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哥舒翰

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哥舒 翰(かじょ かん、 生年せいねんしょう - 至徳しとく210月16にち757ねん12月1にち))は、とう将軍しょうぐんテュルクけい突騎ほどこせテュルギシュ西にし突厥主流しゅりゅうとなっていた部族ぶぞく出身しゅっしん[1]吐蕃とのたたかいで活躍かつやくしたが、安史やすしらん敗北はいぼくし、らえられ殺害さつがいされた。

生涯しょうがい

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武将ぶしょう時代じだい

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突騎ほどこせ族長ぞくちょう、哥舒末裔まつえいちちの哥舒道元どうげん安西あんざいまもる将軍しょうぐんであったため、安西あんざいんでいた。ははホータン王国おうこく(于闐)の王女おうじょであったという。いえみ、任侠にんきょうおもんじていた。とう長安ながやすおもむき、市場いちばさけ博打ばくちをたしなんでいた。40さいぎてからちちぬ。安西あんざいかえらずに河西かさいき、節度せつど使おう倕につかえて軍功ぐんこうをたてた。おう忠嗣ただつぐつかえて衙将となる。

ひだり春秋しゅんじゅう漢書かんしょみ、大意たいいつうじていた。財産ざいさんにこだわらずひとによくほどこし、しんていた。吐蕃ったときに、命令めいれいしたがおうとしなかった副将ふくしょうみずかころすような厳酷げんこくさもあった。吐蕃とのたたかいにおいて、みずかやりっててきをうちやぶったためにひびわたった。隴右ふく節度せつど使となり、とうむぎねらって進入しんにゅうしてきた吐蕃ぐん5せん伏兵ふくへい使つかって皆殺みなごろしにしている。

哥舒翰は剛勇ごうゆうであった。落馬らくばしながらも大声おおごえはっして吐蕃のさんしょうしとどめ、援軍えんぐんとともにころした説話せつわや、げるてきかたっていたところをのどしてころし、ひだりしゃという従者じゅうしゃがそのくびったというはなしのこっている。

天宝てんぽう6747ねん)、おう忠嗣ただつぐぐんすすめなかったつみ弾劾だんがいされたときには、入朝にゅうちょうしておう忠嗣ただつぐ釈明しゃくめいおこなった。一人ひとりげんむねまえて、おのれ官職かんしょくをもってあがなうとうったえている。このときに、「直道なおみちがあれば、冤罪えんざいぬこともないし、なければ、賄賂わいろおくってもどうにもなるまい」とかたったとつたえられる。ために、おう忠嗣ただつぐ死罪しざいまぬかれた。

天宝てんぽう7748ねん)、青海あおみ地方ちほうしろきずいて吐蕃をやぶり、青海あおみちかづかせなかった。

節度せつど使・哥舒翰

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天宝てんぽう8749ねん)、隴右節度せつど使として、おう忠嗣ただつぐ左遷させんされる原因げんいんとなった吐蕃のいし堡城の攻略こうりゃくめいじられる。隴右・河西かさいさくかた河東かわとうおよび突厥のへいわせて10まんひきいてんだ。いし堡城は難攻不落なんこうふらくであったが、すうまんへいうしないつつも落城らくじょうさせた。

おな節度せつど使やすろくやまとその従兄弟いとこやすおもえじゅんなかわるかった。来朝らいちょうしたときやすろくやまから「わたしちちは(西域せいいきの)えびすじんははは突厥。あなたのちちは突厥。ははは(西域せいいきの)えびすじんぞくるいおなじようなのに、なぜ、なかわるいのかね?」とたずねられ、「ことわざに『きつねあなかってえるのは不祥ふしょうである』というものがある。根本こんぽんわすれているからだ。しんくすつもりはあるのだが」とこたえた。やすろくやま侮辱ぶじょくされたとおもっていかり「突厥とはこのようなものか」といったため、反論はんろんしようとする。しかし、こう力士りきし仲介ちゅうかいったことにしてせきはずしたことがあった。[2]

河西かさい節度せつど使ね、りょうこくおおやけとなる。吐蕃をやぶってきゅうきょくうばい、西平にしだいらぐんおうふうじられた。やすろくやま対立たいりつする宰相さいしょう楊国ただしみ、太子たいししょうにんじられた。このころから哥舒翰はさけいろこのんだため病体びょうたいとなり、長安ながやすはいり、屋敷やしきから外出がいしゅつすることはなかったとつたえられる。

