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おうたいら

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おうたいら
五丈原諸葛亮廟の王平像
五丈原ごじょうげんしょかずらあきらびょうおうたいらぞう
しょくかん
あんかんこう・鎮北大将軍だいしょうぐん
出生しゅっしょう 生年せいねん不明ふめい
えきしゅうともえ西郡にしごおり宕渠けん
死去しきょ のべ11ねん248ねん
拼音 Wáng Píng
ひとし
別名べつめい なにひらた
主君しゅくん 曹操そうそうりゅうりゅうぜん
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おう たいら(おう へい)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいしょくかんにかけての軍人ぐんじんひとし一時期いちじき母方ははかたせいもちいてなにひらた名乗なのったこともある。えきしゅうともえ西郡にしごおり宕渠けん現在げんざい四川しせんしょういたるしゅう)のひと民族みんぞくいた循蛮の出身しゅっしんといわれる[よう出典しゅってん]おうさとし嫡子ちゃくし)。

略歴りゃくれき

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もと母方ははかたなに養育よういくされていたが、のちおうせいもどった。曹操そうそうかんちゅう侵攻しんこうしてちょうくだしたさいちょう魯に帰順きじゅんしていた民族みんぞく指導しどうしゃでありもりほおえびす曹操そうそう帰順きじゅんともえ西郡にしごおり太守たいしゅともえひがしぐん太守たいしゅ任命にんめいされていた、おうたいらかれらにともな洛陽らくようおもむこうじょうあたえられていたが、たてやすし24ねん219ねん)のじょうぐんやまたたかふくんだ一連いちれんかんちゅう攻防こうぼうせんさいりゅうぐんり、きばかどすすむ・裨将ぐん任命にんめいされた。以降いこうしょくかんつかえることとなった。

しょかずらあきらきたにも従軍じゅうぐん戦功せんこうげた。とくおうたいらたかめたのはまちていたたかで、おうたいらしょかずらあきらから馬謖ばしょくぐん先鋒せんぽうめいじられ、馬謖ばしょく山上さんじょう布陣ふじんしようとするのをなんいさめた。しかし馬謖ばしょくおうたいら諌言かんげんをききいれなかったため、結果けっかとしてたかしぐん大敗たいはいきっした。しかし、おうへい指揮しき部隊ぶたい1,000がとどまって陣太鼓じんだいこらしこたえたため、ぐん指揮しきっていたちょう伏兵ふくへい存在そんざいうたがってちかづこうとはしなかった。てき追撃ついげきゆるめたところで、かれ徐々じょじょしょ営の残留ざんりゅうへい収容しゅうようし、将兵しょうへいをまとめて帰還きかんした。これによりしょくぐん全滅ぜんめつまぬかれることができた。馬謖ばしょくおよびその配下はいか武将ぶしょうがいずれも軍令ぐんれい違反いはん処罰しょばつされたが、おうたいらだけはこのとき功績こうせきにより特別とくべつ敬意けいいはらわれた。まいりぐん・討寇将軍しょうぐん地位ちいあたえられ、へい統率とうそつすること許可きょかされるとともに、ちんこうふうじられている。

けんきょう9ねん231ねん)、しょかずらあきらが祁山に出陣しゅつじんしたさいおうたいら別働隊べつどうたい指揮しきやまみなみ守備しゅびした。このとき司馬しばしょかずらあきらぐんを、ちょう郃がおうたいらぐん攻撃こうげきしたが、おうたいら堅守けんしゅしてちょう郃軍を撃退げきたいしている(祁山のたたか[1]

けんきょう12ねん234ねん)、しょかずらあきら五丈原ごじょうげんぐん対陣たいじんちゅうぼっすると、楊儀しょかずらあきら遺言ゆいごんしたがぜんぐん撤退てったいめいじた。ところが、かねてから楊儀と不仲ふなかであったのべ撤退てったい命令めいれいしたがわず、楊儀討伐とうばつへいげるという事態じたいきてしまった。このときおうたいらは楊儀の先鋒せんぽうとなり、のべ配下はいか兵士へいしかって「おおやけしょかずらあきら)がくなり、そのもまだつめたくならぬうちに、おまえたちはなぜこのようなことをしようとするのか」と一喝いっかつした(『しょくしょのべでん)。のべ兵士へいしたちがこれをくと、のべ見捨みすててったため、楊儀はなんなくのべることに成功せいこうした。ちん寿ひさしはこのときたたかいを「一戦いっせんして(のべを)やぶりこれをたいらげたのは、おうたいら功績こうせきである」と、称賛しょうさんしている。

