かおきょう

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ばんわらいどう竹荘たけしょうでん』より

かお きょう(がん しんけい、けいりゅう3ねん709ねん〉 - 貞元さだもと元年がんねん8がつ3にち785ねん8がつ23にち〉)は、とうだい政治せいじ書家しょかきよししんほんぬき琅邪ぐん臨沂けん中国ちゅうごくでも屈指くっし忠臣ちゅうしんとされ、またとうだい随一ずいいち学者がくしゃ芸術げいじゅつとしてもられる。

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

かおは、琅邪ぐん臨沂けんほんぬきとする名家めいかであり、六朝りくちょう時代じだい以来いらいおおくの学者がくしゃ輩出はいしゅつした。『かお氏家うじいえさとし』の著者ちょしゃであるかお末裔まつえいで、『漢書かんしょちゅう著者ちょしゃであるかおいにしえまごにあたる[1]

かお一族いちぞくは、経書けいしょひとつである『しゅうあや』と『春秋しゅんじゅうひだりでん』を家学かがくとし、また『漢書かんしょ』のがくでもられ、とく訓詁くんこ方法ほうほうもちいて古典こてん研究けんきゅうおこなってきた。そこでがくしょうされた。[2]。また、これ推の祖父そふかおどおあにかおら、節義せつぎをもってられる人物じんぶつおおいことでもられる[3]

くわえて、かお一族いちぞくしょ芸術げいじゅつひいでた人物じんぶつおおいことでもられ、とお祖父そふかおあがこれいにしえおとうとかおつとむれい、そのかおあきらはじめらがいた。かお推は、しょかお一族いちぞく家業かぎょうひとつであることは強調きょうちょうしながらも、しょだけを得意とくいとする人間にんげんになるのではなく、学芸がくげい徳義とくぎわせた人間にんげんになることをもとめていた[4]

歴史れきし学者がくしゃ吉川よしかわ忠夫ただおによると、かおきょうは、前述ぜんじゅつかお一族いちぞく特徴とくちょうをよくわせた人物じんぶつであると指摘してきしている[5]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

かおきょうは、とうちゅうむねけいりゅう3ねん709ねん)、かおあきらはじめであるおもんみさだだいろくおとことしてまれた。母親ははおやいん践猷いもうとで、幼名ようみょうは「とももん」、は「きよししん」である[6]おさないころに父親ちちおやくし、とくはは伯母おばじょうあきらはじめむすめ)の養育よういくされた[7]

ひらきもと22ねん734ねん)、26さいにして進士しんし及第きゅうだいした。そのねん科挙かきょ及第きゅうだいしゃ対象たいしょう吏部主催しゅさいする任用にんよう試験しけん合格ごうかくし、秘書ひしょしょうこうしょろう任命にんめいされた。ここでは典籍てんせき校訂こうてい職務しょくむとした[8]。さらに、天宝てんぽう元年がんねん742ねん)、34さいのときにぶん秀逸しゅういつ試験しけん合格ごうかくする。これにより、きょうちょう醴泉けん陝西せんせいしょうれいいずみけん)のけんじょうとなった。その長安ながやすけんけんじょううつり、当時とうじ官界かんかい出世しゅっせコースをあゆんでいた[9]

やがてきょうかん察御昇進しょうしんし、再三さいさんにわたって地方ちほう査察ささつめいじられる。このさい岑参からおくられた。たびたび不正ふせい弾劾だんがいおこない、殿中でんちゅうさむらい昇進しょうしんするが、これによってよしあつし対立たいりつし、かれつながりのあった権臣けんしん楊国ただしうとんじられ、東都とうと採訪さいほう使次官じかん転出てんしゅつさせられる。しかし、ふたた殿中でんちゅうさむらい任命にんめいされると、天宝てんぽう9750ねん)にはげんむね御製ぎょせいしょ下賜かしされる栄誉えいよけた[10]

結局けっきょく、楊国ちゅうとの確執かくしつ解決かいけつしておらず、天宝てんぽう12753ねん)、45さいとき平原ひらばらぐん太守たいしゅ転出てんしゅつさせられた。このときにも、岑参はきょう長編ちょうへんおくっている[11]

安史やすしらん[編集へんしゅう]

