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りゅう

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りゅう
こうかん
あおしゅう刺史しし・諫議大夫たいふまいりどう軍事ぐんじ
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
兗州山陽さんようぐん高平たかひらけん
拼音 Liú Cóng
主君しゅくん りゅうひょう曹操そうそう
テンプレートを表示ひょうじ

りゅう(りゅう そう、なま没年ぼつねんしょう)は、こうかんすえひとりゅうひょう庶子しょし生母せいぼしょうつま蔡瑁蔡夫じん(蔡瑁のあね)のめい[1]あにりゅう

略歴りゃくれき

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三国志さんごくしりゅうひょうでんによると、りゅうひょう後妻ごさいの蔡夫じん寵愛ちょうあいされ、蔡瑁・ちょうまこと一派いっぱあにりゅう琦を排除はいじょしてかれ後継こうけいしゃ擁立ようりつしようとしたため、りゅう琦とのなか悪化あっかした[2]

たてやすし13ねん208ねん)のりゅうひょう死後しご、蔡瑁らの政治せいじ工作こうさくもあって、あにりゅう琦をいて後継こうけいしゃとなった[3]進攻しんこうする曹操そうそう軍勢ぐんぜい対抗たいこうして荊州を保全ほぜんするさく配下はいかたずねたが、蔡瑁・蒯越でんたつみかんたかしおうつばららの進言しんげんしたが曹操そうそう降伏ごうぶくした。

降伏ごうぶくのちは、蔡瑁・蒯越らととも厚遇こうぐうされ、曹操そうそうによりあおしゅう刺史ししにんぜられ、同時どうじ列侯れっこうふうぜられた。のちに諫議大夫たいふまいりどう軍事ぐんじとなった[4]

演義えんぎでのりゅう

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三国志さんごくし演義えんぎ』では、りゅう琮は蔡夫じんで、りゅう琦の異母弟いぼてい[5]で、りゅうひょう死亡しぼうしたときには14さい若年じゃくねんながら聡明そうめいだったという設定せっていになっている。ちちりゅうひょうすきいて曹操そうそう南下なんか開始かいしすると、でんたつみ降伏ごうぶく主張しゅちょうし、りゅう琮は最初さいしょこれに抵抗ていこうするが、蒯越・おうつばららの説得せっとくしたが降伏ごうぶく決意けついする。降伏ごうぶくりゅう琮は、曹操そうそうによってあおしゅう刺史ししとしてかう途上とじょう于禁殺害さつがいされている。

なお、柴田しばた錬三郎れんざぶろうの『三国志さんごくし』では、りゅう琮はりゅうひょう養子ようし設定せっていされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ こう漢書かんしょりゅうひょうでん
  2. ^ こう漢書かんしょりゅうひょうでんでは、最初さいしょりゅうひょうおのれりゅう琦を寵愛ちょうあいしていたが、りゅう琮が蔡夫じんめいつまとすると、蔡夫じんりゅう琮に肩入かたいれしてりゅう琦を讒言ざんげんするようになり、りゅうひょうもこれをしんじるようになったという。
  3. ^ こう漢書かんしょりゅうひょうでんによれば、一方いっぽうりゅう琮は(りゅうひょう朝廷ちょうていからあたえられた)こうしるし授をりゅう琦におくったという。
  4. ^ 裴松ちゅうの『たけ故事こじ』より
  5. ^ 三国志さんごくし平話へいわ』ではりゅう琦とはけっしてなかわるかったわけではなく、むしろなかかったようにえがかれている。