はじめ嘗君

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はじめ嘗君(もうしょうくん、? - 紀元前きげんぜん279ねん)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいおおやけぞく政治せいじせいいみなぶんひとしおうまごにあたる[1]戦国せんごくよんくん一人ひとり

はじめ嘗君

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ぶん登場とうじょう[編集へんしゅう]

ぶんちちひとしせんおう異母弟いぼてい[1]、薛(現在げんざい山東さんとうしょうなつめしょう滕州)に領地りょうちっていた。嬰にはが40にんもおり、ぶんはは身分みぶんひくかった。さらにぶんまれたのは5月5にちで、このまれたはのちにおやころすとしんじられていたため、嬰はぶんころそうとしたが、ははひそかにぶんかくまってそだてた(ただしこの逸話いつわ史実しじつかどうか意見いけんかれる)。ぶん成人せいじんしたのちにはじめてちちわされたさい嬰はいかりのこえげた。するとぶんころさねばならない理由りゆういた。嬰が「5がつ5にちまれた門戸もんこたかさにまで成長せいちょうするとおやころす」といういいつたえをつたえたところ、ぶんは「門戸もんこたかさをたかくすればい」とかえした。これには嬰もおもうところあってぶんゆるし、ぶん嬰の屋敷やしきむようになったが、これまでの経緯けいいもあって冷遇れいぐうされていた。

あるぶん嬰に「玄孫げんそんまご」はなんうかいた。嬰がわからないとこたえるとぶんは、ひとし領土りょうどえていないにもかかわらず、とみていること、いまでは続柄つづきがらがよくわからないような血縁けつえんしゃおおいこと、そのような血縁けつえんしゃたちのために財産ざいさんのこすのはおかしいとこたえた。

そこで嬰は食客しょっきゃく屋敷やしきまねき、ぶんにその世話せわをさせることにした。すると食客しょっきゃくあいだぶん評判ひょうばん非常ひじょうたかくなり、やがてそれが諸侯しょこうあいだにまでわたるほどまでになったので、嬰はぶん跡継あとつぎにてることにした。

ちちあといだぶんは、なんでも一芸いちげいあればこばまずと積極せっきょくてき食客しょっきゃくむかれ、そのかずすうせんかぞえた。あるときぶん食事しょくじとき食客しょっきゃくとのあいだ衝立ついたていたところ、食客しょっきゃく一人ひとりが「料理りょうりをつけているからかくすのだろう」とてた。これをいたぶんはそのきゃく料理りょうりがまったくおなじだということをしめした。うたがったことをじたきゃく自刎じふんしててた。

鶏鳴狗盗けいめいくとう[編集へんしゅう]

このことがさらぶん名声めいせいたかめ、湣王2ねん紀元前きげんぜん299ねん)にはたあきらじょうおうぶん宰相さいしょうとしてむかれようとした。ぶんはこれにこたえてはたはいったが、あるひとあきらじょうおうに、ぶん当代とうだい一流いちりゅう人材じんざいであるがひとし人間にんげんであるから、はた宰相さいしょうになってもひとし優先ゆうせんするにちがいない。ひとしせばはた脅威きょういとなると進言しんげんあきらじょうおうはこれをれてぶん滞在たいざいしている屋敷やしき包囲ほういさせ、ぶんいのちあやうくなった。

ぶん食客しょっきゃく使つかってあきらじょうおう寵姫ちょうき命乞いのちごいをしたが、寵姫ちょうきぶん宝物ほうもつきつねしろこはくきゅう[2]えならあきらじょうおう助命じょめいたのんでもよいという。しかし、ぶんはた入国にゅうこくするまえあきらじょうおうにこれを献上けんじょうしていた。なやんでいたところ、食客しょっきゃく一人ひとりであるいぬぬすめいぬのようにすばしこい泥棒どろぼう)が名乗なのて、あきらじょうおうくらからきつねしろ裘をぬすんできた。これを寵姫ちょうきわたすと、そのとりなしによって屋敷やしき包囲ほういかれ、ぶんはひとまず危機ききのがれることができた。

しかしあきらじょうおうがいつわるかわからない。そこでぶんいそいで帰国きこくき、夜中よなか国境こっきょうはこたにせきまでたどりいた。しかしせき夜間やかんじられており、あさになってにわとりこえがするまではけないのが規則きそくだった。すでにわったあきらじょうおうけており、ぶんもそれをさっしてこまっていたところ、食客しょっきゃく一人ひとりである物真似ものまね名人めいじん名乗なのた。そしてかれにわとりきまねをすると、それにつられて本物ほんものにわとりはじめ、これによってひらかれたはこたにせきけて、ぶんはた脱出だっしゅつすることができた[3]あきらじょうおう夜明よあごろはこたにせきいたが、ぶんらが夜中よなかせきとおったことをるとかえした。こうしてぶんいちぎょう虎口ここうだっした。

