ちょうキ (とう)

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ちょう(ちょう き、? - 至徳しとく2757ねん))は、中国ちゅうごくとうげんむね時期じきつかえた政治せいじ宰相さいしょうとされるちょうせつ次男じなんであり、げんむねむすめ婿むこであったが、安史やすしらんさいやすろくやまつかえたため、処刑しょけいされた。あにちょうひとしおとうとちょう埱がいる。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

洛陽らくようひとで、あにちょうひとし同様どうよう文章ぶんしょう詩句しくけていた。挙止きょしがとても優雅ゆうがであったため、げんむねられていた。そのむすめなおやすし公主こうしゅ婚姻こんいんをしており、げんむねかれ厚遇こうぐうして、禁中きんちゅういえかまえさせ、はべらせて文章ぶんしょう作成さくせいさせた。あたえられた恩賜おんしのものはかぞれないほどであり、ちょうひとし恩賜おんしのものをせたときに、「しゅうと婿むこにやったものであり、皇帝こうてい学士がくしあたえたものではないぞ」とわれたこともあった。

げんむねは、ちょう垍のいえ訪問ほうもんし、「ちんのぞみれつのち宰相さいしょうだれがよいだろうか」とたずねた。ちょう垍がこたえられないでいると、「わが婿むこわるものはいないだろう」とげられる。しかし、このことを楊貴妃ようきひいて、楊国ただしはなしたため、楊国ちゅうちんのぞみれつ解任かいにんに、韋見もと推薦すいせんし、宰相さいしょうにさせた。このため、ちょう垍はげんむねうらむことになったとつたえられる。

天宝てんぽう13754ねん)、やすろくさんちぎりやぶったこうをもって、宰相さいしょうとなるのをもとめたが、楊国ちゅう反対はんたいしたため、りやめになった。やすろくやま見送みおくりにいったこう力士りきしが「やすろくやま鬱々うつうつとした様子ようすでした。うまくいかなかったことをっているようでした」と報告ほうこくし、楊国ちゅうが「ちょう垍がおしえたのでしょう」とげたため、ちょう垍はけいぐん司馬しば左遷させんさせられ、おとうとちょう埱もきゅうごとちゅうからむべはるぐん司馬しば降格こうかくさせられた。そのとし長安ながやすされ、ふとしつねきょう任命にんめいされた。

天宝てんぽう14755ねん)、安史やすしらん勃発ぼっぱつし、至徳しとくもと756ねん)、長安ながやす陥落かんらくやすろくやま降伏ごうぶくし、つかえた。

至徳しとく2(757ねん)、とうぐん洛陽らくよう奪回だっかいに、ちんのぞみれつちょうひとしいたる奚珣とともに、とうぐん降伏ごうぶくした。信任しんにん裏切うらぎられたげんむねちょうひとしちょう兄弟きょうだい処刑しょけい主張しゅちょうしたため、粛宗のとりなしにもかかわらず、ちょう垍は処刑しょけいされた。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]

  • きゅうとうしょまききゅうじゅうなな 列伝れつでんだいよんじゅうななちょうせつでん
  • しんとうしょまきひゃくじゅう 列伝れつでんだいじゅうちょうせつでん