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于禁

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于禁
たかし
えき寿ことぶきていこうやすどお将軍しょうぐんかりふし
出生しゅっしょう 生年せいねん不明ふめい
兗州泰山たいざんぐん鉅平けん
死去しきょ はつ2ねん221ねん
拼音 Yú Jìn
文則ふみのり
諡号しごう 厲侯
主君しゅくん あわびしん曹操そうそう曹丕
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きん(う きん、? - はつ2ねん221ねん))は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい武将ぶしょう文則ふみのり(ぶんそく)。兗州泰山たいざんぐん鉅平けん現在げんざい山東さんとうしょうたいやす岱岳)のひとは于圭。『三国志さんごくしたかしこころざしちょうらく于張じょつたえ」につてがある。

事跡じせき

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名将めいしょうの于禁

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はばらんさいして同郷どうきょうあわびしん義兵ぎへいつのったときに、それに参加さんかした。

はつたいら3ねん192ねん)、あわびしん戦死せんしすると、馴染なじみであった曹操そうそうしたさんじ、将軍しょうぐんおうあきら[1]配下はいかくわえられ、はくとなった。おうあきら弓馬きゅうばすぐれた于禁の才能さいのうたか評価ひょうかし、ゆう大将軍だいしょうぐんとするにるとして推挙すいきょした。曹操そうそうとの面談めんだんにより軍司ぐんじ任命にんめいされた于禁は、とうけんおさめるじょしゅうこう攻撃こうげきしてこれを陥落かんらくさせ、おちいじんじょう昇進しょうしんした。

きょうひらた元年がんねん194ねん)からのりょぬのとのたたかいでも、別働隊べつどうたい指揮しきして濮陽みなみにあるりょぬのべつじん2つをやぶり、さら別働隊べつどうたい指揮しきして須昌で高雅こうがやぶった。寿ことぶきちょうていすえはなれ攻略こうりゃくや、ちょうすすむてこもる雍丘攻略こうりゃくしたがい、すべてを陥落かんらくさせた。

たてやすし元年がんねん196ねん)2がつしゅうはば残党ざんとうりゅうらを征伐せいばつしたときは、いたはりにおいて曹操そうそうじん夜襲やしゅうをかけてきた邵らを直属ちょくぞく兵士へいし指揮しきして撃退げきたいし、邵らを残党ざんとうすべ捕虜ほりょとした。ひらとりここうじょう昇進しょうしんした。

けんやす2ねん197ねん)、における袁術ぐんはし包囲ほうい従軍じゅうぐんし、はし蕤ら4にんしょうった。

11月、曹操そうそうしたがあてまでちょう降伏ごうぶくさせた。そのちょう繡が反乱はんらんこしたため、曹操そうそうぐんだい混乱こんらんおちいまいかげ撤退てったいすることになった。このとき、于禁だけが手勢てぜいすうひゃくひきい、たたかいながら退却たいきゃくしたため、死傷ししょうしゃたものの離散りさんしゃさなかった。

ちょう繡の追撃ついげきゆるむと、于禁は隊列たいれつととのえて帰還きかんしたが、その途中とちゅう日頃ひごろから曹操そうそう寛大かんだいあつかわれているあおしゅうへい味方みかた略奪りゃくだつはたらいたことり、立腹りっぷくしてあお州兵しゅうへい討伐とうばつざいめた。あお州兵しゅうへい逃走とうそうし、曹操そうそうに于禁のこと讒言ざんげんした。周囲しゅういものが于禁に曹操そうそうはや弁明べんめいするようったが、于禁は「てきがすぐちかくまでており、そなえなければ迎撃げいげきできない。曹公は聡明そうめいであり、讒言ざんげん意味いみをなさない」とし、塹壕ざんごう陣営じんえいもうわったのちに、曹操そうそうした出向でむいて事情じじょうくわしく説明せつめいした。曹操そうそうよろこび、「わしは危急ききゅうであったが、そなたは乱戦らんせんでもぐん見事みごと制御せいぎょし、何事なにごとにもどうじない節義せつぎがあり、いにしえ名将めいしょうまさる」と于禁を賞賛しょうさんし、前後ぜんごにわたる功績こうせき評価ひょうかしてえき寿ことぶきちんこうふうじた。

