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曹仁

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曹仁
清代の曹仁の肖像
しんだいの曹仁の肖像しょうぞう
たかし
ひねこう大将軍だいしょうぐんだい司馬しば
出生しゅっしょう たてやすし元年がんねん168ねん
しゅう沛国譙県
死去しきょ はつ4ねん3月19にち223ねん5月6にち
拼音 Cáo Rén
こう
諡号しごう ちゅうこう
主君しゅくん 曹操そうそう曹丕
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ひとし(そう じん、たてやすし元年がんねん168ねん) - はつ4ねん3月19にち223ねん5月6にち))は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい武将ぶしょうこう(しこう)。しゅう沛国譙県(現在げんざい安徽あんきしょう亳州譙城)のひと祖父そふ曹褒ちち曹熾[1]さむらいちゅうちょうみずこうじょう)。 従兄じゅうけい曹操そうそうおとうと曹純曹泰・曹楷・曹範ら。まごは曹初(曹泰の)。『三国志さんごくしたかしこころざししょなつこう曹伝」につてがある。

騎兵きへい指揮しきして各地かくち転戦てんせんし、のちには防衛ぼうえい司令しれいかんとなり、晩年ばんねん大将軍だいしょうぐんだい司馬しばにまでのぼった。

一族いちぞく

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宦官かんがん曹騰次兄じけい潁川太守たいしゅ曹褒のまごで曹熾ので、曹操そうそう同族どうぞくである。

1974ねんから1977ねんにかけて、安徽あんきしょう亳州譙城かんだいの沛国譙県)の城南じょうなん一帯いったい古墳こふんぐん発掘はっくつ曹氏公園こうえんづけられる)された。 調査ちょうさ結果けっか、この古墳こふんぐんは曹一ぞくはか判明はんめいした。それによると「大長おおちょうあき曹騰、かい曹君(曹胤)、潁川太守たいしゅ曹褒、ちょうみずこうじょう曹熾、くれぐん太守たいしゅ曹鼎…」と曹一ぞくしるされている[2]

生涯しょうがい

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曹操そうそうぐん騎兵隊きへいたいちょう

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武勇ぶゆうすぐれ、わかいころから弓術きゅうじゅつ馬術ばじゅつ狩猟しゅりょうこのんだ。ちちおとうとの曹純が14さいのときにくなったが、曹仁は曹純とは別居べっきょしていたという。

豪傑ごうけつならおこったのちひそかに若者わかものせんにんあまりをあつめ、淮水・泗水しすいじょしゅうのこと)であばれまわった。その曹操そうそう配下はいかはいり、べつ司馬しばぎょう厲鋒こうじょうとなった。

193ねん袁術とのたたかいでおおくのてきへい斬首ざんしゅ捕獲ほかくした。さらに、とうけんとのたたかいでは騎兵きへいひきいて先鋒せんぽうとなり、べつぐん指揮しきしてとうけん部将ぶしょうであるりょゆかりやぶり、彭城においてほんぐん合流ごうりゅうし、そこでもおおいに功績こうせきげた。曹操そうそうはなそくすみ開陽かいよう攻撃こうげきすると、とうけん援軍えんぐん派遣はけんしてきたが、曹仁はふたた騎兵きへいひきいて、これをおおいにやぶった。

194ねんからのりょぬのとのたたかいでは、べつぐん指揮しきしてとし、りょぬの部将ぶしょうりゅうなに捕虜ほりょにした。

196ねん曹操そうそうしゅうはばぞく討伐とうばつし、けんじみかどむかえてもとあきらいたさい、曹仁はしばしば功績こうせきて、広陽こうよう太守たいしゅ任命にんめいされた。しかし、曹操そうそうは曹仁の勇気ゆうき智略ちりゃく評価ひょうかしていたので、広陽こうようぐん赴任ふにんさせずに、騎兵隊きへいたい指揮しきさせたままろうとした。

197ねんあてちょうとのたたかいで、曹仁はべつぐん指揮しきして近隣きんりんけん攻撃こうげきし、男女だんじょさんせんにんあまりを捕虜ほりょにした。曹操そうそう撤退てったいちゅうちょう繡の追撃ついげきけて敗北はいぼくするとぐん士気しきうしなったが、曹仁は指揮しき将兵しょうへいはげまし、おおいに奮戦ふんせんした。曹操そうそうは曹仁のはたらきにふか感嘆かんたんし、かくてちょう繡をやぶった。

199ねんはる2がつ河内かわうちちょう暗殺あんさつされ、そのきゅう部下ぶか曹操そうそう袁紹かれて対立たいりつし、袁紹眭固主導しゅどうけんにぎり、けん駐屯ちゅうとんして袁紹のぐんせようとした。なつ4がつ、曹仁は曹操そうそう命令めいれいで、ふみきよしらとともに、袁紹と合流ごうりゅうしようとした眭固をいぬじょうにおいてやぶり、った。

