りょ

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りょ (りょ ふい、拼音: Lǚ Bùwéi、? - 紀元前きげんぜん235ねん)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいはた政治せいじそうじょうおう王位おういにつけることに尽力じんりょくし、しんおう権力けんりょく相国しょうこくとして権勢けんせいるった。そうじょうおうにより、文信ふみのぶこう(ぶんしんこう)にふうじられた。始皇帝しこうてい実父じっぷとするせつもある[1][2]

りょ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

奇貨きかくべし[編集へんしゅう]

りょ韋の出身しゅっしんせつあり、かん(『史記しきりょ韋列でん[3][4])とまもる濮陽(『戦国せんごくさく[5][6])とである。商人しょうにんとしてまれ、わかころより各国かっこくわたあるき、商売しょうばいとみきずいた。

ちょう人質ひとじちとなっていて、みすぼらしいなりをしたはた公子こうし異人いじんのちすわえ改称かいしょうする。はたそうじょうおうのこと)をたまたまにして、「これ奇貨きかなりくべし (これは、おもいがけないしなだ。仕入しいれておくべきだ)」[7]った。翟にかえったりょ韋はちち相談そうだんし、はないの結果けっか将来しょうらいのために異人いじん投資とうしすることで結論けつろんがまとまったという。やがてりょ韋はふたたちょうおもむき、公子こうし異人いじんはじめて会見かいけんした。

とう異人いじんは、当時とうじしんおうであったあきらじょうおう太子たいし安国やすくにくん孝文たかふみおう)のとはいえ、20にん以上いじょう兄弟きょうだいただけでなく、生母せいぼなつすでちちからの寵愛ちょうあいうしなっていたため王位おういげる可能かのうせいきわめてひくく、母国ぼこくにとってはんでもしくない人質ひとじちであった。しかもちょうとの関係かんけい日増ひましに悪化あっかさせていたはた仕打しうちによって、ちょうでの異人いじんかんされ、その待遇たいぐうわるく、日々ひび生活せいかつにも事欠ことかくほどであった。だがりょ韋はこの異人いじんしんおうにし、その功績こうせきもっ権力けんりょくにぎり、巨利きょりことねらったのである。無論むろんりょ韋には勝算しょうさんがあった。

世子せいし擁立ようりつ[編集へんしゅう]

りょ韋は異人いじんかねわたしてちょう社交しゃこうかいこと指導しどうし、自身じしんはたはいって安国やすくにくん寵姫ちょうき華陽かよう夫人ふじんもとった。りょ韋は華陽かよう夫人ふじん異人いじん賢明けんめいであり、華陽かよう夫人ふじんのことを母親ははおやのようにしたって日々ひびおくっているとんだ。さらに華陽かよう夫人ふじんあねにもって、自身じしん財宝ざいほう一部いちぶおくって彼女かのじょうごかし、このあねつうじて異人いじん華陽かよう夫人ふじん養子ようしとさせ、安国やすくにくん世子せいしとするよういた。華陽かよう夫人ふじん安国やすくにくん寵愛ちょうあいされていたがいまがなく、このままとしってしまえばみずからの地位ちいあやうくなることおそれて、このはなしった。安国やすくにくんもこのはなし承諾しょうだくして、異人いじん自分じぶん世子せいしてることめた。

ちょうかえったりょ韋が異人いじんにこの吉報きっぽうをもたらすと、異人いじんりょ韋を後見こうけんとした。また異人いじんはこのとき、養母ようぼとなった華陽かよう夫人ふじんすわえおおやけおんなだったのでこれにちなんですわえあらためている。

りょ韋はちょう豪族ごうぞくむすめちょうひめ)を寵愛ちょうあいしていたが、すわえ彼女かのじょゆずってしいとした。りょ韋はではなかったが、ここでことわってすわえ不興ふきょうってはこれまでの投資とうし水泡すいほうすとおもい、彼女かのじょすわえゆずった。このとき、彼女かのじょすでりょ韋の身籠みごもっていたが、すわえにはこれをかくとおし、まれたすわえということにしてしまったという。これがせい始皇帝しこうてい)であるとされる。このせつ真実しんじつかどうかいまとなってはたしかめることはできないが、当時とうじからひろうわさされていたようで、『史記しきりょ韋列でんでもこれを事実じじつとしていているが、はたはじめすめらぎ本紀ほんぎではれていない[1][2]

はた宰相さいしょう[編集へんしゅう]

あきらじょうおう56ねん紀元前きげんぜん251ねん)、しん高齢こうれいあきらじょうおう在位ざいい56ねん逝去せいきょし、その次男じなん孝文たかふみおうつとすわえはたおくかえされ太子たいしとなったが、もなく孝文たかふみおうが50だい逝去せいきょしたために太子たいしすわえ即位そくいしてそうじょうおうとなった。りょ韋は相国しょうこく当時とうじあいくにばれていた)となり、文信ふみのぶこうごうして洛陽らくようの10まん領地りょうちとしてさづけられた。りょ韋のねらいは見事みごとたり、はた相国しょうこくとしてかれ権勢けんせいならぶものがなかった。

