もとやすし

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もとやすし
しょくかん
つかさ
出生しゅっしょう 生年せいねん不明ふめい
しゅうなんじみなみぐんひら輿こしけん
死去しきょ あきらたけ2ねん222ねん
拼音 Xǔ Jìng
ぶんきゅう
主君しゅくん れいみかどしょうみかどべんけんじみかどりゅうあきらりゅう
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もと やすし(きょ せい)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい政治せいじぶんきゅうしゅうなんじみなみぐんひら輿こしけんひと従兄じゅうけいもと瑒。従弟じゅうていもとけん[1]もと許子もとこしょう)。もと欽。まごもとゆうあに外孫そとまごちん。『しょくしょ』に独立どくりつしたつてがある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ちんおさむ兄事けいじし、はなおうあきら袁渙とも親交しんこうむすんだという。わかくして従弟じゅうていもと劭とともに、人物じんぶつ評価ひょうかについてたか評判ひょうばんていたが、もと劭とはなかわるかった。もと劭は太守たいしゅじょ任命にんめいされぐんこう曹(ぐん人事じんじけんにぎ役職やくしょく)となったが、もとやすしてようとしなかったため、もとやすし生活せいかつのためにうまみがきの仕事しごとをしていた。太守たいしゅりゅう翊にわるとこうれんげられ、尚書しょうしょろうとなった。

ただしたく朝廷ちょうてい牛耳ぎゅうじるようになると、ただしたくもとやすししゅう人事じんじ管轄かんかつさせた。もとやすし汚職おしょくをしたもの追放ついほうする一方いっぽうで、荀爽かんとおるちんおさむかんあなちょうりゅうらを中央ちゅうおう要職ようしょく地方ちほう長官ちょうかん任命にんめいした。もとやすし自身じしんともえぐん太守たいしゅ任命にんめいされたが、任地にんちおもむかず朝廷ちょうていまり、ちゅうすすむとなった。

しかし、かん馥らはただしたく謀反むほんこしたので、しゅう毖はそのせめわれ処刑しょけいされた。もとやすしなんのがれるため朝廷ちょうていはなれ、ひねこくそうであった従兄じゅうけいもと瑒をたより、しゅう刺史ししとなっていたあな伷にせた。あな伷の死後しごあげしゅう刺史ししひね禕(ちんあつし)にせ、ちん禕の死後しご旧交きゅうこうのあったもとみつぎおうあきらたよって江東こうとうわたった。もとやすし親類しんるい縁者えんじゃ同郷どうきょうひとれて援助えんじょしたという。

まごさくあげしゅう席巻せっけんしておうあきら攻撃こうげきするともとやすし交州のがれたが、このとき一族いちぞくおおくをうしなった[2]。交州を支配しはいしていたには礼遇れいぐうされた[3]おなじく交州にのがれていた袁徽は、荀彧手紙てがみおくってもとやすし人格じんかく能力のうりょくおこないを賞賛しょうさんしたが、曹操そうそう派遣はけんした使者ししゃちょうしょうは、もとやすし強引ごういん招聘しょうへいしようとしたためもとやすし忌避きひされ、はらいせにもとやすしした手紙てがみすべてた。

そのりゅうあきら招聘しょうへいされてともえぐんこうかんぐん太守たいしゅ任命にんめいされた。もとやすしちゅう従事じゅうじおうしょうを「中原なかはらまれていればおうあきらっただろう」ととなえ、これをいたりゅうあきらかれしょくぐん太守たいしゅ任命にんめいした。りゅうおもて配下はいかそうただし親交しんこうのあったおうしょう手紙てがみおくり、もとやすしおしえをうようすすめている。たてやすし16ねん211ねん)、おうしょう死去しきょするともとやすし後任こうにんしょくぐん太守たいしゅとなった。

同年どうねん曹操そうそう皇子おうじりゅう熙をすみかげおうに、りゅう懿を山陽さんようおうに、りゅうあつし東海とうかいおうてた。それをいたもとやすしは「老子ろうしには『なにかをちぢめようとするならば、かならずそれをいちおおきくし、なにかをうばろうとするならば、かなら一度いちどそれをあたえる』とある。これは曹操そうそうのことであろう」とその簒奪さんだつ予見よけんした。

