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三国志さんごくし (歴史れきししょ)

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三国志さんごくし』(さんごくし)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいについてかれた歴史れきししょ著者ちょしゃちん寿ひさしこうかん混乱こんらんから西にしすすむによる中国ちゅうごく統一とういつまでをあつかう。じゅうよんひとつ。

成立せいりつ過程かてい版本はんぽん

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成立せいりつ時期じき西にしすすむによる中国ちゅうごく統一とういつ280ねん以降いこうとされる[1]

現在げんざい通行つうこうしている版本はんぽんはおおむね4しゅある。

ただ、中国ちゅうごく国内こくないでも三国志さんごくし善本ぜんぽんすくなく、ちょうもとすみ調しらべたところでは流布るふほんいちじるしくあやまりがおおかったり、しょだけでくれしょしょくしょいているものがおおかった。[2]そもそも三国志さんごくし版本はんぽんそのものがかずすくなく、三国志さんごくし演義えんぎ著者ちょしゃ貫中かんちゅうさんこく時代じだい講談こうだんかたっていた講釈こうしゃくたちもどおりかんのダイジェストばんはよくているが、正史せいし三国志さんごくしろくじゅうかんすべてをそろえた版本はんぽんはどこまでていたかうたがわしいとされる。[3]

また、20世紀せいき発見はっけんされた写本しゃほんとしては以下いかのものがある。

  • おそれこぼしりく績張ゆたかでんざんまき - 1920年代ねんだいトルファン出土しゅつどとのつて影印えいいんはやくから流通りゅうつうしており、中華ちゅうかしょきょくばん三国志さんごくし』(1959ねん)の巻頭かんとうにもしょかげがあるが、はら写本しゃほん所在しょざい不明ふめい[4]
  • おそれこぼしでんざんまき - 20世紀せいきはつ敦煌とんこうぼうてら出土しゅつどとのつて。10ぎょう、100のこる。台東たいとう区立くりつ書道しょどう博物館はくぶつかん所蔵しょぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 騭伝ざんまき - 20世紀せいきはつ莫高くつ発見はっけんされた敦煌とんこう文献ぶんけんひとつ。25ぎょう、440のこる。
  • 韋曜はな覈伝ざんまき - 1909ねんにトルファン火焔かえんやまトユクの土中どちゅうから出土しゅつど。24ぎょう、590のこる。台東たいとう区立くりつ書道しょどう博物館はくぶつかん所蔵しょぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • しゅつてざんまき - 1965ねんにトルファン仏塔ぶっとうから発見はっけんされた。40ぎょう、570のこ[5]
  • 臧洪でんざんまき - 1965ねんにトルファン仏塔ぶっとうから発見はっけんされた。21ぎょう、370のこる。

構成こうせい

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紀伝きでんたい歴史れきししょであり、「こころざししょ)」30かん(「本紀ほんぎ」4かん、「列伝れつでん」26かん)、「しょくこころざししょくしょ)」15かん、「こころざしくれしょ)」20かんけい65かんからる。このほかちん寿ひさし自序じじょ序文じょぶん)がされていたといわれるが、現存げんそんしない。また、ひょう年表ねんぴょう)やこころざし天文てんもん礼楽れいがくなどの記録きろく)は存在そんざいしない。[6]

それぞれ『こくこころざし』『しょくこくこころざし』『くれこくこころざし』として、独立どくりつした書物しょもつとしてもあつかわれていたという[7]。『こくこころざし』『しょくこくこころざし』『くれこくこころざし』のかれた前後ぜんご関係かんけい不明ふめいである。さんこく記述きじゅつ独立どくりつさせ、わせて『三国志さんごくし』としたところに本書ほんしょ特徴とくちょうがある。また、たんに『くにこころざし』ともばれていた[8]

たかしのみに本紀ほんぎもうけられているので、さんこくのうち正統せいとうとしているものと判断はんだんされている。正統せいとうとした類書るいしょでは、『しょ』など単独たんどく表題ひょうだいとし、しょくしょくかん独立どくりつしたあつかいをけていない。また、西にしすすむあずますすむじゅうろくこく時代じだいあつかった『すすむしょ』でも、きたしょ国家こっかじゅうろくこく)はほとんど「」(地方ちほう覇者はしゃ伝記でんき)としてあつかわれ、やはり独立どくりつしたあつかいをけていない。南北なんぼくあさ時代じだいきたたかし正統せいとうとした『しょ』(こくこころざしとはべつ)では、南朝なんちょうそうなどの皇帝こうてい伝記でんきが、やはり「しまえびす」として列伝れつでんれられ、独立どくりつしたあつかいをけていない[ちゅう 1]。こうしたことから、たかししょくをそれぞれ独立どくりつしたあつかいをしている本書ほんしょは、純粋じゅんすい正統せいとう意図いとした歴史れきししょであるとはれない[ちゅう 2]。その一方いっぽうで、かん正統せいとうとしてのしょくにもおおいに配慮はいりょをしていることは、おおくの日本にっぽん中国ちゅうごく研究けんきゅうしゃ従来じゅうらいから指摘してきしている。「しょくこころざし」の末尾まつびにはほんでん補足ほそくとして楊戯の『かん輔臣さん』を全文ぜんぶん収載しゅうさいしている。これについて、ぜにだい三国志さんごくしべんうたぐじょ』では「楊戯でんに『かん輔臣さん』をせてすうひゃくことついやしたのは、たかしよりもしょくたっとんだものである。かんすえかん)という言葉ことばのこしたのは、しょくかん王朝おうちょう継承けいしょうしていることをあきらかにしたものだ」として、しょく遺臣いしんであるちん寿ひさし故国ここく顕彰けんしょうあらわれであるとしている。末期まっき記述きじゅつについては、きゅう関係かんけいしゃ取材しゅざいしたり[9]、あるいは人物じんぶつひょうきゅうくれ薛瑩えびすおき言葉ことばせている箇所かしょがある[10]

また、『三国志さんごくし』には、朝貢ちょうこうした民族みんぞく記事きじ存在そんざいするものの、しょく朝貢ちょうこうしていたとおもわれる民族みんぞくについては、つててられていないという指摘してきがある[ちゅう 3]。これらは、『三国志さんごくし』が当時とうじのことを遺漏いろうなくしるした史書ししょであるかどうかの疑問ぎもん提示ていじするものでもある。当初とうしょから正統せいとうとして編纂へんさんしたとみる日本にっぽん研究けんきゅうしゃなかには、しょくはあくまでも地方ちほう政権せいけんとしてのあつかいなのでけなかったとする意見いけんもあるが[ちゅう 4]編纂へんさん意図いととして正統せいとうとしていたかは前述ぜんじゅつのようにさだかでない。

日本にっぽんかんする記事きじとしては、「こころざし烏丸からすま鮮卑東夷あずまえびすでん邪馬台国やまたいこくについての記述きじゅつがある。日本にっぽんでは、この部分ぶぶんしょ東夷あずまえびすでん倭人わじんじょう)を「こころざし倭人わじんでん」と通称つうしょうしている。

