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しょかずらあきらみなみせい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しょかずらあきらみなみせい
戦争せんそうしょかずらあきらみなみせい
年月日ねんがっぴけんきょう3ねん3がつ〜12月[1]
場所ばしょ南中なんちゅう中国語ちゅうごくごばん
結果けっか雍闓らが殺害さつがいされ、はじめ投降とうこうし、しょくかん南方なんぽう平定へいていした。
交戦こうせん勢力せいりょく
しょくかん 南中なんちゅう
指導しどうしゃ指揮しきかん
しょかずらあきら
うまただし

りょ
おう
おう
龔禄
雍闓 
こうじょう
しゅ
はじめ
戦力せんりょく
やく100,000にん[よう出典しゅってん] やく250,000にん[よう出典しゅってん]
損害そんがい
しょう しょう
さんこく時代じだい

しょかずらあきらみなみせい(しょかつりょうのなんせい)は、しょくかんけんきょう3ねん225ねん)に、しょくかん丞相じょうしょうであるしょかずらあきら南中なんちゅう中国語ちゅうごくごばん平定へいていしたたたかい。当時とうじしゅ雍闓こうじょうらが反乱はんらんこし、南中なんちゅう豪族ごうぞくであるはじめがこれに参加さんかした。最終さいしゅうてきには、しょかずらあきらみずかへいひきいて南下なんかし、南中なんちゅう平定へいていした。

背景はいけい

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しょくかん南部なんぶ現在げんざい雲南うんなんしょうしゅうしょうおよ四川しせんしょう南部なんぶ)は、当時とうじ南中なんちゅうばれていた。おおくの少数しょうすう民族みんぞくきょしており、かれらは「西南せいなんえびす中国語ちゅうごくごばん」と総称そうしょうされていた。かれらの社会しゃかいだい部分ぶぶんは、奴隷どれい社会しゃかい段階だんかいにあり、かん民族みんぞくとともに社会しゃかい構成こうせいする人々ひとびと社会しゃかいは、封建ほうけん制度せいど段階だんかいにあり、また、いくつかの僻地へきちにおいては、いま原始げんしてき部族ぶぞく社会しゃかい段階だんかいにあった。しょかずらあきらは、きたして平原へいげん進出しんしゅつするため、後方こうほう安定あんていさせる必要ひつようがあった。しょかずらあきらみなみせいろんは、三顧さんこれいさいりゅうたいしてしめした「たかしちゅうたい」のなかでも「みなみなでえびすえつ」の方針ほうしんとしてあらわれている。

りゅう備は、しょくかん平定へいていし、南中なんちゅうおさめる官職かんしょく庲降とく)を設置せっちした。また、南中なんちゅう豪族ごうぞく地方ちほうかん任命にんめいした。あきらたけ3ねん223ねん)、りゅう備は、えびすりょうたたか大敗たいはいし、しろみかどじょうにて病没びょうぼつした。同年どうねんりゅうぜん即位そくいにより、けんきょう改元かいげんなつえきしゅう豪族ごうぞくである雍闓は、りゅう備が病没びょうぼつしたことをって、叛意はんいしょうじた。まもなく、雍闓はたてやすし太守たいしゅせいのぼる殺害さつがいし、ちょう捕縛ほばくして押送おうそうし、ここに、しょくかん正式せいしき決別けつべつするにいたった。えつ巂郡酋長しゅうちょうこうじょうは、雍闓の反乱はんらん呼応こおうし、太守たいしゅこげ殺害さつがいして、おうしょうし、北上ほくじょうして新道しんどうけん攻撃こうげきした。しかし、いわおひきいる犍為ぐん救援きゅうえんたい敗退はいたいし、南方なんぽうへと敗走はいそうした。

