潼関のたたか

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潼関のたたか
戦争せんそう:潼関のたたか
年月日ねんがっぴ211ねん
場所ばしょりょうしゅう雍州一帯いったい現在げんざい甘粛かんせいしょう陝西せんせいしょうひとし
結果けっか曹操そうそうりょうしゅう、雍州を支配しはい地域ちいき編入へんにゅうする
交戦こうせん勢力せいりょく
曹操そうそう せきちゅう連合れんごうぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
曹操そうそう
賈詡
うまちょう
かんとげせきなか軍閥ぐんばつ
戦力せんりょく
しょう、しかし曹操そうそうぐんのほうが多勢たぜいだったという明確めいかく記述きじゅつのこ 100,000
損害そんがい
10000 35000
さんこく時代じだい

潼関のたたか(どうかんのたたかい)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき211ねんたてやすし16ねん)に、うまちょうかんとげせきなか軍閥ぐんばつ連合れんごうぐんが、曹操そうそう潼関周辺しゅうへんにおいてったたたかい。

背景はいけい[編集へんしゅう]

りょうしゅうは、こうかんれいみかどすえとしごろから羌族氐族反乱はんらん頻発ひんぱつし、あたりあきらかんとげ王国おうこくなどのしょしょうがこれに同調どうちょうし、耿鄙やでん燮などおおくのかんじん殺害さつがいされるなど混乱こんらん状態じょうたいにあった。反乱はんらんぐん同士どうし内紛ないふん頻発ひんぱつし、やがてかんとげうまあが勢力せいりょく台頭たいとうする。こうかんちょう討伐とうばつぐんをたびたびおくるも、はばぞく残党ざんとうかそけしゅうちょうきょちょうじゅんえきしゅううましょう、荊州南部なんぶぼししゅうちょうらの反乱はんらん各地かくち頻発ひんぱつし、また、れいみかど病没びょうぼつ政治せいじてき混乱こんらんじゅうつねさむらいらんただしたくらん)もあってかんとげらを武力ぶりょく制圧せいあつすることはできなかった。かんとげうまあが同盟どうめい関係かんけいにあったものの、やがてたがいにあらそうようになった。事態じたい憂慮ゆうりょした曹操そうそう派遣はけんした鍾繇によって和解わかいした両者りょうしゃは、曹操そうそう人質ひとじちして帰順きじゅんする。208ねんにはちょうすんであつりょくによりうまあが一族いちぞくれて入朝にゅうちょうし、わってうまちょうがその軍勢ぐんぜい指揮しきっていた。

潼関のたたか[編集へんしゅう]

211ねん3がつ曹操そうそうが鍾繇・なつほうふかしらにめいじてかんちゅうちょう討伐とうばつしようとした。うまちょうかんとげらは自分じぶん領土りょうどめられると疑心暗鬼ぎしんあんきになり、ともへいげたことから戦役せんえきはじまる[1]

曹操そうそう曹仁派遣はけんし、潼関を守備しゅびさせた。せきちゅうへい精強せいきょうであることから、曹操そうそうしょしょうたたかわず堅守けんしゅするようめいじた[2]

211ねん7がつ曹操そうそう西にしせいし、潼関をはさんでせきちゅうぐん対峙たいじした。曹操そうそうひそかにじょあきらしゅれいめいじてかばばんわたらせ、黄河こうが西岸せいがん陣地じんちつくり、攻撃こうげきしてきたりょうきょうやぶった。

曹操そうそうみずか殿軍でんぐんとなって潼関からきた渡河とかしたが、うまちょう曹操そうそうぐん渡河とかじょうじて急襲きゅうしゅうしたので危機ききおちいった。ちょう機転きてんもと奮戦ふんせんにより、曹操そうそう渡河とか成功せいこうした。

曹操そうそう黄河こうが西岸せいがんわたり、甬道(両側りょうがわ防壁ぼうへききずいたみち)をきずきながら黄河こうが沿って南下なんかし、部隊ぶたい分割ぶんかつして渭水をわたらせ陣地じんちきずき、攻撃こうげきしてきたせきちゅうぐん伏兵ふくへいもちいてやぶった。せきちゅう諸侯しょこう曹操そうそう和睦わぼくもうれたが、曹操そうそう拒否きょひした。

211ねん9がつ曹操そうそうは渭水をみなみわたった。うまちょうらは曹操そうそう挑発ちょうはつしたが、曹操そうそうおうじなかった。さらにふたたせきちゅう諸侯しょこう領地りょうち分割ぶんかつ人質ひとじちおくることを条件じょうけん和睦わぼくもうれると曹操そうそう参謀さんぼう賈詡計略けいりゃくしたがいこれをいつわってゆるすふりをした。そこでうまちょうかんとげ曹操そうそうさんしゃ馬上まけ会談かいだんもうけたが、そのさいもと褚が曹操そうそうのそばでひからせていたため、うまちょう手出てだしができなかった[3]前後ぜんご、賈詡が考案こうあんした離間りかんけいにかかったうまちょうかんとげうたがった。