裴松ちゅう

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ちん寿ひさしは『三国志さんごくし』を記述きじゅつするにあたって信憑しんぴょうせいうす史料しりょう排除はいじょしたために、『三国志さんごくし』は非常ひじょう簡潔かんけつ内容ないようになっていた[ちゅう 5]。そこで、南朝なんちょうそうぶんみかど裴松ちゅうつくることをめいじ、裴松作成さくせいしたちゅうを、げんよしみ6ねん429ねん)に上表じょうひょうとともに提出ていしゅつした。ちゅうりょうはかなりおおく、ふるくは、ちん寿ひさし本文ほんぶんすうばいするとられていた。[11]しかし、近年きんねん研究けんきゅうちん寿ひさし本文ほんぶんとほぼおな字数じすうであることが判明はんめいした。[12]

裴松ちゅう特徴とくちょうは、訓詁くんこちゅうといわれる言葉ことば意味いみみ、典故てんこなどを説明せつめいするものはすくなく、ちん寿ひさしれなかった異説いせつ詳細しょうさい事実じじつ関係かんけい収録しゅうろくしたてんである。ちん寿ひさしの『三国志さんごくし編纂へんさん出来事できごとおぎなわれている[ちゅう 6]。すでにうしなわれた書物しょもつからの引用いんようおおく、貴重きちょう史料しりょうである。また、はなしとしては面白おもしろいが信憑しんぴょうせいける逸話いつわ数多かずおお収録しゅうろくされており、説話せつわ題材だいざいにもれられていった。これらの逸話いつわおおくは敵対てきたいする匿名とくめい人物じんぶつ曹操そうそう悪口わるぐちいたものがおおく、曹操そうそうただしたく暗殺あんさつ失敗しっぱいしてかえ途中とちゅうくちふうじに世話せわになった友人ゆうじんころはなしや、曹操そうそう部下ぶかけんじみかど皇后こうごうころはなしかんちょう官吏かんりだまして皆殺みなごろしにするはなしもとネタはほとんどが匿名とくめい人物じんぶついた『曹瞞でん』などの野史やしであり、そのおおくが信憑しんぴょうせいとぼしい。[13]このことから裴松ちゅう史料しりょう価値かちはかなりひくられており、後世こうせい学者がくしゃから「三国志さんごくしにおいてちん寿ひさしかず、裴松ちゅうにのみのこるものはすべてカスである。ちん寿ひさし本文ほんぶんをよくまず、裴松注釈ちゅうしゃく鵜呑うのみにしてかろがろしい議論ぎろんをするのはもっとくないことだ」(もとうまはし臨『文献ぶんけんどおりこう』)[14]とか「ちん寿ひさし大義たいぎって異端いたんけずった」(ずいおうどおり文中ぶんちゅう』)とわれている。

裴松注釈ちゅうしゃくのうちもっと著名ちょめいなもののひとつは、倭人わじんこよみかんするものであり、「りゃく曰其ぞく不知ふちせいとし四節但計春耕秋収為年紀(りゃくいわく、そのぞくせいとしよんせつらず、ただし春耕しゅんこうあきおさむ計算けいさんして、年紀としのりす。)」である。わけれいは「倭人わじんこよみらず、はるたがやし、あき収穫しゅうかくすることで、とし計算けいさんしていた。」である。「倭人わじんは、こよみらず、はるたがやすことで1ねんあき収穫しゅうかくすることで1ねん、あわせて1ねん計算けいさんしていた。」という春秋しゅんじゅうばいれきせつ根拠こんきょとされる。

後世こうせい評価ひょうか

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三国志さんごくし』については、司馬しばの『史記しき』・はんかたの『漢書かんしょ』・范曄の『こう漢書かんしょ』とならび、じゅうよんなかでもすぐれた歴史れきししょであるとの評価ひょうかたかい。もとうまはし臨の『文献ぶんけんどおりこう』には、そうてき発言はつげんとして「三国志さんごくし文章ぶんしょう上手うまいところは史記しきせま出来栄できばえで、漢書かんしょ匹敵ひってきするが、文章ぶんしょうかざがなさすぎるので最終さいしゅうてきには漢書かんしょのほうがすぐれている」という評価ひょうかがあったとつたえている。[15]どう時代じだいに、おう韋昭らにより、『しょ』・『くれしょ』などの史書ししょかれているが、いずれも散逸さんいつして『三国志さんごくし』のみがのこったという事実じじつが、『三国志さんごくし』にたいする評価ひょうかあらわしているともいえる[ちゅう 7]。また、なつほうじんは『三国志さんごくし』をて、みずからが執筆しっぴつちゅうだった『しょ』をやぶててしまったというはなしのこっている。

しかし、後世こうせいにおいて王朝おうちょう正統せいとうろん問題もんだいや、ちん寿ひさし人物じんぶつたいする批評ひひょう内容ないよう三国志さんごくし演義えんぎによって定着ていちゃくした人物じんぶつ事件じけんのイメージとの相違そういなどの要因よういんにより、同書どうしょ様々さまざま批判ひはんさらされることとなった。とくに、私怨しえんによってふでげた疑惑ぎわくについては、はやくから指摘してきされている。ちん寿ひさしちょうただしちょう中国語ちゅうごくごばん穀物こくもつもとめ、ことわられたためちょうただしちょう廙のつててなかった、ちん寿ひさしちちしょかずらあきら処罰しょばつされたためしょかずらあきら悪口わるぐちいた、などの逸話いつわが『すすむしょ』に記載きさいされている。

だが、『すすむしょ』の正確せいかくせいについては批判ひはんおおく、これらの疑惑ぎわくたいしては『こおりひとし読書どくしょこころざし』も「必然ひつぜん也(かならずしも事実じじつとはれない)」と記述きじゅつするなど、懐疑かいぎてき見方みかたおお[ちゅう 8]おうもりの『じゅうななしょう』では「ちょうただしちょう廙の2人ふたりはしょせん(曹植にっただけの)たくみ佞のしんであって、どうしてつててることなどできようか」[ちゅう 9]ちん寿ひさしすすむはいって『しょかずらあきらしゅう』を編纂へんさん上表じょうひょうしており、しょかずらあきらでん目録もくろく上表じょうひょうぶん掲載けいさいしている。史家しか前例ぜんれいにないことであり、しょかずらあきら非常ひじょう尊敬そんけいしているということだ」[ちゅう 10]しょかずらあきらは6も祁山に出征しゅっせいしながら、ついにいちしょうおさめなかった[ちゅう 11]慎重しんちょうした軍事ぐんじであって進取しんしゅにはにぶいことがわかる。(応変おうへんしょうりゃくけるとしたちん寿ひさしひょうは)事実じじつべただけだ」と批判ひはんしている。

ただし、曲筆きょくひつ疑惑ぎわく現在げんざいでもえたわけではない。たとえば、もり非常ひじょうたか評価ひょうかされているが、もり畿のまごもりあずか擁護ようごするために過大かだい評価ひょうかをしたとするせつがある[16]

また、ちん寿ひさし最終さいしゅうてきつかえた西にしすすむたいしては、とく曲筆きょくひつ目立めだつと指摘してきされている。そのなかでももっと批判ひはんけたのは、皇帝こうてい曹髦殺害さつがい経緯けいいである。西にしすすむしんという立場たちばじょう、その禅譲ぜんじょう正統せいとうせいかんして重大じゅうだい瑕疵かしあたえうるこのけん隠蔽いんぺいせざるをず、りゅうともいくは「ごと奸賊かんぞくふできょうじん」「豺虎のえさとしてれてもかまわない」とはげしく糾弾きゅうだんした。