当時とうじは、いましょくかんとの友好ゆうこう関係かんけい回復かいふくしておらず、雍闓を永昌えいしょう太守たいしゅ任命にんめいしたうえりゅう交州しゅうさかいへと派遣はけんして、えきしゅうぐん接収せっしゅうする準備じゅんび実施じっしした。雍闓は、ぐんひきいて永昌えいしょうじょう進軍しんぐんしたため、永昌えいしょうぐんしょくかんとの連携れんけいたれた。永昌えいしょうぐんこう中国語ちゅうごくごばんりょすすむ中国語ちゅうごくごばんおうは、へいひきいて永昌えいしょうぐん死守ししゅし、雍闓が城内じょうない流言りゅうげんばしても、固守こしゅして降伏ごうぶくしなかった。城内きうち官民かんみんは、りょ凱を信頼しんらいしており、雍闓が入城にゅうじょうするのをふせいだ。

経過けいか

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しょくかん対策たいさく

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赤色あかいろ実線じっせんは、しょかずらあきらみなみせい主力しゅりょくぐん破線はせんは、別働隊べつどうたいしょかずらあきらは、こうじょう・雍闓・はじめらの反乱はんらんぐん平定へいていし、うまただしは、しゅ褒を平定へいていした。

223ねんなかごろ、しょかずらあきらは、りゅう備が病没びょうぼつしたばかりであったため、民心みんしん安定あんてい糧秣りょうまつ備蓄びちく実施じっししていた。とのあいだでは、和平わへいむすぶために、鄧芝ちんしん派遣はけんした。また、えつ巂太もり龔禄南中なんちゅうとの境界きょうかいにある安上あんじょうけん派遣はけんして事態じたいそなえさせ、しょくぐん従事じゅうじ頎行直接ちょくせつ南中なんちゅう派遣はけんして調査ちょうささせた。

他方たほういわおは、6つう信書しんしょを雍闓におくって利害りがいいたが、雍闓は、1つうのみ返信へんしんし、「てん二王におうなし、二王におうなしとくが、現在げんざい天下てんかさんふん鼎立ていりつ局面きょくめんにあり、それぞれがせいついたち制定せいていしているため、遠方えんぽうにあるもの(雍闓)は、いずれにぞくすべきかわからない」とべた。この信書しんしょは、非常ひじょう傲慢ごうまんおもわれる内容ないようであった。

頎行は、牂牁ぐん到達とうたつしたのちただちにおも簿中国語ちゅうごくごばん拘束こうそくして、事実じじつ関係かんけい確認かくにんした。しゅ褒は、頎行を殺害さつがいして、反乱はんらんぐんくわわり、龔禄もまた、こうじょう殺害さつがいされた。当時とうじ、雍闓に服従ふくじゅうしない民族みんぞく存在そんざいしたため、雍闓は、かれらが信服しんぷくしているはじめ派遣はけんして、民族みんぞくちょう説得せっとくさせた。はじめが、「かんむねくろいぬ300とう・蟎脳3・3たけ3000ほん要求ようきゅうしているが(くろいぬや蟎脳は、入手にゅうしゅ困難こんなんであり、かたくてがっており、2たけたないながさのものしかなかった)、おまえたちは用意よういできるか?」とべたところ、民族みんぞくちょうらは、はじめ信頼しんらいし、しょくかんたいして激怒げきどして、反乱はんらんぐんくわわった[2]

