こう力士りきし

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こう 力士りきし

こう 力士りきし(こう りきし、はつ2ねん690ねん) - たからおう元年がんねん8がつ18にち762ねん8がつ31にち))は、中国ちゅうごくとうだい宦官かんがんとうだい9だい皇帝こうていげんむね腹心ふくしんとしてつかえ、権勢けんせいるった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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もとのせいは馮、いみなもといちとう降伏ごうぶくし、耿国こうふうじられたずいまつ群雄ぐんゆう馮盎曾孫そうそん祖父そふはんしゅう刺史ししの馮智玳。ちちは馮君衡。ははむぎてつつえ曾孫そうそんむすめ高州たかす良徳よしとくけんかすみほら出身しゅっしんほんぬき長楽ながらぐんしん都県とけんせいこよみ元年がんねん(698ねん)、少年しょうねん時代じだい去勢きょせいしており、「力士りきし」と名付なづけられたうえで、「きむつよし」という少年しょうねんとともに、みねみなみやすなで討撃使千里せんりくれおうつとむ長男ちょうなん)により武則たけのりてん献上けんじょうされる。かれらはさとく、また容貌ようぼうととのっていたので、武則たけのりてんよろこばれ、きゅうごととして左右さゆうかれた。

武則たけのりてん時代じだいちいさな過失かしつから宮廷きゅうていから追放ついほうされ、宦官かんがんこうのべぶく養子ようしとなり、以降いこうこうせい名乗なのる。こうのべぶくたけ三思さんし屋敷やしき出身しゅっしんであることから、たけ三思さんし交流こうりゅうつこととなった。1ねんほどして、ふたた武則たけのりてん宮中きゅうちゅうされた。身長しんちょう当時とうじで6しゃく5すんあり、勤勉きんべんかつ綿密めんみつで、詔勅しょうちょくをうまく伝達でんたつし、みや闈丞に任命にんめいされた。

げんむね股肱ここうとして[編集へんしゅう]

そのけいりゅう年間ねんかん皇子おうじ時代じだいたかしもとむすび、恩顧おんこをもってせっした。そのため、けいりゅう4(710ねん)の韋后討伐とうばつ政変せいへんさい内部ないぶから協力きょうりょくし、あさ散大さんだいおっとうちきゅうごとにんじられた。げんむね即位そくい先天せんてん2ねん(713ねん太平たいへい公主こうしゅ鎮圧ちんあつ荷担かたんし、そのとき功績こうせきぎんあおこうろく大夫たいふぎょう内侍ないししょうどう正員せいいんにんじられ、ひらきもと年間ねんかんはいってみぎかん門衛もんえい将軍しょうぐん知内しりうちさむらいしょうごと昇進しょうしんした。内外ないがい様々さまざまなことをまかされ、こう力士りきしふくめた宦官かんがん権勢けんせいおおきなものとなった。

そのげんむね内廷ないていしんとして、各地かくちから上奏じょうそうぶんすべだか力士りきしんでからげんむねすすめられ、ちいさいことは自分じぶん決裁けっさいした。宮中きゅうちゅうからいえかえることもほとんどなく、宮殿きゅうでん睡眠すいみんをとっていた。げんむねは「こう力士りきしがいるからこそ、安心あんしんしてねむれる」とかたっていた。

げんむね腹心ふくしんとして公事こうじのみならず私事しじにも相談役そうだんやくとしてつかえ、ひらくもと14ねん(726ねん)にちょうせつ宇文うぶんとおる弾劾だんがいされたときは、これがためにとりなした。

ひらけもと18ねん(730ねん)には、政敵せいてきであり、その傲慢ごうまんさによりおおくの問題もんだいこしていたおうもうなか排除はいじょげんむね進言しんげんした。ひらけもと19ねん(731ねん)におうもうなか左遷させんされ、そのうえ自殺じさつめいじられている。なお、宇文うぶんとおるはやしはじめてきぶたよしみうん韋堅楊慎矜おう楊国ただしやすろくやまやすおもえじゅんこうせんしばらは、こう力士りきしむすんだことにより才覚さいかくみとめられ、高位こうい抜擢ばってきされた。