また、りゅうともいくは『ふみどおり曲筆きょくひつへんで「しょくこころざしおもでんに『しょくには史官しかんがいないからわざわいさち記録きろくされなかった』とあるのに、しょくこころざしにはわざわいさち散見さんけんされる。史官しかんもうけられなかったのであれば、わざわいさちなにによって記録きろくされたのか。ちん寿ひさししょく史官しかん存在そんざい否定ひていしたことは私怨しえんによるものである」と批判ひはんしている。当時とうじ史官しかん国家こっか必須ひっすのものとかんがえられていた(『どおり史官しかんけんおけへん)。りゅうともいくによるちん寿ひさし批判ひはん要旨ようしは、しょくには国家こっか必須ひっすのものがけていると私怨しえんもとづいてべた、ということである。

時代じだいくだると、しょく正統せいとうとする朱子学しゅしがく影響えいきょうから、正統せいとうとしたちん寿ひさしへの非難ひなんあらわれた。ふるえしょう』にいたっては「どこのおにだ、コソコソと史筆しひつをもてあそび、ぞくみかどび、みかどぞくんでいるのは」と、ちん寿ひさしおにもの)と罵倒ばとうしている。一方いっぽうしゅつねみこと曝書ばくしょていしゅう』のように「当時とうじなんにんかの史家しかがいたが、ただがあるのをるのみだった。ちん寿ひさしのみしょく並列へいれつし「さんこく」という名称めいしょうただしたのは、正統せいとうでないことをあきらかにしたものだ」との意見いけんもある。

さらに、しょくかん正統せいとうろんもとづいてさい構成こうせいされた歴史れきししょ続々ぞくぞく執筆しっぴつされた。みなみそうしょうつねもと郝経あかりしゃ中国語ちゅうごくごばんきよしぜにちょうおおとりの『つづけ漢書かんしょ』、きよしれつの『漢書かんしょ』などはいずれもしょく本紀ほんぎとして、たかしとしている。紀伝きでんたい以外いがいしょとしては、もとちょうきょしんの『しょくかん本末ほんまつ』、きよしちょうさくあつものの『かん』などがある。

司馬しばひかりの『どおりかん』は元号げんごうもちいているが、正統せいとうろん自体じたいにはきわめて慎重しんちょうであり「かんからからすすむ…(以下いかきたそうまで)のながれでがれているので、これらの元号げんごう採用さいようして諸国しょこく事績じせきしるさざるをないだけであって、正閏せいじゅんについて意見いけんするつもりはない」(まきろくじゅうきゅうはつねんじょう)と明言めいげんしている。

だんだいにもかかわらず、袁紹りょぬのりゅうなどこうかんだいぼっした人物じんぶつつててていることについては、ちょうつばさの『じゅう箚記』において「(袁紹などの)しょ軍閥ぐんばつはみな曹操そうそう並立へいりつして割拠かっきょしており、かつ曹操そうそうふかかかわっている。ゆえにこころざしつてて、(王朝おうちょうについての)事績じせき叙述じょじゅつにあたりその建国けんこく起源きげんあきらかにしなければならないのだ。また、りゅう焉はりゅうあきらちちで、かれ割拠かっきょしたえきしゅうりゅう拠点きょてんとした。りゅう備の紀伝きでんつくるには、まずりゅうあきらについて記述きじゅつし、りゅうあきらについて記述きじゅつするにはまずりゅう焉について記述きじゅつしなければならない」とされ、ただしたく荀彧らが『こう漢書かんしょ』と重複じゅうふくしてつててられているてんについては、「ただしたくらはかんまつしんであり、荀彧は曹操そうそうのために計略けいりゃくてたが、しんはなおかんちょうのためにあった。三国志さんごくしつてがあるからといって、こう漢書かんしょたてつてはぶくことはできないのだ」としている。

ただし、『こう漢書かんしょ』はちん寿ひさし死後しご100ねん以上いじょうって編纂へんさんされたものであるから、ちん寿ひさしにはその記載きさいかんしてなん責任せきにんもない。また、きよしくい駿しゅん中国語ちゅうごくごばんの『もろしかうたぐ』は、「こころざし列伝れつでん巻頭かんとうただしたくであるのは、(かん革命かくめい原因げんいんである天下てんか大乱たいらんの)元凶げんきょうあきらかにしているのであり、漢書かんしょ列伝れつでん巻頭かんとう項羽こううであるのとおなじである」としている。一方いっぽうで『四庫全書総目提要』は、初代しょだい皇帝こうてい曹丕ちちである曹操そうそうから記述きじゅつはじめていることについて「史記しきしゅうはた本紀ほんぎあやまりを踏襲とうしゅうしたもの」で、「『こころざし前史ぜんし』ともいえない(中途半端ちゅうとはんぱな)体裁ていさいとなっている」と批判ひはんしている。

年表ねんぴょう[17]

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王朝おうちょう 年号ねんごう 出来事できごと
こうかん 184 太平たいへいどうひきいるちょうかく挙兵きょへいし、はばらんこる。
189 れいみかど崩御ほうぎょただしたくひろのうおうはいしてけんじみかど擁立ようりつ
190 ただしたく長安ながやす遷都せんと
192 りょぬのただしたく暗殺あんさつ
193 曹操そうそうじょしゅうとうけんめ、領民りょうみん虐殺ぎゃくさつ

かく汜のつま嫉妬しっと原因げんいんで、傕とかく汜が仲間割なかまわれ。

194 りゅう備、じょしゅう領有りょうゆう
195 りゅう備、あま夫人ふじんわらわとする。
196 曹操そうそうもとけんじみかど擁立ようりつりゅう備、糜夫じんむかえる。
197 曹操そうそうちょう繡を降伏ごうぶくさせるが、鄒氏におぼれて大敗たいはい
198 りょぬのりゅう備をやぶってじょしゅう領有りょうゆう曹操そうそうりょぬの討伐とうばつ
199 袁紹、公孫こうそん瓚をほろぼして華北かほく支配しはいりゅう備、じょしゅう自立じりつ
200 曹操そうそうりゅう備をやぶる。せきはね夫人ふじんまもって曹操そうそう降伏ごうぶく