そうじょうおう3ねん紀元前きげんぜん247ねん)、そうじょうおうわかくしてに、太子たいしせいおうとなった。りょ韋はなかちち(ちゅうほ、ちち尊称そんしょうあるいは「おじ」という意味いみ)と称号しょうごうさづけられ、りょ韋の権勢けんせいはますますがった。

はた王政おうせい6ねん紀元前きげんぜん241ねん)、すわえちょうたかしかんつばめこく合従がっしょうぐんはたはいったが、しんぐんはこたにせきむかち、これを撃退げきたいした(はこたにせきたたか[8]。このとき、ぜんぐんそう指揮しきったのは、この時点じてん権力けんりょくにぎっていたりょ韋とかんがえられている[9]

一字千金いちじせんきん[編集へんしゅう]

この時期じきにははじめ嘗君しんりょうくんなどが食客しょっきゃくあつめて天下てんか名声めいせいていたが、りょ韋はこれに対抗たいこうして3,000にん食客しょっきゃくあつめ、りょ韋家の召使めしつかいは1まんえたとう。このきゃくなかがおり、その才能さいのう見込みこんでおう推挙すいきょした。ほかにもりょ韋が失脚しっきゃくしたのちにちょうかり宰相さいしょうとなったつかさ空馬からうまがいる[10]

さらきゃく知識ちしきあつめて、はた王政おうせい8ねん紀元前きげんぜん239ねん)には『りょ春秋しゅんじゅう』と書物しょもつ完成かんせいさせた。これは当時とうじ諸子しょしひゃくいえ書物しょもつとはちがって、思想しそうてきには中立ちゅうりつ百科ひゃっか事典じてんのような書物しょもつである。りょ韋はこの書物しょもつ出来栄できばえを自慢じまんして、なかにこれをいて「いちでもらすかやすか出来できものには千金せんきんあたえる」とまわったという(一字千金いちじせんきん由来ゆらい)。

以呂春秋しゅんじゅう ぬの咸陽もん かか千金せんきん其上 のべ諸侯しょこうゆう賓客ひんきゃく 有能ゆうのうぞうそんいちしゃ 千金せんきん — 『史記しきまきはち りょ韋列でん[7]

斜陽しゃよう[編集へんしゅう]

権勢けんせいならぶものがないりょ韋は、せい生母せいぼであるふとしきさきちょうひめ)と密通みっつうしていた。

これは元々もともと好色こうしょくで、そうじょうおう死後しごおとこなしではられなくなったふとしきさきからのさそいであった。りょ韋としても、もと愛人あいじんであったふとしきさきへの未練みれんれず、関係かんけいもどしたのである。しかし、せい成長せいちょうするにつれて、いま国母こくぼとなったふとしきさきとの不義ふぎ密通みっつうつづけるのはいくらなんでもあぶないとかんじたりょ韋は、嫪毐(ろうあい)というきょおとこたいきさき紹介しょうかいしただけでなく、男性だんせいれぬ後宮こうきゅうへ、宦官かんがん偽装ぎそうしておくんだ。ふとしきさき嫪毐きょ夢中むちゅうになり、息子むすこを2にんんだ。

その嫪毐は、ふとしきさき寵愛ちょうあい背景はいけい長信ながのぶこうふうじられて権勢けんせいたものの、所詮しょせんきょだけでがったおとこでしかなかった。やがてふとしきさきとの密通みっつう発覚はっかくすると嫪毐せいたい謀反ぼうほんこし、窮地きゅうちろうとする。

だが、嫪毐反乱はんらんはすぐに鎮圧ちんあつされ、嫪毐くるまきのけい誅殺ちゅうさつされた。また、嫪毐2人ふたり息子むすこ処刑しょけいされ、ふとしきさき幽閉ゆうへいされた。このいちけんりょ韋へも波及はきゅう連座れんざせいのっとり、処刑しょけいされるところだったが、いままでの功績こうせきおもんじたせいによって、相国しょうこく罷免ひめん蟄居ちっきょ減刑げんけいされた。

最期さいご[編集へんしゅう]

しかし、りょ韋は蟄居ちっきょであってもきゃくとの交流こうりゅうめず、諸国しょこくでの名声めいせいたかかった。そのため、せいりょ韋がきゃく諸国しょこくはかって反乱はんらんこすのではないかと危惧きぐし、はた王政おうせい12ねん紀元前きげんぜん235ねん)にりょ韋に詰問きつもんじょうおくった。

