おう

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おう(おう きょう、? - 天宝てんぽう11752ねん))は、とうだいげんむね経済けいざい手腕しゅわん権勢けんせいるった官僚かんりょうほんぬきふとしはらぐん祁県こうはじめ名将めいしょうおうほうつばさおう曾孫そうそん)のまご中書ちゅうしょ舎人とねりおう瑨の庶子しょしあにおうすず異母弟いぼていおうつまは薛氏。まもるじょうしょうきょうおうじゅんおう偁ら。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ひらきもと10ねん722ねん)、けんじょうとなり、きょうちょういん判官ほうがんとなる。ひらけもと24ねん736ねん)、ちち従兄弟いとこにあたる楊慎矜推薦すいせんによって、かん察御となる。ひらけもと29ねん741ねん)、さむらいとなる。天宝てんぽう2ねん743ねん)、きょう和市かずいち糴使・戸部とべろうちゅう昇進しょうしんする。このころとう宗室そうしつ身分みぶん宰相さいしょうはやしはじめは、皇太子こうたいしとおる対立たいりつしており、反対はんたい勢力せいりょく排除はいじょかんがえていたため、官吏かんりとして才幹さいかんがあり、によってうごおう鉷とむすび、その関係かんけいふかめたとつたえられる。

天宝てんぽう3744ねん)、きょうちょういんかん朝宗ともむね事件じけんこしたため、その詮議せんぎめいじられる。かん朝宗ともむね左遷させんされ、おう鉷はちょう春宮とうぐう使ねる。

天宝てんぽう4745ねん)、戸口とぐちしょくやく使就任しゅうにん百姓ひゃくしょう故郷こきょう勅命ちょくめい費用ひようがかさむ理由りゆうで、りやめにした。また、輸送ゆそう業者ぎょうしゃからぜいをとり、ぜいおさめたかいえ輸送ゆそう義務ぎむづけ、防人さきもり実際じっさい死亡しぼうしながら、戸籍こせきじょう死亡しぼうしていないいえぶんぜいをさかのぼって徴収ちょうしゅうするなどの行為こういにより、多大ただい税収ぜいしゅうげた。その収斂しゅうれんによって、すうおおくのいえ破産はさんした。

おう鉷は、げんむね臣下しんか恩賞おんしょうあたえるのに、宮中きゅうちゅうくらからすのをいやがっているのをみとり、「これは正式せいしきぜいからではなく、そとからとったものである」として収奪しゅうだつしたぶん献上けんじょうしたため、げんむねから富国ふこくじゅつあるものとして重用じゅうようされたとつたえられる。それにより、ちゅうすすむ京畿けいき採訪さいほう使就任しゅうにんした。楊貴妃ようきひのまたいとこであった楊国ただしかれ配下はいかとなり、判官ほうがんとしててている。

天宝てんぽう5746ねん)、関内かんないみち黜陟使関内かんない採訪さいほう使となる。楊慎矜・よしあつしとともに、はやしはじめ政敵せいてき韋堅すめらぎはじめおもんみあきら詮議せんぎくわわり、二人ふたり左遷させんさせられる。だが、おう鉷は、楊慎矜が自分じぶんおいあつかいしててにすることからもとから不満ふまんがあったところに、楊慎矜がこの事件じけん中立ちゅうりつてき立場たちばまもろうとしたために、かれにくんだとつたえられる。さらに、楊慎矜が自分じぶんしょくうばい、はは身分みぶんひくいことをひとかたったため、仲違なかたがいをすることになった。

天宝てんぽう6747ねん)に、楊慎矜の謀反むほんうわさながし、はやしはじめ共謀きょうぼうしたため、楊慎矜は自殺じさつめいじられた。天宝てんぽう7748ねん)、戸部とべさむらいろうとなる。天宝てんぽう8749ねん)、さらにおおくの使つかいしょくねる。太白山たいはくさんじん渾が、金星かなぼしほられいがあるとうえごとしたため、おう鉷が入山にゅうざんしてこれをる。そのため、ぎんあおこうろく大夫たいふくわえられる。

天宝てんぽう9750ねん)、きょうちょういん大夫たいふにんじられ、20以上いじょう使つかいしょくねる。おう鉷の権勢けんせいし、自宅じたくちかくにつくった使つかいいんには、いち署名しょめいをもらうために胥吏がなんにちならび、げんむねからの賜物たまもの使者ししゃなくた。その権勢けんせいは、はやしはじめすらはばかるほどで、はやしはじめさえおう鉷のおうじゅんたいして、つねにへりくだっていた。また、けんじょうの韋黄と賈季となりは、おうじゅんのために、ぜに・倡妓・珍品ちんぴんつね準備じゅんびしていたとつたえられる。しかし、おう自身じしんはやしはじめ謙虚けんきょ態度たいどをとっていたので、かれ排斥はいせきされることはなかった。

同年どうねんおとうとおう銲がじゅつ任海とうみがわ不軌ふきなことをたずね、任海とうみがわ逃亡とうぼうしたため、ことれることをおそれ、のことにかこつけて、つえころさせる。また、にんおう司馬しばの韋会がこの事件じけん自分じぶんにわかたっていたため、賈季となりめいじて、ごくれ、絞殺こうさつさせた。

天宝てんぽう10751ねん)、ふとしげんけんこうふうじられ、殿中でんちゅうかんねる。しかし、天宝てんぽう11752ねん)、おう銲と邢縡が謀反むほん計画けいかくし、おう銲はらえられ、邢縡がこう力士りきしぐんたたかい、事件じけんがあった。げんむねが楊国ちゅうをつかわしてさとしたにもかかわらず、おう鉷はげんむねはんし、おう銲をかばって告発こくはつしなかった。楊国ちゅうちんのぞみれつおう鉷を謀反むほんつみ告発こくはつし、詮議せんぎにこの二人ふたりがあたり、任海とうみがわや韋会らの事件じけんがみな暴露ばくろされた。そのためはやしはじめりなしがあったにかかわらず、おう鉷はたまものめいじられた。

おう鉷と交流こうりゅうがあったさむらいの裴冕が死体したいりにきたため、楊国ちゅうはこれをゆるした。おうじゅんおう偁は流刑りゅうけいになったうえ処刑しょけいされた。つまの薛氏ら家族かぞくもまた、流刑りゅうけいとなった。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 庶子しょしであったが、嫡母ちゃくぼちち正妻せいさい)に孝行こうこうくし、おとうとおう銲に友愛ゆうあいをもってせっしていた。
  • あにおうすず仕官しかんするのをっていたが、おう鉷にせまられ、太子たいしぼく就任しゅうにんしていた。おう鉷の死後しご左遷させんさせられてその道中どうちゅうんだため、時人じじんいたんだ。
  • 死後しご没収ぼっしゅうされた財産ざいさん記録きろくするのに、数日すうじつかけてもわらなかった。
  • かれにわには「あめてい」という屋根やねうえみずき、そののきからあめのようにみずらせ、なつでも相当そうとうすずしいちいさなちんがあったとつたえられる。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]