せきはね白馬はくばたたかいでかおりょうる。ていげん死去しきょ

曹操そうそうかんわたりたたかいで袁紹をやぶる。

201 りゅう備、りゅうひょう客将かくしょうとなる。
202 袁紹死去しきょ。袁紹のつまりゅう嫉妬しっとわらわ皆殺みなごろし。

曹操そうそう、袁譚・袁尚をやぶる。曹丕、甄氏を略奪りゃくだつ

207 りゅう備、三顧さんこれいしょかずらあきらむかえる。

あま夫人ふじん阿斗あとりゅうぜん)をむ。

曹操そうそう華北かほく統一とういつ

208 りゅうおもて死去しきょりゅう曹操そうそう降伏ごうぶく

長坂ながさか坡のたたかいで、ちょうくも阿斗あとまもる。

あかかべたたかい。しょかずらあきら説得せっとくまごけんりゅう備は同盟どうめいむすび、曹操そうそうやぶる。

209 りゅう備、まごけんいもうと結婚けっこん
210 しゅう死去しきょ曹操そうそうどうすずめだい建設けんせつ
211 りゅう備入しょく
214 しょかずらあきらちょうちょうくもひきいてにゅうしょくりゅう備、えきしゅう領有りょうゆう
216 曹操そうそうおうとなる。
219 りゅう備、曹操そうそうかんちゅうやぶってかんちゅうおうとなる。せきはねはい
220 曹操そうそう薨去こうきょ夫人ふじんに「ぶんはなうりくつ」の遺言ゆいごんのこす。
さんこく 220 曹丕(ぶんみかど)、けんじみかどから禅譲ぜんじょうけて建国けんこく

皇后こうごうあにののしってこうかんだつ抵抗ていこう

221 りゅう備(あきられつみかど)、しょくかんかん)を建国けんこく
222 りゅう備、えびすりょうたたかいで大敗たいはい
223 りゅう崩御ほうぎょしょかずらあきらりゅうぜんたくす。
225 しょかずらあきらみなみせいおこなって反乱はんらん平定へいてい
227 しょかずらあきら出師すいしひょうまつり、きた出陣しゅつじんはじめたちしょくかん内応ないおう
228 馬謖ばしょくまちていたたかいでちょう郃にやぶれる。りくへりくだ、曹休をやぶる。
229 まごけん大帝たいてい)、建国けんこくしょかずらあきらたけみやこ陰平かげひらやぶる。
234 しょかずらあきら五丈原ごじょうげん陣没じんぼつけんじみかど山陽さんようおおやけ崩御ほうぎょ
239 卑弥呼ひみこ使者ししゃ派遣はけんしておややまとおう称号しょうごうる。
249 司馬しばせいはじめ政変せいへん高平たかひらりょうへん)で曹爽を打倒だとうし、権力けんりょく確立かくりつ
263 司馬しばあきらしょくかんほろぼす。しょかずら瞻、奮戦ふんせんしてくにじゅんずる。
西にしすすむ 265 司馬しばえんたけみかど)、ほろぼして西にしすすむ建国けんこく
280 司馬しばえんほろぼして中国ちゅうごく統一とういつ

内容ないよう

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こころざししょ

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巻数かんすう 題名だいめい 収録しゅうろく人物じんぶつ
まき1 たけみかど 曹操そうそう
まき2 ぶんみかど 曹丕
まき3 あかりみかど 曹叡
まき4 さんしょうみかど 曹芳曹髦曹奐
まき5 后妃こうひでん たけせん皇后こうごう文昭ふみあき皇后こうごう文徳ふみのりかく皇后こうごうあかり悼毛皇后こうごう明元あけもとかく皇后こうごう
まき6 ただし袁劉でん ただしたくかく)・袁紹袁譚袁尚)・袁術りゅうひょう
まき7 りょぬの臧洪でん りょぬのちょうちんのぼる)・臧洪ちんひろし
まき8 公孫こうそんすえよんちょうつたえ 公孫こうそんとうけんちょう公孫こうそん公孫こうそんやすし公孫こうそんきょう公孫こうそんふち)・ちょうつばめちょうちょう
まき9 しょなつこう曹伝 なつほうあつしかんひろしふみきよし)・なつほうふかし曹仁曹純)・曹洪曹休曹肇)・曹真曹爽曹羲曹訓なに鄧颺ちょう畢軌まさる桓範)・なつこうなおなつほうげん
まき10 荀彧荀攸賈詡でん 荀彧荀惲荀甝中国語ちゅうごくごばん荀霬中国語ちゅうごくごばん)・荀攸賈詡
まき11 袁張すずし国田こくたおう邴管でん 袁渙ちょうはんちょううけたまわ)・すずししげるくにふちおうおさむ邴原かんやすしおうれつちょう中国語ちゅうごくごばんえびすあきら
まき12 ちぇもうじょなに司馬しばつたえ ちぇもうじょなに邢顒あわび司馬しばしば司馬しば中国語ちゅうごくごばん
まき13 鍾繇はな歆王ろうでん 鍾繇鍾毓)・はなおうあきらおうまご叔然中国語ちゅうごくごばん
まき14 ほどかくただしりゅう蔣劉でん ほどほどあかつき)・かくよしみただしあきらりゅう蔣済りゅうまご
まき15 りゅう司馬しばりょうちょうあつし賈伝 りゅう司馬しばあきらりょうちょうすんでゆたか賈逵
まき16 にんもりていくらつたえ にんたかしのりもりもりじょ)・ていくら
まき17 ちょうらく于張じょつたえ ちょうりょうらくすすむ于禁ちょうじょあきらしゅれい
まき18 二李臧文呂許典二龐閻伝 のりとおる臧覇まごかん)・ぶんりょけんもとてん龐悳龐淯龐娥)・閻温ちょうきょうちょう中国語ちゅうごくごばん
まき19 にんじょうひねしょうおうつたえ 曹彰曹植曹熊
まき20 武文たけふみ王公おうこうでん 曹昂曹鑠曹沖曹拠曹宇曹林曹袞曹玹曹峻曹矩曹幹曹上曹彪曹勤曹乗曹整曹京曹均曹棘曹徽曹茂曹協曹蕤曹鑑曹霖曹礼曹邕曹貢曹儼
まき21 おうまもるりゅうでんつたえ おうつばらじょみきちん阮瑀おうりゅうおうおうさだ阮籍嵆康桓威中国語ちゅうごくごばんただし)・まもるはんつとむ中国語ちゅうごくごばんおうぞう中国語ちゅうごくごばん)・りゅうりゅう繆襲なかちょうみつるりん中国語ちゅうごくごばん韋誕なつほうめぐみまごもり中国語ちゅうごくごばん)・でん
まき22 ひねじょまもるつたえ 桓階ちんちんやすし)・ちんじょせんまもる
まき23 かずつね楊杜ちょう裴伝 かずひろしつねはやし楊俊もりかさねちょうげん裴潜
まき24 かんちぇだかまごおうつたえ かんちぇりんこうやわらまごれいおうかん
まき25 からし毗楊阜高どうりゅうつたえ からし楊阜高堂こうどうたかし桟潜中国語ちゅうごくごばん
まき26 満田みつた牽郭でん まんちょう牽招かく
まき27 じょえびす二王におうでん じょえびすしつえびす)・おうあきらおうはじめ
まき28 おう毌丘しょかずら鄧鍾でん おうれいきつね)・毌丘倹しょかずらから)・鄧艾しゅうやすし)・鍾会おう
まき29 かたわざでん はなひろし樊阿)・もりしゅけんたいらしゅうせんかん
まき30 烏丸からすま鮮卑東夷あずまえびすでん 烏丸からすま鮮卑東夷あずまえびすおっとあまり高句麗こうくりひがし沃沮挹婁かんやまと