きみなにこう於秦。はたふうくん河南かなんしょくじゅうまんくんなんおや於秦。ごうしょうなかちち。其與ぞく徙處しょく

はたたい一体いったいなに功績こうせきを以って河南かなんじゅうまん領地りょうちあたえられたのか。はた王家おうけ一体いったいなにのつながりがあってなかちちしょうするのか。一族いちぞく諸共もろともしょくけ。 — 史記しきりょ韋列でん」14[11]

そして、りょ韋はしょく地域ちいきへの流刑りゅうけい追加ついかされたことで、みずからの末路まつろ絶望ぜつぼうし、鴆酒あおいで自殺じさつした[12]

始皇帝しこうていとの血縁けつえんについて[編集へんしゅう]

りょ韋が始皇帝しこうていちちであるとはなし流布るふしており、始皇帝しこうてい生存せいぞんから存在そんざいしたらしく、『史記しきりょ韋列でんにも史実しじつとして記載きさいされている[1][2]。しかし、ほぼどう時代じだいすわえ宰相さいしょうはるさるくんにも同様どうよう逸話いつわがあることから、上記じょうきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎにはれていないこともあり、それを否定ひていする歴史れきしもおり、始皇帝しこうてい中傷ちゅうしょうするためにつくられたはなしとする見方みかたもある。真実しんじつっていたのはりょ韋とふとしきさきのみであり、定説ていせつ見込みこみはない。

末裔まつえい[編集へんしゅう]

劉邦りゅうほうつまりょりょきさき)はりょ韋の一族いちぞくだったと中国ちゅうごく研究けんきゅうしゃ郭沫若かくまつじゃく佐竹さたけ靖彦やすひこ楠山くすやま修作しゅうさくらは可能かのうせい示唆しさしている[13]。また、さんこく時代じだいりょ韋のちなんだ永昌えいしょうぐん韋県のひとしょくかんつかえた豪族ごうぞくりょは、りょ韋の末裔まつえいとされている(『三国志さんごくししょくこころざしりょ凱伝[14])。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c ウィキソース出典 まきはちじゅう りょ韋列でん だいじゅう (中国ちゅうごく), 史記しき/まき085, ウィキソースより閲覧えつらん  - りょ韋取邯鄲かんたんしょひめ絕好ぜっこうぜんまいしゃあずかゆうすわえしたがえ韋飲,而說いんおこりためことぶき,請之。りょ韋怒,ねんぎょうやめやぶいえためすわえよく以釣,乃遂けんじ其姬。ひめ匿有至大しだい生子おいごせいすわえとげたてひめため夫人ふじん
  2. ^ a b c 和訳わやく史記しき列伝れつでん だいじゅう りょ韋列でん370ぺーじ - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  3. ^ ウィキソース出典 まきはちじゅう りょ韋列でん だいじゅう (中国ちゅうごく), 史記しき/まき085, ウィキソースより閲覧えつらん  - りょ韋者,翟大賈人也。往來おうらい販賤うりいえるい千金せんきん
  4. ^ 和訳わやく史記しき列伝れつでん だいじゅう りょ韋列でん367ぺーじ - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  5. ^ ウィキソース出典 戰國せんごくさくまきなな はた (中国ちゅうごく), 戰國せんごくさく丕烈さつ/はた/#濮陽じんりょ韋賈於邯鄲かんたん, ウィキソースより閲覧えつらん  - 濮陽じんりょ韋賈於邯鄲かんたんはたただし異人いじん
  6. ^ 戦国せんごくさく 孝文たかふみおうこういちきゅうよん - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  7. ^ a b 「此奇貨きかきょウィキソース出典 司馬しば遷 (中国ちゅうごく), 史記しき/まき085, ウィキソースより閲覧えつらん 
  8. ^ 史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ
  9. ^ 島崎しまざきすすむ 2019, p. 79.
  10. ^ ウィキソース出典 戰國せんごくさくまきなな しん ぶんしんじこう出走しゅっそう (中国ちゅうごく), 戰國せんごくさく丕烈さつ/はた/#文信ふみのぶこう出走しゅっそう, ウィキソースより閲覧えつらん 
  11. ^ りょ韋列でん』14
  12. ^ 渡邉わたなべ義浩よしひろ春秋しゅんじゅう戦国せんごくよういずみしゃ 2018ねんp.145
  13. ^ りょこうについてのいち考察こうさつ - 楠山くすやま修作しゅうさく
  14. ^ ウィキソース出典 しょくしょじゅうさん りょおうちょうつたえ』 (中国ちゅうごく), 三國志さんごくし/まき43#りょ, ウィキソースより閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 島崎しまざきすすむ春秋しゅんじゅう戦国せんごく英傑えいけつたち』双葉社ふたばしゃ、2019ねんISBN 978-4-575-45788-9 

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

史料しりょう[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]