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曹爽

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曹爽
たかし
武安たけやすこう大将軍だいしょうぐんろく尚書しょうしょごと
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
しゅう沛国譙県
死去しきょ せいはじめ10ねん正月しょうがつ10にち249ねん2がつ9にち
洛陽らくよう
拼音 Cáo Shuǎng
あきらはく
主君しゅくん 曹叡曹芳
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曹 爽(そう そう、? - せいはじめ10ねん正月しょうがつ10にち249ねん2がつ9にち))は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいたかし武将ぶしょう政治せいじあきらはく宗室そうしつ身分みぶんである。ちち曹真つまりゅう[1]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

権力けんりょく獲得かくとくまで[編集へんしゅう]

曹叡あきらみかど)の東宮とうぐう皇太子こうたいし時代じだいから寵愛ちょうあいあつく、曹叡が即位そくいするとつねになり、やがてたけまもる将軍しょうぐんになるなど、厚遇こうぐうされていた。

239ねんけいはつ3ねん)に曹叡が病床びょうしょうすと、曹爽は大将軍だいしょうぐんたまわり、司馬しばとも猶子ゆうし皇太子こうたいし曹芳一説いっせつでは曹彰まご)の補佐ほさをすることをめいじられた。

曹叡が36さい崩御ほうぎょし曹芳(ひとしおう)が即位そくいすると、曹爽はさむらいちゅうあたえられ、「けんくつ上殿かみどの」・「入朝にゅうちょう趨」・「謁賛」(けんび、くついたまま昇殿しょうでんし、小走こばしりにはしらずともよく、みかど目通めどおりするさい実名じつめいばれない)と特権とっけんあたえられた。曹丕以来いらい皇族こうぞくなどの近親きんしんしゃ政治せいじ軍事ぐんじ両面りょうめんからとおける政策せいさくってきた。遠縁とおえん曹冏曹騰したがえ玄孫げんそん)はこれを憂慮ゆうりょし、一族いちぞく登用とうようしてはんへい国家こっかまもかべ)としての役目やくめたさせるべきと意見いけんした。しかし、曹爽はこの意見いけん採用さいようすることはなかった。

司馬しば懿との対立たいりつ[編集へんしゅう]

はじめ、司馬しば懿にたいしては父親ちちおやひとしい対応たいおうせっしていたが、なにきの提言ていげん権力けんりょく独占どくせんしようと画策かくさくし、司馬しば懿をふとしでんまつげて、事実じじつじょう名誉めいよしょくいやることで、かれ権力けんりょくさえもうとした。しかし、司馬しば懿の軍事ぐんじてき実績じっせきおもく、そのぐんけんはそのままだった(曹爽も司馬しば懿のぐんけん保証ほしょうするため、司馬しば懿のだい司馬しば兼任けんにん推挙すいきょしたが、不吉ふきつ先例せんれいがあったとして却下きゃっかされている)。一方いっぽう曹爽のきは、名声めいせいはあるものの実績じっせきとぼしかった。そこで、大功たいこうてようと244ねんせいはじめ5ねん)にしょくかん征伐せいばつこころみるが(きょうぜいやく)、けわしい地形ちけいはばまれて大軍たいぐん維持いじするための補給ほきゅうとどこおり、しょくおうたいら頑強がんきょう抵抗ていこうもあって無惨むざんにも失敗しっぱいしている。また、補給ほきゅうぞく動員どういんしたが、輸送ゆそうなどの事故じこによる犠牲ぎせいしゃすくなからずたため、かれらの不満ふまんたかめる結果けっかになった。そのなに晏達が政治せいじ壟断ろうだんしたため、政治せいじみだれることになった。司馬しば懿はこの状況じょうきょう憂慮ゆうりょし、また保身ほしんのため「自分じぶん高齢こうれいである」という理由りゆうで、病気びょうきしょうしてこもってしまった。246ねんせいはじめ7ねん)にまごけんしゅしかひきいるぐん派遣はけんして柤中にませ、曹爽は中央ちゅうおう朝廷ちょうてい大軍たいぐん指揮しきみずかり、これをむかげきした(度目どめ柤中のたたかい)。曹爽の大敗たいはいによって犠牲ぎせいしゃすうまんにん以上いじょうとなり、しゅしか大破たいはされたので敗走はいそうした。しかし、しゅしかはこれを見逃みのがさず、柤中をえてぐん追撃ついげきすうせん余人よにんり、ぐん大敗たいはいきっした。

政変せいへん[編集へんしゅう]

248ねんせいはじめ9ねん)曹爽のきの一人ひとりであるまさるが、荊州赴任ふにんするにたり司馬しば懿を見舞みまったとき司馬しば懿は重病じゅうびょうよそおかれらをあざむいた。

249ねんせいはじめ10ねん正月しょうがつ(1がつ)6にち、曹爽・曹羲兄弟きょうだい皇帝こうてい墓参はかまいりのおともをしてかけたのを見計みはからい、司馬しば懿はんだかく皇后こうごういのち兵馬へいば指揮しきして、洛陽らくよう武器ぶき占拠せんきょじょう閉門へいもんさせクーデターこした。側近そっきん桓範は、曹家所縁しょえんもとあきらって兵馬へいばつのり、あわせて食糧しょくりょう徴発ちょうはつけんだいつかさみのり印章いんしょう提示ていじして司馬しば懿との決戦けっせん主張しゅちょうしたが、先手せんてられた曹爽は、「わたし富豪ふごうでいられるのならば、司馬しば懿に降伏ごうぶくしてもいい」とべ、司馬しば懿から軍籍ぐんせき解任かいにんえにつみゆるすとわれると、戦意せんいうしな降伏ごうぶくした(高平たかひらりょうへん[2]。しかし司馬しば懿は曹爽兄弟きょうだい解任かいにんしたばかりでなく、軟禁なんきんして徹底的てっていてき監視かんしき、食料しょくりょう買出かいだしさえも自由じゆうにさせなかった。そこで司馬しば懿に殺意さついがあるのかうかが意味いみめて、食料しょくりょう差入さしいれもうれると、すぐ食料しょくりょうとどけられたため、曹爽たちは安心あんしんした。

しかし正月しょうがつ10にちになり、宦官かんがんちょうとうの「曹爽らが3がつ謀反むほん計画けいかくしていた」という自白じはく根拠こんきょに、皇室こうしつ分家ぶんけすじ[3]の曹爽一族いちぞく警戒けいかいした司馬しば懿父によってなに晏らととも謀反むほんくわだてたうたがいで投獄とうごくされ、即日そくじつさんぞく皆殺みなごろしのけいしょせられた。

皇族こうぞく曹氏勢力せいりょくはこれ以降いこう衰退すいたいし、司馬しば懿の一族いちぞく事実じじつじょう支配しはいけんをもつことになった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ こころざし』曹真でんづけ曹爽でんく『』より。
  2. ^ たかし春秋しゅんじゅう』では、曹爽の対応たいおういた桓範は「曹子(曹真)は立派りっぱなおかただったが、そのである曹伯あきら(曹爽)兄弟きょうだいは、畜生ちくしょう同然どうぜんだ。わたしがこのような連中れんちゅう連坐れんざさせられて、処刑しょけいされるうなどゆめにもおもわなかった」となげいたとしるされている。
  3. ^ こころざし』曹真でんづけ曹爽でん