しょくこころざししょくしょ

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巻数かんすう 題名だいめい 収録しゅうろく人物じんぶつ
まき31 りゅうまきつたえ りゅうりゅうあきら
まき32 さきぬしでん りゅう
まき33 こうあるじでん りゅうぜん
まき34 おもでん あま皇后こうごうきよし皇后こうごうけいあい皇后こうごうちょう皇后こうごうりゅうひさしりゅうさとしりゅう
まき35 しょかずらあきらでん しょかずらあきらしょかずらたかししょかずらただし樊建
まき36 せきちょううまちょうつたえ せきはねちょううまちょうただしちょうくも
まき37 龐統ほう正伝せいでん 龐統法正のりまさ
まき38 もと糜孫簡伊はたつたえ もとやすし糜竺まごいぬい簡雍せきはた
まき39 ただしりゅううまちんただしりょでん ただしりゅうともみうまりょう馬謖ばしょく)・ちんしんただしまことあきらちん)・りょ
まき40 りゅう彭廖りゅうたかし楊伝 りゅうふう彭羕廖立いわおりゅうのべ楊儀
まき41 霍王こうちょう楊費でん 霍峻霍弋)・おうれんむかいあきらこうちょう)・ちょう楊洪
まき42 もりしゅうもりもとはじめらいいん譙郤でん もりほろしゅうちょうひろし)・もりもとはじめこうらいさとしいんだま譙周郤正
まき43 りょおうちょうつたえ けんたかし)・りょうまただしおうたいら)・ちょう
まき44 蔣琬禕姜維伝 蔣琬蔣斌蔣顕りゅうさとし)・きょう
まき45 鄧張むね楊伝 鄧芝ちょうつばさむねあずか廖化)・楊戯かん輔臣さん

こころざしくれしょ

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巻数かんすう 題名だいめい 収録しゅうろく人物じんぶつ
まき46 まごやぶとりこ討逆でん まごけんまごさく
まき47 しゅつて まごけん
まき48 さん嗣主でん まごあきらまごきゅうまご
まき49 りゅう繇太慈士燮伝 りゅうりゅうはじめ)・ふとしいちただし
まき50 嬪伝 夫人ふじんけい)・しゃ夫人ふじんじょ夫人ふじんじょ)・夫人ふじん皇后こうごうおう夫人ふじんだい懿王皇后こうごうおう夫人ふじんけいふところおう皇后こうごうはん夫人ふじんはん皇后こうごうぜん夫人ふじんぜん皇后こうごうしゅ夫人ふじんしゅ皇后こうごうなにひめあきらけんじなん皇后こうごう滕夫じん(滕皇后こうごう
まき51 宗室そうしつでん まごせいまごまごこうまご)・まごまご)・まごまごまごまつ)・まごただしまごまご
まき52 ちょう顧諸かずらでん ちょうあきらちょうちょううけたまわちょうきゅう)・顧雍顧邵顧譚顧承)・しょかずらしょかずらとおる)・
まき53 ちょういわおほど闞薛でん ちょうひろしちょうげんちょうしょう)・いむ裴玄)・ほど闞沢とうかた)・薛綜薛珝薛瑩
まき54 しゅう瑜魯粛呂こうむつて しゅう魯粛りょこうむ
まき55 ほどかん蔣周ちんただしあま淩徐はんちょうつたえ ほどひろしぶたかんとう蔣欽しゅうやすしちんたけしちんおさむひねひょう)・ただしかさねあまやすししのげみつるじょもりはんあきらひのとたてまつ
まき56 しゅおさむしゅしかりょはんしゅ桓伝 しゅおさむしゅしかしゅ)・りょはんりょよりどころ)・しゅしゅこと
まき57 おそれりくちょう駱陸われしゅつたえ おそれこぼしおそれおそれただしおそれそびえおそれ)・りくちょうあつし駱統りくわれつばらしゅよりどころ
まき58 りくへりくだつて りくへりくだりくこう
まき59 しゅでん まごとうまごおもんばかまごまごまご
まき60 ぜんりょしゅう鍾離でん ひとしぜんりょしゅう鍾離まき
まき61 はん濬陸凱伝 はんりくりくたね
まき62 えびす綜伝 えびすじょしょう
まき63 はんりゅうあつしちょういたるでん はんりゅうあつしちょういたる
まき64 しょかずらまご濮陽でん しょかずらつとむ聶友)・滕胤まごたかしまご濮陽きょう
まき65 おうろう韋華でん おうしげるろうげん韋昭はな

裴松ちゅう引用いんようされた主要しゅよう文献ぶんけん

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以下いかは、裴松これ注釈ちゅうしゃく引用いんようしている文献ぶんけんである。引用いんよう文献ぶんけんかずについては、ちょうつばさは「およそ50しゅ」、ぜにだい昕は「およそ140しゅ」、ちょう紹祖は「およそ180しゅ」、沈家ほんは「およそ210しゅ」で、張子はりこは227しゅとする。