つね日頃ひごろ学者がくしゃ武芸者ぶげいしゃなどの食客しょっきゃくは、ぶんぬすみや物真似ものまねげいしかたないようなものすら食客しょっきゃくとしてれていたことに不満ふまんだったが、このときばかりはぶん先見せんけんあかり感心かんしんした。「つまらない才能さいのう」あるいは「つまらない特技とくぎでも、なにかのやくつ」を意味いみする鶏鳴狗盗けいめいくとうけいめいくとう故事こじはここからている[4]

はたからひとしへの帰途きとちょうむらったときぶん村人むらびとからひくいことを馬鹿ばかにされた。これにおこったぶんは、食客しょっきゃくとも村人むらびと皆殺みなごろしにしたという。

ひとし宰相さいしょうと馮驩[編集へんしゅう]

ひとしかえったぶん宰相さいしょうになり、湣王3ねん紀元前きげんぜん298ねん)にただしあきら統帥とうすいとするかんたかしとの連合れんごうぐんはたった(はこたにせきたたか)。

ぶんは、せんおうの湣王のもとで宰相さいしょうとして内外ないがい政治せいじたり、ひとし国力こくりょくたかめた。しかしくに富強ふきょうになると湣王は増長ぞうちょうし、他国たこく強圧きょうあつてき外交がいこうおこなうようになる。そしてそれをいさめるぶんと、「ぶんあってのひとし」という風評ふうひょううとましくおもうようになり、宰相さいしょう罷免ひめんされる。

宰相さいしょう罷免ひめんされたことで、ぶんのもとにいた3000にん食客しょっきゃくっていったが、馮驩(ふうかん)[5]という食客しょっきゃくだけはのこった。馮驩はぶんひとし宰相さいしょう復職ふくしょくさせるためさく[6]もちいて宰相さいしょう復職ふくしょくさせた。ぶんひとし宰相さいしょう復職ふくしょくすると、馮驩はった食客しょっきゃくたちをもどすように進言しんげんした。しかしぶん自分じぶん貧窮ひんきゅうしていたときにった食客しょっきゃくをなじった。それにたいし馮驩は好悪こうおじょうったのではなく自分じぶん識見しきけんかせなくなったのでっただけとさとしてもどすことをみとめさせた。

ぶんと馮驩については、『史記しき』「はじめ嘗君でん」にしるされている。

狡兎こうとさんくつ[編集へんしゅう]

ぶん宰相さいしょう罷免ひめんされて領地りょうちの薛にいたときに、馮驩が「狡兎こうと(すばしっこいうさぎ)はげるためのあなを3つっているが、くんぶん)にはげるあな領地りょうちである薛1つしかないため、まくらたかくしてねむることができない。くんのためにあなをもう2つってまいりましょう」とげた。

馮驩はまずめぐみおう謁見えっけんし、ぶん宰相さいしょうにすれば富国強兵ふこくきょうへいにつながることを進言しんげんした。めぐみおうはこの進言しんげんれてぶんのために上席じょうせき地位ちいけ、ぶん使者ししゃおくった。つづいて、馮驩は湣王に謁見えっけんし、ぶん宰相さいしょうにしようとしていること、ぶんびて復職ふくしょくさせるさくつたえた。使者ししゃ頻繁ひんぱんぶんのもとに出入でいりしていることをった湣王は、馮驩の思惑おもわくどおぶん宰相さいしょう復職ふくしょくするようびの使者ししゃおくった。馮驩は湣王が信頼しんらいできないとかんがえており、ぶんひとしおう宗廟そうびょうを薛に建立こんりゅうする許可きょかを湣王にるように進言しんげんし、湣王はこれをみとめた。宗廟そうびょう完成かんせいすると馮驩は「ようやくげるあなが3つになりました。くんまくらたかくしてねむれます」とこたえた。

狡兎こうとさんくつこうとさんくつ」の故事こじはここからている。

その[編集へんしゅう]

宰相さいしょう復職ふくしょくしたものの、湣王の不興ふきょうさっしたぶんは、みずか隠棲いんせいすることにした。

しかし、そのみん諸侯しょこうからの評判ひょうばんたかく、またひとしぶんがいるかぎいとはた強力きょうりょく工作こうさくをしたこともあって、湣王の猜疑心さいぎしんぞうおおきくなり、ころされかねない情勢じょうせいとなってきた。そしてついに湣王17ねん紀元前きげんぜん284ねん)、ぶんげ、その宰相さいしょうむかえられた。

