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仁宗 (高麗王) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ひとしそう (高麗こうらいおう)

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じんむね おう
こううらら
だい17だい国王こくおう
きたそうせん5ねん(1123ねん),きゅうごとちゅうみちまことすすむ中国語ちゅうごくごばんこううらら使節しせつとして派遣はけんされ、高麗こうらいじんむね謁見えっけんした。
王朝おうちょう こううらら
在位ざいい期間きかん 1122ねん5月15にち - 1146ねん4がつ10日とおか
諡号しごう かつあんきょうこう大王だいおう
びょうごう じんむね
生年せいねん いぬいみつる9ねん10月4にち
1109ねん10月29にち
没年ぼつねん 皇統こうとう6ねん2がつ28にち
1146ねん4がつ10日とおか
ちち 睿宗
はは 順徳じゅんとくおうきさき
陵墓りょうぼ ちょうりょう
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じんむね(じんそう、1109ねん10月29にち - 1146ねん4がつ10日とおか)はだい17だいこううららおう在位ざいい1122ねん - 1146ねん)。せいおういみなは楷、諡号しごうかつあんきょうこう大王だいおう睿宗だいいち王子おうじはは順徳じゅんとくおうきさきけんさんじょはいよんじょはいきょう睿王きさきつとむせんたいらおうきさききん

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1115ねんけん推挙すいきょ太子たいしさつふうされ、1122ねんにはけんによって擁立ようりつされ即位そくいした。

けんじんむねはは順徳じゅんとくおうきさきちちでありながら、自分じぶん外孫そとまごたるひとしむね自分じぶんさんじょよめれておうきさき冊立さくりつしてさらつよ権力けんりょく行使こうししようとした。じんむね立場たちばると、自分じぶん自身じしん叔母おば結婚けっこんしていたのであった。そんなじんむねは、母方ははかた祖父そふ義父ぎふであるけん対立たいりつしていた。けん自分じぶんあらが外孫そとまご毒殺どくさつするつもりでおうきさきどくりのもちげて、ひとしむね毒殺どくさつせよとめいじたのだが、おうきさきおいでありながらおっとでもあるじんむねすべてを告白こくはくしておっといのちすくい、その直後ちょくごけんによって廃位はいいされたのち都城みやこのじょうから追放ついほうされた。そのけん国王こくおう母方ははかた祖父そふであるため失脚しっきゃくめんじて自身じしんよんじょをまたじんむねおうきさき冊立さくりつさせて国王こくおう権威けんい利用りようして専横せんおう躊躇ちゅうちょしなかった。

1126ねんけんがついに叛乱はんらんこしてじんむねを弑害しようとしたが、そのときにもおっとすくおうとしたおうきさきさくによって失敗しっぱいし、けんすべての権力けんりょく財産ざいさん官爵かんしゃく没収ぼっしゅうされ国王こくおう毒殺どくさつ嫌疑けんぎ霊光れいこうぐん流刑りゅうけいとなった。叛乱はんらんわったのだが、国王こくおういのちすくったおうきさき以前いぜん廃位はいいされたあねおなじくはいになってしまった[1]1127ねんにはかく地方ちほうしゅうけん学校がっこう設立せつりつして、教育きょういくちからかたむけた。このとしきょう睿王きさきあいだあつしむねまれる。

1135ねんひとしむねたたえみかどけんもと主張しゅちょうしたみょうきよし西京にしぎょう現在げんざい平壌ぴょんやん遷都せんと運動うんどうをきっかけとして発生はっせいしたみょうきよしらんときは、『さん国史こくし』の著者ちょしゃ有名ゆうめい金富かなとみそう征討せいとう大将たいしょうにんじて反乱はんらん平定へいていし、遷都せんと反対はんたいぶんしん勝利しょうりした。

きむそうとの外交がいこう交易こうえきにも注力ちゅうりょくした。1145ねん金富かなとみ軾に『さん国史こくし』の執筆しっぴつかるようにめいじたが、 完成かんせいられずに在位ざいい24年間ねんかん逝去せいきょした。りょう開城かいじょうちょうりょうである。

家族かぞく[編集へんしゅう]

后妃こうひ

  • はい 延徳えんとくみやぬし(1139ねんぼつ)- けんさんじょで、ひとしむねははいもうと
  • はい ぶくあきら院主いんじゅ(1195ねんぼつ)- けんよんじょで、ひとしむねははいもうと
  • きょう睿王きさき つとむ(1109ねん~1183ねん)- 中書ちゅうしょれいにんもとあつむすめ
    • 長男ちょうなんあつしむね
    • 次男じなんだいやすしこう おう
    • 三男さんなんあかりむね
    • 四男よつおもとけい国師こくし おう冲曦
    • 五男いつおかみはじめ
    • 長女ちょうじょうけたまわけい公主こうしゅ
    • 次女じじょとくやすし公主こうしゅ
    • さんじょあきららく公主こうしゅ
    • よんじょ永和えいわ公主こうしゅ
  • せんたいらおうきさき きん(1178ねんぼつ)- 兵部ひょうぶ尚書しょうしょきん璿のむすめ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 高麗こうらいまき88 列傳れつでん1 后妃こうひ1 はい
    はい,へりくだだいよんじょ,けん不軌ふき,おけどくもちちゅう以進,みつ白王しらおう,以餅とうがらす,がらす斃. またおく毒藥どくやく,れいしん于王,ささげわん,而覆. けんはい,また以諫かんげん,はい,おうねんくつがえわんこう,たまものたく奴婢ぬひ,おん眷甚あつ. あつしあきら二王におう,またこと謹. あかりむねじゅうねんそつ,そう以后れい.