安史やすしらん

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天宝てんぽう14755ねん)、やすろくやま反旗はんきをひるがえし安史やすしらん勃発ぼっぱつした。洛陽らくよう陥落かんらくとうぐん潼関まで退しりぞいたが、司令しれいかんとなったふうつねきよし敗戦はいせんつみで、こうせんしば退却たいきゃく着服ちゃくふく(これは冤罪えんざいであった)のつみ処刑しょけいされた。あらたに哥舒翰が兵馬へいば元帥げんすいにんじられ、潼関に赴任ふにんした。哥舒翰は病気びょうきをもって固辞こじしようとしたがげんむね拒絶きょぜつされたとつたえられる。

哥舒翰は病身びょうしんであり、ちゅうすすむりょうおか指揮しきをゆだねたが統率とうそつがとれず、騎兵きへいひきいる王思おうしれい歩兵ほへいひきいるうけたまわひかり対立たいりつしていた。また、哥舒翰は厳酷げんこく恩愛おんあいすくなく、宦官かんがんの袁思げいから報告ほうこくけ、げんむね兵士へいしあたえるためにおくったころもぞうなかれていた。さらに、かんぐんまさるむべ兵士へいしえている状況じょうきょうで、あそびにふけっていた。ために、士気しきるわなかったとつたえられる。

至徳しとくもと756ねん)、潼関にめてきたやすろくやま息子むすこあんけいいとぐち撃退げきたいする。不仲ふなかであったやすおもえじゅんへのやすろくやまからの手紙てがみをでっちげておとうと安元やすもとさだともども誅殺ちゅうさつんだ。

やすろくやまが楊国ちゅう誅殺ちゅうさつ大義名分たいぎめいぶんとしていた。そのため、王思おうしれいぐん長安ながやすほうすすめて、くんに楊国ちゅうちゅうすることを上奏じょうそうすることをもとめ、楊国ちゅうをさらってころすことをもとめる。だが、哥舒翰は謀反むほんじんになってしまうとして却下きゃっかする。

楊国ちゅう警戒けいかいつよめ、福徳ふくとくもりいぬいうんしょうとして哥舒翰にそなえる。哥舒翰は、もりいぬいうんをおびきよせころしてしまい、対立たいりつつよまった。

潼関とたたかいとその

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このころ、潼関をてき撃破げきはすべきと上奏じょうそうするものがおり、げんむね進軍しんぐんするようにめいじた。哥舒翰はもりせんとして反対はんたいする。北地きたじたたかっていたかくひかりまもるべきと上奏じょうそうしたが、楊国ちゅう強硬きょうこうにいいはげんむね同意どういした。

なん出撃しゅつげき命令めいれい使者ししゃおくられた哥舒翰は慟哭どうこくしたが、20まんへいひきい潼関からた。

やすろくやまぐん武将ぶしょうちぇいぬいゆう交戦こうせんするが、伏兵ふくへいにあい大敗たいはい。潼関に退却たいきゃくし、敗残はいざんへい8せんひきいて再戦さいせんこころみるが、武将ぶしょう抜帰じん裏切うらぎったためにらえられる。抜帰じんは、やすろくやまぐんいぬいしん降伏ごうぶくし、哥舒翰は洛陽らくようおくられる。

このときやすろくやま平伏ひれふして、「陛下へいかやすろくさん)のために、ひかり弼や魯炅書状しょじょうまねきましょう」とったとつたえられる。なお、抜帰じん不忠ふちゅうとしてやすろくやまころされた。

しかし、しょしょう返書へんしょが哥舒翰がふしななかったことをめた内容ないようであったために、軟禁なんきんされてしまう。至徳しとく2(757ねん)10がつとうぐん洛陽らくよう回復かいふくさい逃亡とうぼうするやすけいいとぐちによってころされる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ りゅうまなぶえびすきょうはなかたち中國ちゅうごく歷史れきしてきことぞく書房しょぼう、2004ねん8がつ1にち、87ぺーじISBN 9867640411https://www.google.co.jp/books/edition/えびすきょうはな/OTLKluJnuMAC?hl=ja&gbpv=1&pg=PA87&printsec=frontcover 
  2. ^ 不仲ふなかであった背景はいけいには、おう忠嗣ただつぐやすろくやま対立たいりつしていたことがかんがえられる。

伝記でんき資料しりょう

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