圧ちんあつ
    • 5がつ ただしれつおうひらききょう帰還きかん
  • 1297ねん
    • 5月 公主こうしゅクトゥルク=ケルミシュ、死去しきょ。「そうきよしおうきさき」とついみことされる。
  • 1298ねん ちゅうせんおう譲位じょういしたが、ちょう誣告ぶこく事件じけんにより6カ月かげつぶりに復位ふくい
  • 1308ねん ちゅうれつおう死去しきょ

家族かぞく関係かんけい[編集へんしゅう]

  • ちち元宗もとむね
  • ははせいじゅんおうきさきじゅんけいふときさききむ
  • 后妃こうひ
    • そうきよしおうきさき
    • さだしんぬし貞和さだかずみやぬしおう(?~1319ねん)- はじめやすおおやけおう絪のむすめ。20だいかみはじめ曾孫そうそんむすめ祖父そふかみはじめ次男じなんじょうおおやけおうじょ)。一番いちばんはじめに婚姻こんいんした。しかし、そうきよしおうきさきとの婚姻こんいんにより、序列じょれつだい2がった。ちゅうせんおうせいおうめいである。34だいきょうゆずるおう高祖母こうそぼ
    • よしあきらいん きんなま没年ぼつねんしょう)- 未亡人みぼうじんで、宮人みやびとしば無比むひ処刑しょけい気落きおちしているおう気持きもちをまぎらわせるためちゅうせんおうによりとなった。ちゅうれつおう死去しきょちゅうせんおうとなる。
    • さむらいばんたまなま没年ぼつねんしょう
    • 宮人みやびと しば無比むひ(?~1297ねん)- ちゅうせんおうにより処刑しょけいされた。
    • 後宮こうきゅう きんなま没年ぼつねんしょう
  • 子女しじょ
    • 長男ちょうなんしょうくん おう湑(1258ねん~?)- ははばんたま。1276ねん出家しゅっけ僧侶そうりょとなる。
    • 次男じなん江陽こうようこう おうしげる(?~1308ねん)- ははさだしんぬしきょうゆずるおう母方ははかた曾祖父そうそふである(三男さんなん延徳えんとくいんだい君王くんのう塤のむすめきょうゆずるおうはは国大こくだいおう)。そのため、1391ねんやすしやすし諡号しごうけた。
    • 三男さんなんちゅうせんおう おうあきら - ははそうきよしおうきさき
    • 四男よつお名前なまえしょう1278ねん~?)- ははそうきよしおうきさき早世そうせい
    • 長女ちょうじょやすしやすしいんなま没年ぼつねんしょう)- ははさだしんぬしひとしあんこうおうよしとついだ(おっとは23だいこうはじめ外孫そとまご)。
    • 次女じじょあかりじゅんいん(?~1320ねん)- ははさだしんぬしかんおおやけおう儇にとつぎ、1なんかつらようこうおう侊)をもうけた(おっとやすけいこうおう淐ので、あねやすしやすしいんおっと従兄弟いとこでもある)。
    • さんじょ名前なまえしょう1277ねん~?)- ははそうきよしおうきさき早世そうせい

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ひとし国大こくだいちょう公主こうしゅ。『もとまき109・しょ公主こうしゅひょうでは「ひとし国大こくだいちょう公主こうしゅゆるがせ魯堅迷失」とある。そうきよしおうきさき。『高麗こうらいまき89・后妃こうひでんまき2によると、皇帝こうていクビライとおもねはやあつしという皇后こうごうとのむすめ生母せいぼであるおもねはやあつしについては、現在げんざいしゅう』クビライ・カアン記載きさいされているクビライのだい8皇子おうじアヤチ(アバチ)とだい9皇子おうじココチュの生母せいぼであったフーシン部族ぶぞくボロクルムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンのよん駿しゅん(Dörben Külü'üd)」のひとり)のむすめ、フウシジン皇后こうごう Hūshījīn Khātūn との比定ひていこころみられているが、確定かくていにはいたっていない。(森平もりだいら雅彦まさひこ高麗こうらい王家おうけとモンゴル皇族こうぞくつうこん関係かんけいかんする覚書おぼえがき」『東洋とうよう研究けんきゅう』67-3、2008ねんきゅうはじめやすおおやけ絪娘 貞和さだかずみやぬしよしあきらいんであるが、そうきよしおうきさきとの婚姻こんいんにはおうきゅう近寄ちかよらなくなったという。(『高麗こうらいまき89・后妃こうひでんまき2「貞和さだかずぬしじょうおよび「よしあきらいんじょう
  2. ^ 高麗こうらい』に詳細しょうさい記述きじゅつされている。『高麗こうらいまき27・せい27・元宗もとむね3 げんむねじゅうさんねん がつおのれ じょう中書ちゅうしょしょう牒に世子せいしおう諶の言葉ことばに、「われ父子ふししょうつぎあさ覲、とくこうむおんなだめしょう邦人ほうじんみんとくたもてのこ噍、かん戴之まことげん不可ふかすんで。諶連ねんにゅう覲、まいすめらぎおん区区くくちゅうえききり致効。おもんみかれ日本にっぽんこうむきよしはつみことのり使つぎ耀軍よう戦艦せんかん兵糧ひょうろうほう在所ざいしょ須。儻以此事しん庶幾しょきつとむつき心力しんりょくしょうじょ王師おうし