反乱はんらんぐん平定へいてい

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けんきょう3ねん(225ねん)3がつしょかずらあきら反乱はんらんおさめるべく、みずからの職位しょくいである丞相じょうしょうえきしゅう刺史ししろく尚書しょうしょごとのうち、丞相じょうしょうちょうふみむかいあきらえきしゅう刺史しし職務しょくむしゅうちゅう従事じゅうじ尚書しょうしょだい尚書しょうしょれいちんしんまかせて出兵しゅっぺいし、同行どうこうするさんぐん楊儀丞相じょうしょう事務じむ処理しょり担当たんとうさせた。おなじくさんぐん馬謖ばしょくしょかずらあきらが「すうねんわたってともはかりごとかんがえてきたが、こんふたた良計りょうけいさづけてくれたまえ」とうと、馬謖ばしょくはこれにこたえて「南中なんちゅうはその遠方えんぽうかつ険阻けんそことを恃みとしてひさしく服従ふくじゅうしませんでした。今日きょうこれをやぶっても明日あしたにはまた反逆はんぎゃくするだけでしょう。いまおおやけ (しょかずらあきら)は国家こっかちからかたむけてきたおこない、以って強力きょうりょくぞくにあたられるおつもりです。官軍かんぐん勢力せいりょく減少げんしょうかれらがれば、反逆はんぎゃくもまたはやいでしょう。もし反乱はんらんへいだけでなく、のこったものまでことごとほろぼし、以ってのちわざわいのぞこうとすれば、それは仁徳じんとくじょうはずれるうえに、きゅうこと出来できません。そもそも用兵ようへいみちは、しんめること上策じょうさくとし、しろめること下策げさくとします。またしんくっするたたかいを上策じょうさくとし、へいを以ってたたかこと下策げさくとします。おおやけ寛容かんようさを以ってそのしん帰服きふくさせられますように」とべ、しょかずらあきらもこの言葉ことば全面ぜんめんてきれた[3]しょかずらあきらは、安上あんじょうけんからこし巂郡まで水路すいろすすみ、南中なんちゅうへとはいった。また、うまただし派遣はけんして牂牁ぐん攻撃こうげきさせ、派遣はけんしてひらえびすからたてやすしぐん攻撃こうげきさせた。

恢は、こんあきら到達とうたつすると、反乱はんらんぐん包囲ほういされた。当時とうじ恢のへいは、反乱はんらんぐん半分はんぶんであり、しょかずらあきらからなんらのらせもなかったため、南中なんちゅうものたいし、「官軍かんぐん兵糧ひょうろうきており、退却たいきゃくしようとかんがえている。しかし、我々われわれ郷里きょうりである南中なんちゅう叱責しっせき攻撃こうげき)しており、たとえ本隊ほんたい合流ごうりゅうできても、北方ほっぽうへと帰還きかんすることはできない。だから、郷里きょうりである南中なんちゅうへともどって、あなたたちと一緒いっしょ反乱はんらんこしたいとかんがえている。だから正直しょうじきはなしているのだ」とつたえた。反乱はんらんぐんは、これをしんじ、恢にたいする包囲ほうい緩和かんわした。このとき、恢のぐん突如とつじょとして出撃しゅつげきし、おおいに反乱はんらんぐん撃破げきはした。恢は、みなみのかた槃江へいたり、牂牁ぐんへと東進とうしんした。恢の伯母おばおっと爨習はじめ反乱はんらん同調どうちょうしたが帰順きじゅんし、くだりさんぐんへん将軍しょうぐんとなりいでりょうぐんとなってきたにもくわわっている。

うまただしは、且蘭中国語ちゅうごくごばんにおいてしゅ褒をやぶり、恢と合流ごうりゅうした。

雍闓は、しょかずらあきら南進なんしんする途上とじょうにおいて、すでにこうじょう部下ぶか殺害さつがいされていた。しょかずらあきら本隊ほんたいは、すうたたかって勝利しょうりし、こうじょう斬殺ざんさつした。

はじめ敗退はいたい

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華陽かようこくこころざし』などによると、そのしょかずらあきら本隊ほんたいの2たい合流ごうりゅうしてはじめとのたたかいにそなえた。しょかずらあきら現地げんちものはじめ信服しんぷくしていることをき、りにしようとかんがえた。5月、しょかずらあきら本隊ほんたいは、瀘水渡河とかし、はじめたたかい、はじめ捕虜ほりょとすることに成功せいこうした。しょかずらあきらは、はじめ帯同たいどうしてしょくかん陣営じんえいせ、しょくかんぐんについてどうおもうかたずねたところ、はじめは、「わたしは、いままで、しょくかんぐん実情じつじょうらなかったため、たたかいにけたのである。今回こんかい陣営じんえいて、状況じょうきょうがわかったため、つぎかなら勝利しょうりする」とべたとされる。