そこで曹操そうそうかるするどへいせきちゅうぐんたたかわせて、しばらくたたかってから騎兵きへいもちいてせきちゅうぐんはさちにして大勝たいしょうし、なりよろしこらえらをり、うまちょうかんとげらはりょうしゅう敗走はいそうした。楊秋降伏ごうぶくしたので、つみゆるされ厚遇こうぐうされた。まもる覬伝にく『しょ』によると、このとき戦役せんえきにおける曹操そうそうぐん戦死せんししゃは5けたにのぼったという。また、まもる覬は鍾繇のやりかたせきちゅうしょしょう疑惑ぎわくまね危険きけん警告けいこくしていたことから、こののち曹操そうそうにいっそう尊重そんちょうされるようになったという。

潼関のたたか[編集へんしゅう]

212ねんうまちょうかんとげ一族いちぞくは、前年ぜんねん反乱はんらん連座れんざして処刑しょけいされた。うまちょうふたた反乱はんらんこしてかんちゅうちょう魯とむすび、りょうしゅう刺史しし韋康和議わぎむすりをして殺害さつがいし、冀城を根拠地こんきょちとし、曹操そうそうぐんりょうしゅう方面ほうめん司令しれいかんなつこうふちやぶるなど、しばらく抵抗ていこうつづけた。しかしそれもながくはつづかず、韋康の復讐ふくしゅうのために挙兵きょへいした楊阜らに冀城をうばわれると、ちょう魯にった。うまちょうちょう魯にへいりてもどり、祁山を包囲ほういしたが、なつほうふかしぐん先鋒せんぽうちょうめられ、たたかわずして逃走とうそうした。やがてうまちょうちょう魯と不和ふわとなってそのもとり、成都せいとりゅうあきらめていたりゅう帰順きじゅんした。りゅう備ととも成都せいとめ、えきしゅう手中しゅちゅうにしたりゅう備の客将かくしょうとして一生いっしょうえた。

他方たほうかんとげは羌族とんでおなじくなつこうふちたたかうがやぶれ、西にし西平にしだいらのがれて病死びょうしした(殺害さつがいされたとも)。曹操そうそううまちょうかんとげりょう没落ぼつらく前後ぜんごして、なつほうふかしちょう郃らしょしょうめいじてはりきょうせきちゅう残党ざんとう独立どくりつ勢力せいりょくそうけんくだし、りょうしゅう平定へいていした。

曹操そうそうかんちゅうちょう魯も降伏ごうぶくさせ一時いちじてきかんちゅう手中しゅちゅうにおさめるも(陽平ようへいせきたたか)、まもなくかんちゅう支配しはいけんをめぐってりゅう備とあらそうことになる(じょうぐんやまたたか)。

三国志さんごくし演義えんぎでは[編集へんしゅう]

三国志さんごくし演義えんぎ』においてはうまちょう挙兵きょへいうま一族いちぞく殺害さつがい順序じゅんじょぎゃくになっており、うまちょう一族いちぞくころされた復讐ふくしゅうねんから曹操そうそうへいげるという図式ずしきになっている。

うまちょう鬼神きじんのごとき武勇ぶゆう発揮はっき曹操そうそうめるも、結果けっかてきにはやはり離間りかんけいかんとげ仲違なかたがいし、敗北はいぼくする。もと褚の活躍かつやく史実しじつ以上いじょうおおきくげられており、とく戦役せんえき中盤ちゅうばん挿入そうにゅうされたうまちょうとのいちでは、「うごきがわるくなるからこんなものはいらぬ」としてよろいて、上半身じょうはんしんはだかうまちょう互角ごかくきそめい場面ばめん用意よういされている。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

潼関のたたかいには曹操そうそう息子むすこである曹植らも従軍じゅうぐんしていた。このとき留守るすやくとしてのこっていた曹丕は、おとうとたちのわかれをしんで「かんはなれ」をつくり、曹植のほう従軍じゅうぐんちゅうに「はなれおもえ」をつくってあに曹丕への思慕しぼ表明ひょうめいしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 三国志さんごくしまもるつてく『しょ』によると、鍾繇は表向おもてむきはちょう討伐とうばつにかこつけ、実際じっさいにはうまちょうらを脅迫きょうはくして人質ひとじちをとるつもりであったという。またちょうすんでつてく『りゃく』によれば、このときうまちょうかんついに「鍾繇はわたしかんとげ殿でんつかまえるようめいじました。かれらは信用しんようできません」とったとしている。
  2. ^ 三国志さんごくしうまちょうつてちゅうく『てんりゃく』によれば、うまちょうかんとげひきいるせきちゅうぐん兵力へいりょくは10まんにんであった。また、『三国志さんごくしたけみかどちゅうく『しょ』によれば、おおくの論者ろんしゃが「せきちゅうぐんながほこあつかいに習熟しゅうじゅくしている」とっている。
  3. ^ 三国志さんごくしたけみかどちゅうく『しょ』によれば、後日ごじつ曹操そうそうはまたかんとげしょしょう会見かいけんしたが、曹操そうそうは5せん鉄騎てっきじゅう騎兵きへい)を陣立じんだてしたので、てきはこれをおそれた。