    高麗こうらいまき29・せい29・ただしれつおう6 ちゅうれつおうろくねんはちがつからし乙未おとみ1280ねん9月17にち - 21にちじょうからし公主こうしゅえんあいきばあか于新殿どのおう至上しじょうときみかどざい闍干兀。おうとげ如行ざい乙未おとみ:謁帝。みかどえんおう、仍命したがえしん赴宴。さきおう使ぼくよしそう曰:『東征とうせいことしん入朝にゅうちょう禀旨』。みかどもと
  3. ^ a b 高麗こうらいまき104・列伝れつでん17・きんかたけいでん「(元宗もとむねじゅうねんみかどよくただし日本にっぽんみことのりかたけいあずかちゃおかかんづくり戦艦せんかん造船ぞうせんわか蛮様、のり工費こうひはた及期、一国いっこくこれほうけいためひがし南道みなみどうとく使さきいたぜんひと咨受しょうげきよう本国ほんごくせんさまとくづくり
  4. ^ もとまき12・本紀ほんぎ12・せい本紀ほんぎ9 いたりもとじゅうきゅうねんなながつみずのえいぬ(1282ねん8がつ9にちじょう高麗こうらい国王こくおう請自造船ぞうせんひゃくじゅうそうじょせい日本にっぽん
  5. ^ いちれいとして『高麗こうらいまき16・せい28・ただれつおう1 ちゅうれつおう元年がんねんふゆじゅうがつみずのえ1275ねん11月4にちじょうに「みずのえ:以将けんじ処女しょじょ于元、きんこくちゅうこんよめ」とあり、ただしれつおう元年がんねん10がつ元朝がんちょう処女しょじょけんずるためこくちゅう婚姻こんいん一時いちじきんじている。また、どうじゅういちがつみずのと同年どうねん11がつ25にちじょうに「みずのと僉議賛成さんせいごと兪千ぐう、如元賀正がしょうつげあらため官制かんせいけんじ処女しょじょじゅうにん」とあり、元朝がんちょう宮廷きゅうていへの賀正がしょう使として僉議賛成さんせいごとの兪千ぐう派遣はけんし、官制かんせいあらためたことを報告ほうこくし、あわせて処女しょじょ 10にんけんじたことをしるしている。
  6. ^ a b ちゅうれつおう後述こうじゅつのように即位そくいまえしつ(トルカク)としてされたクビライの宮廷きゅうていにてケシク一員いちいんとして近侍きんじしていたため、モンゴルじんおな服装ふくそう髪型かみがたをしていた。そのため、『高麗こうらい』によれば、かれこううらら帰着きちゃくしたときにその容姿ようしをみた高麗こうらい廷臣ていしんたちは、「国人くにびと世子せいし弁髪べんぱつえびすふくみな歎息たんそくして、ものすらあるにいたる。」(『高麗こうらいまき27・せい27・元宗もとむね3 げんむねじゅうさんねんがつおのれがつおのれ世子せいし諶還もとみかどだんごとかんはなうま絳等偕来(中略ちゅうりゃく) 国人くにびと見世みせ辮髪べんぱつえびすふくみな歎息たんそくいたりゆう泣者」)とべている。これはかれ自身じしんがモンゴル宮廷きゅうていでの庶務しょむ従事じゅうじする必要ひつようじょう、モンゴル宮廷きゅうてい慣習かんしゅうしたがっていただけであったが、当初とうしょ高麗こうらい宮廷きゅうていでは王国おうこく後継こうけいしゃがモンゴルじんおな恰好かっこうをしていたことは歓迎かんげいされていなかった。
  7. ^ 婚姻こんいん年月としつき不明ふめいだが、このそときむりょうかんむすめよしあきらいんとしてとしている
  8. ^ 禿かぶろ魯花ではないが、実質じっしつ人質ひとじち禿かぶろ魯花とはモンゴルの「トルカ(torγがんまa)、トルカク(torγがんまaq)」のおとうつしで「人質ひとじち」のことをう。モンゴルの習慣しゅうかんでは譜代ふだい諸侯しょこうやモンゴル帝国ていこく臣従しんじゅうするしょ地域ちいき王侯おうこう貴族きぞくたいしてモンゴル宮廷きゅうていにその子弟してい人質ひとじちとして習慣しゅうかんがあり、これらの人質ひとじちたちはおおくの場合ばあい、モンゴル皇帝こうてい王族おうぞくたちの宮廷きゅうてい親衛しんえい組織そしきであるケシク要員よういんとしてにゅうさむらいさせていた。ちゅうれつおうもこの時期じきクビライのもとでケシクの一員いちいんとして庶務しょむ従事じゅうじしていた。ちゅうれつおう以降いこう世子せいし禿かぶろ魯花となってもとだいくのが通例つうれいとなった