しょかずらあきらは、きたかんがえていたため、背後はいごにある南中なんちゅう反乱はんらん重要じゅうよう問題もんだいであることを理解りかいしていた。そのため、馬謖ばしょく提案ていあんした「しんめるのが上策じょうさくしろめるのが下策げさくしんたたかうのが上策じょうさくへいたたかうのが下策げさく」との提案ていあん採用さいようし、はじめ説得せっとくしたのである。しょかずらあきらは、はじめ発言はつげんいて、一笑いっしょうし、釈放しゃくほうしたのであった。『三国志さんごくし』「しょかずらあきらでんちゅうにある『かんすすむ春秋しゅんじゅうおよび『華陽かようこくこころざし』によれば、しょかずらあきらは、7はじめ捕獲ほかくし、7はじめ釈放しゃくほうしたとされる。はじめおよびその民族みんぞく反省はんせいし、ふたた離反りはんすることはなかったという。はじめいわく「しょかずらこうには神通力じんずうりきがあり、みなみじんふたた反乱はんらんこすことはありません」。

ただしはじめについては『三国志さんごくし本文ほんぶんには記載きさいがない。

しょかずらあきら滇池うつり、南中なんちゅう平定へいてい成功せいこうし、12月には成都せいと帰還きかんした。これ以降いこう複数ふくすうぐんわた反乱はんらんこらなくなったが、それよりも小規模しょうきぼ反乱はんらんはしばしばこり、そのたびに恢・うまただしちょうらに平定へいていされている(後述こうじゅつ)。

結果けっか

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南中なんちゅう平定へいていされると、派遣はけんしたりゅうは、交州からくれへと帰還きかんし、南中なんちゅう接収せっしゅうする計画けいかく消失しょうしつした。しょかずらあきらは、南中なんちゅうにあったえきしゅうぐん永昌えいしょうぐん・牂牁ぐんえつ巂郡の4ぐん分割ぶんかつして、えきしゅうぐん永昌えいしょうぐん・牂牁ぐんえつ巂郡・雲南うんなんぐんきょう古郡ふるこおりの6ぐん設置せっちし、現地げんちものまた将軍しょうぐん支配しはいさせることとした。しょかずらあきらは、駐兵ちゅうへいして統治とうちすべきとの進言しんげんたいし、3つのてんから容易よういではないとかんがえていた。

  1. 現地げんちじんけば、その警護けいごへい必要ひつようとなり、へい駐留ちゅうりゅうさせるためには、糧食りょうしょくようする。
  2. 民族みんぞくは、敗退はいたいしたばかりで死傷ししょうしゃ甚大じんだいであり、ちち兄弟きょうだい死亡しぼうしたものもいる。へい駐留ちゅうりゅうさせずに現地げんちじんけば、わざわいをもたらすことが必定ひつじょうである。
  3. 民族みんぞくは、殺人さつじんつみわれることをおそれているため、現地げんちじんけば、信用しんようされていないとかんがえるであろう。

最終さいしゅうてきに、しょかずらあきらは、「へい駐留ちゅうりゅうさせず、糧秣りょうまつ運搬うんぱんしない」という政策せいさく決定けっていした。恢をたてやすし太守たいしゅに、りょ凱を雲南うんなん太守たいしゅ任命にんめいし、降伏ごうぶくした爨習はじめひとしたいしては、はじめとともに官職かんしょくあたえ、みなみじん民心みんしん掌握しょうあくした。うまただしだけは、現地げんちじんとして、牂牁太守たいしゅ任命にんめいされたが、民族みんぞくからは尊敬そんけいされる存在そんざいであった。

しょくかんは、勁卒・あお羌をしょく移住いじゅうさせ、「ぐん中国語ちゅうごくごばん」とばれる非常ひじょう勇猛ゆうもうな5つの部隊ぶたい設立せつりつした。また、やせじゃくものを、こげ・雍・婁・爨・はじめりょうもうだいぞく分割ぶんかつしてきょくとし、五部ごへじょう設置せっちし、「」としょうした。このため、みなみじんには、四姓しせいがあるといわれている。