  • 異同いどうざつ』 - まごもりちょ異説いせつしゅうらしい。裴松は「まごもり習鑿異同いどうさがもとめて漏洩ろうえいなし」とひょうしている。まごもり人物じんぶつひょうでもたびたび引用いんようされている。はなしげるために勝手かって台詞せりふ創作そうさくしたとわれている。たとえば、曹操そうそうりょはくおご中国語ちゅうごくごばん子供こどもたちをあやまってころしたあと、「むしわがじんくも、ひとをしてわがれにくこと毋からしめん(たとえ自分じぶん他人たにん裏切うらぎろうとも、他人たにん自分じぶん裏切うらぎることはゆるさない)」とったとあるが、この台詞ぜりふおな事件じけん記録きろくした先行せんこう文献ぶんけんおう沈らの『しょ』、かくの『』)にはなく、本書ほんしょはじめてあらわれている。高島たかしま俊男としおによると、台詞せりふ創作そうさく文献ぶんけんからの転用てんようは、ちん寿ひさしふくおおかれすくなかれっているという[18] が、まごもり史家しかくらべても露骨ろこつであり、ちんやすし発言はつげんについて裴松これ指摘してきされている。
  • 英雄えいゆう』 - おうつばらへんかんまつ英雄えいゆう』のことらしい。こうかんまつ群雄ぐんゆうについてかれている。
  • 『袁子』 - 袁準ちょ
  • えき耆旧でん』 - ちん寿ひさしちょえきしゅう人物じんぶつでんちん寿ひさしによれば、ひねじゅつという人物じんぶつ同名どうめい著書ちょしょのこしているが、ひねじゅつしょ使つかわれているかは不明ふめい。『華陽かようこくこころざし』によればちん寿ひさししょ自体じたいひねじゅつしょ加筆かひつしたもの。
  • えき耆旧雑記ざっき』 - ちん寿ひさしちょえきしゅう人物じんぶつでん。『えき耆旧でん』 の付録ふろくらしい。
  • 華陽かようこくこころざし』 - つねちょかんだいからすすむだいまでのともえしょく歴史れきししょ現存げんそんしている。
  • かん』 - 『こうかん』とも。ちょう中国語ちゅうごくごばんちょちょう璠はあずますすむひと
  • 漢書かんしょ』 - はな中国語ちゅうごくごばんちょはな嶠ははなまごこうかん歴史れきし皇后こうごう本紀ほんぎとしてあつかったのが特徴とくちょう
  • かんすすむ春秋しゅんじゅう』 - 習鑿ちょしょくかん正統せいとうろんき、しょくかんからすすむ正統せいとうつづけている。後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえたが、手放てばなしでしょくかん絶賛ぜっさんしているわけではない。これは、統一とういつ政権せいけん正統せいとうだいいち条件じょうけんとしたためで、習鑿こうたけみかどへの上表じょうひょうで「しょく正統せいとうだがよわかった」とひょうしている。裴松は「ただしまことでん」のちゅうで、後述こうじゅつの『じょう』とおな記事きじでもニしょ内容ないようちがいがったり、高官こうかんにあった人物じんぶつをわざと官位かんいひくいたりする内容ないようがあり、習鑿記事きじにはいいかげんな部分ぶぶんがあるとひょうしている。一方いっぽうりゅうともいくは『どおり』において「近古きんこのこじき」とたか評価ひょうかしている。
  • たかし春秋しゅんじゅう』 - まごもりちょ編年体へんねんたい歴史れきししょ
  • しょ』 - おう荀顗阮籍へん末期まっき成立せいりつしたが、司馬しばにおもねっているためちん寿ひさしおとるとわれている[19]。甄皇后こうごう項目こうもくでは、甄皇后こうごう自殺じさつめいじられたのではなく、曹丕は甄皇后こうごう皇后こうごうにしようとしたが、病気びょうき理由りゆう辞退じたいするうちに病死びょうししたので皇后こうごう追贈ついぞうしたと、あきらかに事実じじつことなった記述きじゅつをしており、裴松これから批判ひはんされている。
  • しょかずらこと』 - かくおきちょ司馬しば駿しゅん配下はいかたちがしょかずらあきらについて討論とうろんしたさいかくおきいつつの逸話いつわ紹介しょうかいしてしょかずらあきら美点びてん評価ひょうかした。しかし、裴松かくおきげた逸話いつわについて、すべつくばなしとしている。
  • 』 - ひだりおもえちょ。『さん』の一部いちぶ
  • たけ故事こじ』 - 作者さくしゃ不明ふめい曹操そうそう時代じだい政府せいふ慣例かんれい布告ふこくなどをあつめたものといわれている[19]
  • まつでん』 - 作者さくしゃ不明ふめい末期まっき事件じけんしるしている。曹氏に同情どうじょうてき。裴松は「しょかずら誕伝」のちゅうで、同書どうしょ記述きじゅつは「鄙陋ひろう下品げひん)」であり、歪曲わいきょくがあると批判ひはんしている。
  • りゃく』 - さかなちょ。『てんりゃく』の一部いちぶで、『りゃく』は周囲しゅうい民族みんぞくき、『てんりゃく』は通史つうしとなっていて、以外いがい中国ちゅうごく出来事できごとあつかっているらしい。中国ちゅうごく文献ぶんけんのうち大秦たいしんこくマ帝国まていこく)に言及げんきゅうした現存げんそん最古さいこのものでもある。りゅうともいくは『ふみどおり』で信憑しんぴょうせいをあまり考慮こうりょせずなにもかも記載きさいしようとしていると批判ひはんしているが、こうまご筆力ひつりょくがあると評価ひょうかしている。
  • おそれこぼし別伝べつでん』 - 作者さくしゃ不明ふめいおそれこぼし伝記でんき引用いんようぶんまごさくまごけん実名じつめいしるされているため、くれあらわされたものではないとされるが[ちゅう 12]さんこく時代じだいつくられたものらしい。
  • けんじみかど』 - 『ずいしょ』にりゅうかおるちょとあるが、おそらくりゅうもぐさ中国語ちゅうごくごばんちょりゅうもぐさこうかんひと。ただし、けんじみかどについては途中とちゅうまでしかかれていないらしい[19]
  • けんじみかどでん』 - 作者さくしゃ不明ふめい。『けんじみかど』を増補ぞうほしたものらしい。曹丕がけんじみかどから禅譲ぜんじょうされたさい家臣かしん上奏じょうそうぶんと曹丕の返答へんとう収録しゅうろくされている。禅譲ぜんじょう受諾じゅだくすすめる上奏じょうそうなん固辞こじし、謙譲けんじょうとく強調きょうちょうしたうえはじめて禅譲ぜんじょうけた様子ようすがわかる。
  • けんじみかど春秋しゅんじゅう』 - 袁暐ちょ。袁暐はちょうひろしとともにのがれた袁迪のまご。裴松きびしく批判ひはんしている。
  • 高貴こうききょうおおやけしゅう』 - 曹髦ちょ詔勅しょうちょく詩賦しふ自伝じでんなどの著作ちょさく発給はっきゅう文書ぶんしょしゅう
  • こうひょうでん』 - おそれちょ江南こうなん士人しじん伝記でんきしゅう。裴松は「あらいが筋道すじみちかよっている」とひょうする。まごもりあかかべたたかでのりゅう備軍が(まごけんぐん賛美さんびするために)過小かしょう評価ひょうかされていると批判ひはんしている。
  • くれしょ』 - 韋昭ちょ国史こくし完成かんせいしなかったようで、本書ほんしょ依拠いきょしてかれたちん寿ひさしの「くれしょ」にまでその影響えいきょうおよんでいる。
  • くれれき』 - えびすおきちょ歴史れきししょであり、ぜん6かん構成こうせい。裴松りゅう備が曹操そうそうからはなれるさいたねさいえて遁走とんそうしたという記述きじゅつは、事実じじつとかけはなれているとつよ批判ひはんしている。
  • くれろく』 - ちょう中国語ちゅうごくごばんちょちょう勃はちょうげんすすむひと紀伝きでんたいかれた歴史れきししょであり、ぜん30かん構成こうせい
  • こうかん』 - 『かん』とも。袁宏ちょこうかんからへの禅譲ぜんじょう批判ひはんし、間接かんせつてきしょくかん正統せいとうろんる。現存げんそんしている。
  • こう漢書かんしょ』 - しゃうけたまわちょこうかんあつかった紀伝きでんたい歴史れきししょでは、もっとはやつくられたという[19]
  • 山陽さんようおおやけ』 - らくちょらく西にしすすむ著作ちょさくろう。裴松きびしく批判ひはんする一方いっぽうで、しょくしょしょ正誤せいご判断はんだんするのにもちいている。
  • 『荀氏家伝かでん』 - 荀伯ちょ。潁川荀氏の家伝かでん
  • じょう』 - 習鑿ちょじょうぐん人物じんぶつでん
  • しょかずらあきらしゅう』 - ちん寿ひさしへん。『しょかずらしゅう』とも。しょかずらあきら書簡しょかん発給はっきゅう文書ぶんしょしゅう
  • しょく』 - おうかくれちょしょくかん歴史れきししょ。裴松は『しょく』のはなしつくばなしおおいときびしく非難ひなんしている。
  • ぞく漢書かんしょ』 - 司馬しばぴょうちょこうかん歴史れきししょこころざしのみ、正史せいしこう漢書かんしょ』にされて現存げんそん
  • こころざしりん』 - おそれちょおそれあずますすむひと歴史れきし民話みんわしるされている。
  • すすむ』 - 『すすむ』とも。たからちょ紀伝きでんたいかれた西にしすすむ歴史れきししょ
  • すすむしょ』 - おうかくれちょちちおうから親子おやこ2だいにわたる著作ちょさくおうかくれあずますすむ著作ちょさくろう西にしすすむ歴史れきししょ正史せいしすすむしょ』とはべつおなじく西にしすすむ歴史れきしこうとしたおそれあずか中国語ちゅうごくごばんは、おうかくれ原稿げんこうけ、勝手かってうつったうえおうかくれおとしい免職めんしょくにさせた。おうかくれ庾亮からかみひつ提供ていきょうけ、やっと完成かんせいさせたという。正史せいしすすむしょ』では「るべき内容ないようすべちち編纂へんさんしたところで、文体ぶんたい乱雑らんざつ意味いみ不明ふめいなところはかくれさくである」とひょうされている。
  • すすむしょ』 - おそれあずかちょおそれあずかあずますすむひと前出ぜんしゅつとおり、おうかくれ著書ちょしょ盗作とうさく疑惑ぎわくがある[19]
  • さがせかみ』 - たからちょこころざしかい小説しょうせつしゅう現在げんざい小説しょうせつとはちがい、本当ほんとうにあったはなしという姿勢しせいかれている。現存げんそんのものは後世こうせいはなしじっている。
  • 』 - かくせんの『すすむ』のこと。裴松これによれば、内容ないよう多少たしょう問題もんだいはあるが、たまにわった記事きじがあるので、よく世間せけんまれており、まごもりたかららもこのしょからおお採録さいろくしている。
  • 『曹瞞でん』 - 作者さくしゃ不明ふめいだが、ひとという。曹操そうそう悪行あくぎょうしゅうといえる内容ないようだが、後世こうせいひとにはむしろ痛快つうかいといえる逸話いつわもある。信憑しんぴょうせいはともかく、『三国志さんごくし演義えんぎ』にもおおいにれられている。
  • ちょうくも別伝べつでん』 - 作者さくしゃ不明ふめいちょうくも伝記でんきちん寿ひさし本文ほんぶん区別くべつするため「べつつて表記ひょうきしている。『三国志さんごくし演義えんぎ』でえがかれるちょうくも活躍かつやくは、おおくを本書ほんしょっている。
  • てんろん』 - 曹丕ちょ文学ぶんがくろん自伝じでん人物じんぶつひょうなど。中国ちゅうごくにおける文芸ぶんげい評論ひょうろんのさきがけで、文学ぶんがく地位ちいたかめた「文章ぶんしょう経国けいこく大業おおわざにして、不朽ふきゅう盛事せいじなり」の一文いちぶんられる。
  • でん』 - でんげんちょ思想しそう歴史れきし評論ひょうろん記事きじおおく、おや司馬しば立場たちばから、司馬しば対立たいりつした人士じんし批判ひはんしている。
  • べんほろびろん』 - りくちょ父祖ふそ故国ここくである功績こうせき顕彰けんしょうしつつ、ほろんだ理由りゆうろんじている。
  • だま』 - ちょうげんちょしょかずらあきらたか評価ひょうかした評論ひょうろんなど。しょかずらあきらが2度目どめ上表じょうひょうした「こう出師すいしひょう」(後人こうじん偽作ぎさくせつ有力ゆうりょく)の出典しゅってんとされる[よう出典しゅってん]
  • れいりょう先賢せんけんでん』 - 作者さくしゃ不明ふめいれいりょうぐん人物じんぶつでんかんしつ復興ふっこう立場たちばから、りゅう備の皇帝こうてい即位そくい批判ひはんしている。

