(Translated by https://www.hiragana.jp/)
孫峻 - Wikipedia コンテンツにスキップ

まごたかし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
まごたかし

丞相じょうしょう大将軍だいしょうぐんとみはるこう
出生しゅっしょう たてやすし24ねん219ねん
あげしゅうくれぐんとみはるけん
死去しきょ おおとり3ねん9月14にち[1]256ねん10月19にち
あげしゅう丹陽たんようぐんけんぎょうけん
拼音 Sūn Jùn
とお
主君しゅくん まごけんまごあきら
テンプレートを表示ひょうじ

まご たかし(そん しゅん)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだい武将ぶしょう政治せいじとお皇族こうぞくであるまご一族いちぞく曾祖父そうそふまごせい祖父そふまごちちまごきょう伯父おじまごまごちょう従弟じゅうていまごけんまごまごよりどころまごおんまごみきまご。『三国志さんごくしこころざしつてがある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ちちつかえ、つねさむらいにまでなっている。まごたかし馬術ばじゅつ弓術きゅうじゅつたくみで、おもりがかったという。

まごけん時代じだい末期まっきたけまもるじょうからさむらいちゅうとなった。まごけん二宮にのみや事件じけんさいまごまごあらそいに決着けっちゃくをつけようと、まご廃位はいい臣下しんか相談そうだんした。このとき、まごたかしはその相談そうだん相手あいてとなった。まごけんまご廃位はいい末子まっしまごあきらてた[2]

のちまごけんやまいおもくなり、あらそいの真相しんそうづいてまごゆるそうとしたときは、まごひろしぜん公主こうしゅまご魯班)とともにこれを阻止そししたという[3]まごけん臨終りんじゅうさいには、まごけんたいしょかずらつとむみずからの補佐ほさやくにするよう、つよ推薦すいせんした[4]まごたかしたけまもる将軍しょうぐんさむらいちゅうきょうこうとなり、政務せいむ一般いっぱん輔弼ほひつまごけんからゆだねられた。まごけん死後しご、まもなくまごひろししょかずらつとむ暗殺あんさつたばかると、まごたかしはそのことをしょかずらつとむらせ、ともまごひろ殺害さつがいした[5]

まごあきら即位そくいすると、しょかずらつとむ滕胤とも協力きょうりょくして政治せいじおこなった。しかししょかずらつとむは、たかしへの遠征えんせい強行きょうこう敗戦はいせんすると[6]権力けんりょくてき不安ふあんから次第しだい独裁どくさいしょくつよめ、近衛このえぐん人事じんじなどをめぐりまごたかしらと対立たいりつした。そこでまごたかしは、まごあきらみ、しょかずらつとむ宴会えんかいせたうえで、勅命ちょくめいしょうしてみずか斬殺ざんさつした。まごたかし宴席えんせきで、しょかずらつとむ側近そっきんちょうやく右腕うわんみずかけんをふるってとし、さわぎをきつけた衛兵えいへいると、しょかずらつとむ殺害さつがいしたことをげて衛兵えいへいがらせ、ゆか掃除そうじさせるとそのまま宴会えんかい継続けいぞくしたという[7]。また、とくりゅううけたまわめいじて、逃亡とうぼうしたしょかずらつとむ一族いちぞくちょうしんつねさむらいしゅおんなどそれにつらなる人達ひとたち追撃ついげきさせ、ことごとく殺害さつがいした。さらに、まごをもしょかずらつとむはかって復権ふっけん目指めざしていたとして、印綬いんじゅ没収ぼっしゅう新都しんと強制きょうせい移住いじゅうさせたうえ自殺じさつめいじた[8]しょかずらつとむしたしかった聶友うとんじ、うつりん太守たいしゅ左遷させんすることをくわだてて、聶友をゆうさせた[9]

滕胤がしょかずらつとむしたしく、また縁戚えんせきでもあったため、みずか辞職じしょくもうてきたが、まごたかし慰留いりゅうさせた。群臣ぐんしんたちまごたかしふとしじょうに、滕胤をつかさ任命にんめいするよう上奏じょうそうしたが、まごたかしおもねものたちがいたため実現じつげんしなかった[10]結局けっきょくは、まごたかし丞相じょうしょう大将軍だいしょうぐんとみはるこうとなりくれ実権じっけん掌握しょうあくすることになった。丞相じょうしょう副官ふっかんである大夫たいふ設置せっちされなかったという[11]まごたかしと滕胤は内心ないしんしっくりしなかったが、表面ひょうめんじょうはおたがいをてたため、共同きょうどう歩調ほちょうをとることができた。まごたかしは滕胤を高密こうみつこう昇進しょうしんさせた。

まごたかし政治せいじは、しょかずらつとむなんわらぬ、みかど傀儡かいらいとした専横せんおうだった。さらに、元々もともと名声めいせいがなかったことにくわえ、おおくの人々ひとびと処刑しょけいしたり、ぜん公主こうしゅまご魯班)と密通みっつうし、ぜん公主こうしゅけて毎晩まいばんみやおんなおかすなどせんよこきわめたため、周囲しゅういからうらまれた。

