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まご

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
まご
続柄つづきがら 大帝たいていだい皇子おうじ

ぜん まご
称号しょうごう あきらやすこう
おう平民へいみんけんこう
出生しゅっしょう しょう
死去しきょ けん2ねん270ねん)?
配偶はいぐうしゃ 袁氏(袁燿むすめ
子女しじょ 男子だんし5にん
父親ちちおや 大帝たいてい
母親ははおや なかひめ
テンプレートを表示ひょうじ

まご(そん ふん、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだい皇族こうぞくあげちちまごけんははなかひめおとうとまごあきらつま袁燿むすめ。『三国志さんごくし』「しゅでん」に記録きろくがある。

経歴けいれき

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けんきょう元年がんねん252ねん)、ひとしおうふうじられ、たけあきらんだ。りょ補佐ほさけたものの、その行状ぎょうじょうかんばしくなかった。

ちちまごけん死後しごおとうとまごあきら即位そくいした。おとうと後見こうけんやくとして実権じっけんにぎったしょかずらつとむは、諸王しょおう各地かくち要所ようしょ居住きょじゅうすることをこのましくないとかんがえ、まご奮をたけあきらからあきらうつそうとした。まご奮がこれに反発はんぱつしたが、しょかずらつとむ手紙てがみおくり、これをきびしくいさめたうえで、過去かこ悪行あくぎょう追及ついきゅうすることをほのめかした。まご奮は危険きけんかんじ、みなみあきらうつった。

しょかずらつとむ誅殺ちゅうさつされるとかぶらみずうみうつり、政変せいへんじょうじてけんぎょう進出しんしゅつしようとしたが、でんしょうしゃ慈らに諫められたためにこれらを殺害さつがい庶民しょみんとされた。永安えいあん元年がんねん258ねん)、おとうとから恩赦おんしゃけ、あきらやすこうふうじられた。

けん2ねん270ねん[1]まごひだり夫人ふじんであるおうくし、かなしみのあまりしばらくひょう姿すがたせなかったため、死亡しぼうせつながれた。まもなくまご奮とまごたてまつのどちらかが、数カ月すうかげつ即位そくいするのではないかといううわさながれ、あきら太守たいしゅちょうしゅんのように、このうわさしんけるものも出現しゅつげんした。まご晧はこれにいかり、まご奮とにんならびにまごたてまつ殺害さつがいした(『こうひょうでん』によると、あきらやすから連行れんこうされたうえでのたまもの服毒ふくどく自殺じさつとある)[2]。また、しょうまご奮のははなかひめはか掃除そうじしたちょうしゅんは、くるまきのけいとなった。

ちん寿ひさしまご奮の没落ぼつらく自業自得じごうじとくとしつつも、最後さいご誅殺ちゅうさつされ一族いちぞく皆殺みなごろしとなったのは、とばっちりの災難さいなんであると同情どうじょうしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 鳳凰ほうおう3ねん274ねん)のせつもある。
  2. ^ ウィキソース出典 三國志さんごくし くれしょくれぬしでんだいじゅうよん (中国ちゅうごく), 三國志さんごくし/まき59#まご, ウィキソースより閲覧えつらん - たてねん