けんやす3ねん198ねん)、曹操そうそう従軍じゅうぐんしてみのるちょう繡をめ、しもりょぬのりにした。

けんやす4ねん199ねん)4がつ別働隊べつどうたいとしてふみきよし曹仁らとともけん眭固めてやぶり、これをった。

8がつ曹操そうそう袁紹討伐とうばつのためかんわたりかう(かんわたりたたか)と、于禁は先陣せんじんつとめることみずかのぞんだ。そこで于禁にのべ守備しゅびさせて、曹操そうそう軍勢ぐんぜいをまとめてかんわたりげた。りゅうじょしゅう叛逆はんぎゃくしたので、曹操そうそうりゅう備を征討せいとうした。袁紹が于禁を攻撃こうげきしたが、于禁のまもりはかたく、袁紹は陥落かんらくさせることができなかった。

けんやす5ねん200ねん)、于禁はらくすすむとも歩兵ほへい騎兵きへいわせて5000にん指揮しきして袁紹のべつ営を攻撃こうげきし、のべから西南せいなんの汲・よしみけんにあった袁紹のべつじん30箇所かしょはらい、すうせんへいり、すうせんへい捕虜ほりょとし、将軍しょうぐんなにしげるおうら20余人よにん降伏ごうぶくさせた。さら曹操そうそうは于禁をべつぐんとして原武はらたけ駐屯ちゅうとんさせ、于禁は杜氏とうじの袁紹のじん攻撃こうげきしてやぶり、裨将ぐん昇進しょうしんした。

曹操そうそうしたがってかんわたり帰還きかんした。曹操そうそう土山つちやまきずいて袁紹と対峙たいじしていたが、袁紹にまれ多数たすう死傷ししょうしゃて、将兵しょうへい士気しきがっていた。ところが于禁が土山つちやま守備しゅび指揮しきして奮戦ふんせんしたので、士気しきかえした。袁紹をやぶったのち、于禁はへん将軍しょうぐん昇進しょうしんした。

荊州りゅうひょうせたりゅう備が侵攻しんこうすると、なつほうあつし指揮しき撃退げきたいおもむいたが、ひろしもちりゅう備の計略けいりゃくにかかり苦戦くせんし、のりすくわれている(「のりでん」・しょくこころざしさきぬしでん」)。

けんやす11ねん206ねん)、東海とうかいあきらふたた反乱はんらんこした[2]ため、その鎮圧ちんあつに于禁がたった[3]増援ぞうえんなつほうふかしはたらきもあって、あきら豨は于禁が旧友きゅうゆうであることたよりに降伏ごうぶくしたが、于禁は「包囲ほういされたのち降伏ごうぶくしたものゆるさない」というほうしたがって、あつし于に駐屯ちゅうとんする曹操そうそう指示しじあおぐべきだとするしょしょう反対はんたいり、なみだながしながらみずからのあきら豨を処刑しょけいした。曹操そうそうはその判断はんだんめながらも「于禁以外いがいしょう降伏ごうぶくすればかったものを」と、あきら豨をあわれんだとう。東海とうかい平定へいていされると、曹操そうそう朝廷ちょうていらくすすむ・于禁・ちょうりょう栄誉えいよとなえてこれを上奏じょうそうし(「らくしんでん」)、于禁はとら将軍しょうぐん任命にんめいされた。

荊州のりゅうひょうからの攻撃こうげきそなえ、于禁は潁陰に派遣はけんされた。らくしん翟に、ちょうりょうちょうしゃ派遣はけんされており、3にんはいがみことがあったが、さんぐんちょうげんのおかげで統制とうせいされた(「ちょうげんでん」)。

けんやす13ねん208ねん)、曹操そうそうが荊州を征伐せいばつするさい、于禁・ちょうりょうちょうしゅれいのりみち馮楷の7将軍しょうぐんは、あきらりょう太守たいしゅみやこただしまもるぐんとなったちょうげん統括とうかつされた(「ちょうげんでん」)。

けんやす14ねん209ねん)、ちょうりょうちょう郃・臧覇らとともちんらんうめしげる討伐とうばつした。最初さいしょ、于禁と臧覇がうめしげる攻撃こうげきして3000あまり軍勢ぐんぜい降参こうさんさせたが、のちうめしげるふたたび叛きちょうりょうちょう郃が攻撃こうげきするちんらん合流ごうりゅうしたため、ちょうりょうらの軍勢ぐんぜい兵糧ひょうろう不足ふそくした。しかし、于禁が兵糧ひょうろう輸送ゆそう任務にんむたったため、攻撃こうげき途絶とだえることはなく、ちょうりょうらはちんらんこと出来できた。しょく邑を200加増かぞうし、以前いぜんわせて1200とした。