その、湣王にうらみをっていたつばめあきらおう意向いこうけたらくあつし主導しゅどうで、ちょうたかしかんはたつばめこく連合れんごうぐん成立せいりつし、湣王のひとしぐん大勝たいしょうした。そしてひとしんだたのしあつしにより湣王はころされ[7]ひとし滅亡めつぼう寸前すんぜんにまでめられたが、たん知略ちりゃくによって復興ふっこうし、やがてぶんふたたひとしむかえられた。

じょうおう5ねん紀元前きげんぜん279ねん)、ぶん死去しきょし、おくりなしてはじめ嘗君とばれるようになった。

子孫しそん[編集へんしゅう]

その死後しごかれ息子むすこたちが跡目あとめあらそいをしているすきいて本家ほんけじょうおう連合れんごうして薛をめて、はじめ嘗君の子孫しそん消息しょうそく不明ふめいとなった。

前漢ぜんかん劉邦りゅうほうが薛を通過つうかしたときはじめ嘗君の子孫しそんさがし、その結果けっかとしてはじめ嘗君のまごであるりょうこくつけた。劉邦りゅうほう両人りょうにん領地りょうちあたえようとした。しかし、両人りょうにんはおたがいにゆずっていたため、まとまらなかった。おわりいに両人りょうにんくだって、沛郡たけ邑県(現在げんざい安徽あんきしょう淮北濉渓けん)に住居じゅうきょかまえて、こく系統けいとうが薛氏と改称かいしょうし、代々だいだいしゅうぐん長官ちょうかんつとめた。その末孫ばっそんつかえた薛綜であるという[8]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

司馬しば史記しき旧跡きゅうせきおとずれた。そこには乱暴らんぼうしゃおおかった。その理由りゆうくと、「はじめ嘗君のまねきで任侠にんきょうあつまり、鶏鳴狗盗けいめいくとうるいまで薛にうつってきた。そのかずは6まんにおよぶ」とのことだった。はじめ嘗君は客好きゃくずきをもってられるが、その評判ひょうばんおおげさではない、とひょうしている[9]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 史記しきさくかくれ』がく『たけしょ紀年きねんでは、はじめ嘗君は桓公かんこうおうちち)のまごしるされており、「おうおい」、「せんおう従弟じゅうてい」とする。
  2. ^ 裘は動物どうぶつ外側そとがわにした毛皮けがわころもきつねしろ裘はきつねのわきのしたあつめてつくられた裘。一般いっぱんきつね裘は黄色きいろである、きつねしろ裘は白色はくしょく。裘のなかでもさい高級こうきゅうひんとされる。
  3. ^ 百人一首ひゃくにんいっしゅ』の清少納言せいしょうなごんよるをこめて とりのそらは はかるとも よに逢坂おうさかせきはゆるさじ」は、この故事こじまえている。
  4. ^ ただし、後代こうだいきたそう宰相さいしょうおうやすしせきは、その著書ちょしょ『読孟嘗君でん』で「鶏鳴けいめいいぬほえもんずるは、これいたらざる所以ゆえんなり」と、鶏鳴狗盗けいめいくとうやからがその門下もんかあつまったことがぎゃくひとししん人材じんざいあつまらなかった原因げんいんをなしたと批判ひはんしている。
  5. ^ 馮驩は『史記しき』の表記ひょうきで、『戦国せんごくさく』では馮諼ふうけんしるされる。
  6. ^ まずはたおうに「はじめ嘗君が罷免ひめんされたので、この機会きかいはた重鎮じゅうちんとしてみましょう」と招聘しょうへい使者ししゃおくらせ、ついでひとしおうに「はたはじめ嘗君を宰相さいしょうにしようとしている。それをふせぐにはかれ宰相さいしょう地位ちい復帰ふっきさせ、ろく加増かぞうするしかない」と扇動せんどうし、両者りょうしゃ手玉てだまにとるという壮大そうだいなものだった。
  7. ^ 宮城みやぎたに昌光まさみつちょらくあつし』ではすわえこくしょう淖歯が莒にて反逆はんぎゃくしたとある。
  8. ^ 三国志さんごくし』『こころざし』薛綜でん裴松ちゅうちょう勃『ろく』より。
  9. ^ 史記しき はじめ嘗君列伝れつでん だいじゅう

はじめ嘗君を題材だいざいにした小説しょうせつ[編集へんしゅう]