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潼関

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
潼関
所在地しょざいち 陝西せんせいしょう潼関けん
座標ざひょう 北緯ほくい3436ふん22びょう 東経とうけい11017ふん10びょう / 北緯ほくい34.606 東経とうけい110.286 / 34.606; 110.286座標ざひょう: 北緯ほくい3436ふん22びょう 東経とうけい11017ふん10びょう / 北緯ほくい34.606 東経とうけい110.286 / 34.606; 110.286
山系さんけい はたみね山脈さんみゃくたいゆき山脈さんみゃく谷間たにま
潼関の位置(華北平原内)
潼関
潼関の位置(中華人民共和国内)
潼関
プロジェクト 地形ちけい
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潼関(どうかん[1][2][3]、とうかん[4], Tong Pass)は、中国ちゅうごく陝西せんせいしょうひがしはしにあった関所せきしょせきふさが[1]現在げんざい行政ぎょうせい区画くかくでは、陝西せんせいしょう渭南潼関けん北部ほくぶ位置いちする。黄河こうが屈曲くっきょくてん位置いちし、古来こらい中原なかはらからせきなかはい交通こうつう要衝ようしょう軍事ぐんじ要地ようちとしてられる[1][3]

地理ちり

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潼関の位置(華北平原内)
潼関
潼関
洛陽
洛陽らくよう
長安
長安ながやす
関連かんれん地図ちず

みなみながしていた黄河こうがが、華山かざんはたみね山脈さんみゃく)につきたり、西にしからながれる渭水合流ごうりゅうしてひがしへとかう屈曲くっきょくてん南岸なんがん位置いちする[3][2][4]地形ちけい険阻けんそであり[1]中原なかはら河南かなんしょう洛陽らくよう方面ほうめん)とせきなか陝西せんせいしょう長安ながやす方面ほうめん)とをむす要衝ようしょうであった[4]

名称めいしょう

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「潼関」という名称めいしょう曹魏時代じだいから文献ぶんけんられる[5]

きたたかし酈道もとあらわした『みずけいちゅう』(6世紀せいき)によれば、みなみながしてきた黄河こうがやまに「潼激」するところから「潼関」のがあるという[6][注釈ちゅうしゃく 1]

みずけいちゅう[注釈ちゅうしゃく 2]や『元和げんなぐんけんこころざし[注釈ちゅうしゃく 3]には、崤山 (zhから潼津にかけての地域ちいきしなべて「はこたにせき」とぶ、としるされている[7]。「潼関」という名称めいしょうあらわれる曹魏以前いぜん黄河こうが屈曲くっきょくてん付近ふきんは「ももりんふさが」「はこたにせき」といった名称めいしょう記録きろくあらわれている[5]。このほか潼関については、衝関、くも潼関といった名称めいしょうもちいられた[8]

この地域ちいきせきふさが時代じだい政治せいじ状況じょうきょうによってすうにわたって移転いてんしたり、複数ふくすうせきふさが併用へいようしていたりしている[5]歴史れきし地理ちりがく考古こうこ学者がくしゃ塩沢しおざわ裕仁ひろひとは、「ももりんふさが」「はこたにせき」「潼関」がひとつのものとして理解りかいされ[8]現在げんざいの潼関けんから河南かなんしょう三門さんもんかい霊宝れいほうまでの広範こうはん地域ちいきが「はこたにせき」としょうされてきたこと[9]注意ちゅういうながし、潼関を「だいよんはこたにせき[6][注釈ちゅうしゃく 4]としている。

歴史れきし

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春秋しゅんじゅう時代じだいすすむはこの付近ふきんももりんふさがきずいた[3][4]ひがしにあったはこたにせきとともにせきちゅうまもりとなっていた[4]とされる。なおこのももりんふさがについて、西にしすすむもりあずかは『春秋しゅんじゅうひだりでん』にしたちゅうで、ももりんふさがを潼関と同一どういつとする認識にんしきしめしている[10]

かんだいはこたにせき洛陽らくよう付近ふきんうつされたため[4]こうかん末期まっき2世紀せいきすえごろ)にあらたに関所せきしょもうけられ[2][3][4]、潼関とよばれた[3]

たてやすし16ねん211ねん)には、曹操そうそうぐんうまちょうかんとげせきちゅう軍閥ぐんばつあいだ潼関のたたかおこなわれた。『三国志さんごくし』にあるこのたたかいの記述きじゅつが、「潼関」のしる初出しょしゅつである[6]

とう天宝てんぽう15756ねん)、安史やすしらん初期しょきたたかいのひとつがおこなわれた (zh:靈寶れいほう、潼關たたかえ哥舒翰ひきいるとうぐんは潼関をうしない、とう朝廷ちょうてい長安ながやすからしょくのがれることになる。

20世紀せいきまで、黄河こうが河畔かはんにあった潼関のまちあきらしんだい潼関けんけんじょう[8]は、対岸たいがんふうりょうわたり中国語ちゅうごくごばん現在げんざい山西さんせいしょううん城市じょうし芮城けんふうりょうわたり中国語ちゅうごくごばん)とともに商業しょうぎょうとしてさか[3]鉄道てつどう路線ろせん隴海せんかよっていた[4]。1950年代ねんだい黄河こうが下流かりゅう三門さんもんかいダム建設けんせつされると、潼関のまち南方なんぽう移転いてん[8]鉄道てつどうえられた[3]

