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りゅう備のにゅうしょく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
りゅう備のにゅうしょく
戦争せんそうえきしゅうをめぐるりゅうりゅうあきらとのたたか
年月日ねんがっぴ212ねん-214ねん
場所ばしょえきしゅう現在げんざい四川しせんしょう
結果けっかりゅうあきらりゅうつぶさ降伏ごうぶくりゅう備がえきしゅう支配しはい
交戦こうせん勢力せいりょく
りゅう りゅうあきら
指導しどうしゃ指揮しきかん
りゅう
龐統 
法正のりまさ
しょかずらあきら
ちょう
ちょうくも
ただし
りゅうあきら
りゅう
ちょうつとむ 
いむがお
いわお
戦力せんりょく
120000 60000
損害そんがい
4000 6000
さんこく時代じだい

りゅう備のにゅうしょく(りゅうびのにゅうしょく)は、こうかん時代じだい212ねんから214ねんにかけておこなわれたえきしゅうまきりゅうあきら荊州まきりゅうたたかいである。

概要がいよう

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にゅうしょくまでの経緯けいい

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208ねんあかかべたたかりゅう備は荊州の江南こうなんしょぐん制圧せいあつし、おおきく勢力せいりょくばした。こののちりゅう備は以前いぜんからのしょかずらあきら進言しんげんとおり、えきしゅうりゅうあきらとす機会きかいねらっていた。あかかべではともにたたかったまごけんもまたえきしゅうねらっていたが、しゅうによって単独たんどくえきしゅう侵攻しんこうあきらめ、えきしゅう協力きょうりょくして攻撃こうげきすることをりゅうつぶさちかけた。りゅう陣営じんえいではこの提案ていあんるべきだという意見いけんもあったが、いんかんが、まごけんぐん先駆さきがけとなってえきしゅう攻撃こうげきするよりも、まごけんへの態度たいど曖昧あいまいにしたうえで、独力どくりょくえきしゅうるべきだと意見いけんしたためりゅう備はいんかん提案ていあんしたがい、まごけんえきしゅう攻撃こうげき賛成さんせいしつつも「いまは荊州をたばかりであり、準備じゅんびができていない」と返答へんとうするとたしてまごけんえきしゅう攻撃こうげき断念だんねんした[1]

211ねんえきしゅうまきりゅうあきらのもとでべつ従事じゅうじとしてつかえるちょうまつは、りゅうあきらたいして曹操そうそうちょう勢力せいりょく対抗たいこうするためにりゅう備をれることを進言しんげんした。りゅうあきら陣営じんえいでは当初とうしょ曹操そうそうとの提携ていけい模索もさくしていたが、荊州を支配しはい増長ぞうちょうした曹操そうそう使者ししゃ冷遇れいぐうけ、その曹操そうそう勢力せいりょくが荊州から後退こうたいするにともない、曹操そうそうとの提携ていけいばなしえとなっていた。このとき曹操そうそう冷遇れいぐうされた使者ししゃちょうまつであった。ちょうまつひそかに惰弱だじゃく性格せいかくであるりゅうあきら見限みかぎり、りゅう備をあらたな君主くんしゅむかえようとするねらいをっていた。

りゅうあきらけんりゅうともみらが反対はんたいするなかでこれをききいれて法正のりまさはじめたち使者ししゃとして派遣はけんする。しかし、このめいちょうまつ仲間なかまであり、りゅうあきら廃立はいりつしようとしていた。法正のりまさりゅうつぶさえきしゅう方策ほうさくかたり、これにしたがったりゅう備は要請ようせいがあったことを名目めいもくただし軍師ぐんしとして龐統ともなまん兵力へいりょくひきいてしょくはいり、涪にいたったところでりゅうあきらみずかりゅう備を出迎でむかえた。法正のりまさと龐統らの参謀さんぼうはここでりゅうあきら暗殺あんさつするように進言しんげんしたが、りゅう備はえきしゅうはいったばかりであり、人心じんしんるのが先決せんけつであるとこれを却下きゃっかした。

りゅうあきらりゅうつぶさへい戦車せんしゃ武器ぶきよろいなどをし、りゅう備軍は総勢そうぜい3まんにんとなった。そしてりゅうあきら要請ようせいおうじてちょう討伐とうばつおもむき、かやもえせき駐屯ちゅうとんする。しかしりゅう備は目立めだった軍事ぐんじ行動こうどうこさず、人心じんしん収攬しゅうらんなどにつとめ、しょく征服せいふく足掛あしがかりをきずくことにつとめた。

開戦かいせん進撃しんげき

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212ねん曹操そうそうまごけんあげしゅうをめぐって戦闘せんとう状態じょうたいとなり(濡須こうたたか)、まごけんりゅうつぶさ援軍えんぐんもとめた。また荊州ではらくすすむせきあおどろ対陣たいじんしていた。そこでりゅう備はちょう魯はしろこもっており心配しんぱいらないとして、りゅうあきらからへい軍需ぐんじゅ物資ぶっしり、ひがしこうとしたが、りゅうあきらからの援助えんじょ要求ようきゅうした半分はんぶんにもたないわずかなものであったため、りゅう備とりゅうあきら不仲ふなかになった。

