忠 烈 王
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1274 1298 | |
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(1236 | |
(1308 | |
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ハングル: | 충렬왕 |
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チュンニョルワン | |
ちゅうれつおう | |
King Chungnyeol |
略歴 と関連 年表 [編集 ]
- 1236
年 江 都 にて元 宗 と順 敬 太 后 金 氏 の間 の長男 として生 まれる。 - 1256
年 - 11月
宗室 の始 安 公 王 絪の娘 を妃 とする(貞 信 府 主 )。[7]
- 11月
- 1258
年 - 1260
年 - 8
月 世子 となる。
- 8
- 1269
年 - 4
月 世子 (後 の忠 烈 王 )、モンゴルに入朝 。
- 4
- 1270
年 - 1271
年 - 1272
年 - 1273
年 - 1274
年 - 1275
年 - 1276
年 - 1277
年 - 1
月 王子 の王 謜を世子 に冊立 する。 - 7
月 公主 による国王 殴打 事件 が起 きる。 - 12月
金 方 慶 誣告 事件 が起 きる。
- 1
- 1278
年 - 1279
年 - 1280
年 - 2
月 忻都、洪 茶 丘 が日本 への諭 使 の杜 世 忠 の斬殺 を理由 に早期 の出兵 を提案 するが、クビライは南 宋 の降 兵 と戦艦 が整 わないためこれを退 ける。 - 6
月 クビライ、范文虎 と討議 し江南 降 兵 を用 いた再 征 軍 の再編 を進 めさせる。 - 8
月 忠 烈 王 、入朝 。クビライ、日本 遠征 に参加 する諸 将 を招集 し、遠征 の基本 方針 を決 める。併 せて日本 遠征 の征 日本 行 中書 省 が設置 され、忻都・洪 茶 丘 ・范文虎 の三 名 は同行 省 の中書 右 丞 に任命 される。忠 烈 王 、クビライに謁見 して日本 遠征 について7つの希望 条項 を上奏 し、クビライこれを受 け入 れる。 - 9
月 開 京 に帰還 する。 - 10
月 忠 烈 王 、「開府 儀 同 三 司 ・中書 左 丞相 ・行 中書 省 事 」の官位 を授 かる。 - 11月
元朝 に使者 を発 し、兵船 九 百 艘 など準備 が完了 した事 を報告 する。また、忠 烈 王 が征 東 行 省 の長官 のひとりに加 えること、金 方 慶 など高麗 の将兵 にもモンゴル軍 なみの官位 称号 の授与 などを要請 する。
- 2
- 1281
年 弘安 の役 - 1
月 クビライ、阿 剌罕(アラカン)・忻都・洪 茶 丘 ・范文虎 らを招集 し日本 への出征 命令 を下 す。 - 2月
諸 将 、燕 京 を出発 。下旬 、金 方 慶 が開 京 に帰還 しクビライの命令 を伝達 。 - 3月16
日 金 方 慶 らを合浦 に派遣 する。 - 3月18
日 忻都・洪 茶 丘 が遠征 軍 を率 いて到着 する。 - 3月19
日 忠 烈 王 、クビライからの「駙馬国王 」の宣命 と「中書 左 丞 行 中書 省 事 」の印 を受 け取 る。 - 3月20
日 忠 烈 王 、忻都・洪 茶 丘 と遠征 について討議 する。忠 烈 王 南面 し、忻都ら東 面 する。忻都ら合浦 へ出発 する。 - 4
月 忠 烈 王 、合浦 に行幸 する。 - 5月3
日 忻都・洪 茶 丘 ・金 方 慶 ら率 いる東路 軍 、合浦 より日本 へ向 けて出征 する。 - 7
月 16日 忠 烈 王 、合浦 より帰還 する。 - 7
月 21日 金 方 慶 らから太宰府 での戦 報 を受 ける。 - 8
