うちしん

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忠臣ちゅうしんから転送てんそう

うちしん(うちつおみ/ないしん)は、飛鳥あすか時代ときよから平安へいあん時代じだいはじめにかけてかれた役職やくしょく律令りつりょう政治せいじしたではれいそとかんにあたった。歴史れきしじょう4めい任命にんめいされているがいずれも藤原ふじわら出身しゅっしんである。

天皇てんのう最高さいこう顧問こもん天皇てんのう擁護ようごして政務せいむよう掌握しょうあくする大臣だいじん匹敵ひってきする官職かんしょくであったが、常設じょうせつ官職かんしょくではなく、その職掌しょくしょうはその時々ときどきおうじてまったちがうものであった。

概要がいよう[編集へんしゅう]

最初さいしょである中臣鎌足なかとみのかまたり(のちの藤原鎌足ふじわらのかまたり)は、645ねんおつへん蘇我そが宗家そうけ滅亡めつぼうしたのちにんじられ、中大兄皇子なかのおおえのおうじたすけて文武ぶんぶ百官ひゃっかんうえって政治せいじ中枢ちゅうすうになって大化たいか改新かいしん遂行すいこうにあたった。おつへん当時とうじかまあし出身しゅっしんであるちゅうしん朝廷ちょうてい神祇じんぎつかさどっている名門めいもん家柄いえがらではあったが、政治せいじてき実績じっせきでは蘇我そが大伴おおとも阿倍あべなどと比較ひかくすると一段いちだんおとっており、制度せいどじょう臣下しんかちゅう最高さいこうである左大臣さだいじん右大臣うだいじんちゅうしん出身しゅっしんかまあしけることふるくから朝廷ちょうてい政治せいじかかわって豪族ごうぞく反感はんかん可能かのうせいがあった。そこで特別とくべつに「うちしん」という役職やくしょくもうけて、かまあし政権せいけん中枢ちゅうすう参画さんかくできるようにしたのである。なお、かまあし前日ぜんじつとくかまあしだいかんむりさづけて「内大臣ないだいじん」とされている。

2人ふたりかまあしからればまごにあたる藤原ふじわらきた初代しょだい藤原ふじわら房前ふさざきである。721ねん元明もとあき上皇じょうこう重態じゅうたいおちいると、まごである皇太子こうたいししゅ皇子おうじ聖武天皇しょうむてんのう)の後見こうけんやく期待きたいされて「けいかい内外ないがいじゅんみことのり施行しこう」にあたるやくとして任命にんめいされた。当時とうじ藤原ふじわらよんいえ長屋王ながやおうすめらぎおやとの対立たいりつなかで、皇太子こうたいし即位そくいへの道筋みちすじをつける目的もくてきがあったともわれている。房前ふさざき参議さんぎとして太政官だじょうかんではけっしてたか地位ちいにあるわけではなかったが、天皇てんのう(この場合ばあい上皇じょうこうおよ皇太子こうたいしをもふくむ)の詔勅しょうちょく直接ちょくせつほうじて内外ないがいけた伝達でんたつ実施じっし手続てつづき太政官だじょうかん中務なかつかさしょうわって遂行すいこうする権限けんげん(「けいかい内外ないがいじゅんみことのり施行しこう」)をゆうすると同時どうじに、授刀舎人とねりりょう掌握しょうあくしてときには太政官だじょうかん牽制けんせいする立場たちばにもちえた。