このときりゅう備の帰国きこく意図いとうたがったちょうまつりゅう備と法正のりまさ手紙てがみおくろうとしたが、ちょうまつあにこうかん太守たいしゅちょう手紙てがみ発見はっけんされ、ちょうまつらのたくらみはりゅうあきらるところとなり、ちょうまつ誅殺ちゅうさつされた。そこで、りゅう備は龐統の策略さくりゃくもちいて、白水しろみずせきまもりゅうあきら武将ぶしょうである楊懐こうころして、白水しろみずせき占領せんりょうした。りゅう備はかやもえじょう霍峻まもらせ、りゅうあきらからりた将兵しょうへいとその妻子さいし人質ひとじちにして、ちゅうたくのべらとともに、りゅうあきら本拠地ほんきょち成都せいとへとけて侵攻しんこうはじめた。

りゅう備の進撃しんげきふせぐためにりゅうあきらちょうつとむひやつとりゅう鄧賢(いち)らを派遣はけんした。しかしりゅう備本ぐんひやつとりゅう璝・ちょうつとむ・鄧賢らをやぶり、涪城占拠せんきょし、綿めんちくそう指揮しきかんであるいわおかん懿らりゅうあきらぐん武将ぶしょうりゅうつぶさ投降とうこうするなど、りゅう備軍が優勢ゆうせいなまま戦況せんきょうすすんだ。なかでもちゅうつね先駆さきがけててき陣地じんちとすなど、その勇猛ゆうもうさは三軍さんぐん筆頭ひっとうだったという。しかしりゅうあきらぐんちょうつとむりゅうは雒城にもって徹底てってい抗戦こうせんし、ちょうつとむは雒城と運命うんめいともにしたが、りゅう備軍もこのたたかいで龐統をながうしない、雒城を陥落かんらくさせるのに1ねん以上いじょうもかかるなどおおいに苦戦くせんした。

りゅうあきらぐんぐんけんちょうりゅうつぶさ降伏ごうぶくするなかこうかんけんまもけんかたもんざして防備ぼうびおこたらず、終戦しゅうせんまでこうかんけんまもとおした。 また、かやもえじょうまも霍峻りゅうあきら部将ぶしょうの扶禁・こうそんいちまん余人よにん軍勢ぐんぜい包囲ほういされたが、1ねんわたまもとおす。 そして霍峻はすうひゃく軍勢ぐんぜいなかから精鋭せいえい選抜せんばつし、しろがい出撃しゅつげきして扶禁・こうそんやぶり、こうそんった。

一方いっぽうりゅう備がかやもえりゅうあきら攻撃こうげき決定けっていすると荊州にいたしょかずらあきらりゅう備はしだし、留守るすせきはねまかせ、りゅう備と呼応こおうするかたちちょうちょうくもらをひきいて長江ながえさかのぼ[2]ともえひがしぐんくだしてともえぐんはいった。りゅうあきら武将ぶしょうであるともえぐん太守たいしゅちょう筰がこれをこばんだが、ちょうはこれをやぶちょう筰の部将ぶしょういむがおちょうたたかってられた。げんがお毅然きぜんとした態度たいどしめしたためちょうはその人物じんぶつ評価ひょうかして、いむがお賓客ひんきゃくとして厚遇こうぐうした[3]ちょうらは手分てわけしてぐんけん平定へいていすることとなり、ちょうくもみずかしゅうかれてこうよう・犍為を平定へいていした。ちょうともえ西にし攻撃こうげきし、ともえ西にしこう曹である龔諶がちょう降伏ごうぶくちょうむかえいれた。しょかずらあきら徳陽とくよう平定へいていし、りゅうあきら司馬しばちょうしょかずらあきらこばませたがかしわにおいてやぶれ、ちょう裔は撤退てったいした[4]いとぐちぐんけん制圧せいあつしたちょうらは成都せいとかった。しょかずらあきらちょうりゅうふうらの軍勢ぐんぜいりゅうあきらぐんとのすべてのたたかいで勝利しょうりしたとある[5]

なつごろりゅう備は雒城を攻略こうりゃくしたのちしょかずらあきらちょうらと合流ごうりゅうして成都せいと包囲ほういした。このときしょくぐん太守たいしゅもとやすしりゅうあきら見捨みすてて、しろ脱出だっしゅつして降伏ごうぶくしようとしたが、発覚はっかくらえられた。事態じたい逼迫ひっぱくしていたため、りゅうあきらもとやすし処罰しょばつしなかった[6]