月 16日 別 将 の金 洪 柱 が合浦 より行宮 に至 り、東征 軍 の敗報 と金 方 慶 らが合浦 に帰還 したことを告 げる。 閏 8月 2日 金 方 慶 が行宮 にて謁する。閏 8月 24日 忠 烈 王 、左 司 議 の潘 阜を派遣 し忻都・洪 茶 丘 ・范文虎 を慰労 する。忻都ら北 還 する。
- 1
- 1282
年 - 1
月 元朝 、征 東 行 省 を解散 する。
- 1
- 1287
年 - 5月 ナヤンの
叛乱 に抗 するため征 東 行 尚書 省 が設置 され、忠 烈 王 が同行 省 の第 3位 である平 章 政事 に任命 される。
- 5月 ナヤンの
- 1290
年 - 1291
年 元 ・高麗 連合 軍 、高麗 領内 に侵入 したカダアン一派 を鎮圧 。- 5
月 忠 烈 王 、開 京 に帰還 。
- 1297
年 - 5月
公主 クトゥルク=ケルミシュ、死去 。「荘 穆 王 后 」と追 尊 される。
- 5月
- 1298
年 忠 宣 王 に譲位 したが、趙 妃 誣告 事件 により6カ月 ぶりに復位 。 - 1308
年 忠 烈 王 、死去 。
家族 関係 [編集 ]
父 :元宗 母 :静 順 王 后 (順 敬 太 后 )金 氏 后妃 子女 長男 :小 君 王 湑(1258年 ~?)-母 は盤 珠 。1276年 に出家 し僧侶 となる。次男 :江陽 公 王 滋 (?~1308年 )-母 は貞 信 府 主 。恭 譲 王 の母方 の曾祖父 である(三男 の延徳 府 院 大 君王 塤の娘 が恭 譲 王 の母 の国大 妃 王 氏 )。その為 、1391年 に靖 康 と諡号 を受 けた。三男 :忠 宣 王 王 璋 -母 は荘 穆 王 后 。四男 :名前 不 詳 (1278年 ~?)-母 は荘 穆 王 后 。早世 。長女 :靖 寧 院 妃 (生 没年 不 詳 )-母 は貞 信 府 主 。斉 安 公 王 淑 に嫁 いだ(夫 は23代 高 宗 の外孫 )。次女 :明 順 院 妃 (?~1320年 )-母 は貞 信 府 主 。漢 陽 公 王 儇に嫁 ぎ、1男 (桂 陽 侯 王 侊)を儲 けた(夫 は安 慶 公 王 淐の子 で、姉 の靖 寧 院 妃 の夫 の従兄弟 でもある)。三 女 :名前 不 詳 (1277年 ~?)-母 は荘 穆 王 后 。早世 。
登場 作品 [編集 ]
テレビドラマ[編集 ]
脚注 [編集 ]
- ^
斉 国大 長 公主 。『元 史 』巻 109・諸 公主 表 では「斉 国大 長 公主 忽 都 魯堅迷失」とある。後 の荘 穆 王 后 。『高麗 史 』巻 89・后妃 伝 巻 2によると、皇帝 クビライと阿 速 真 可 敦 という皇后 との娘 。生母 である阿 速 真 可 敦 については、現在 『集 史 』クビライ・カアン紀 に記載 されているクビライの第 8皇子 アヤチ(アバチ)と第 9皇子 ココチュの生母 であったフーシン部族 のボロクル(ムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四 駿 (Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘 、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定 が試 みられているが、確定 には至 っていない。(森平 雅彦 「高麗 王家 とモンゴル皇族 の通 婚 関係 に関 する覚書 」『東洋 史 研究 』67-3、2008年 )旧 妃 は始 安 公 絪娘貞和 宮 主 と淑 昌 院 妃 であるが、荘 穆 王 后 との婚姻 後 には王 は旧 妃 に近寄 らなくなったという。(『高麗 史 』巻 89・后妃 伝 巻 2「貞和 府 主 」条 および「淑 昌 院 妃 」条 ) - ^ 『
高麗 史 』に詳細 に記述 されている。『高麗 史 』巻 27・世 家 27・元宗 世 家 3元 宗 十 三 年 二 月 己 亥 条 の中書 省 牒に載 る世子 王 諶の言葉 に、「吾 父子 相 継 朝 覲、特 蒙 恩 宥 、小 邦人 民 、得 保 遺 噍、感 戴之誠 、言 不可 既 。諶連年 入 覲、毎 荷 皇 恩 、区区 之 忠 、益 切 致効。惟 彼 日本 、未 蒙 聖 化 、故 発 詔 使 、継 耀軍容 、戦艦 兵糧 、方 在所 須。儻以此事委 臣 、庶幾 勉 尽 心力 、小 助 王師 」
