ひかり

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ひかり弼の肖像しょうぞう

ひかり(り こうひつ、けいりゅう2ねん708ねん) - 広徳ひろのり2ねん7がつ14にち764ねん8がつ15にち))は、とうだい部将ぶしょうちぎりぞく出身しゅっしん[1]安史やすしらん鎮圧ちんあつ多大ただい貢献こうけんをし、かくと「かく」となら賞賛しょうさんされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ひかり弼は営州柳城やなしろ出身しゅっしんである。とうちゅうむね年間ねんかんけいりゅう2ねん(708ねん)にまれた。ちち楷洛はちぎり出身しゅっしんで、げんむねひらきもと年間ねんかん活躍かつやくから営州とくとなってちゅうれつおくりなされた。ははちぎり出身しゅっしん楷固のむすめひかり弼はいむあつし大略たいりゃくがあり、『漢書かんしょ』をみ、騎射きしゃをよくしたという[2]義忠よしただぞう彙、まご黯。西にしりょうあきらはその後裔こうえいしょうした。

安史やすしらん[編集へんしゅう]

天宝てんぽう14755ねんふゆ范陽節度せつど使やすろくやま反乱はんらんこし、洛陽らくよう南進なんしんした。げんむねやすろくやま従兄じゅうけいやすおもえじゅん長安ながやすもどし、わりにかくついたちかた節度せつど使とした。げんむねがさらに河東かわとう節度せつど使だれまかせるべきかうと、かくひかり弼を推薦すいせんした。天宝てんぽう15756ねんはるひかり弼は河東かわとう節度せつど使になり、かくともついたちかたひがしやすろくやま領土りょうど攻撃こうげきした。ひかり弼はすぐに常山つねやまおとしいれた。ふみおもえあきら反撃はんげきするとかく合流ごうりゅうしてはらい、やすろくさんつばめ皇帝こうてい即位そくいした洛陽らくようと范陽との通信つうしんった。やすろくやま洛陽らくようからけつけることを考慮こうりょした。このときちぇいぬいゆうひきいられたつばめぐん哥舒翰まも潼関かっていた。哥舒翰、ひかり弼、かくはこれを攻撃こうげきせずにまもりたがったが、宰相さいしょう楊国ちゅう楊貴妃ようきひ従兄じゅうけいかく自分じぶん地位ちいねらうことをおそれてげんむねちぇいぬいゆう攻撃こうげきするようすすめた[2]。哥舒翰はちぇいぬいゆうやぶれて潼関ごとらえられた。ちぇいぬいゆう長安ながやすすすむと、げんむね長安ながやすてて成都せいと避難ひなんした。太子たいし粛宗れいたけし避難ひなんして即位そくいした。ひかり弼とかくつばめぐん長安ながやす占拠せんきょらずにふとしあるきさん退却たいきゃくした。のちに粛宗が2人ふたりれいまねいた。粛宗はひかり弼をどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごととしてへい5せんふとしはらかわせた。ひかり弼がふとはらいたると、些細ささいことから適当てきとう理由りゆうけて部将ぶしょうちぇしゅう処刑しょけいしたことからおそれられた[2]

至徳しとく2757ねんはるふみおもえあかりは粛宗が長安ながやす奪回だっかいのためひかり弼の兵力へいりょく大半たいはんれいめられていたことにみ、しゅう10まんたいばら包囲ほういした。しかしひかり弼は度々どどおもえあかり攻撃こうげきがえした。やがて、あんけいいとぐちやすろくやまころし、ふみおもえあかりが范陽にもどされ、ふとしばらには蔡希とくにんじられた。ひかり弼は蔡希とく大破たいはし、蔡希とく敗走はいそうした。この功績こうせきからひかり弼はこうのちちょうこうあらためられる)となった。758ねんはつ、粛宗が長安ながやす奪回だっかいすると、つかさそらとした[2][3]

とうかい(ウイグル)の協力きょうりょく洛陽らくよう奪回だっかいし、あんけいいとぐち鄴城奔走ほんそうしたが、つばめぐん大半たいはんとう投降とうこうしたため、その支配しはいは鄴城周辺しゅうへんかぎられたものとなった。おもえあかり投降とうこうしたが、ひかり弼はふたた反乱はんらんすることをおそれて粛宗にがらすうけたまわおん暗殺あんさつさせることを説得せっとくした。おもえあかりはこれにづき、がらすうけたまわおんころして粛宗にひかり弼をころすことを説得せっとくした。粛宗が黙殺もくさつすると、ふみおもえあかりふたた造反ぞうはんした。いぬいはじめ元年がんねん758ねんあきひかり弼は粛宗と会見かいけんし、さむらいちゅうくわえられた。このころひかり弼、かく、魯炅、奐、もと叔冀、こう琛、ちぇひかりとお王思おうしれいとう部将ぶしょうやすけいいとぐち討伐とうばつのため鄴城で合流ごうりゅうした。ひかり弼はこのときそう攻撃こうげき提案ていあんしたが、そうかんまかせられた宦官かんがんさかな朝恩ちょうおん却下きゃっかされた。包囲ほういされたあんけいいとぐち救援きゅうえんもとめたため、ふみおもえあかりは范陽から南進なんしんし、いぬいもと2ねん759ねんはるとうぐんたたかったが、混戦こんせんとなり、ひかり弼と王思おうしれいのみがへいをまとめて退却たいきゃくすることができた。あきさかな朝恩ちょうおんかく敗戦はいせん責任せきにんうと、粛宗はついたちかたぐんけんひかり弼にゆだねた。そのきびしい軍律ぐんりつえかねたちょうようずみひかり弼を排除はいじょしてかく復活ふっかつさせるようとしていたが、ひかり弼はちょうようずみらえて処刑しょけいした。このころにはひかり弼は名誉めいよしょくがかりした実質じっしつてきとうぐんけんにぎっていた[2][4]