200ねん曹操そうそうと袁紹が決戦けっせんしたときは、袁紹の部将ぶしょうりゅうが㶏強を攻撃こうげきし、おおくのしょけんを袁紹がわ寝返ねがえらせていたため、曹操そうそう不安ふあんになった。曹仁は曹操そうそうたいし、「りゅう備が指揮しきしているのは袁紹のへいですから、その運用うんようれておらず、たたかえばてます」と主張しゅちょうし、曹操そうそうはこれをしとした。曹仁は騎兵きへい指揮しきしてりゅう備をやぶり、離反りはんしたしょけんすべ奪回だっかいして帰還きかんした。

袁紹は部将ぶしょうかんたけし使つかって西方せいほう交通こうつう遮断しゃだんをしようとしたが、曹仁はにわとりらくやまかんたけし大破たいはした。このため袁紹はそれをあきらめた。また、ふみきよしらとともに袁紹の兵糧ひょうろうしゃ襲撃しゅうげきし、これをはらった。

205ねんこうみきもるつぼせき包囲ほういしたさい曹操そうそうは「てき一人ひとりのこらず穴埋あなうめにせよ」と布令ふれいし、れんがつしてもくだすことができなかった。曹仁は「しろかこときにはかならかつもんしめし、きるみちけておくものです。かならころすことをげてかたしろめるのは、良策りょうさくではありません」と諫めた。曹操そうそうがこの意見いけんしたがうと、てき降伏ごうぶくした。曹仁は前後ぜんご功績こうせきによりていこうふうじられた。

荊州防衛ぼうえいせん

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208ねん、荊州のみなみぐん攻防こうぼうせんで曹仁はこうせいみなみ将軍しょうぐんとしてこうりょうまもり、まごけんぐんみやこただししゅうたたかった。しゅうすうまんへいひきいて来襲らいしゅうすると、曹仁は部将ぶしょううしきんに300のへいあたえ、しゅう瑜軍の先鋒せんぽうの6000軍勢ぐんぜいたたかわせるが、うしきん包囲ほういされた。これをちょう吏のちんらはあおざめたが、曹仁は激怒げきどし、ちん矯の制止せいしって直属ちょくぞく勇士ゆうしすうじゅう出城でしろした。ほりわたってそのまま敵陣てきじん突入とつにゅうし、果敢かかんうしきん救助きゅうじょしたのちのこされたへいがいたのでふたた敵陣てきじん突入とつにゅうして救出きゅうしゅつした。てきぐん後退こうたいし、ちん矯らは曹仁の勇敢ゆうかんさを「将軍しょうぐんしん天人てんにん也」と称賛しょうさんし、三軍さんぐん心服しんぷくした。曹操そうそうも曹仁の功績こうせき評価ひょうかし、安平あびらちんこう国替くにがえした。

たたかいは1ねんあまつづき(「しゅつて」)、曹仁はしゅう瑜にきずわせるなど善戦ぜんせんしたが、結局けっきょくしゅう瑜らにやぶこうりょううしなった(「しゅう瑜伝」)。こうりょう北道ほくどうせきはねっていたが、なんじみなみからけたとおるせき攻撃こうげきし、みずか包囲ほうい突入とつにゅうして曹仁を救出きゅうしゅつした(「とおるでん」)。

211ねん3月、うまちょう反乱はんらんこすと、曹操そうそうは曹仁をくだり安西あんざい将軍しょうぐん任命にんめいして防御ぼうぎょぐん司令しれいかんとし、自身じしん到着とうちゃくするまで潼関守備しゅびさせた。7月に曹操そうそう布陣ふじんし、9月にはうまちょうを渭南でやぶった(潼関のたたか)。

河間こうまはく中国語ちゅうごくごばんぎん中国語ちゅうごくごばん反乱はんらんこすと、曹仁はこう驍騎将軍しょうぐん任命にんめいされ、ななぐん司令しれいかんとしてその追討ついとうにあたった。そのふたたぎょうせいみなみ将軍しょうぐんとなり、かりふしとして樊城駐屯ちゅうとんし、荊州を鎮守ちんじゅした。

218ねん10月、南陽なんよう太守たいしゅ東里とうり中国語ちゅうごくごばん過酷かこく軍務ぐんむ原因げんいんで、あて豪族ごうぞくほうおとまもるひらく中国語ちゅうごくごばんらが謀反むほんこし、せきはね連合れんごうして近県きんけん略奪りゃくだつした。曹仁は龐徳しょぐん指揮しきってこれを討伐とうばつし、放逐ほうちくされた東里とうり袞と合流ごうりゅうした。よく219ねん正月しょうがつあてじょう陥落かんらくさせてほうおとらを処刑しょけいし、樊城に帰還きかんした。正式せいしきせいみなみ将軍しょうぐん任命にんめいされた。

