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ちぇ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ちぇ
こうかん
中尉ちゅうい
出生しゅっしょう のべ6ねん163ねん
冀州清河きよかわぐん東武とうぶぐすくけん
死去しきょ たてやすし21ねん216ねん
拼音 Cuī Yǎn
主君しゅくん 袁紹曹操そうそう
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ちぇ(さい えん、のべ6ねん163ねん) - たてやすし21ねん216ねん8がつ)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき武将ぶしょう政治せいじ冀州清河きよかわぐん東武とうぶぐすくけん現在げんざい河北かほくしょう衡水ぐすくけん)のひと。『三国志さんごくし』につてがある。 ちちちぇひそかあにちぇ[1]従弟じゅうていちぇりんあにまごちぇりょう安定あんてい太守たいしゅ)。曾孫そうそんちぇ[2]あにむすめ曹植

生涯しょうがい

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公明正大こうめいせいだい誠実せいじつ人柄ひとがらであった。

わかころ剣術けんじゅつこのみ、23さいのときに兵士へいしとして出仕しゅっししたが、その発奮はっぷんして学問がくもんはげみ『論語ろんご』と『かん』をんだ。29さいとき公孫こうそんかたらとともにていげん師事しじした。1ねんほどして、はばぞく北海ほっかいぐん襲撃しゅうげきしてたため、ていげん弟子でしとともに其山に避難ひなんしたが、食料しょくりょう不足ふそくにより弟子でしたち退学たいがくをいいわたさざるをなくなった。ちぇ琰は盗賊とうぞくがいたため帰国きこくできず、あおしゅうじょしゅう兗州しゅう各地かくちを4ねんかけてまわり、とお寿ことぶきはるまであしばしたりもした。郷里きょうりかえってからは読書どくしょ音楽おんがくたのしんだ。

その袁紹招聘しょうへいけその家臣かしんとなった。袁紹の兵士へいし乱暴らんぼうくし、墳墓ふんぼ発掘はっくつしていることをいたためこれをいさめた。また、じょう任命にんめいされた。袁紹が曹操そうそう対決たいけつするためぐん南下なんかさせると(かんわたりたたか)、ちぇ琰は「みかどもと曹操そうそうもとにいるのですから、まずは国境こっきょうまもるべきです」とすすめた。しかし袁紹はききいれず、かんわたりたたかやぶれた。袁紹の死後しご、袁紹の二人ふたりはいがみい、そうってちぇ琰を味方みかたれようとした。しかしちぇ琰は病気びょうきしょうし、双方そうほう招聘しょうへい固辞こじした。これにおこった袁尚ちぇ琰を投獄とうごくしたが、かげちん嘆願たんがんゆるされた。

曹操そうそうは袁氏をやぶるとちぇ琰をせ、冀州のべつ従事じゅうじにした。このとき曹操そうそうが冀州の戸籍こせき調しらべ「30まん軍兵ぐんびょうれられそうだ。したがって、冀州は大州おおずえるだろう」とったところ、ちぇ琰は「戦乱せんらんくるしむみん気持きもちをまずおもいやるべきなのに、なぜ軍勢ぐんぜいはなしをするのか」と直言ちょくげんした。このとき曹操そうそうがすぐに陳謝ちんしゃしたが、周囲しゅういものたちは顔面がんめん蒼白そうはくとなった。曹操そうそう并州討伐とうばつすると、ちぇ琰はのこされ曹丕補佐ほさまかされた。狩猟しゅりょう熱中ねっちゅうする曹丕をきびしくいさめている。

曹操そうそう丞相じょうしょうになると、ちぇ琰はひがし曹・西にし曹の属官ぞっかんとなり、ちょうごとにもなった。さらに曹操そうそうこうとなると、ちぇ琰は尚書しょうしょ任命にんめいされた。もうとも人事じんじ辣腕らつわんるったとわれるが(『先賢せんけん行状ぎょうじょう』、「もう玠伝」)、あまりに清廉せいれんさを重視じゅうししすぎたことでかずひろし批判ひはんされている(「かずひろしでん」)。曹操そうそうが曹植を寵愛ちょうあいし、太子たいしを曹丕と曹植のどちらにするかなやんだため、家臣かしんたい文書ぶんしょふうをして意見いけんするようもとめたときちぇ琰はあにむすめが曹植にとついでいたにもかかわらず、えて文書ぶんしょふうをせず曹丕を後継こうけいにすべきであると、くして主張しゅちょうした。曹操そうそうあらためてちぇ琰に敬意けいいはらい、中尉ちゅうい任命にんめいした。