かおきょう平原へいげん太守たいしゅうつったのは、やすろくやまがまさに反乱はんらん意志いしかためつつあるころであった[12]きょうは、やすろくやま不穏ふおんうごきをて、城壁じょうへき修理しゅうりほり整備せいび食糧しょくりょう準備じゅんびなどをひそかにっていた[13]

天宝てんぽう14755ねん)、安史やすしらん勃発ぼっぱつし、やすろくやま洛陽らくよう目指めざして挙兵きょへいした。そのころ常山つねやまぐん太守たいしゅつとめていたのはぞくけいかお杲卿きょう伯父おじもとまごだい)であり、きょうかれとともにやすろくやま反抗はんこうする決意けついかため、義兵ぎへいげた。河北かわきた山東さんとう各地かくちやすろくやま勢力せいりょく帰属きぞくするなかにあって、きょう・杲卿が味方みかたとしてぐんげたことにげんむね驚喜きょうきしたという[14]

天宝てんぽう15756ねん)、常山つねやまぐん落城らくじょうし、かお杲卿はやすろくさんによって惨殺ざんさつされた[15]一方いっぽうかおきょうは、清河きよかわぐん河北かほくしょう清河きよかわけん)の㟧とむすび、ぐん占領せんりょうしていたやすろくやまぐん撤退てったいさせることに成功せいこうした[16]。しかし、河北かほく戦局せんきょくはしだいに不利ふりかたむき、ふみおもえあきら攻撃こうげきによって平原へいげん清河きよかわひろしひらめ山東さんとうしょう聊城以外いがいぐん陥落かんらくした。かおきょうはこのまま座視ざししても敗北はいぼくするだけであるとかんがえ、平原へいげんじょうて、当時とうじれいたけし避難ひなんちゅうであった粛宗のもとへとかった[17]

至徳しとく2757ねん)、かおきょうはようやく粛宗のもとにたどりき(粛宗はさらおおとりしょうへと移動いどうしていた)、謁見えっけんかなった。きょうけん尚書しょうしょ刑部おさかべ尚書しょうしょ)・大夫たいふとして職務しょくむたった。このころやすろくやま息子むすこあんけいいとぐちころされ、同年どうねんに粛宗は長安ながやすかえり、かおきょうもこれにしたがって長安ながやすもどった[18]

まつりめいぶん稿こう台湾たいわん国立こくりつみや博物はくぶついん ぞう

しかし、直言ちょくげんはばからないかおきょうふたたけむたがられ、かばのしゅう刺史ししにょうしゅう刺史ししのぼりしゅう刺史ししなど地方ちほう転々てんてん異動いどうすることとなった。「まつりめいぶん稿こう」「そうじょう」などはこのころつくられた作品さくひんである[19]。その一時期いちじき中央ちゅうおう復帰ふっきしたが、えいやすし2ねん766ねん)に硤州のべつかごしょくになるなど、ふたた地方ちほう転々てんてんとした[20]

だいれき3ねん768ねん)からはなでしゅう剌史をつとめ、このころに「あさしゅうとせんだん」「夫人ふじんせんだん」「はなしゅうとせんだん」など道教どうきょうゆかりの作品さくひんおおのこした[21]だいれき7ねん772ねん)からはみずうみしゅう刺史ししつとめる。

最期さいご[編集へんしゅう]

だいれき12ねん777ねん)、69さいときみずうみしゅうはなれて長安ながやすもどり、吏部尚書しょうしょとなった。かおきょうは、朝廷ちょうてい儀礼ぎれいさい整備せいびおこない、『礼儀れいぎしゅう』をあらわした[22]。しかし、宰相さいしょう)はきょう極度きょくどきらい、反乱はんらんこした淮南ワイナン西道さいどう節度せつど使のぞみれつ説諭せつゆする特使とくしにんじた。かおきょう周囲しゅういかないように説得せっとくされたが、皇帝こうていいのちであるとしてこれにおうじ、かったさきのぞみれつらえられた[23]

のぞみれつきょう利用りようしようとこころみたが、きょうから王朝おうちょうへの忠誠ちゅうせいしん不変ふへんであった。きょうは蔡州の龍興寺りゅうこうじ身元みもとうつされ、「蔡州じょう」をあらわすと、ころされた。貞元さだもと元年がんねん(785ねん)8がつ3にちきょうは77さいであった[24]