せきはねとの荊州争奪そうだつせんでは、連日れんじつあくてん豪雨ごううによってかんすい氾濫はんらんし、樊城のそと駐屯ちゅうとんしていた龐徳は水没すいぼつしてせきはねられた。援軍えんぐん于禁ななぐん水没すいぼつし、せきはね降伏ごうぶくした。せきふねならべて水没すいぼつした樊城を包囲ほういし、曹仁の手元てもとにはすうせん人馬じんばしかのこっていなかったが、まんちょうともじょあきら援軍えんぐん到達とうたつまで軍規ぐんき徹底てっていし、へい鼓舞こぶしてよくまもり、その猛攻もうこうふせった。じょあきら外部がいぶからせきはね攻撃こうげきすると、曹仁もしろからせきはね攻撃こうげきし、せきはね撤退てったいさせた(樊城のたたか)。

ちょう成立せいりつ以降いこう

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220ねん曹丕ぶんみかど)がおうにつくと、使つかいぶしくるま将軍しょうぐんみやこただし荊揚えきさんしゅうしょ軍事ぐんじひねこう昇進しょうしんし、2000加増かぞうけ、りょう邑計3500となった。ちちの曹熾にもちんきよしこう追贈ついぞうされ、はかまもりのいえが10けんつけられた。

中央ちゅうおうでは「樊城・じょうには食糧しょくりょうがないのでふせぐことができない」との意見いけんされ、曹仁はしぶりつつも荊州北部ほくぶててあて撤退てったいしたが、あんじょうじょうまごけん占拠せんきょされてしまった。そのじょあきららとともじょうこもひね邵をやぶり、じょう奪還だっかんした。将軍しょうぐんこう中国語ちゅうごくごばんめいじて、かんすい南部なんぶ住民じゅうみん北部ほくぶ移住いじゅうさせるようにはからった。

221ねん4がつぶんみかどは曹仁を大将軍だいしょうぐん任命にんめいし、つぎに臨潁にたむろ移転いてんさせてだい司馬しば任命にんめいした。曹仁はしょぐん指揮しき烏江からすえ占拠せんきょし、かえしてごうこえ駐屯ちゅうとんした。

222ねんあき9がつ歩兵ほへい騎兵きへいすうまん指揮しきして、濡須に進軍しんぐんした(「しゅつて」)。この戦役せんえき曹休らが洞口ほらぐち曹真らがこうりょうどう時期じき進撃しんげきするだい規模きぼなものだった。

223ねん3がつ[3]部将ぶしょうつねの曹泰に別働隊べつどうたい指揮しきまかせ、の濡須とくだったしゅあざむき、くれぐん分散ぶんさんさせることに成功せいこうしたが、しゅ桓の本隊ほんたいすくない手勢てぜい奮戦ふんせんしたためれず、つね雕の別働隊べつどうたいさきやぶられたため、ぐんいて撤退てったいした(濡須こうたたか)。

同年どうねん3がつ19にち[4]病死びょうし。56さいであった。ちゅうこうおくりなされ、の曹泰がこういだ。また、曹楷・曹範にも邑が分与ぶんよされ、ともに列侯れっこうとなった。曹泰は鎮東将軍しょうぐんかりふしまで昇進しょうしんした。曹泰のあとはそのの曹初がいだ。

233ねん曹叡だい)5がつ功臣こうしんなかこうくん顕著けんちょものとして、曹仁はなつほうあつしほどとも曹操そうそうびょうにわまつられた。功臣こうしん合祀ごうし度々たびたびおこなわれたが、このさんにん最初さいしょであった。

評価ひょうか

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曹仁はわかころ乱暴らんぼうしゃであったが、曹操そうそうしたがうと過去かこ行為こういいましめて成長せいちょうし、厳格げんかくほう遵守じゅんしゅし、つねほうらしわせて信賞必罰しんしょうひつばつおこなうなど、しょしょう見本みほんになったとされている。曹丕はがらす征伐せいばつおもむいた曹彰たいし、曹仁を見習みならって軍令ぐんれい適用てきようするようにと手紙てがみ忠告ちゅうこくしている。

でん』は、曹仁の武勇ぶゆうはじめなついく匹敵ひってきし、ちょうりょうはそのつぎ位置いちすると評価ひょうかしている。

渡邉わたなべ義浩よしひろは曹仁を、曹魏をささえた名将めいしょうであり、なつこう・曹氏のなかでもっと軍事ぐんじてき成功せいこうをおさめたと評価ひょうかしている。名将めいしょうであるがゆえに各地かくちたたかいを転戦てんせんしたことで、演義えんぎでは完全かんぜんやくにされてしまったとしている[5]