ちぇ琰は威厳いげんのある容姿ようしをしており、ひげよんしゃくあった。そのためちぇ珪(ちぇ琰)を貧相ひんそう容貌ようぼうだった曹操そうそう身代みがわりとして外国がいこく使者ししゃ対応たいおうさせたことがあったという(『せつ新語しんご』)。朝廷ちょうてい廷臣ていしんたち尊敬そんけいあつめていたため、曹操そうそうですら遠慮えんりょするほどの人物じんぶつであったという。また、ひとすぐれており、司馬しばあきらなかく、かれおとうと司馬しば才能さいのう非常ひじょうたか評価ひょうかした。さらに当時とうじまごれいちぇりんらは評価ひょうかひく人物じんぶつであったが、ちぇ琰がかれらをたか評価ひょうかしたため、のちみな三公みつきみとなった。友人ゆうじん公孫こうそんかたそうかいはやくにくなったため、その遺児いじ養育よういくした。

曹操そうそうおうになったときちぇ琰がかつて推挙すいきょした楊訓という人物じんぶつ曹操そうそう賛美さんびする上奏じょうそうぶんしたが、その上奏じょうそうぶんたいするちぇ琰の批評ひひょうもとちょうただし讒言ざんげんしたため(「じょつて」)、ちぇ琰は曹操そうそう不興ふきょう投獄とうごくされてしまった。また、囚人しゅうじんになってもまだ堂々どうどうとしているようにえた(辭色じしょくたわまず)ため、不快ふかいおもった曹操そうそうから自害じがいめいじられた[3]

ちん寿ひさしは「曹操そうそう当時とうじ嫌悪けんお処刑しょけいした人物じんぶつは、あなとおるをはじめなんめいかいるが、ちぇ琰はもっとつよくそのしまれ、現在げんざいいたっても無実むじつであったとしんじられている」とべている。あずますすむ袁宏の「さん国名こくめいしんじょさん」(『文選ぶんせん所収しょしゅう)ではの9にんしょくの4にんの7にんめいしんとして賞賛しょうさんされており、そのなかげられている[4][5]。 

三国志さんごくし演義えんぎ

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、曹操そうそうおうになることに反対はんたいしたため投獄とうごくされるが、あくまで批判ひはんめなかったため、曹操そうそう撲殺ぼくさつされたことになっており[6]後世こうせいひとちぇ琰のこの行動こうどう賞賛しょうさんしたとしている[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ しんとうしょまきななじゅう ひょうだいじゅう 宰相さいしょうけい
  2. ^ 姉妹しまいおっとであるあずますすむおうによって東夷あずまえびすこうじょうとなった(『どおりかん』87かんすすむ9)。
  3. ^ 三国志さんごくししょちぇ琰伝のちゅうく『りゃく』によれば、曹操そうそうけい使つか意思いしがあることをったため、自害じがいした。
  4. ^ めいしん20せんには、荀彧荀攸袁渙ちぇじょちんなつほうげんおうけいちんやすし以上いじょうたかし)、しょかずらあきら龐統蔣琬けん以上いじょうしょく)、しゅうちょうあきら魯粛しょかずらりくへりくだ顧雍おそれこぼし以上いじょう)を選出せんしゅつしている
  5. ^ ちぇ琰は「邈哉ちぇせい からだただしこころじき 天骨てんこつ疏朗 牆宇だか嶷 ちゅうそん軌跡きせき がた風色ふうしょく おもえじゅよしあららぎ 剪除荊棘けいきょく ひとあく其上 ときようあきら 琅琅先生せんせい まさつえ名節めいせつ 雖遇ちりきり なお霜雪そうせつ うん極道ごくどうきえ 碎此明月めいげつ」とうたわれている
  6. ^ ウィキソース出典 さんこく演義えんぎ だいろくじゅうはちかい あまやすし百騎劫魏營 ひだり慈擲さかずきおどけ曹操そうそう (中国ちゅうごく), さんこく演義えんぎ/だい068かい, ウィキソースより閲覧えつらん  - みさおとめ曹仁、ちょうりょうたむろあい淝,はんかいもとあきら文武ぶんぶ眾官みなりつ曹操そうそうためおう尚書しょうしょちぇ琰力げん不可ふか。眾官曰:「なんじどく荀文わか乎?」琰大いか曰:「とき乎!とき乎!かいとうゆうへんにん為之ためゆき!」ゆうあずか不和ふわしゃ告知こくちみさおみさおだいいかおさむ下獄げごくとい。琰虎虯髯,ただだいののし曹操そうそう欺君奸賊かんぞく。廷尉はくみさおみさおれいつえころせちぇ琰在獄中ごくちゅう
  7. ^ ウィキソース出典 さんこく演義えんぎ だいろくじゅうはちかい あまやすし百騎劫魏營 ひだり慈擲さかずきおどけ曹操そうそう (中国ちゅうごく), さんこく演義えんぎ/だい068かい, ウィキソースより閲覧えつらん  - 後人こうじんゆうたたえ曰﹕清河きよかわちぇ琰,天性てんせいけんごう。虯髯とら鐵石てっせきこころちょう。奸邪辟易へきえきこえぶしあらわたかぶ忠心ちゅうしんかんぬし千古せんこめいあげ