日本語にほんごやく

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完訳かんやくしょ下記かき
  1. たかししょI ISBN 4-480-08041-4
  2. しょII ISBN 4-480-08042-2
  3. しょIII ISBN 4-480-08043-0
  4. しょIV ISBN 4-480-08044-9
  5. しょくしょ ISBN 4-480-08045-7
  6. しょI ISBN 4-480-08046-5
  7. しょII ISBN 4-480-08088-0
  8. しょIII・年表ねんぴょう人名じんめい索引さくいん ISBN 4-480-08089-9
  1. しょいち) ISBN 978-4762966415
  2. しょ) ISBN 978-4762966422
  3. しょさん未刊みかん
  4. しょよん未刊みかん
  5. しょ未刊みかん
  6. しょくしょ ISBN 978-4762966460
  7. しょいち) ISBN 978-4762966477
  8. しょ未刊みかん
別巻べっかん 三国志さんごくし研究けんきゅう備要 未刊みかん
抄訳しょうやくへんやくばん下記かき
三国志さんごくしだけではなく、こう漢書かんしょすすむしょふくめたへんやく
  • 正史せいし 三国志さんごくし英傑えいけつでんぜん4かん別巻べっかん1、『中国ちゅうごく思想しそう刊行かんこう委員いいんかいへんやく徳間書店とくましょてん 1994
しょくれしょしょくしょ主要しゅよう部分ぶぶん原文げんぶんおろし・日本語にほんごやくおさめられている。松枝まつえだ茂夫しげお立間たちまさちかい監修かんしゅう

三国志さんごくし』と『三国志さんごくし演義えんぎ

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のち講談こうだんなどから発展はってんして成立せいりつした通俗つうぞく小説しょうせつが『三国志さんごくし演義えんぎ』である。この『三国志さんごくし演義えんぎ』が日本にっぽんでは「三国志さんごくし」という名称めいしょう流布るふし、また吉川よしかわ英治えいじ演義えんぎもとあらわした小説しょうせつ三国志さんごくし』があまりにも有名ゆうめいになったため、日本にっぽん三国志さんごくし愛好あいこうあいだでは、