成都せいと開城かいじょう

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りゅうあきら成都せいとじょうちゅうに3まんへいと1ねんぶん兵糧ひょうろうがありそなえが充分じゅうぶんであることから抗戦こうせんしようとした。しかしりゅう備が当時とうじちょう魯のもとに寄寓きぐうしていたうまちょうのもとに派遣はけんして帰順きじゅんいたため、うまちょうちょう魯のもとから出奔しゅっぽんしてりゅうつぶさ帰順きじゅんした(当時とうじうまちょうちょう魯と不仲ふなかになっており、その配下はいか楊白らとも対立たいりつしていた)。もうしょうとして有名ゆうめいだったうまちょうりゅうつぶさ帰順きじゅんしたことをったりゅうあきら震撼しんかんした。官民かんみんおおくはりゅう備とたたか覚悟かくごであり、ていたびのように焦土しょうど作戦さくせん進言しんげんするものもいた。法正のりまさてい作戦さくせんりゅうあきら採用さいようできないだろうとりゅう備を安心あんしんさせ、自身じしん手紙てがみおくりゅうあきら降伏ごうぶく勧告かんこくした。

214ねんなつ5がつりゅう備が簡雍降伏ごうぶく勧告かんこく使者ししゃとしておくむと、りゅうあきらは「わしはもはや領民りょうみんくるしめたくない」とべ、降伏ごうぶく開城かいじょうした。

戦後せんご

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りゅう備はりゅうあきら身柄みがら財産ざいさん保障ほしょう将軍しょうぐん印綬いんじゅあたえたうえ公安こうあんおくり、みずかえきしゅうまきとなり、軍師ぐんしちゅうろうしょうしょかずらあきら軍師ぐんし将軍しょうぐんに、えきしゅうぐん太守たいしゅただしてのひらぐんちゅうろうしょう任命にんめいし、ともにひだり将軍しょうぐん政務せいむ代行だいこうさせた。また、へん将軍しょうぐんうまちょうたいら西にし将軍しょうぐんに、ぐんこうじょう法正のりまさしょくぐん太守たいしゅあげ武将ぶしょうぐんに、裨将ぐんただしを討虜将軍しょうぐんに、従事じゅうじちゅうろうおうしかやすかん将軍しょうぐんに、簡雍昭徳あきのり将軍しょうぐんに、まごいぬいを秉忠将軍しょうぐんに、せき従事じゅうじちゅうろう任命にんめいし、こうむくいた。りゅうあきら旧臣きゅうしんたちも招聘しょうへいし、こうかん県令けんれいけんへん将軍しょうぐんに、しょくぐん太守たいしゅもとやすしひだり将軍しょうぐんちょうに、龐羲司馬しばに、いわおを犍為太守たいしゅに、かんともえぐん太守たいしゅに、りゅうともみ西にし曹掾に、彭羕えきしゅうちゅう従事じゅうじ任命にんめいし、陣容じんよう充実じゅうじつさせた。しょかずらあきら筆頭ひっとうに、法正のりまさちょうせきはねらは功績こうせきおうじて金銀きんぎんぜにきぬえきしゅう平定へいてい褒賞ほうしょうとしてたまわった。

まごけんえきしゅうりゅうつぶさたいし、荊州の割譲かつじょうもとめた。りゅう備はりょうしゅうのちに荊州をさい分割ぶんかつしようと返答へんとうしたが、215ねんまごけんりょこうむめいじてちょうすなれいりょうかつら陽三ようぞうぐんうばい、一触即発いっしょくそくはつ事態じたいとなったが、魯粛せきはない(たんかたな附会ふかい)の結果けっか、荊州を分割ぶんかつりゅう備がみなみぐんたけりょうぐんれいりょうぐんを、まごけん江夏えなつぐんちょうすなぐんかつらようぐん領有りょうゆうすることで和解わかいした。このあいだ曹操そうそうかんちゅうちょう魯を攻撃こうげき陽平ようへいせきたたか)し、ちょう魯やかんちゅう周辺しゅうへんしょ豪族ごうぞく降伏ごうぶくさせ、かんちゅうなつほうふかしき、りゅう備のえきしゅう支配しはい牽制けんせいした。

こののちりゅう備はかんちゅう侵攻しんこうし、219ねんじょうぐんやまたたかなつこうふちり、曹操そうそう侵攻しんこう撃退げきたいすると、えきしゅう支配しはい磐石ばんじゃくなものとし、かんちゅうおう自称じしょうし、しょくかん基礎きそかためたが、荊州でのまごけんとの対立たいりつ217ねんの魯粛のさかい深刻しんこくしており、同年どうねんのうちに荊州は失陥しっかんすることになる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 三国志さんごくししょくしょ さきおもでん
  2. ^ 三国志さんごくしちょうくもでん
  3. ^ 三国志さんごくしちょうでん
  4. ^ 華陽かようこくこころざしまき 公孫こうそんじゅつりゅう牧志まきし
  5. ^ 三国志さんごくしちょうでんりゅうふうでん
  6. ^ 三国志さんごくしほう正伝せいでん

関連かんれん文献ぶんけん

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