遺跡いせき

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一般いっぱんに、三門さんもんかいダム建設けんせつ放棄ほうきされたあきらしんだいの潼関けんけんじょう現在げんざいの潼関けんはた東鎮とうちん中国語ちゅうごくごばんもと港口こうこう鎮、2002ねん港口こうこう鎮がはた東鎮とうちん編入へんにゅう)。北緯ほくい3436ふん24びょう 東経とうけい11017ふん33びょう / 北緯ほくい34.60667 東経とうけい110.29250 / 34.60667; 110.29250[注釈ちゅうしゃく 5])が「潼関」と認識にんしきされている[8]北面ほくめんのぞいた3めん残存ざんそんじょうきょう比較的ひかくてきいという[8]

はた東鎮とうちん南方なんぽう台地だいちじょうには複数ふくすう遺跡いせきがあり[8]古代こだいからのせきふさが古道ふるみちかんがえるうえでは重要じゅうようである[11]

  • みなみじゅん城址じょうし別名べつめい「泗川城址じょうし」、ふとしよう鎮南じゅんむら北緯ほくい3431ふん52びょう 東経とうけい11016ふん34びょう / 北緯ほくい34.53111 東経とうけい110.27611 / 34.53111; 110.27611[12])は、あきらしんだい遺構いこうとされるが、このしろいんしゅうだい遺構いこううえきずかれた可能かのうせい指摘してきされている[8]周辺しゅうへんじゅんそこ寨村には戦国せんごく時代じだい遺跡いせき確認かくにんされており[8]ももりんふさがとの関係かんけいかんがえられる[8]
  • じゅうれんじょうは、きんみぞかわ西側にしがわにある烽火ほうかだいあとである。築造ちくぞう時期じき戦国せんごく時代じだいさかのぼるというせつもあるが、はっきりしない[13]

文学ぶんがくにおける潼関

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しょけいたけしげるへんによれば、しゅうたけおうは、いん紂王放伐ほうばつしたのち、軍用ぐんよう牛馬ぎゅうばはなって二度にどもちいないことを天下てんかしめした(かえり馬放まはなしうし)。このうちうしはなった場所ばしょももりんである。

もりはじめの「さん吏三べつ」のひとつとして「潼関吏」がかぞえられている。民族みんぞくそなえて潼関を堅牢けんろうする工事こうじえがくとともに、哥舒翰敗軍はいぐんについてれられている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ かわざい關内せきうちみなみりゅう,潼激關山せきやまいんいい潼關」『みずけいちゅうまきよんちゅうぶんばんWikisource
  2. ^ 河水こうすい潼關東北とうほくりゅうみずがわゆう長坂ながさかいいちまたざかさかはたぜっ澗,のぼる此坂以升潼關,所謂いわゆる泝黄ちまた以済潼矣。れき北出きたいでひがし崤,つういいはこたにせき」『みずけいちゅうまきよんちゅうぶんばんWikisource
  3. ^ ひがし崤山,西にしいたる潼津,つうめいはこだに」『元和げんなぐんけんこころざしまきろく。『西にしせい』よりの引用いんようちゅうぶんばんWikisource
  4. ^ 一般いっぱんられる3つのはこたにせきは「しゅうはこたにせき」(現在げんざい河南かなんしょう三門峡市霊宝市函谷関鎮(もときた坡頭きょう、1994ねんきた坡頭きょうはこたにせき鎮に改編かいへんおう垛村)、「かんはこたにせき」(現在げんざい河南かなんしょう洛陽らくよう市新いちしんやすけんじょうせき東関ひがしせきむら)、「はこたにせき」(現在げんざい河南かなんしょう三門峡市霊宝市函谷関鎮孟村。三門さんもんかいダムのダムみずうみ水没すいぼつ)。
  5. ^ 塩沢しおざわ(2016ねん)にしめされている、集落しゅうらくかこ城壁じょうへきのうち東関ひがしせき座標ざひょう[8]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 潼関”. ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん(コトバンク所収しょしゅう. 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 潼関”. 百科ひゃっか事典じてんマイペディア(コトバンク所収しょしゅう. 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h 潼関”. 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん(コトバンク所収しょしゅう. 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h 潼関”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)(コトバンク所収しょしゅう. 2019ねん12月23にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, p. 501.
  6. ^ a b c 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, p. 473.
  7. ^ 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, pp. 502, 473.
  8. ^ a b c d e f g h i j k 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, p. 472.
  9. ^ 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, pp. 468–467.
  10. ^ 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, pp. 473–472.
  11. ^ 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, pp. 472, 468.
  12. ^ 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, p. 471.
  13. ^ 塩沢しおざわ裕仁ひろひと 2016, p. 468.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 塩沢しおざわ裕仁ひろひとはこたにせき遺跡いせき考証こうしょう : よっつのはこたにせき遺跡いせきについて」『東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ紀要きようだい169かん東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、2016ねん、463 - 502ぺーじdoi:10.15083/000268122019ねん12月26にち閲覧えつらん