  • 歴史れきししょほうを『正史せいし
  • 三国志さんごくし演義えんぎ』およびそれにもとづいた文学ぶんがく作品さくひんを『演義えんぎ

けることが通例つうれいである。

中国ちゅうごくにおいては、

  • 歴史れきししょほうを『三国志さんごくし
  • 三国志さんごくし演義えんぎ』およびそれにもとづいた文学ぶんがく作品さくひんを『さんこく演義えんぎ

と、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ統一とういつされており、日本にっぽんのような呼称こしょう混乱こんらんはほぼない。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ しょ』「匈奴きょうどりゅうさとしつて」などでさんこく時代じだいれた記述きじゅつでは正統せいとうとし、まごけんを「にせまご」、りゅう備を「僭劉」とんでいる。これは、きたたかしたかし西にしすすむあずますすむは「僭晋」と否定ひていしている)を継承けいしょうした国家こっかであることのアピールである。
  2. ^ 筑摩書房ちくましょぼうばん解説かいせつによれば、それぞれの君主くんしゅ表現ひょうげんする言葉ことばでも、曹操そうそう・曹丕・曹叡の場合ばあいには実名じつめいかず、くなった場所ばしょいたうえで「くずれず」といているのにたいし、場合ばあいは「(まごけんこうず」「(まごきゅうこうず」といった具合ぐあい実名じつめい表記ひょうき場所ばしょ表記ひょうき臣下しんかでも使つかわれる表現ひょうげんもちいることによってをつけている。その一方いっぽうで、りゅう備の場合ばあいは「さきぬし永安えいあんみやに殂す」という表現ひょうげん敬意けいいあらわしている。
  3. ^ れいとして、192ねん南方なんぽうれんこうかん反旗はんきひるがえし、はやし建国けんこくした。子孫しそん朝貢ちょうこうしているが、『三国志さんごくし』では「こころざしりょつて朝貢ちょうこうがあったとかれているだけである。一方いっぽう、『すすむしょ』では「よんえびすでん」にはやし邑の項目こうもくがあり、そこに記述きじゅつがある。
  4. ^ 朝貢ちょうこうについて本紀ほんぎにあたるまごけんでん記載きさいはなく、列伝れつでん表記ひょうきされているので、ちん寿ひさし配慮はいりょした可能かのうせいがある。
  5. ^ ちんひがしじゅく読書どくしょ』「ろんさんこく」では、史料しりょうすくないしょく見劣みおとりするので、たかし分量ぶんりょうけずったと推測すいそくしている。
  6. ^ たとえば、曹奐伝記でんきである「ひねとめおうおさむ」は、執筆しっぴつに曹奐が存命ぞんめいだったので、すすむ禅譲ぜんじょうしたところで記事きじわっている。裴松ちゅうでは、曹奐の没年ぼつねんおくりなもと皇帝こうてい)がおぎなわれている。
  7. ^ くれしょ」は韋昭の『くれしょ』を参照さんしょうしてかれたとの指摘してきがある。
  8. ^ ちょうただしちょう廙のについては、ちょう一族いちぞく男子だんし曹丕ぞくさせられてしまっているため、存在そんざいうたがわしい。
  9. ^ ただし、ちょうただし曹操そうそうからたか評価ひょうかされ、世間せけんはそのしんだとされる。また、『りゃく』にはつててられていたという。
  10. ^ ただし、ちん寿ひさしが『しょかずらあきらしゅう』をせんしたのはちょうはな荀勗らの命令めいれいによるものであり、尊敬そんけい傍証ぼうしょうになるのか疑問ぎもんだというせつもある。
  11. ^ しょかずらあきらが祁山にたのは2で、きた自体じたいも5であって、いちしょうおさめなかったというのは完全かんぜんあやまりである。
  12. ^ ただし、裴松ちゅうではしょくかんくれがわ文献ぶんけんすすむ正統せいとう前提ぜんてい表記ひょうき改変かいへんした箇所かしょがある(文献ぶんけんである『曹瞞でん』の引用いんようにもかかわらず、曹操そうそうを「ふとし」と表記ひょうきしているなど)。

出典しゅってん

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  1. ^ つね華陽かようこくこころざしまき11・賢志けんじちん寿ひさしでんに、「たいら、(ひね寿ことぶき鳩合きゅうごうさん国史こくししるたかししょくさんしょろくじゅうへんごう三国志さんごくし』」とある。
  2. ^ ちょうひゃく衲本じゅうよん 三國志さんごくしばつ台湾たいわん商務しょうむしるししょかん、1937
  3. ^ 芦田あしだ孝昭たかあき物語ものがたり 三国志さんごくし 古典こてん案内あんない』インタープレイ2012の解説かいせつによると、貫中かんちゅう正史せいし三国志さんごくしさんじゅうかんにダイジェストしたりょけんの『じゅうななしょうぶし』をんでいたとされる。ただ、これには反論はんろんり、貫中かんちゅう三国志さんごくし全部ぜんぶんでいたというせつもある。また、上田うえだのぞむ研究けんきゅうこう小説しょうせつ歴史れきししょ』によれば講釈こうしゃくたちは三国志さんごくしまず、『どおりかん』をまとめた『つなかん』(こうかん)とばれるほん講釈こうしゃく種本たねほんとしてあるいていたという。
  4. ^ 高田たかだ時雄ときお滂としろけん」(敦煌とんこう写本しゃほん研究けんきゅう年報ねんぽう 2007)は日本にっぽん国内こくないぼう財団ざいだん図書館としょかん秘匿ひとくされていると主張しゅちょうしている。
  5. ^ 郭沫若かくまつじゃくしん疆新出土しゅつどてきすすむじん写本しゃほん三国志さんごくしざんまき」(文物ぶんぶつ 1972-2)
  6. ^ 清朝せいちょう学者がくしゃひょうこころざしおぎなったものは存在そんざいする。たとえばひろし亮吉りょうきちの『さんこくしょくかんひょう』、陶元とうげんちんの『さんこくしょく貨志』など。ただ、ちん寿ひさし歴史れきし下部かぶ構造こうぞう無頓着むとんじゃくだったために本文ほんぶんちゅう記載きさいとぼしく、そこから取材しゅざいした『さんこくしょく貨志』も内容ないよううすいとひょうされる。これらしんだいにつくられたひょうこころざしについては高島たかしま俊男としお三国志さんごくし きらめく群像ぐんぞう』ちくま文庫ぶんこ、2000参照さんしょう
  7. ^ きゅうとうしょ経籍けいせきこころざしおよび『しんとうしょ芸文げいぶんこころざしより。
  8. ^ 裴松うえ三國志さんごくし註表」には「ちんひさしこくこころざし」とある。
  9. ^ こころざしりく凱伝など
  10. ^ こころざしまき20 おうろう韋華でん
  11. ^ もとうまはし臨のせつで、かれの『文献ぶんけんどおりこう』には「おおきことは本書ほんしょちん寿ひさし本文ほんぶん)のすうばいぎたり」という。20世紀せいきになってもこのせつしんじられており、村上むらかみ知行ともゆきは1968ねん時点じてんでもうまはし臨のせつもとづいて記載きさいしている。村上むらかみ三国志さんごくし ぜん3かん』1968、河出かわで書房しょぼう巻末かんまつ解説かいせつ参照さんしょう
  12. ^ 高島たかしま2000
  13. ^ 高島たかしま2000
  14. ^ うまはし臨の『文献ぶんけんどおりこう』の原文げんぶんでは「ぶたちゅう所載しょさいひさしゆうもろしょ不知ふちことぶきつき而為しょ矣。ちゅう所載しょさいみなことぶきしょ棄餘也。後生ごしょう誦讀しょうけい議論ぎろんさいがいごと。」となっている。
  15. ^ うまはし臨の『文献ぶんけんどおりこう』の原文げんぶんでは、「水心みずごころ曰『ちんひさしひつだかしょ逼司遷,ぽうはんかたただししょう文義ふみよしえんかざりなんじようおわりしょうかた也。』」となっている。
  16. ^ 田中たなか靖彦やすひこちん寿ひさし処世しょせいと『三国志さんごくし」『駒沢こまざわ史学しがくだい76ごう駒沢こまざわふみ学会がっかい、2011ねん3がつ、69-97ぺーじISSN 04506928NAID 120006617337 
  17. ^ 渡邉わたなべ義浩よしひろ仙石せんごく知子ともこ『「三国志さんごくし」の女性じょせいたち』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2010ねん5がつ25にち、212-213ぺーじISBN 9784634640511 
  18. ^ 高島たかしま三国志さんごくし きらめく群像ぐんぞう』 pp.394-398
  19. ^ a b c d e 正史せいし三国志さんごくし8』ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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