ふみおもえあきら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
大聖たいせいしゅうみかど おもえあきら
つばめ
だい3だい皇帝こうてい
王朝おうちょう つばめ
在位ざいい期間きかん 759ねん - 761ねん
都城みやこのじょう つばめきょう
せいいみな ふみ窣干(はつ)→おもえあきら
諡号しごう 大聖たいせいしゅう皇帝こうてい
生年せいねん 長安ながやす3ねん703ねん
没年ぼつねん じゅんてん3ねん3月9にち
761ねん4がつ18にち
后妃こうひ からし皇后こうごう
年号ねんごう おうてん : 759ねん
じゅんてん : 759ねん - 761ねん

ふみ おもえあきら(し しめい)は、とうだい軍人ぐんじん[1]つばめだい3だい皇帝こうてい

人物じんぶつ生涯しょうがい[編集へんしゅう]

突厥ソグドじん混血こんけつ出身しゅっしんで、やすろくやまどう世代せだい同郷どうきょうだったためしたしいなかにあった。また、自身じしんも6つの言語げんごかい教養きょうようつうじる人物じんぶつであったため、次第しだい頭角とうかくあらわしていく。かそけしゅう節度せつど使部下ぶかであったときに戦功せんこうげ、天宝てんぽう11752ねん)にはやすろくやま配下はいかとなった。

至徳しとくもと756ねん)にやすろくさん反乱はんらんこすと、河北かわきたぐんひきいてたたかい、ひかりかおきょうひきいるとうぐんたたかった(安史やすしらん)。しかし、ひじりたけし2ねん757ねん)にやすろくやま次子じしあんけいいとぐちが、ちち殺害さつがいするとそのいでつばめ皇帝こうていしょうした。おもえあかりはこれに反発はんぱつし、范陽かえって自立じりつ。やがてとう降伏ごうぶくするも、粛宗かれちか要人ようじんたち自分じぶん殺害さつがい計画けいかくしていることをると降伏ごうぶく撤回てっかいし、天成てんせい3ねん759ねん)3がつ洛陽らくようやすけいいとぐちほろぼし、ここでみずかだいつばめ皇帝こうてい名乗なの自立じりつする。だが、じゅんてん3ねん761ねん)、末子まっしふみちょうしん後継あとつぎにしようとしたために長男ちょうなんあさよしによってころされた。

[編集へんしゅう]

  1. あさよし
  2. ふみちょうえい
  3. ふみちょうしん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ふみおもえあきら(ししめい)の解説かいせつ”. goo人名じんめい辞書じしょ. 2020ねん7がつ2にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]