当時とうじ、于禁はちょうりょうらくすすむちょう郃・じょあきらとも名将めいしょううたわれており、曹操そうそう征伐せいばつたびに5にん交代こうたいで、進攻しんこうのときは先鋒せんぽうとなり、撤退てったいのときは殿軍でんぐんとなっていた。

于禁の人柄ひとがら剛毅ごうき威厳いげんがあった。ぞく財物ざいぶつれてもふところおさめず、賞賜しょうしあたえるなど清廉せいれんでもあったが、法律ほうりつ重視じゅうしして部下ぶか統率とうそつするなど法律ほうりつ絶対ぜったいすることがあり、あまり兵士へいし民衆みんしゅう人望じんぼうことができなかった。先述せんじゅつちょうりょうらくすすむちょう郃・じょあきらの4にんがいずれも「兵士へいしをよく可愛かわいがり、命令めいれいとあらばよろこんで服従ふくじゅうした」とひょうされているのとはせい反対はんたいである。

曹操そうそうはいつもしゅれいにくんでおり、その軍営ぐんえいげたいとおもっていた。曹操そうそうしゅれい軍勢ぐんぜいげるときに、威名いめいとどろいていた于禁にすうじゅうひきいさせて指令しれいしょとどけさせた。しゅれいやその部将ぶしょうたちはうごことができず、しゅれいらは于禁の部下ぶかという立場たちば降格こうかくされることになったが、みなふるえて服従ふくじゅうした。このように于禁は人々ひとびとから一目いちもくかれていた。

ひだり将軍しょうぐん昇進しょうしんし、かりふし鉞をあたえられた。りょう邑を500分割ぶんかつし、一子いっしほうてられた。この時点じてんで、なつほうあつし曹操そうそうの「しんれい」によりぜん将軍しょうぐんとなっておらず、ひだり将軍しょうぐんの于禁はみぎ将軍しょうぐんらくしんならび、将軍しょうぐんとしては筆頭ひっとう地位ちいにあった。また、しょしょうなかかりふしあたえられたものなんめいかいたが、かりふし鉞をあたえられたのは曹操そうそう時代じだいでは于禁だけである。

晩節ばんせつけが

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けんやす24ねん219ねん)、曹操そうそう長安ながやすにいるときに、りゅう備軍のせきはね北上ほくじょうし曹仁の守備しゅびする樊城包囲ほういした(樊城のたたか)。于禁は援軍えんぐんしょうとしてななぐん指揮しき出陣しゅつじんした。このときかんすいさかのぼるつもりでふね用意よういしていたせきはねたいし、陸路りくろつたってきた于禁らはふねっていなかった。そこにかんすい氾濫はんらん発生はっせいしたため、于禁らななぐん水没すいぼつし、于禁は指揮しきしていた3まんへいともせきはね降伏ごうぶくして捕虜ほりょとなった。おなごろ、樊城のきた駐屯ちゅうとんしていた龐徳水没すいぼつしてせきはねらえられたが、降伏ごうぶくせずに曹操そうそうへの忠義ちゅうぎつらぬいてくびとなった。

両者りょうしゃほうけた曹操そうそうかなしみと嘆息たんそくめて「わしが于禁をってから30ねんになる。危機ききまえにし困難こんなんって、(忠義ちゅうぎつらぬいてえらんだ)龐徳におよばなかったとはおもいもよらなかった」とったという。蔣済司馬しばは「于禁殿どのらは洪水こうずいのせいでったのであり、たたかいに失敗しっぱいしたわけではありません」と曹操そうそういている(「蔣済でん」)。

せきはねは于禁の大軍たいぐん捕虜ほりょにしたこと兵糧ひょうろう欠乏けつぼうし、との国境こっきょうである湘関のこめ強奪ごうだつした。まごけんはこれをくとついに荊州へ侵攻しんこうし、りょこうむ先鋒せんぽうとして派遣はけんした(「りょこうむつて」)。

まごけんが荊州をうばうと、こうりょう捕虜ほりょとなっていた于禁は、今度こんどまごけんによってらえられ賓客ひんきゃくとしてされたが、おそれこぼしにはその態度たいど罵倒ばとうされた。さらにおそれこぼしは、忠義ちゅうぎつらぬけなかったものへのせしめに于禁をころすよう主張しゅちょうしたが、まごけんわなかった。しかし于禁は帰国きこくしたのちおそれこぼしおおいに称賛しょうさんしたという(こころざしおそれこぼしでん」がく『くれしょ』)。