きょう亡骸なきがら長安ながやすもどると、とくむね哀悼あいとうあらわして朝会ちょうかいりやめた[25]

しょ[編集へんしゅう]

かおかおきょう以前いぜんより能書のうがき家系かけいとしてられており、きょう壮年そうねんにはちょうあさひ筆法ひっぽうまなび、しょろんちょうちょうじゅう筆法ひっぽう』をのこしている。

楷書かいしょ[編集へんしゅう]

きょうはつとう以来いらい流行りゅうこうである王羲之おうぎしながれいんたい)の流麗りゅうれい清爽せいそう書法しょほう反発はんぱつし、そのかいこあたま燕尾えんびの楷法は、時代じだい代表だいひょうする革新かくしんせいをもっていた[26]かれは「ぞうほこさき」の技法ぎほう確立かくりつした。力強ちからづよさとおだやかさとをそなえた独特どくとく楷書かいしょがその特徴とくちょうである。伝説でんせつでは、かおきょうまずしかったころ屋根裏やねうらみた雨漏あまもあとてこの書法しょほうしたといわれている。叔父おじかおもとまご編纂へんさんした「ろく字書じしょ」の規範きはん意識いしきもとづく独自どくじ字形じけいつものもおおいが、その字形じけい当時とうじ標準ひょうじゅんとされた楷書かいしょとはことなり、正統せいとうてき王羲之おうぎし以来いらい楷書かいしょ伝統でんとう破壊はかいするものであったため、賞賛しょうさん批判ひはん評価ひょうかとしてじっている。これらの楷書かいしょは「かおたい」(かおほうきたりゅう)ともばれ、楷書かいしょよん大家たいか一人ひとりとして後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえた。楷書かいしょ作品さくひんには『かおびょう』、『あさしゅうとせんだん』、『多宝塔たほうとう』、『かおつとむれい』などがある。

多宝塔たほうとう[編集へんしゅう]

多宝塔たほうとう』(たほうとうひ)の建碑けんぴ天宝てんぽう11(752ねん)。だいがくじょひろし隷書れいしょ碑文ひぶんきょう44さいのときの楷書かいしょ撰文せんぶん岑勛による。だいがく隷書れいしょは「だいから多宝塔たほうとう感応かんおう」の8文字もじ碑文ひぶんはつくだりには「だいとう西京にしぎょう千福寺多宝仏塔感応碑文」とある。このいしぶみ長安ながやす千福せんぷくてら勅命ちょくめいにより建立こんりゅうしたもので、そうすわえきん(698ねん - 759ねん)が千福せんぷくてら多宝塔たほうとう建立こんりゅうした由来ゆらいしるしたいしぶみである。現在げんざい西安しーあんりんうつされている。現存げんそんするきょう作品さくひんなかではもっとわかいときのもので、後年こうねんのいわゆる「かおほう」としょうされる風骨ふうこついま十分じゅうぶん発揮はっきされていないが、いしぶみにあまり損傷そんしょうがなく、きゅうたくもあるため楷書かいしょ手本てほんとしてひろもちいられている。

かおつとむれい[編集へんしゅう]

かおつとむれい』(部分ぶぶんかおきょうせんしょ

かおつとむれい』(がんきんれいひ)の建碑けんぴいぬいはじめ2ねん(759ねん)とだいこよみ14ねん(779ねん)のりょうせつある。きょう曾祖父そうそふかおつとむれい墓碑ぼひで、きょうせんならびにしょ楷書かいしょである。いしぶみだかは268cm、はばは92cmの四面しめんこくであったが、最後さいご銘文めいぶんのあったいち側面そくめんそうだい石材せきざいとして利用りようされけずられたことが『金石かねいしろく』に記録きろくされている。いしぶみなが土中どちゅうにあったため文字もじ鮮明せんめいで、技巧ぎこうてき洗練せんれんされてふでがよくえており、「かおほう」をまなうえもっと重要じゅうよう資料しりょうである。

かおびょう[編集へんしゅう]