ふみおもえあかり即位そくい[編集へんしゅう]

ふみおもえあかりやすけいいとぐちころしてつばめ皇帝こうていとなり、洛陽らくようへと南進なんしんした。ひかり弼は洛陽らくようから河陽かわよう避難ひなんさせたのでおもえあかり簡単かんたん洛陽らくようはいったが、河陽かわようおさえられてひかり弼の反撃はんげき度々たびたびけたため長安ながやすすすめなかった。いぬいもと3ねん760ねんはる、粛宗はひかり弼を中書ちゅうしょれいふとしじょうとした。うえもと2ねん761ねんはるさかな朝恩ちょうおんぼくかたふところおんついたちかたぐんけんにぎると、洛陽らくよう奪回だっかいした。ひかり弼は反対はんたいしたが粛宗にめいじられてまもるはくだまとも洛陽らくよう攻撃こうげきした。しかし両者りょうしゃ作戦さくせん不一致ふいっちによりめ、そのすきつばめぐん攻撃こうげきされた、とうぐんみな敗走はいそうした。ひかり弼が河陽かわようめただきだまったため、河陽かわようつばめぐんはいった。しかしつばめではおもえあかりあさよしころされたため進撃しんげきもここでんだ。ひかり弼はげることをもとめ、一時いちじてき開府かいふどうさんつかさ河中かわなか節度せつど使となったが、ふたたふくまかされた。また、ふみちょう南進なんしんそなえるために臨淮に鎮した。ひかり弼はつばめぐんそうしゅう包囲ほういき、つばめぐんはばんだ。田神たがみこうなお衡、いんなかきょうとうつばめたいして対処たいしょだったとう部将ぶしょうも、ひかり弼をおそれて討伐とうばつした。ひかり弼は臨淮おうとなり、じょしゅうに鎮した。また、うてなしゅう周辺しゅうへん袁晁反乱はんらん鎮圧ちんあつした[2]

たからおう元年がんねん762ねんふゆだいむねが粛宗ののちぎ、とうぐん洛陽らくようあさから奪回だっかい計画けいかくした。ひかり弼は洛陽らくようかい、かい鶻やぼくかたふところおんひがしかくえい乂とだきだま合流ごうりゅうしてあさ洛陽らくようから敗走はいそうさせた。あさたからおう2ねん763ねんはる自殺じさつし、安史やすしらん終焉しゅうえんした[5]

鎮圧ちんあつ[編集へんしゅう]

安史やすしらん鎮圧ちんあつされると、ひかり弼はさかな朝恩ちょうおんほどもと宦官かんがん冤罪えんざいをかけられることをおそれ、だいむねのいる長安ながやす帰還きかんしなかった。ほどもと部将ぶしょうらい瑱に自殺じさつめいじたことからおそれ、広徳ひろのり元年がんねん(763ねんあきに吐蕃が長安ながやす攻撃こうげきしたときでさえ救援きゅうえんしなかった。だいむねひかり弼の親族しんぞく優遇ゆうぐうすることで機嫌きげんりをしたが、ひかり弼はおうじなかった。764ねんなつだいむね洛陽らくようまかせられてもじょしゅうなかった。ひかり弼は名声めいせいていたが、勅命ちょくめいなん無視むししたため評判ひょうばんがり人望じんぼううしなった。こうとく2ねん(764ねん)7がつ、56さい病死びょうしたけきよしおくりなされた[2][6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ りゅうまなぶえびすきょうはなかたち中國ちゅうごく歷史れきしてきことぞく書房しょぼう、2004ねん8がつ1にち、87ぺーじISBN 9867640411https://www.google.co.jp/books/edition/えびすきょうはな/OTLKluJnuMAC?hl=ja&gbpv=1&pg=PA87&printsec=frontcover 
  2. ^ a b c d e f g きゅうとうしょまき110
  3. ^ どおりかんまき219
  4. ^ どおりかんまき221
  5. ^ どおりかんまき222
  6. ^ どおりかんまき223

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]