また、ひらきもと26ねん738ねん皇太子こうたいしあきら廃嫡はいちゃくおよ死後しごあらたな皇太子こうたいし選出せんしゅつまよげんむねたいして、推薦すいせんする宰相さいしょうはやしはじめはんして、年長ねんちょうの粛宗)をすすめ、璵が皇太子こうたいしとなった。天宝てんぽう初期しょきかんむりぐん大将軍だいしょうぐんみぎかん門衛もんえい大将軍だいしょうぐん・渤海ぐんこうとなった。このころ天下てんかことはやしはじめたくして、しるべ引のみちにゅうろうとするげんむねを諫めていかりをい、陳謝ちんしゃうえ自宅じたくかえることとなった。天宝てんぽう7748ねん)には驃騎大将軍だいしょうぐん任命にんめいされ、かぞれないほどのとみたくわえていたという。しかし温厚おんこう勤勉きんべん過失かしつすくなく、おごることもなかったので、げんむねからわらず信任しんにんけ、大夫たいふからもきらわれることはなかった。天宝てんぽう11752ねん)、おう鉷のおとうとおうと邢縡がらんこそうとしたときは、きんぐん400にんひきい、邢縡をっている。また、楊国ちゅう専横せんおうについて、げんむねを諫めたこともあった。やすろくやま不穏ふおんうごきをはじめたのちも、朝廷ちょうていかれとの調停ちょうていやくとして活動かつどうしている。

安史やすしらん[編集へんしゅう]

安史やすしらんさいげんむねについて長安ながやす脱出だっしゅつした。途中とちゅうきんぐんが楊国ちゅうころし、楊貴妃ようきひもとめたときにげんむね説得せっとくし、楊貴妃ようきひ縊死いしさせた。そのしょく成都せいとまで同行どうこうしてひとしこくおおやけふうじられた。

しかし、粛宗(とおる、もとの璵)が即位そくいしてげんむね上皇じょうこうとして長安ながやす帰還きかんした。うえもと元年がんねん760ねん)に、輔国(粛宗実力じつりょくしゃ)が軍隊ぐんたいをもってげんむねらえようとしたときは、輔国をしかりとばしてその危機ききすくったが、おとしいれられてみこしゅうながされた。たからおう元年がんねん762ねん恩赦おんしゃにより帰還きかんちゅうろうしゅうにてげんむね慟哭どうこくけついて死去しきょした。

とうだい宦官かんがん勢威せいいこう力士りきしよりはじまったとわれる。

エピソード[編集へんしゅう]

  • げんむね即位そくいあいだもなく、げんむね節倹せっけんすすめたことがかく湜『こう力士りきしでん』にえる。
  • 名前なまえ仏像ぶつぞう金剛力士こんごうりきし」の「力士りきし」にちなむ。「きむつよし」とづけられた少年しょうねん同時どうじ献上けんじょうされたが、そののことは不明ふめいである。
  • おさなころははむぎ別離べつりしたが、げんむね即位そくい再会さいかいしている。むねに7つのほくろがあり、それでははかれ見分みわけたという。また、りょげん晤のむすめつまとしてむかえている。
  • げんむねは、普段ふだんは「将軍しょうぐん」とび、ときにはしたしみをめて力士りきしことを「ろうやつ」とんだ。力士りきしげんむねを「大家たいか旦那だんなさま)」とんでいたという。なお、皇太子こうたいし璵はかれを「あに」とび、皇族こうぞくは「おう」といい、皇女おうじょ婿むこたちは「じい」とんでいたという。
  • 楊貴妃ようきひげんむねすすめ、後宮こうきゅうれたのは、こう力士りきしだったとわれる。また、楊貴妃ようきひげんしゅう仲違なかたがいをして宮中きゅうちゅういえかえったとき、とりなしたのもかれであった。
  • げんむね李白りはくしたとき、すでにっていた李白りはくは、こう力士りきしくつがせたという。これがために讒言ざんげんけ、しろ官職かんしょくられなかったとわれる。
  • 天宝てんぽう年間ねんかんごろたから寿ひさしてら造成ぞうせいし、いちかねならすたびに10まんぜにをとったが、びをもとめるものは、20かいち、すくないものも10かいったという。また、長安ながやす西北せいほく水車みずぐるまを5つ設置せっちし、毎日まいにち、300せき小麦粉こむぎこをうったとわれる(碾磑参照さんしょう)。
  • ともにげんむねから信任しんにんをうけた宦官かんがんに袁思げいがいるが、非常ひじょう傲慢ごうまんで、大夫たいふこわれられた。かれげんむね長安ながやす出奔しゅっぽんやすろくやま降伏ごうぶくしたとう。
  • 長安ながやす出奔しゅっぽんげんむねってくる朝臣あそんこう力士りきしうた。こう力士りきしは、ちょうせつちょうひとしちょう兄弟きょうだいは、代々だいだいとう重任じゅうにんされているのでる。ぼう冷遇れいぐうされているので、ないだろうとこたえた。しかし、たのはぼう琯のほうで、ちょうひとしたちはやすろく山側やまがわについた。
  • みこしゅうながされたとき、そのべられていなかった、なずなみ、あつものにして、べたはなしがある。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]