きた (しょかずらあきら)

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しょかずらあきらさん祁山へ

しょくにおけるきたとは、さんこく時代じだいしょくしょかずらあきらみずか陣頭じんとう指揮しきたかしたいにわたって実施じっしした軍事ぐんじ行動こうどうのこと。

概要がいよう[編集へんしゅう]

これは、初代しょだい皇帝こうていりゅうかん王朝おうちょう復興ふっこう遺志いしもとづくものであったが、当時とうじしょく国力こくりょくおよび軍事ぐんじりょくからすれば、かなり無理むりなものがあった。

元々もともとしょく荊州えきしゅう方面ほうめんからのきた計画けいかくしていたが、荊州をうばわれていたため、えきしゅうのみからのきた余儀よぎなくされた。[1]

228ねんはるだいいちきたは、最初さいしょのうちこそ上手うまっていたものの、だにちょうくも曹真うたぐへい見破みやぶられて陽動ようどう失敗しっぱい[よう出典しゅってん]まちていしょかずらあきら指示しじそむいた馬謖ばしょくちょう撃破げきはされたためしょくぐん撤退てったいした(まちていたたか)。きょうという人材じんざいたが、馬謖ばしょく死刑しけいむかいあきら馬謖ばしょく逃亡とうぼう黙認もくにんしたため免職めんしょくちょうくも降格こうかくしょかずらあきら自身じしんみぎ将軍しょうぐん降格こうかくとした。

228ねんふゆだいきたは、郝昭防戦ぼうせんにあってめあぐねているうちに食糧しょくりょう不足ふそくにより撤退てったいした。なお、撤退てったい追撃ついげきしてきたおうそうっている(ちんくらたたか)。

229ねんはるだいさんきたは、ひねしきたけみやこ陰平かげひらめ、しょかずらあきらかくふせぎ、たけみやこ陰平かげひらりょうぐん平定へいていした(ちんくらたたかい#だいさんきた)。この功績こうせきによりしょかずらあきら丞相じょうしょう地位ちい復帰ふっきした。

230ねん曹真によるしょくへのぎゃく侵攻しんこうおこなわれたが、曹真の本隊ほんたい大雨おおあめによりかんちゅう到達とうたつできずへいき、しょかずらあきらのべらをりょうしゅう出撃しゅつげきさせかく淮らぐん撃退げきたいした(うまやく)。

231ねんはるの2がつからはじまっただいよんきたでは、祁山包囲ほういし、援軍えんぐんちょう司馬しば撃退げきたいするが、同年どうねんなつ6がつ食料しょくりょう不足ふそくによりいわお撤退てったい進言しんげんしたため撤退てったいする。なお、撤退てったい追撃ついげきしてきたちょう郃をっている(祁山のたたか)。いわお言動げんどう矛盾むじゅんがあったため、罷免ひめんして流罪るざいとした。

234ねんはる2がつからはじまっただいきた屯田とんでんおこな長期ちょうきせんむが、同年どうねんあき8がつしょかずらあきら陣中じんちゅう病没びょうぼつし、しょくぐん撤退てったいした(五丈原ごじょうげんたたか)。

しょかずらあきら死後しごきた一時期いちじき中止ちゅうしされて国力こくりょく回復かいふくはかられる。しょかずらあきら後継こうけいしゃであった蔣琬もその遺志いしいできた計画けいかくしたが、実現じつげんぬまま病死びょうしした。

そのきた反対はんたいて、きた積極せっきょくきょうぐんけんにぎると、かれ指揮しきのもとにふたたきた大々的だいだいてきおこなわれることとなった。しかし、度重たびかさなるきたにより、しょく国力こくりょく徐々じょじょ弱体じゃくたいしていった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 別途べっとかんすいくだり、うえいさお方面ほうめんめる東進とうしんしょかずらあきら、蔣琬時代じだいこころみをおこなわれている。しょかずらあきら時代じだい降伏ごうぶくしたはじめたち離反りはんさせることでうえいさお方面ほうめん占拠せんきょこころみるが、はじめたち司馬しば懿らに撃退げきたいされたため断念だんねんした。蔣琬時代じだい指揮しきる蔣琬がしばしば病気びょうきがちになって実行じっこうおくれたことと、撤退てったいかんすいさかのぼらなければいけないぶん追撃ついげきけやすいことから群臣ぐんしん反対はんたいおおきく、断念だんねんしている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]