『高麗 史 』巻 29・世 家 29・忠 烈 王 世 家 6忠 烈 王 六 年 八 月 辛 卯 〜乙未 (1280年 9月17日 - 21日 )条 「辛 卯 :公主 宴 愛 牙 赤 于新殿 。王 至上 都 。時 帝 在 闍干那 兀。王 遂 如行在 。乙未 :謁帝。帝 宴 王 、仍命従 臣 赴宴。先 是 、王 使 朴 義 奏 曰:『東征 之 事 、臣 請入朝 禀旨』。帝 許 之 」 - ^ a b 『
高麗 史 』巻 104・列伝 17・金 方 慶 伝 「(元宗 )十 五 年 、帝 欲 征 日本 、詔 方 慶 与 茶 丘 、監 造 戦艦 。造船 若 依 蛮様、則 工費 多 、将 不 及期、一国 憂 之 。方 慶 為 東 南道 都 督 使 、先 到 全 羅 、遣 人 咨受省 檄 、用 本国 船 様 督 造 」 - ^ 『
元 史 』巻 12・本紀 12・世 祖 本紀 9至 元 十 九 年 七 月 壬 戌 (1282年 8月 9日 )条 「高麗 国王 請自造船 百 五 十 艘 、助 征 日本 」 - ^
一 例 として『高麗 史 』巻 16・世 家 28・忠 列 王 1忠 烈 王 元年 冬 十 月 壬 子 (1275年 11月4日 )条 に「壬 子 :以将献 処女 于元、禁 国 中 婚 嫁 」とあり、忠 烈 王 元年 10月 に元朝 に処女 を献 ずるため国 中 で婚姻 を一時 禁 じている。また、同 十 一 月 癸 未 (同年 11月 25日 )条 に「癸 未 :遣 僉議賛成 事 兪千遇 、如元賀正 、告 改 官制 、献 処女 十 人 」とあり、元朝 宮廷 への賀正 使 として僉議賛成 事 の兪千遇 を派遣 し、官制 改 めたことを報告 し、併 せて処女 10人 を献 じたことを記 している。 - ^ a b
忠 烈 王 は後述 のように即位 前 に質 子 (トルカク)として出 されたクビライの宮廷 にてケシクの一員 として近侍 していたため、モンゴル人 と同 じ服装 や髪型 をしていた。そのため、『高麗 史 』によれば、彼 が高 麗 に帰着 したときにその容姿 をみた高麗 の廷臣 たちは、「国人 、世子 の弁髪 ・胡 服 を見 、皆 な歎息 して、泣 く者 すらあるにいたる。」(『高麗 史 』巻 27・世 家 27・元宗 世 家 3元 宗 十 三 年 二 月 己 亥 「二 月 己 亥 、世子 諶還自 元 、帝 遣 断 事 官 不 花 ・馬 絳等偕来(中略 )国人 見世 子 辮髪 胡 服 、皆 歎息 、至 有 泣者」)と述 べている。これは彼 自身 がモンゴル宮廷 での庶務 に従事 する必要 上 、モンゴル宮廷 の慣習 に従 っていただけであったが、当初 、高麗 宮廷 では王国 の後継 者 がモンゴル人 と同 じ恰好 をしていたことは歓迎 されていなかった。 - ^
婚姻 の年月 は不明 だが、この外 に金 良 鑑 の娘 を淑 昌 院 妃 として妃 としている - ^
禿 魯花ではないが、実質 の人質 。禿 魯花とはモンゴル語 の「トルカ(torγ a)、トルカク(torγ aq)」の音 写 で「人質 」のことを言 う。モンゴルの習慣 では譜代 諸侯 家 やモンゴル帝国 に臣従 する諸 地域 の王侯 貴族 に対 してモンゴル宮廷 にその子弟 を人質 として出 す習慣 があり、これらの人質 たちは多 くの場合 、モンゴル皇帝 や王族 たちの宮廷 で親衛 組織 であるケシクの要員 として入 侍 させていた。忠 烈 王 もこの時期 クビライのもとでケシクの一員 として庶務 に従事 していた。忠 烈 王 以降 の世子 は禿 魯花となって元 の大 都 に行 くのが通例 となった - ^ 『