撤退てったいこうてんぐんあんかん将軍しょうぐん昇進しょうしんし、副将ふくしょうとしてかんちゅう駐屯ちゅうとんした。また、かんちゅう太守たいしゅ兼任けんにんした。けんきょう15ねん237ねん)に懿が死去しきょすると、後任こうにんとしてかんちゅう方面ほうめん守備しゅびまかされ、あんかんこうふうじられた。そのも、ぜんかんぐん・鎮北大将軍だいしょうぐん昇進しょうしんし、かんちゅう軍事ぐんじ行政ぎょうせい一任いちにんされた。どう時期じきに「よん鎮将ぐん」の地位ちいにあるものとして、鎮西ちんぜい大将軍だいしょうぐんきょう、鎮南大将軍だいしょうぐんうまただしがおり、このさんにんがこの時期じきしょくかん軍事ぐんじ主導しゅどうした。

のべ7ねん244ねん)、曹爽歩兵ほへい騎兵きへいあわせて10まんあまりの指揮しきってかんすいまでせ、先鋒せんぽうたいが駱谷に侵攻しんこうしてきた。そのとき、かんちゅう守備しゅびへいさんまんたなかったため、しょしょうおそれ慄いた。あるものが、かんちゅう後退こうたいし、かんじょうらくじょう固守こしゅして本隊ほんたい援助えんじょつべきだと主張しゅちょうした。しかしおうたいらは、かんちゅうられることの危険きけんせい考慮こうりょしてこの意見いけん退しりぞけ、前進ぜんしんして隘路あいろてきぐん足止あしどめをおこない、救援きゅうえんつことにした。おうたいらは、りゅうさとしもり派遣はけんしてきょうぜいやまもらせ、みずからは黄金おうごんだによりてきへいすすめてたときのために、後方こうほうでのそなえにあたった。おうたいらは、援軍えんぐん到着とうちゃくするまで抵抗ていこうつづけ、撃退げきたいすることに成功せいこうした(きょうぜいやく)。

このころ鄧芝うまただしがそれぞれしょくひがしみなみ防備ぼうびしていたが、おうたいら名声めいせいかれらとならしょうされるほどであった。また『華陽かようこくこころざし』によると、どうぐん出身しゅっしん後任こうにんだい将軍しょうぐんであるちょうつばさ廖化ならんで、賞賛しょうさんされていたとある。

のべ11ねん248ねん)に病死びょうしし、嫡子ちゃくしこういだ。

評価ひょうか

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成都せいとたけしこうほこらおうひらた塑像そぞう

ちん寿ひさしは、おうひらつてで「ながらく軍旅ぐんりょにあったため文章ぶんしょうけず、っているは10たなかったが、口述こうじゅつ筆記ひっきさせた文章ぶんしょう道理どうりかなっていた。『史記しき』・『漢書かんしょ』をひとんでもらいその大略たいりゃくつかみ、ろんじては要旨ようしとらえていた。法律ほうりつ忠実ちゅうじつ履行りこうし、戯言ざれごとくちにせず、終日しゅうじつ端座たんざするという武将ぶしょうらしからぬ様子ようすであった。しかしながら性格せいかく偏狭へんきょううたがぶかく、かるはずみな人柄ひとがらであったため、それが欠点けってんとなっていた。(中略ちゅうりゃく忠勇ちゅうゆうにしていむせい人物じんぶつであった」とひょうする[2]

みなみたかし高坪たかつぼ墓所はかしょのこる。きよしひかりいとぐち年間ねんかん墓碑ぼひてられ「かん将軍しょうぐんおう平之ひらのはか」としるされた。きゅう文物ぶんぶつ保護ほご単位たんい

三国志さんごくし演義えんぎにおいて

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、かんちゅう攻防こうぼうせんさいして、かんちゅう地理ちりくわしいということで曹操そうそうから嚮導きょうどう使任命にんめいされるも、じょあきら仲違なかたがいしころされかけたためりゅうつぶさり、以後いごしょく武将ぶしょうとしてつかえたことになっている。また南蛮なんばんたたかえみなみせい)でも活躍かつやくしている。しょかずらあきら臨終りんじゅうとき忠義ちゅうぎとして廖化やうまらとともにおうたいら名前なまえげている。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ かんすすむ春秋しゅんじゅう』によれば、しょかずらあきらのべはんこうしょう派遣はけんして司馬しば懿を撃退げきたいし、てき首級しゅきゅうさんせんよろいせんいしゆみさんせんひゃく獲得かくとくした。
  2. ^ ひら生長せいちょうえびすたび能書のうがき、其所識不十字じゅうじ、而口授くじゅさくしょみな有意ゆうい使つかいじん讀史どくしかんしょ紀傳きでん、聽之、備知其大義たいぎ往往おうおう論説ろんせつしつ其指。遵履法度はっとげんおどけ謔、したがえあさいたりゆう端坐たんざてっ、㦎無武將ぶしょうからだ、(中略ちゅうりゃくひょう曰・・・おうたいら忠勇ただお而嚴せい」。なお、中略ちゅうりゃく部分ぶぶんにつきノートも参照さんしょう

伝記でんき資料しりょう

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