けんやす19ねん214ねん)、りゅうりゅうあきらめて成都せいと包囲ほういした。もとやすしりゅうあきら見捨みすて成都せいと脱出だっしゅつしようとしたが、発覚はっかくらえられた。りゅうあきらもとやすしとがめず、処刑しょけいしなかった。りゅう備がえきしゅう支配しはいすると、りゅう備はもとやすしきら任用にんようしようとしなかった。しかし、法正のりまさは「虚名きょめいとはいえもとやすし天下てんかわたっており、もとやすし礼遇れいぐうしないのであれば、おおくのひとおおやけりゅう備)が君子くんしかるんじているとおもうでしょう」といたので、もとやすしひだり将軍しょうぐんちょうにんじられた(「ほう正伝せいでん[4])。

りゅう備がかんちゅうおうになったさいは鎮軍将軍しょうぐんしょくにあり、おうになるよう推挙すいきょした群臣ぐんしんなかつらねている(「さきぬしでん」)。のちふとしでんとなった[5]

のべやすし元年がんねん220ねん)、けんじみかどは曹丕に禅譲ぜんじょうし、こうかん王朝おうちょう滅亡めつぼうした。あきらたけ元年がんねん221ねん)、けんじみかど殺害さつがいされたという誤報ごほうがもたらされると、群臣ぐんしんともりゅうつぶさこうかん皇帝こうてい即位そくいするようすすめた。りゅう備が即位そくいするとつかさ任命にんめいされた(「さきぬしでん」)。

もとやすしは70さいぎても、ひとあいし、後進こうしんみちびき、清談せいだんこのんだので、しょかずらあきららはふか敬意けいいはらった。あきら2ねん222ねん)にぼっした。

重臣じゅうしんとなったはな歆・おうあきらや、ちんおさむちんとの親交しんこう生涯しょうがいとおしてつづき、手紙てがみのやりりをして旧交きゅうこうあたためたという。あるとき、おうあきらりゅう備がぼっしたことをり、もとやすし手紙てがみおくってりゅうぜん帰順きじゅんうながそうとした。しかし、もとやすしすでぼっしていた(『りゃく』)。

もと欽はもとやすし先立さきだって夭逝ようせいした[6]まごもとゆうけい耀年間ねんかん尚書しょうしょとなった。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

ちん寿ひさしもとやすし名声めいせい篤実とくじつさを肯定こうていしつつも、そのおこないのすべてが妥当だとうであったかどうかは疑問ぎもんしている。

楊戯の『かん輔臣さん』では、もともとやすし)はあきられつ皇帝こうていりゅう備)、しょかずら丞相じょうしょうしょかずらあきら)にいで3番目ばんめ記載きさいされ、せきくもちょうせきはね)・ちょうえきとくちょう)よりもうえであることから、もとやすし非常ひじょうたか評価ひょうかけていることがわかる。

蔣済は『万機ばんきろん』において「もとやすし国政こくせいにな人材じんざいである」と称賛しょうさんし、不当ふとうあつかいをしたもと劭を批判ひはんしている。

三国志さんごくし演義えんぎ[編集へんしゅう]

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、もとやすししろ脱走だっそうしてりゅうつぶさ降伏ごうぶくしたというらせがりゅうあきらもととど場面ばめんにおいて、名前なまえのみ登場とうじょうする。さらに、りゅうつぶさ帝位ていいくよう進言しんげんする群臣ぐんしん一人ひとりとして登場とうじょうしている。

もとやすし題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ こう漢書かんしょかくもと列伝れつでんだいじゅうはち - もと劭伝
  2. ^ 裴松まごさくつかえなかったことを非難ひなんしているが、もとやすし曹操そうそうおくった手紙てがみによると、かいせてきたのは袁術だとかんがえていたようである。
  3. ^ せき 2023, p. 143.
  4. ^ まごもりただしたくつかえて官位かんいていた過去かこしてもとやすし批判ひはんしているが、裴松もとやすし擁護ようごしている。
  5. ^ せき 2023, p. 145.
  6. ^ つて」では、ただしまこと禕と名声めいせいひとしくしたというなんじみなみもと叔龍という人物じんぶつ紹介しょうかいされており、その直後ちょくごもとやすしであるもとぼういみなしょう)の葬儀そうぎでの逸話いつわ記述きじゅつされている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • せき史郎しろう周縁しゅうえん三国志さんごくし かんぞくにとってのさんこく時代じだい東方とうほう書店しょてん東方とうほう選書せんしょ 60〉、2023ねん5がつ31にちISBN 978-4-497-22307-4