曹操そうそうくなり、曹丕ぶんみかど)が禅譲ぜんじょう即位そくいすると、まごけんはんこくとしてのれいった。221ねん、于禁は捕虜ほりょとともに送還そうかんされることとなった。

曹丕が于禁を引見いんけんしたとき、于禁はひげかみしろで、かおはげっそりとやつれていた。曹丕は于禁を表向おもてむなぐさやすどお将軍しょうぐん任命にんめいし、への使者ししゃ任命にんめいするとして、高陵こうりょう曹操そうそうはか参拝さんぱいさせた。しかし曹丕はあらかじめ、せきはねたたかいにち、龐徳が憤怒ふんぬして降服こうふくこばみ、于禁が降服こうふくした有様ありさまえがかせておいた。于禁はこれをると、面目めんぼくさとはらちのためやまいたおれ、死去しきょした。于圭あといだ。

おくりな厲侯。厲は「扶邪たがえただし[4]などの意味いみがある。于禁は死後しごまでもあざけられたのだった。于禁とおなじく汚名おめいのこしたまま死去しきょした鄧艾ただしが、のち汚名おめい返上へんじょうする機会きかいがあったのにたいし、于禁は最後さいごまで機会きかいあたえられなかった。

于禁と同格どうかくちょうりょうらくすすむちょう郃・じょあきらら、格下かくしたのり・龐徳・てんらが、建国けんこく功臣こうしんとして曹操そうそうびょうにわまつられたが、于禁はまつられていない。

評価ひょうか

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ちん寿ひさしは、曹操そうそう在世ざいせいもっと功績こうせきがあった将軍しょうぐんとして、ちょうりょうらくすすむ・于禁・ちょう郃・じょあきらひとつのまき収録しゅうろくしており、于禁はそのさん番目ばんめ位置付いちづけられている。于禁はにんなかもっと剛毅ごうき威厳いげんがあったが、そのわりをまっとうしなかったとひょうされている。

しょ』は、于禁が行軍こうぐんなかから抜擢ばってきされ、いのちりつこうして名将めいしょうとなったことを、曹操そうそう人物じんぶつすぐれていたことのたとえとしてげている。

きたそう司馬しばひかりは、『どおりかん』のなかで「于禁はすうまん将兵しょうへいひきいていた。やぶれてもぬことができずにきて降伏ごうぶくし、またかえってた。ぶんみかど(曹丕)はこれ(于禁)を罷免ひめんすることも、ころすこともできた。それなのにりょうに(降服こうふくした有様ありさまを)えがかせてこれをはずかしめた。君主くんしゅのやることではない」と、曹丕の仕打しうちを批判ひはんしている。

裴松は、于禁が旧友きゅうゆうであることたよりに降伏ごうぶくしたあきら豨を囚人しゅうじんとして曹操そうそうした護送ごそうし、旧友きゅうゆうのためにまんいち大赦たいしゃ期待きたいすべきだったとして于禁の行為こうい非難ひなんしている。

三国志さんごくし演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、あお州兵しゅうへい処断しょだん曹操そうそうぐんをまとめた逸話いつわ紹介しょうかいされている一方いっぽう曹操そうそう降伏ごうぶくしたりゅう曹操そうそういのち暗殺あんさつしたり(史実しじつではりゅう琮は曹操そうそうつかえたのち昇進しょうしんかさねている)、龐徳の忠義ちゅうぎうたが手柄てがら妨害ぼうがいをする場面ばめんがあり、奸臣かんしん曹操そうそう忠実ちゅうじつ手先てさきとして貫徹かんてつしている。あわれな最期さいごうながすためか降服こうふく場面ばめんではみじめな命乞いのちごいをしている。この描写びょうしゃ処刑しょけいされた龐徳の忠義ちゅうぎしんを、よりてることになっている。弓馬きゅうばじゅつすぐれた将軍しょうぐんとして登場とうじょうするが、いちをする機会きかいすくなく、うまちょうって場面ばめんがある程度ていどである。またあかかべたたかでは、処刑しょけいされた蔡瑁ちょうまこと後任こうにんとしてもうとも水軍すいぐんみやこただしとなっている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かい太守たいしゅおうあきらとは別人べつじん。この人物じんぶつ出身しゅっしんぐん事蹟じせき不明ふめい
  2. ^ この反乱はんらんは2度目どめであり、1度目どめちょうりょうによって説得せっとくされ、つみゆるされていた。
  3. ^ 「臧覇でん」によると、臧覇も従軍じゅうぐん
  4. ^ いっしゅうしょ』「おくりなほうかい

関連かんれん項目こうもく

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