かおびょう』(がんしかびょうひ、『かおおもんみさだびょう』とも)の建碑けんぴけんちゅう元年がんねん(780ねん)、きょう72さいとき楷書かいしょである。篆額ようしょで「かおびょういしぶみ」と3ぎょうれてある。きょうちちおもんみさだのためにびょうつくり、いしぶみててかお履歴りれきみずかべたもので、西安しーあんりん現存げんそんする。いしぶみだかは345cm、はばは160cmの四面しめんこくで、両面りょうめんかく24ぎょう各行かくこう47両側りょうがわかく6ぎょう各行かくこう52あり、全部ぜんぶで2000をこえる力作りきさくである。いしぶみ保存ほぞんもよく、拓本たくほんおおつたわっており、きょう楷書かいしょ代表だいひょうさくである。

行書ぎょうしょ[編集へんしゅう]

行書ぎょうしょかんしては楷書かいしょことなり、しょ達人たつじんとして王羲之おうぎし匹敵ひってきするとされており、文句もんくなしの賞賛しょうさんけている。遺墨いぼくおおのこり、『りゅうちゅう使じょう』、『そうじょう』、『まつりめいぶん稿こう』がとく有名ゆうめいである。

そうじょう[編集へんしゅう]

せき中本なかもと

そうじょう』(そうざいじょう、『そうぶん稿こう』とも)は広徳ひろのり2ねん(764ねん)、きょう55さいときしょきょうみぎぼくしゃにんにあったかくえいおくったとみられる手紙てがみ草稿そうこう下書したがき)。内容ないようえい乂が百官ひゃっかん集会しゅうかいしょかん集会しゅうかい)のおりみだしたことにたいして、朝廷ちょうてい権威けんいをそこなったとして抗議こうぎしたもの。『まつりめいぶん稿こう』、『まつりはくぶん稿こう』とともに「かおきょうさん稿こう」といわれた1つ。真跡しんせきつたわらないが、西安しーあんりんにあるせき中本なかもともっと信頼しんらいできるこくほんとされる。

まつりめいぶん稿こう[編集へんしゅう]

思想しそう[編集へんしゅう]

かおきょうは、儒学じゅがくしゃとして秩序ちつじょ強調きょうちょうする古典こてん復興ふっこう主義しゅぎしゃであったが、時代じだい大勢おおぜい順応じゅんのうし、同時どうじ神仙しんせん道教どうきょう仏教ぶっきょう思想しそうてき影響えいきょうけており、そうがく先駆せんくしゃとしてその萌芽ほうが見出みいだすことができる[26]

後世こうせいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

かおきょう後世こうせいへの影響えいきょうおおきくけて忠臣ちゅうしん模範もはんとしての影響えいきょうと、書道しょどうにおける影響えいきょうの2つがある。 まず忠臣ちゅうしんとしてのかおきょうは、ぶんてんさち正気しょうきげられる古今ここん忠臣ちゅうしん一人ひとりとしても著名ちょめいである。幕末ばくまつ日本にっぽんでは浅見あさみ絅斎けいさいやすしけんじ遺言ゆいごんいて忠臣ちゅうしん一人ひとりとしてげられ、幕末ばくまつ志士ししおおきな影響えいきょうあたえている。[27]

書道しょどうにおける影響えいきょうとしては、かおきょう独特どくとくしょは「かおほう」として名高なだかく、「かおほう」は2011ねん現在げんざいでも書道しょどう教育きょういく基本きほんとなっている。[28]また、明朝体みんちょうたい活字かつじかおきょう楷書かいしょもとにしたものである。[29]しかしながら、過去かこ歴史れきしいては書道しょどういては中国ちゅうごくでは王羲之おうぎしりゅういんたい)、日本にっぽんでは、王羲之おうぎしりゅう和様わようしたみことえんりゅう主流しゅりゅうであったため、現在げんざいのように書道しょどう規範きはんとまでされていたわけではない。とく楷書かいしょについてはべいかおきょうひく評価ひょうかするなど、けっして評価ひょうかたかかったとはえない。書道しょどうかいでもかおきょう芸術げいじゅつせいたか評価ひょうかされるのは明治めいじ以降いこうみことえんりゅう全廃ぜんぱい教育きょういく活字かつじ活用かつよう以降いこうのことである。日本にっぽんではちょう三洲さんしゅうかおほう開拓かいたくしゃとして名高なだか[よう検証けんしょう]かおきょう影響えいきょうけた日本にっぽん書家しょかには、弘法大師こうぼうだいし空海くうかい)・井上いのうえ有一ゆういちらがいる。空海くうかいとうはいったころかんいよいよ王羲之おうぎし否定ひていしてかおきょう称揚しょうようする主張しゅちょうおこなっていたため、空海くうかいかおきょう書風しょふうこのんだのではないかとさかき莫山推測すいそくしている。[30]
現代げんだい日本にっぽん書家しょか井上いのうえ有一ゆういちかおきょう傾倒けいとうしており、晩年ばんねんには『かおびょう』のぜん臨をおこなっている。[31]

