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龔禄

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ろく(きょう ろく、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい武将ぶしょうとくいとぐちえきしゅうともえ西郡にしごおりあんかんけんひと父親ちちおやは犍為ぐん太守たいしゅの龔諶。おとうとに鎮軍将軍しょうぐんの龔皦がいる[1]三国志さんごくしでは龔衡としている)

概要がいよう

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りゅうえきしゅう平定へいていしたさいに、ぐん従事じゅうじきばもん将軍しょうぐん任命にんめいされた。けんきょう3ねん225ねん)、えつ太守たいしゅ任命にんめいされ、しょかずらあきらみなみただし参戦さんせんしている。

この当時とうじどうぐん出身しゅっしんこうかん太守たいしゅ姚伷ならんでたか名声めいせいはくしており、ちょうともしたしくったとされる[2]

そのえつ巂にて叟族の反乱はんらんい、斯都の耆帥であるもとむうけたまわ殺害さつがいされた。享年きょうねんは31さいだったという。

のべ3ねん240ねん)に後任こうにんとしてやってきたちょう嶷はぐんない民族みんぞく平定へいてい服従ふくじゅうさせるとともに、龔禄を殺害さつがいしたもとむうけたまわ懸賞けんしょうをかけてさがして逮捕たいほし、長年ながねん悪行あくぎょう糾弾きゅうだんしたのち処刑しょけいした[3]

楊戯の『かん輔臣さん』では、龔禄・おうは「士気しき勇壮ゆうそうであった」と評価ひょうかし、「こころく、しょくかんほまれとなる人物じんぶつであった」とべられている。また『華陽かようこくこころざし』「ともえこころざし」においては龔禄兄弟きょうだいを「英気えいき曄然」と称賛しょうさんしている[4]

おとうとの龔皦は徳光とくみつといい、けい耀年あいだ(258-263)にりょうぐんとなり、鎮軍将軍しょうぐんくらいまでのぼった[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 華陽かようこくこころざしじょこころざし
  2. ^ しょくこころざしちょう嶷伝
  3. ^ しょくこころざしちょう嶷伝 ちゅうえき耆旧でん
  4. ^ 華陽かようこくこころざしともえこころざし
  5. ^ 三国志さんごくししょくこころざしおよび「華陽かようこくこころざしじょこころざし

参考さんこう文献ぶんけん

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