かまあし房前ふさざき皇太子こうたいしのち天皇てんのう)に近侍きんじして国政こくせい従事じゅうじしたことは間違まちがいないが、当時とうじうちしん政府せいふ中枢ちゅうすう律令制りつりょうせいでは太政官だじょうかん)との関係かんけいせいについては明確めいかくてんおおく(房前ふさざき参議さんぎであったが、太政官だじょうかん序列じょれつからすれば下位かい幹部かんぶぎない)、むしろ独立どくりつした権限けんげんゆうした政府せいふ顧問こもんかん立場たちばにあったとかんがえられている。また、房前ふさざきうちしん皇太子こうたいし即位そくいとともに目的もくてきたしたものとしてにんかれたものなのか、房前ふさざき死去しきょまで在任ざいにんしていたのかについても意見いけんかれている。なお、近年きんねんになってこうけん天皇てんのう時代じだい房前ふさざきである藤原ふじわらひさししゅうちしんにんじられていたとする新説しんせつされ[1][2]天平てんぴょうかちたから8さい(756ねん)のひじりたけし上皇じょうこう崩御ほうぎょから翌年よくねん天平てんぴょうたから元年がんねん永手ながて中納言ちゅうなごん昇進しょうしんまでと具体ぐたいてき時期じき推測すいそくする見解けんかいされている(永手ながて中納言ちゅうなごん昇進しょうしん藤原仲麻呂ふじわらのなかまろむらさきほろ中台ちゅうたい強化きょうかどう時期じきであるため、なか麻呂まろ策動さくどう中納言ちゅうなごん昇進しょうしん口実こうじつとして解任かいにんされたとみる)が、このせつたいする批判ひはん[3]もあり、今後こんご検討けんとうようする。

3にんかまあしかられば曾孫そうそん房前ふさざきおいにあたる藤原ふじわらしき藤原ふじわらりょうつぎである。771ねん左大臣さだいじんであった藤原ふじわらひさししゅ病死びょうしすると、りょうつぎ藤原ふじわら一族いちぞく中心ちゅうしんとなってひかりじん天皇てんのう補佐ほさする立場たちばったものの、りょうつぎ過去かこあにである藤原ふじわらひろ反乱はんらんによる連座れんざみずからが大伴家持おおとものやかもちらとくわだてた藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ暗殺あんさつ計画けいかくによって2官職かんしょく剥奪はくだつされたこともあって出世しゅっせ大幅おおはばおくれ、中納言ちゅうなごんでしかなかった。そこでひかりじん天皇てんのうりょうつぎ大納言だいなごんずして任命にんめい資格しかくのないうちしんにんじて大臣だいじん同格どうかくあつかい(このとき職掌しょくしょう大納言だいなごんおなじとし、待遇たいぐう大臣だいじんじゅんじる」として官位かんいろくたまもの職分しょくぶんざつぶつ大納言だいなごん同格どうかくしょくふう大納言だいなごん大臣だいじんなかあいだである1,000とする規則きそくさだめられた)として太政官だじょうかん一員いちいんとして配置はいちし、名実めいじつともに政府せいふ中枢ちゅうすういたのである。また、当時とうじ上役うわやくとして同族どうぞく長老ちょうろうである右大臣うだいじん大中おおなかしんきよし麻呂まろがおり、きよし麻呂まろ太政官だじょうかん官位かんい序列じょれつ筆頭ひっとうとしての地位ちい保持ほじしたままでつぎ太政官だじょうかん執政しっせいてのひららせる構想こうそううえにあったとかんがえられている。6ねん、その功績こうせきむくいるためにうちしんかまあしれいならって内大臣ないだいじんあらため、正式せいしきれいそとかんとして位置いちづけられた大臣だいじんしょくとなった。

最後さいごひかりじん天皇てんのう側近そっきん房前ふさざきの5なんにあたる藤原ふじわらさかなめいである。778ねん前年ぜんねん死去しきょした内大臣ないだいじんりょうつぎけて任命にんめいされたもので、さかなめい自身じしんすで大納言だいなごんであったが大中おおなかしんきよし麻呂まろ存在そんざい依然いぜんとしてわらず、りょうつぎ政治せいじてき立場たちば延長えんちょうじょうにあったとかんがえられている。さかなめい任命にんめい1ヶ月かげつたずに職名しょくめいは「忠臣ちゅうしん」と改称かいしょうされ、翌年よくねんにはさかなめいもまた内大臣ないだいじん任命にんめいされることになった。これを最後さいご内大臣ないだいじんという官職かんしょく定着ていちゃくすることになり、うちしん太政官だじょうかん定員ていいんがい大臣だいじんである内大臣ないだいじんへとその性格せいかくおおきくえたかたち自然しぜん消滅しょうめつすることになった(その藤原ふじわら高藤たかとう以後いご内大臣ないだいじんとしての任官にんかんとなる)。