  9. ^ 高麗こうらいまき27・せい27・元宗もとむね3 げんむねじゅうさんねん がつおのれ じょう中書ちゅうしょしょう牒に世子せいし 諶の言葉ことばに、「われ父子ふししょうつぎあさ覲、とくこうむおんなだめしょう邦人ほうじんみんとくたもてのこ噍、かん戴之まことげん不可ふかすんで。諶連ねんにゅう覲、まいすめらぎおん区区くくちゅうえききり致効。おもんみかれ日本にっぽんこうむきよしはつみことのり使つぎ耀軍よう戦艦せんかん兵糧ひょうろうほう在所ざいしょ須。儻以此事しん庶幾しょきつとむつき心力しんりょくしょうじょ王師おうし」(おもんみかれ日本にっぽんのみ、すえだにひじりこうむらず。ゆえみことのり使はっし、いでぐんよう耀かがやかし、戦艦せんかん兵糧ひょうろうかたに須むるしょり。もしこのこともっしんゆだねぬれば、つとめて心力しんりょくくし、しょうしく王師おうしたすくるに庶幾しょきからん)
  10. ^ 40さい未満みまんきんないがくかんきんない秘書ひしょかん翰林かんりんなどの文官ぶんかん)に漢語かんご敎育きょういくおこなうほか 翻訳ほんやくつかさど部門ぶもんふとし2ねん(1393ねん)にはそれがつかさやくいん改称かいしょうされる
  11. ^ 高麗こうらいまき28・せい28・ただしれつおう1 ちゅうれつおうよんねんがつへい 「(ただしれつおうよんねんがつへいれい境内けいだいみなふくじょうこく衣冠いかん。」/『高麗こうらいまき72・こころざし26・輿こしふく「(ただしれつおうよんねんがつれい境内けいだいみなふくじょうこく衣冠いかんひらけこうむ古俗こぞくいただきいたりがくかた其形とめかみ其中。いいひらけとき宰相さいしょういたり下僚かりょうひらけただきんないがくかんひだりうけたまわむねぼくひさしよび執事しつじかんさとしこれ。於是學生がくせいみな。」 このれいあかりふとしひろしたけ元年がんねん(1387ねん)のだいみん衣冠いかんまで継続けいぞくするので109年間ねんかんこうむ古風こふう弁髮べんぱつえびすふく高麗こうらいしんかん学生がくせいはしていたことになる。
  12. ^ 1287ねんから1292ねんにかけて現在げんざい中国ちゅうごく東北とうほくから高麗こうらい全域ぜんいきんだ内乱ないらん事件じけんである、いわゆるナヤン・カダアンのらんのうち、叛乱はんらん後期こうき抵抗ていこうつづけたカチウンいえ王族おうぞくカダアンのこと。1287ねんにチンギス・カンしょおとうとである東方とうほうさん王家おうけ首班しゅはんテムゲ・オッチギンいえ当主とうしゅナヤンがクビライ政権せいけんたい東方とうほうさん王家おうけ王族おうぞくたちをひきいて叛乱はんらんこしたが、クビライのおやせいぐんによって鎮圧ちんあつされた。しかし、クビライの東方とうほうさん王家おうけたいする戦後せんご処理しょり不服ふふくをもったカチウン長老ちょうろうカダアンは息子むすこのラオデイとともに東北とうほくしょ地域ちいき転戦てんせんしてなおも抵抗ていこうつづけた。1290年代ねんだいには高麗こうらい東部とうぶしょしろ占拠せんきょするにいたったが、1292ねん増派ぞうはされた皇孫こうそんテムルぐん高麗こうらいこく連合れんごうぐんによる迎撃げいげきけてかもみどりこう上流じょうりゅうはいした。(杉山すぎやま正明まさあき『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼうした) 世界せかい経営けいえい時代じだい講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ1307、1996ねん6がつ20日はつか、p.152-160。)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 杉山すぎやま正明まさあき『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼうした) 世界せかい経営けいえい時代じだい講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ1307、1996ねん6がつ20日はつか
  • 武田たけだ幸男ゆきおへんやく高麗こうらい日本にっぽんでん - 朝鮮ちょうせん正史せいし日本にっぽんでん - 』ぜんさつ岩波いわなみ文庫ぶんこ、2005ねん5がつ17にち
  • もりたいら雅彦まさひこ元朝がんちょうケシク制度せいど高麗こうらい王家おうけこううららもと関係かんけいにおける禿かぶろ魯花の意義いぎ関連かんれんして」『史学しがく雑誌ざっし』110-2、2001ねん2がつ史学しがくかい
  • もりたいら雅彦まさひこ高麗こうらい王家おうけとモンゴル皇族こうぞくつうこん關係かんけいかんする覺書おぼえがき (特集とくしゅう ひがしアジアなかでの韓國かんこく朝鮮ちょうせん)」『東洋とうよう研究けんきゅうだい67かんだい3ごう東洋とうよう研究けんきゅうかい、2008ねん12月、363-401ぺーじdoi:10.14989/152117NAID 40016449497 


関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]