五丈原ごじょうげんたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
五丈原ごじょうげんたたか
戦争せんそうだいきた
年月日ねんがっぴ234ねん4がつ8がつ
場所ばしょ五丈原ごじょうげん現在げんざい陝西せんせいしょうたからにわとり岐山きざんけん
結果けっかしょかずらあきら陣没じんぼつ死亡しぼう)し撤退てったいしょくかんによるだいきた失敗しっぱい
交戦こうせん勢力せいりょく
しょくかん たかし
指導しどうしゃ指揮しきかん
しょかずらあきら
のべ
司馬しば
かく
戦力せんりょく
しょう一説いっせつに10まんにん しょう一説いっせつに20まん
損害そんがい
しょう しょう
さんこく時代じだい

五丈原ごじょうげんたたか(ごじょうげんのたたかい、中国ちゅうごく: 五丈原ごじょうげんこれせん)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいに、しょくしょくかん)とたかし五丈原ごじょうげん現在げんざい陝西せんせいしょうたからにわとり岐山きざんけん)で対陣たいじんしたたたかいである。

経緯けいい[編集へんしゅう]

231ねんだいよんきたにおいて、しょくしょかずらあきら司馬しば対戦たいせん局地きょくちてきには勝利しょうりした。しかし、大雨おおあめによりいわお食糧しょくりょう輸送ゆそう失敗しっぱいして食糧しょくりょうきたため、撤退てったいせざるをえなくなった。撤退てったいくるま将軍しょうぐんちょう射殺しゃさつしているが、初期しょき目的もくてきたすことには失敗しっぱいしている。これまでしょくだいいちきたから連年れんねんすうまん規模きぼぐん出撃しゅつげきさせていたが、これ以後いご遠征えんせい休止きゅうしさせた。『すすむしょせんみかどによると、司馬しば懿はしょかずらあきらつね兵糧ひょうろう不足ふそくなやまされていることから、さん年間ねんかん糧食りょうしょく蓄積ちくせき専念せんねんしなければならないだろうと推測すいそくしている[1]

たたかいの経緯けいい[編集へんしゅう]

234ねんはる2がつしょくしょかずらあきらへの遠征えんせい再開さいかいし、褒斜どうとおって長安ながやすをめざすかまえをせた。『すすむしょせんみかどでは、このとき動員どういんされたしょくぐんじゅうあまりまんとされている。司馬しばしょかずらあきらむかつために、みずか指揮しき出撃しゅつげきし、人口じんこう集中しゅうちゅうしている渭水みなみとりできずき、防備ぼうびかためた。『すすむしょせんみかどによると司馬しば懿はしょしょうたいし、「しょかずらあきら勇者ゆうしゃなら武功ぶこう東進とうしんするだろうが、五丈原ごじょうげん布陣ふじんするなら問題もんだいない」とかたっていた[1]一方いっぽうちん寿ひさしは『三国志さんごくししょかずらあきらでんに、しょかずらあきら武功ぶこう五丈原ごじょうげん布陣ふじんしたとせい反対はんたい見解けんかいしるしている[2]。また『三国志さんごくしちょうつばさでんによるとしょかずらあきら武功ぶこうて、ちょうつばさ先鋒せんぽうぜんぐんとくとし、扶風太守たいしゅ任命にんめいしたとある。『みずけいちゅう』・『太平たいへい御覧ごらん』にも、とも武功ぶこうすいわたってしょくぐん東進とうしんしたことがかれており、おくった手紙てがみなかで、五丈原ごじょうげん拠点きょてんきつつ、武功ぶこうひがし10さとにあるうま冢の高地こうち陣取じんどったぐん対峙たいじしていることをつたえている[3]しょかずらあきらは渭水の沿岸えんがん兵士へいし屯田とんでんおこなわせたが、軍規ぐんき厳正げんせい当地とうちみん安堵あんどしたという。皇帝こうてい曹叡せいしょくまもるぐんはたあきらに2まんへいあたえて、司馬しば懿の援軍えんぐんとして派遣はけんした。また、曹叡は「とりで防備ぼうびかため、守備しゅびてっするべし。てき食料しょくりょうきて撤退てったいしたとき追撃ついげきするのが、遠来えんらいてきむかって勝利しょうり方法ほうほうである」と司馬しば懿にみことのりれいくだした[4]