民族みんぞくは、非常ひじょう強靱きょうじんであり、攻撃こうげきてきであったため、豪族ごうぞく富豪ふごうとの関係かんけいきわめて悪化あっかしていた。そのため、しょくかんは、豪族ごうぞく説得せっとくして金品きんぴん支出ししゅつさせ、民族みんぞく招聘しょうへいしてきょく設置せっちさせ、世襲せしゅう官位かんいあたえた。民族みんぞくは、次第しだいしょくかん朝廷ちょうていしんぞくし、民族みんぞくかん民族みんぞく両方りょうほうきょく設置せっちされた。

みなみじん貢物みつぎものであるきむぎんたんうるしこううしせんうまとうは、しょくかん軍費ぐんぴとして供給きょうきゅうされ、くにゆたかにして、しょかずらあきらきた物資ぶっし提供ていきょうした。

このたたか以降いこう南中なんちゅう反乱はんらんはしばしばきた。12月にしょかずらあきら成都せいと帰還きかんすると、西南せいなんえびすふたた反乱はんらんこし、雲南うんなん太守たいしゅりょ凱が反乱はんらんぐん殺害さつがいされたため、庲降とく恢がへいひきいて反乱はんらん鎮圧ちんあつした。そのけんきょう9ねん231ねん)に死去しきょした恢の後任こうにんとしてちょうつばさ赴任ふにんするが、ほうきびしく執行しっこうしすぎたため西南せいなんえびす反発はんぱつまねいた。けんきょう11ねん233ねん)には南夷みなみえびすごうそちであったりゅうかぶと反乱はんらんこし、朝廷ちょうていちょうつばさ召還しょうかんしてうまただし派遣はけん反乱はんらん平定へいていさせている。

またこうじょう討伐とうばつされたのちこし巂郡では叟族がたびたび反乱はんらんこし、太守たいしゅの龔禄やこげ璜を殺害さつがいしたため、その太守たいしゅにんじられたものおそれてぐんないはいらず、えつ巂郡は名目めいもくじょう存在そんざいとなった。だがきゅうぐん復興ふっこうのぞこえたかまったため、のべ3ねん240ねん)にちょうえつ巂太もり任命にんめいされ、ちょう嶷は恩愛おんあい信義しんぎをもって多数たすう部族ぶぞく帰順きじゅんさせ、したがわない部族ぶぞく計略けいりゃくってやぶり、ぐん機能きのう回復かいふくさせた。15ねん統治とうちあいだに、ぐんやすらかにしずまらせたという。

ほのおきょう元年がんねん263ねん)にしょく侵攻しんこうしてきたさいに、南方なんぽう撤退てったいしようとした皇帝こうていりゅうぜんたいして、譙周が「えきしゅう南部なんぶ遠方えんぽう蛮族ばんぞく土地とちで、反乱はんらんおお統治とうちむずかしさから従来じゅうらいぜいされていなかったが、しょかずらあきらえきしゅう南部なんぶ反乱はんらん制圧せいあつしたのちえきしゅう南部なんぶ租税そぜいせるようになり、それをうれえてうらんでいる」と反対はんたいした。ただし『三国志さんごくし』のべつ部分ぶぶん記述きじゅつによると、庲降とく霍弋がいた南中なんちゅうではとく動揺どうようられない。また『華陽かようこくこころざし』には、霍弋はちが慣習かんしゅう風俗ふうぞく人間にんげんやわらげ、ほうつくり、学校がっこうてて教育きょういくほどこし、にかなった行動こうどうをしたため、漢人かんどかんじんともにかれ施政しせい安住あんじゅうしていたとかれている。

評価ひょうか

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しょくかんは、南中なんちゅう統治とうち確立かくりつし、南中なんちゅう閉塞へいそく状態じょうたい打破だはした。また、かく少数しょうすう民族みんぞくかん民族みんぞくとの関係かんけい強化きょうかされたことは、南中なんちゅう発展はってんにとって、有意義ゆういぎであった。[よう出典しゅってん]

とうだいまつからそうだいにかけてやすし事績じせきもの編纂へんさんされたとかんがえられる『まもるおおやけといたい』において、やすししょかずらあきらみなみせいについて「しょかずらあきらが7にわたってはじめ捕獲ほかくしたことは、それ以外いがい方法ほうほうはなく、これによって戦火せんかやめんだのである」とひょうしたことが記述きじゅつされている。