高麗 史 』巻 27・世 家 27・元宗 世 家 3元 宗 十 三 年 二 月 己 亥 条 の中書 省 牒に載 る世子 諶の言葉 に、「吾 父子 相 継 朝 覲、特 蒙 恩 宥 、小 邦人 民 、得 保 遺 噍、感 戴之誠 、言 不可 既 。諶連年 入 覲、毎 荷 皇 恩 、区区 之 忠 、益 切 致効。惟 彼 日本 、未 蒙 聖 化 、故 発 詔 使 、継 耀軍容 、戦艦 兵糧 、方 在所 須。儻以此事委 臣 、庶幾 勉 尽 心力 、小 助 王師 」(惟 だ彼 の日本 のみ、末 だに聖 化 を蒙 らず。故 に詔 使 を発 し、継 いで軍 容 を耀 かし、戦艦 ・兵糧 は方 に須むる所 在 り。もしこの事 を以 て臣 に委 ぬれば、勉 めて心力 を尽 くし、小 しく王師 を助 くるに庶幾 からん) - ^ 40
歳 未満 の禁 内 学 官 (禁 内 の秘書 ・史 館 ・翰林 などの文官 )に漢語 敎育 を行 なう他 翻訳 を司 る部門 。太 祖 2年 (1393年 )にはそれが司 訳 院 と改称 される - ^ 『
高麗 史 』巻 28・世 家 28・忠 烈 王 世 家 1忠 烈 王 四 年 二 月 丙 子 「(忠 烈 王 四 年 二 月 )丙 子 :令 境内 皆 服 上 國 衣冠 。」/『高麗 史 』巻 72・志 26・輿 服 「(忠 烈 王 )四 年 二 月 :令 境内 、皆 服 上 國 衣冠 開 剃 。蒙 古俗 、剃 頂 至 額 方 其形留 髮 其中。謂 之 開 剃 。時 自 宰相 、至 下僚 、無 不 開 剃 。唯 禁 内 學 館 不 剃 。左 承 旨 朴 恒 呼 執事 官 諭 之 。於是學生 皆 剃 。」 この令 は明 の太 祖 の洪 武 元年 (1387年 )の大 民 之 衣冠 まで継続 するので109年間 、蒙 古風 の弁髮 ・胡 服 を高麗 の臣 官 、学生 はしていたことになる。 - ^ 1287
年 から1292年 にかけて現在 の中国 東北 部 から高麗 全域 を巻 き込 んだ内乱 事件 である、いわゆるナヤン・カダアンの乱 のうち、叛乱 後期 に抵抗 を続 けたカチウン家 の王族 カダアンのこと。1287年 にチンギス・カン諸 弟 家 である東方 三 王家 の首班 テムゲ・オッチギン家 の当主 ナヤンがクビライ政権 に対 し東方 三 王家 の王族 たちを率 いて叛乱 を起 こしたが、クビライの親 征 軍 によって鎮圧 された。しかし、クビライの東方 三 王家 に対 する戦後 処理 に不服 をもったカチウン家 の長老 カダアンは息子 のラオデイとともに東北 部 の諸 地域 を転戦 してなおも抵抗 を続 けた。1290年代 には高麗 東部 の諸 城 を占拠 するに至 ったが、1292年 に増派 された皇孫 テムルの軍 や高麗 国 の連合 軍 による迎撃 を受 けて鴨 緑 江 の上流 部 で敗 死 した。(杉山 正明 『モンゴル帝国 の興亡 (下 )世界 経営 の時代 』講談社 現代新書 1307、1996年 6月 20日 、p.152-160。)
参考 文献 [編集 ]
杉山 正明 『モンゴル帝国 の興亡 (下 )世界 経営 の時代 』講談社 現代新書 1307、1996年 6月 20日 。武田 幸男 編 訳 『高麗 史 日本 伝 -朝鮮 正史 日本 伝 - 』全 二 冊 、岩波 文庫 、2005年 5月 17日 。森 平 雅彦 「元朝 ケシク制度 と高麗 王家 ―高 麗 ・元 関係 における禿 魯花の意義 に関連 して」『史学 雑誌 』110-2、2001年 2月 、史学 会 。森 平 雅彦 「高麗 王家 とモンゴル皇族 の通 婚 關係 に關 する覺書 (特集 東 アジア史 の中 での韓國 ・朝鮮 史 )」『東洋 史 研究 』第 67巻 第 3号 、東洋 史 研究 会 、2008年 12月、363-401頁 、doi:10.14989/152117、NAID 40016449497。
関連 項目 [編集 ]
外部 リンク[編集 ]
高麗 史 16 (奎章閣 韓国 ソウル大学 韓国 学 研究 院 高麗 史 )高麗 史 、高麗 列伝 (国会図書館 近代 デジタルライブラリ)元 史 台湾 中山 大学 歴史 伝記 - 'クビライ
牛 年 (1277-1289)聖旨 (1)のパスパ文字 '吉池 孝一 古代 文字 資料 館 発行 『KOTONOHA』35号 (2005年 10月 ) 高麗 王 の対 元 政策 服飾 政策 の関係 研究