なお、うちしん内大臣ないだいじん関係かんけいせいについては、うちしんがそのまま員外いんがい大臣だいじん内大臣ないだいじん)となったとするせつ[4]うちしん大臣だいじん兼務けんむした存在そんざい内大臣ないだいじん移行いこうしたせつ[5][6]うちしん役割やくわり太政官だじょうかん皇室こうしつ家産かさん管理かんりおこなかん吸収きゅうしゅうされた結果けっかとして廃止はいしされてわりに太政官だじょうかん内大臣ないだいじんもうけられたとするせつ[7]がある。また、りょうつぎうちしん名義めいぎでのせんしていても内大臣ないだいじん名義めいぎでのせんはなく、反対はんたいさかなめいうちしん名義めいぎでのせんはなく内大臣ないだいじん名義めいぎでのせん多数たすうのこされているため、りょうつぎさかなめいあいだうちしん位置いちづけにかんしておおきな変化へんかがあったとするせつもある[7]

なお、朝鮮半島ちょうせんはんとう高句麗こうくりでもふちぶたあやうちしんにんじられ、百済くだら佐平さへいしょく筆頭ひっとうを「うちしん佐平さへい」としょうしたれいがあることから、朝鮮半島ちょうせんはんとう官制かんせい参考さんこうにしたせつもある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 東野とうの治之はるゆき東大寺とうだいじ献物けんもつちょうむらさきほろ中台ちゅうたい」『佛敎ぶっきょう藝術げいじゅつ』259ごう、2001ねん、P29-42./所収しょしゅう:東野とうの大和やまと古寺ふるでら研究けんきゅうはなわ書房しょぼう、2011ねん所収しょしゅう
  2. ^ 上野うえの正裕まさひろ奈良なら時代じだいうちしん藤原ふじわらひさししゅ」『古代こだい文化ぶんかだい70かんだい3ごう、2018ねん、P310-324./改題かいだい所収しょしゅう:上野うえの藤原ふじわらひさししゅうちしん」『日本にっぽん古代こだい王権おうけん貴族きぞく社会しゃかい八木やぎ書店しょてん、2023ねん、P169-199.
  3. ^ 木本きもと好信よしのぶ藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ光明こうみょう皇太后こうたいごう」『藤原ふじわらみなみきたかんじん考察こうさつ』(岩田いわた書院しょいん、2019ねん
  4. ^ 山本やまもと信吉のぶよしうちしんこう」のせつ
  5. ^ 橋本はしもと義彦よしひこ勧修寺かんしゅうじりゅう藤原ふじわら形成けいせいとその性格せいかく」(『平安へいあん貴族きぞく社会しゃかい研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1976ねん)のせつ
  6. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ内大臣ないだいじん沿革えんかくこう」(『摂関せっかん政治せいじ王朝おうちょう貴族きぞく吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねん)のせつ
  7. ^ a b 上野うえの正裕まさひろ奈良なら時代じだい王権おうけんうちしん」のせつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 山本やまもと信吉のぶよしうちしんこう」(初出しょしゅつ:『國學院こくがくいん雑誌ざっし』62かん9ごう國學院大學こくがくいんだいがく、1961ねん)・所収しょしゅう:『摂関せっかん政治せいじ論考ろんこう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2003ねんISBN 978-4-642-02394-8
  • 吉川よしかわ敏子としこ奈良なら時代じだいうちしん」(初出しょしゅつ:大山おおやまたかしたいら教授きょうじゅ退官たいかん記念きねんかい へん日本にっぽん国家こっか史的してき特質とくしつ古代こだい中世ちゅうせい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1997ねんISBN 978-4-7842-0937-8)・所収しょしゅう:『律令りつりょう貴族きぞく成立せいりつ研究けんきゅう』(はなわ書房しょぼう、2006ねんISBN 978-4-8273-1201-0
  • 上野うえの正裕まさひろ奈良なら時代じだい王権おうけんうちしん」(所収しょしゅう:『日本にっぽん古代こだい王権おうけん貴族きぞく社会しゃかい』(八木はちぼく書店しょてん、2023)ISBN 978-4-8406-2259-2

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]