2019ねん2がつに、東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん特別とくべつてんかおきょう 王羲之おうぎしえた名筆めいひつ」が開催かいさいされた[32]台北たいぺいみや博物館はくぶつかんからされた「まつりめいぶん稿こう」などを展示てんじし、平日へいじつでも1時間じかん以上いじょう行列ぎょうれつができるほどの人気にんきはくした[32]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • かお魯公文集ぶんしゅう

伝記でんき[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 外山とやま軍治ぐんじかおきょうつくもとしゃ、1964ねん
  • 木村きむらぼくどう日本にっぽん中国ちゅうごくしょ日本にっぽんしょ作家さっか協会きょうかい、1971ねん
  • 飯島いいじま春敬はるよしほか 『書道しょどう辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1975ねん4がつ
  • 深谷ふかやしゅうどう ちょかおきょう」、日原ひのはら利国としくに へん中国ちゅうごく思想しそう辞典じてんけんぶん出版しゅっぱん、1984ねん、58-59ぺーじ 
  • 西林にしばやし昭一しょういち鶴田つるた一雄かずおずいとう」『ヴィジュアルしょ芸術げいじゅつ全集ぜんしゅうだい6かん雄山閣ゆうざんかく、1993ねん8がつISBN 4-639-01036-2
  • 田井だい南谷みなみだに中国ちゅうごく書道しょどう事典じてん普及ふきゅうばん天来てんらい書院しょいん、2008ねん8がつISBN 978-4-88715-207-6
  • ほし弘道ひろみちかおきょうしょ二玄社にげんしゃ、2010ねん2がつISBN 978-4-544-01396-2
  • 吉川よしかわ忠夫ただおかおきょうでん法藏館ほうぞうかん、2019ねんISBN 978-4-8318-7723-9 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 書道しょどう芸術げいじゅつ だい4かん かおきょう やなぎ公権こうけん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ普及ふきゅうばん1979ねん
  • 富田とみたあつし 監修かんしゅう王羲之おうぎしかおきょう だい書聖しょせいのかがやき』 平凡社へいぼんしゃ別冊べっさつ太陽たいよう〉2019ねん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 12.
  2. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 14-16.
  3. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 16-20.
  4. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 20-24.
  5. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 24.
  6. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 24-28.
  7. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 29-30.
  8. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 38-40.
  9. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 40-41.
  10. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 47-52.
  11. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 53.
  12. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 56.
  13. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 68.
  14. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 68-69.
  15. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 72.
  16. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 73-75.
  17. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 79-80.
  18. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 88-91.
  19. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 93.
  20. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 103.
  21. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 106.
  22. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 160-165.
  23. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 165-169.
  24. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 173-177.
  25. ^ 吉川よしかわ 2019, p. 173-179.
  26. ^ a b 深谷ふかや 1984, p. 58-59.
  27. ^ とみたにいたる中国ちゅうごく義士ぎしでん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ)2011
  28. ^ とみたに2011
  29. ^ 岩佐いわさ義樹よしき毎日まいにちことば校閲こうえつ記者きしゃコラム『かおきょうてんで「しんとはなにか」かんがえた』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2019.02.24
  30. ^ さかき莫山『しょひゃく毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1993。文庫ぶんこばんは1997、ハルキ文庫ぶんこ角川かどかわ春樹はるき事務所じむしょ
  31. ^ 井上いのうえ有一ゆういち臨顔びょう上海しゃんはい学林がくりん出版しゅっぱんしゃ、2001
  32. ^ a b 話題わだいひがしはくかおきょうてん」でメディアがほうじない名画めいがうままきの「奇跡きせき発見はっけん野嶋のじまつよし、Wedge Infinity, 株式会社かぶしきがいしゃウェッジ、2019ねん2がつ12にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]