おおとり元年がんねん254ねんあき[12]まごえい[13]まごたかし誅殺ちゅうさつ計画けいかくしたが、計画けいかくれたため自殺じさつした。

よくおおとり2ねん255ねんはる正月しょうがつ[12]毌丘倹ぶん寿ことぶきはる反乱はんらんこし、追討ついとうぐん迎撃げいげきするため寿ことぶきはる留守るすにした。まごたかしはそのすきじょうじて、りょよりどころとめさんひきいて寿ことぶきはる襲撃しゅうげきしようとした[14]。しかし、司馬しばこうじょうで毌丘倹[15]らくよしみぶん欽をきつけているすきに、しょかずらめいじて寿ことぶきはる平定へいていさせたため、さきんじられたまごたかしぐん撤退てったいさせざるをえなかった(毌丘倹・ぶん欽のらん)。その途中とちゅうらくよしみ敗北はいぼくしたぶん欽がすうまんへいとともに投降とうこうしてきたため、これをむかれた[16]撤退てったいりょよりどころひのとたてまつこうていの曹珍をやぶった。とめさん病気びょうきになったため帰還きかんさせようとしたが、とめさんしょかずら誕が派遣はけんした蔣班別働隊べつどうたいから追撃ついげきけ、こも陂において将軍しょうぐんまご蔣脩とも殺害さつがいされた[12]

同年どうねん3がつしゅことめいじてあんゆたか攻撃こうげきさせたが、陥落かんらくさせることが出来できなかった[12]

同年どうねんあき7がつしょくかんから使者ししゃがやってくると、将軍しょうぐんまごちょうはやしまこと会見かいけん宴席えんせきじょうまごたかし誅殺ちゅうさつしようとした。しかしまた計画けいかく発覚はっかくしたため、まごらは自殺じさつした。この計画けいかくすうじゅうにんもの連座れんざし、しゅ公主こうしゅまご魯育しゅよりどころ未亡人みぼうじんで、りゅうつま)も誅殺ちゅうさつされた。

まごたかし広陵こうりょうしろきずき、きた拠点きょてんにしようとした。滕胤がこれをいさめたが、まごたかしはそれを黙殺もくさつして続行ぞっこうさせた。しかし、しろ完成かんせいすることはなかったため[17]民衆みんしゅうえ、ぐんらもしんはなれたという[18]

おおとり3ねん256ねん)8がつ[12]寵愛ちょうあいするくだしょうぶん[19]すすめにより、ぶん欽・りゅう纂・りょよりどころしゅから先鋒せんぽうにして、あおしゅうじょしゅう侵略しんりゃくしようとした。まごたかしは滕胤ととも石頭いしあたままでかけ、出征しゅっせいぐんのために宴席えんせきり、従者じゅうしゃを100にんほどれてりょよりどころ陣屋じんやはいった。しかし、りょよりどころぐんみだれなく統率とうそつしている姿すがたて、警戒けいかいする気持きもちがつよくなり、心臓しんぞう具合ぐあいわるいとしょうしすぐにげてしまった。

まごたかしはまもなく、しょかずらつとむなぐられるゆめたため、それにおそびょうたおれ、そのまま同年どうねん9がつ病死びょうしした[20]。39さいであった。

まごたかし死後しご遺言ゆいごんによりまご綝がまごたかし立場たちばぐことになった。まご綝は対立たいりつするりょよりどころや滕胤をほろぼし、まごたかし同様どうよう専横せんおうかぎりをくした。やがてまご綝はまごあきら廃位はいいまごきゅうてたが、まごきゅう謀略ぼうりゃくにより処刑しょけいされた。まごたかしはかあばかれ、副葬品ふくそうひん印綬いんじゅ剥奪はくだつされたうえで、かんけずってもどされたという。まごきゅうまごたかしまご綝と同族どうぞくであることをきらい、彼等かれら2人ふたり一族いちぞく系図けいずからはずし、「たかし」「綝」とばせるようにした。

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』でも、しょかずらつとむ暗殺あんさつされる場面ばめんで、その首謀しゅぼうしゃとして登場とうじょうする。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 三国志さんごくしこころざしさん嗣主でん
  2. ^ 三国志さんごくしこころざし くれぬしでんく『通語つうご
  3. ^ 三国志さんごくしこころざし くれぬしでんく『しょ
  4. ^ 三国志さんごくしこころざし しょかずらつとむつてく『くれしょ
  5. ^ 三国志さんごくしこころざし しょかずらつとむでん
  6. ^ 三国志さんごくしこころざし さん嗣主でんけんきょう2ねん253ねん)3がつ出征しゅっせい、4がつごうこえ新城しんじょう包囲ほういするが陥落かんらくさせられず、8がつ帰還きかん
  7. ^ 三国志さんごくしこころざし しょかずらつとむでん。なお、こころざし さん嗣主でん によるとしょかずらつとむ誅殺ちゅうさつされたのはけんきょう2ねん(253ねん)10がつ
  8. ^ 三国志さんごくしこころざし くれぬしでん
  9. ^ 三国志さんごくしこころざし しょかずらつとむでん
  10. ^ ろく
  11. ^ くれろく
  12. ^ a b c d e 三国志さんごくしこころざし さん嗣主でん
  13. ^ 三国志さんごくしこころざし くれぬしでん によると、もと太子たいしまごとう
  14. ^ 三国志さんごくしこころざし さん嗣主でん によると、おおとり2ねん(255ねんうるう正月しょうがつ
  15. ^ 三国志さんごくしこころざし 毌丘倹つて
  16. ^ 三国志さんごくしこころざし さん嗣主でん によると、おおとり2ねん(255ねんうるう正月しょうがつ19にち
  17. ^ 三国志さんごくしこころざし くれぬしでん によると、まもるじょうの馮朝が築城ちくじょうめいじられたとあり、また、将軍しょうぐんみのる広陵こうりょう太守たいしゅとめりゃく東海とうかい太守たいしゅ任命にんめいされたとある。また、同書どうしょどうつてによると、馮朝がかん軍使ぐんししゃとくしょ軍事ぐんじ任命にんめいされている。
  18. ^ 三国志さんごくしこころざし さん嗣主でん
  19. ^ 三国志さんごくしこころざし 毌丘倹伝 がく『くれしょ
  20. ^ 三国志さんごくしこころざし さん嗣主でん