しょかずらあきら五丈原ごじょうげんぐんすすませると、渭水のきたへとへいすすめ、北原きたはらさえようとした。かくはそれを見破みやぶり、さきにそのめるべきだと主張しゅちょうしたが、論者ろんしゃおおくは賛成さんせいしなかった。かく淮は「もししょかずらあきらが、渭水をまたぎ、高原こうげんのぼり、へい北山きたやまつらね、隴へのみち隔絶かくぜつし、人民じんみんや蛮民をゆりうごかすならば、これはくに有利ゆうりにはなりません」とべた。司馬しば懿は、そのせつ賛成さんせいし、かく淮は北原きたはら駐屯ちゅうとんした。塹壕ざんごう塁壁るいへきがまだ完成かんせいしないうちに、しょくぐん来襲らいしゅうしたが、かく淮はそれを撃退げきたいした[5]

攻撃こうげき失敗しっぱいしたしょかずらあきらは、数日すうじつ兵力へいりょく西方せいほうへと移動いどうした。北原きたはら方面ほうめん西にしかこえかわせる姿勢しせいしめし、しょしょうみなしょかずらあきらねらいが西にしかこえであるとしたが、かく淮だけはこれを陽動ようどうとし、とげかためるように進言しんげんした[5]。しかし、司馬しば懿もしょかずらあきらねらいは西にしかこえであるとかんがえ、しゅうとうつい派遣はけんし、しょかずらあきらうごきをたが、しょかずらあきら反応はんのうせず、かく淮にえびすをつけ、とげまもることをゆるした一方いっぽうで、司馬しば懿は自身じしん判断はんだんしんじ、北原きたはらぐんすすめた。たして、司馬しば懿がぐん北原きたはらあつめ、ぐん戦力せんりょく分散ぶんさん確認かくにんすると、しょかずらあきらとげ攻撃こうげきした。とらかんはじめ武功ぶこうすい渡河とかし、橋頭堡きょうとうほきずはじめた。しかし、武功ぶこうすい増水ぞうすいし、しょくぐん渡河とかおくれがでた。司馬しば懿はとげめるはじめ確認かくにんすると、しょかずらあきら陽動ようどうせられたことに気付きづき、かく淮らを救援きゅうえんするため、騎兵きへいいちまんかわせてじゅう日間にちかんはじめ琰を攻撃こうげきした。しょかずらあきら対岸たいがんから射撃しゃげきおこなってはじめ琰を支援しえんしつつ浮橋うきはしつくり、はじめ琰は猛攻もうこうしのいだためうわきょう完成かんせいし、騎兵きへい退しりぞき、撃退げきたい成功せいこうした。しかし武功ぶこうすい増水ぞうすいにより渡河とか時間じかんかり、そのあいだぐんさい集結しゅうけつしてしょくぐん対峙たいじした[3]

渭水、武功ぶこうすいおこなわれたたたかいののちしょかずらあきら五丈原ごじょうげんにて司馬しば懿との持久じきゅうせんつづけることになった。しょかずらあきらおんなふくおくり、司馬しば懿をおんなあつかいするなど、さまざまな使つかって司馬しば懿を挑発ちょうはつしてぐん出陣しゅつじんさそった。しょしょうあいだにはってるべきという気運きうんたかまっていたが、皇帝こうていの曹叡から出陣しゅつじんきんじられていることを理由りゆう司馬しば懿は挑発ちょうはつらなかった。それでも司馬しば懿が出撃しゅつげき許可きょかもとめる上奏じょうそうおこなうと、からしが曹叡の命令めいれいたずさえてじん訪問ほうもんし、出撃しゅつげきしてはならないとめいじた。習鑿の『かんすすむ春秋しゅんじゅう』および『すすむしょせんみかどでは、からし毗があらわれたことをいたきょうは、司馬しば懿がもはや絶対ぜったい出撃しゅつげきしてこないであろうとしょかずらあきらかたったが、これにたいしょかずらあきらは、司馬しば懿が出撃しゅつげき姿勢しせいしめして上奏じょうそうしたこと自体じたいしょしょう不満ふまんやわらげるための策略さくりゃくぎないとかたっている[1]