三国志さんごくし演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、はんただしたく連合れんごうさい曹操そうそうもと曹洪ともさんじ、曹操そうそうぐんたたかいで度々たびたびそのられる。

りょぬのとのたたかいでは、曹操そうそう命令めいれいけ、べつぐんしょう沛城を攻略こうりゃくして守備しゅびかため、りょぬのした邳城にんだ。

新野しんのりゅう備軍とのたたかいでは、のり助言じょげんことごと退しりぞけ、たんぶくじょ)に「はちもんきんくさりじん」をやぶられて大敗たいはいし、曹操そうそうみずから荊州にはいったさいには曹洪とぜんじんつとめるが、無人むじん新野あらたのじょう入城にゅうじょうしてしょかずらあきらけいやぶれる。

みなみぐんではしゅう瑜とはげしい攻防こうぼうひろげ、うしきん包囲ほういされたさいは、ほぼ史実しじつどおりの顛末てんまつくれぐん敗走はいそうさせている。えびすりょううばわれて情勢じょうせいあやうくなると曹操そうそう文書ぶんしょしるされた作戦さくせん実行じっこうし、しゅう瑜にきずわせてくれぐん大破たいはするが、しゅう瑜の偽装ぎそうはままってみなみぐんうしなった。

うまちょうかんとげ指揮しき西にしりょうぐんとのたたかいでは、曹洪が短気たんきなため潼関の守備しゅび失敗しっぱいすると曹操そうそういさめ、たして曹洪が敗北はいぼくし、曹操そうそう激怒げきどして潼関への突撃とつげきはかると、まず陣営じんえいきずくよう進言しんげんした。

せきはね指揮しきる荊州ぐんとのたたかいでは、まんちょう意見いけんかずに苦戦くせんしたが、樊城陥落かんらく危機ききにはまんちょういさめで奮起ふんきし、せきはねきずわせ、じょあきら救援きゅうえんが荊州をうばったことかえし、ついには荊州ぐん撃退げきたいした。

曹丕のだいにはくれへのさん方面ほうめんぐんのうち濡須を担当たんとうするが、遠征えんせいによる疲労ひろう不利ふり先鋒せんぽう部隊ぶたいつね雕が壊滅かいめつして撤退てったいする。そのしょく再度さいど同盟どうめいしたころにはすで死去しきょしていたことかされる。

曹仁は物語ものがたりちゅうで曹洪と一緒いっしょ登場とうじょうする機会きかいおおく、とも弓術きゅうじゅつ馬術ばじゅつ熟達じゅくたつし、武芸ぶげい百般ひゃっぱん精通せいつうしてると紹介しょうかいされている。性格せいかくではつよ自負じふしんわざわいし、部下ぶか助言じょげんをききいれずに痛手いたでうという場面ばめんおお一方いっぽう、よくみとどまり、西にしすずかぐんから必死ひっし陣営じんえいまもって被害ひがい最小さいしょうおさえ、荊州ぐんからは樊城をまもっている。またもとあきらみなみぐんをはじめ、重要じゅうよう拠点きょてん本陣ほんじん守備しゅび大軍たいぐんともにしばしばまかされており、曹操そうそうからのあつ信頼しんらいうかがれる。

曹操そうそう将軍しょうぐんたちが禰衡皮肉ひにくわれたさいに、曹仁は「ようぜに太守たいしゅ金銭きんせんもとめる太守たいしゅ)」とけなされているが、史実しじつ吝嗇りんしょく記述きじゅつされている曹洪とちがえている模様もようである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 曹操そうそう一族いちぞく墳墓ふんぼから、「ちょうみずこうじょう曹熾もともり」とえがかれたレンガが出土しゅつどした。 安徽あんきしょう亳県博物館はくぶつかん「亳県曹操そうそう宗族そうぞくはかそう」『文物ぶんぶつ』8、1978ねん、p33。
  2. ^ みずけいちゅう』によると、譙県に曹騰のあにはかがあり、その碑文ひぶんは「かんの潁川太守たいしゅ曹君(曹褒)は、のべ9ねん166ねん)にぼっした」および「(の曹熾は)大中おおなか大夫たいふ司馬しばちょうふみさむらいちゅう歴任れきにんし、ちょうみずこうじょう昇進しょうしんし、39さいぼっした」としるされている。また、177ねん熹平6ねん)、曹褒ので曹熾のおとうとである曹胤(曹仁の叔父おじ)が埋葬まいそうされ、その碑文ひぶんに「かんの謁者(曹胤)、熹平6ねんぼっした」としるされている。
  3. ^ しゅつて
  4. ^ ぶんみかど
  5. ^ 『「三国志さんごくし武将ぶしょう34せん