民間みんかん芸術げいじゅつ

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三国志さんごくし演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、だい87かいせいみなみ寇丞しょうだいきょうこうてんへい蛮王はつ受執」からだい90かいきょじゅうろくやぶ蛮兵、しょうふじかぶとななとりこはじめ」までのあいだにおいて、このたたかいが描写びょうしゃされている。

しかし、個性こせいてき人物じんぶつ故事こじなかには、史実しじつとはてもつかぬ創作そうさくおもわれるものがある。たとえば、はじめ民族みんぞくおうほうじられていること、雍闓・しゅ褒・こうじょうの3にんはじめ部下ぶかとされていること、鄂煥祝融しゅくゆう夫人ふじんはじめゆう鹿しか大王だいおうひとし南中なんちゅう多数たすう人々ひとびと登場とうじょうすることなどである。

このほか、ちょうくものべ参戦さんせんは、正史せいし三国志さんごくし』には記載きさいされていない。

ななたてななとりこ

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三国志さんごくし』の本文ほんぶんには記録きろくがない。「ななたてななとりこ」のかたりは『かんすすむ春秋しゅんじゅう』と『華陽かようこくこころざしまき4「南中なんちゅうこころざし」にはじめて登場とうじょうし、『三国志さんごくし』「しょかずらあきらでん」裴松ちゅうでも『かんすすむ春秋しゅんじゅう』から簡単かんたん記載きさい引用いんようされている。また裴松ちゅうおよび『どおりかん』には「ななとりこはじめ」の記載きさいがある。

伝説でんせつ

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きたそうこううけたまわの『事物じぶつきのげん中国語ちゅうごくごばん』によれば、しょかずらあきらみなみせいふうつよくなって渡河とかできないことがあり、はじめは、たけくるったかみのたたりであるとして、人頭じんとう動物どうぶつ生贄いけにえにしなければ、かぜおだやかにすることはできないとべた。しかし、しょかずらあきらは、人頭じんとうもちいるのがきわめて残忍ざんにんであるとして、小麦粉こむぎこ人頭じんとうかたちまるめ、なか牛肉ぎゅうにくひつじにくれたものを作成さくせいし、饅頭まんじゅう名付なづけたとされる(一説いっせつには、饅頭まんじゅうちょうにゅうしょく発明はつめいされたともされる)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 三国志さんごくししょくこころざしこうあるじでん
  2. ^ 華陽かようこくこころざし南中なんちゅうこころざしえきしゅうえびすふくしたがえ闓,闓使たてやすしはじめせつえびす叟曰:「かん欲得よくとくがらすいぬさんひゃくとう,膺前つきくろ,蟎脳さん,斵木構さんたけしゃさんせんまいなんじのうとく?」えびす以為しかみなしたがえ闓。斵木けんつよしせい委曲いきょくこういたりたけ以欺えびす
  3. ^ ウィキソース出典 三國志さんごくし しょくしょきゅう ただしりゅううまちんただしりょでん (中国ちゅうごく), 三國志さんごくし/まき39#うまりょう, ウィキソースより閲覧えつらん  じょうく - 《じょう》曰:たてきょうさんねんあきらせい南中なんちゅう,謖送すうじゅうさとあきら曰:「雖共謀きょうぼう歷年れきねんこんさら惠良えらぶんまわし。」謖對曰:「南中なんちゅう恃其けわしとお不服ふふくひさ矣,雖今やぶこれ明日あしたふくはんみみこん公方くぼう傾國けいこくきた以事きょうぞくかれかんいきおい內虛,其叛またそくわか殄盡のこるい以除後患こうかんすんで仁者じんしゃじょう,且又不可ふか倉卒そうそつ也。おっと用兵ようへいみちおさむこころためじょうおさむじょうためしんせんためじょうへいせんためはらこうふく其心而已。」あきらおさめ其策,赦孟以服南方なんぽうおわりあきらこれせい南方みなかた敢復はん

参考さんこう文献ぶんけん

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