5月、皇帝こうていまごけんしょく呼応こおうし、みずか大軍たいぐん指揮しき複数ふくすう方面ほうめんからへのおやせい開始かいしした。国土こくど東西とうざいだい規模きぼ戦線せんせんかかむこととなったが、ごうこえ守備しゅびしていたちょうりょう堅守けんしゅしてえ、まんちょう奇襲きしゅう攻撃こうげきまごけんくるしめ、さらに曹叡みずからが救援きゅうえんおもむくとくと、まごけんは曹叡の寿ことぶきはる到着とうちゃくたずにぜんぐん撤退てったいさせた。

しょくぐんぐん対陣たいじんひゃくにちあまりにおよんだが、234ねん8がつしょかずらあきら病死びょうししょくぐん撤退てったいした。しょかずらあきらまえきょう楊儀に、五丈原ごじょうげんからの撤退てったいかんする指図さしずあたえた。のべには追撃ついげきたせ、きょう維にはそのまえかせ、もしのべしたがわぬ場合ばあいは、ぐんはそのまま出発しゅっぱつするようにめいじた。しょくぐん撤退てったいったぐん追撃ついげきしようとしたが、しょくぐん反撃はんげき形勢けいせいしめし、司馬しば懿はあわててぐん退しりぞいた。人々ひとびとはこれを揶揄やゆしてことわざつくり「せるしょかずらけるなかたちはしらすしょかずらはしなまなかたち)」とった。司馬しば懿は人伝ひとづてにこのことをき、「わたし生者しょうじゃのすることはかれるが、死者ししゃのすることすいはかれない(われのうりょうせい不能ふのうりょう)」(『論語ろんご』の「いませいらず、焉くんぞらん」にもとづいたとられる)とこたえたという。司馬しば懿は撤退てったいしょかずらあきら陣営じんえい視察しさつし、「天下てんか奇才きさい」という感想かんそうらした[6][7]

戦後せんご[編集へんしゅう]

撤退てったい直後ちょくごしょくぐんでは、のべしょかずらあきら後継こうけいめぐって楊儀あらそはいした。だが楊儀もまた蔣琬実権じっけん掌握しょうあくされ失脚しっきゃくした。しょく実権じっけん掌握しょうあくした蔣琬もしょかずらあきら遺志いしぎ、討伐とうばつ計画けいかくしていたが、自身じしん病気びょうき重臣じゅうしんたちの反対はんたいにより計画けいかく実行じっこうされなかった。

しょく侵攻しんこう退しりぞけた司馬しばは、238ねんには遼東りゃおとん公孫こうそんふち討伐とうばつし、野戦やせんから籠城ろうじょうへとさそたくみな軍略ぐんりゃくによってこれをほろぼした(りょう隧のたたか)。東西とうざい外患がいかんのぞいた大功たいこうから、司馬しば懿は朝廷ちょうていないるぎない地位ちい確立かくりつした。さら皇帝こうてい曹叡239ねんわかくして崩御ほうぎょした。養子ようし曹芳皇帝こうていとなったが幼少ようしょうであり、司馬しば懿の権威けんい帝室ていしつの曹氏をも凌駕りょうがしていくことになる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c すすむしょ せんみかど
  2. ^ 三国志さんごくし しょくしょ しょかずらあきらでん
  3. ^ a b みずけいちゅう 渭水』および『太平たいへい御覽ごらん はし
  4. ^ 三国志さんごくし しょ あきらみかど
  5. ^ a b 三国志さんごくし しょ かく淮伝』
  6. ^ すすむしょ せんみかどおよび『三国志さんごくし しょくしょ しょかずらあきらでん
  7. ^ のち司馬しばあきらひね勰にしょかずらあきら用兵ようへいじゅつ研究けんきゅうさせ、その一部いちぶうまたかしらに継承けいしょうされている