かん城府じょうふ

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かん城府じょうふ
1894ねんかん城府じょうふ
位置いち
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル: 한성부
漢字かんじ: かん城府じょうふ
日本語にほんご仮名がな: かんじょうふ
片仮名かたかな転写てんしゃ: ハンソンブ
マ字まじ転写てんしゃ (MR): Hanseongbu
統計とうけい
行政ぎょうせい
くに:  朝鮮ちょうせん
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かん城府じょうふ(かんじょうふ、ハンソンブ)は、朝鮮ちょうせん首都しゅとであり、統治とうちしていた機関きかん名前なまえ以前いぜんかんきょう城府じょうふ現在げんざい韓国かんこくソウル特別とくべつ

概要がいよう[編集へんしゅう]

1394ねん11月26にち旧暦きゅうれき10がつ)、朝鮮ちょうせんふとし成桂せいけいによりひらききょう開城かいじょう)からかんへと遷都せんとされ、1395ねんふとし4ねん)6がつ6にちかんあらたかん城府じょうふとした。遷都せんと宮殿きゅうでん官庁かんちょうてられた地域ちいき住人じゅうにんみるしゅううつし、楊州ぐんとした。15世紀せいきはじめの人口じんこうは10まんにん程度ていど

ふとしかん防衛ぼうえいのためにきた岳山たけやま駱山南山みなみやまじん旺山むすやく17kmの城壁じょうへきてた。1395ねんにはかんじょう範囲はんいを「宮城みやぎ」の「しろそこ」とし、それがちょう時代じだいの500年間ねんかん使用しようされた。宮城みやぎないはすべてが国有こくゆうであり、宮殿きゅうでん官庁かんちょう道路どうろ下水道げすいどう市場いちばなどの場所ばしょめられていた。また、しろがい範囲はんいとしてしろそこ城壁じょうへきから四方しほう10さとすが、きたきたかんやまみなみ漢江かんこうわたりひがしは楊州松溪まつたにいんだい[1]ちゅうなみうら西にしは楊花わたりこうとくすいいん[2]沙川さがわ沿ってらんしばとう付近ふきんとされた。

2005ねんころまで中国語ちゅうごくごけんにおけるソウルの漢字かんじ表記ひょうきとして「かんじょう」がもちいられていた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

行政ぎょうせい区画くかく[編集へんしゅう]

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都城みやこのじょうには、東西とうざい南北なんぼく中部ちゅうぶと、そのしたぼうちぎりほらかれた。『大東だいとう地誌ちし』による各部かくぶぼうめい以下いかとおり。

  • 東部とうぶ 12ぼう:つばめぼうたかしきょうぼういずみいたるぼうあきらぜんぼう建徳けんとくぼう徳成とくなりぼう瑞雲ずいうんぼう蓮花れんげぼうたかししんぼう仁昌ひとあきぼうかんとくぼうおきもりぼう
  • 南部なんぶ 14ぼう:広通ひろみちぼうかいけんぼうあきられいぼう太平おうひらぼう薫陶くんとうぼうまことあかりぼうらくぜんぼう貞心ていしんぼう明哲めいてつぼうまことぼうれいなりぼうたむろぼうまめぼう漢江かんこうぼう
  • 西部せいぶ 10ぼう:じんたちぼう積善せきぜんぼう余慶よけいぼうすめらぎはなぼう養生ようじょうぼう盤石ばんじゃくぼう神化しんかぼうばんまつぼう龍山たつやまぼう西にしこうぼう
  • 北部ほくぶ 10ぼう:ひろぼうとくぼうよしみかいぼう安国やすくにぼう観光かんこうぼう・鎭長ぼう順化じゅんかぼう明通あけどおりぼう俊秀しゅんしゅうぼうどおりぼう
  • 中部ちゅうぶ 8ぼう:さだぜんぼうけいこうぼう寬仁かんじんぼう寿ことぶきすすむぼうきよししんぼう長通ながどおりぼうみず麟坊・けんひらぼう

じゅうさんせいによる行政ぎょうせい区画くかく[編集へんしゅう]

ギャラリー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ げんうし耳川みみがわ
  2. ^ げんたかがんほら