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袁紹

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袁紹
こうかん
冀州まき大将軍だいしょうぐん
出生しゅっしょう 生年せいねん不明ふめい
しゅうなんじみなみぐんなんじけん
死去しきょ たてやすし7ねん5月21にち202ねん6月28にち
冀州ぐん鄴県
拼音 Yuán Shào
本初ほんしょ
主君しゅくん れいみかどしょうみかどべんけんじみかど独立どくりつ勢力せいりょく
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袁 紹(えん しょう、? - たてやすし7ねん5月21にち202ねん6月28にち[1][2])は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき武将ぶしょう政治せいじ本初ほんしょ(ほんしょ)。しゅうなんじみなみぐんなんじけん現在げんざい河南かなんしょうしゅうこうしょうすいけん)のひと

なんしん協力きょうりょくしてはげしく宦官かんがん対立たいりつ宦官かんがん勢力せいりょく壊滅かいめつさせることに成功せいこうしたが、ただしたくとのこうそうやぶれ、一時いちじ首都しゅと洛陽らくようより奔り逼塞ひっそく余儀よぎなくされた。関東かんとうにおいて諸侯しょこう同盟どうめい主宰しゅさいしてただしたくとしのぎをけずった。同盟どうめい解散かいさん群雄ぐんゆうのリーダーかくとして威勢いせいるい、最盛さいせいには河北かほくよんしゅう支配しはいするまでに勢力せいりょく拡大かくだいしたが、かんわたりたたかにおいて曹操そうそうやぶれて以降いこういきおいをうしない、こころざしなかばで病死びょうしした。『三国志さんごくしたかしこころざしおよび『こう漢書かんしょ』につてがある。

生涯しょうがい

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名門めいもん実力じつりょくしゃ

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こうかん時代じだいに4だいにわたって三公みつきみ輩出はいしゅつした名門めいもんなんじみなみ袁氏出身しゅっしんで、袁逢袁隗つぎ世代せだい人物じんぶつにあたる。

袁紹のぜん半生はんせいははっきりしないが、『三国志さんごくしこころざし「袁紹でん」がく『英雄えいゆう』によれば、まれてもなくちちの袁成と死別しべつし、叔父おじの袁逢と袁隗にそだてられた。幼少ようしょうにしてろうてられ、20さいで濮陽の県令けんれい任命にんめいされると清廉せいれんとの評判ひょうばんた。ははくなると3ねんふくし、けるとさらにちちにもふくし、こうくした。6年間ねんかんふくそうのち洛陽らくようかくんだ。むやみにひとわず、名声めいせいたか人物じんぶつとのみ交際こうさいした。

袁紹は威厳いげんがある風貌ふうぼうをしており、また快活かいかつ性格せいかく名門めいもん出身しゅっしんにもかかわらず謙虚けんきょでもあったため、曹操そうそう大勢おおぜい人々ひとびとからしたわれたという。一説いっせつ(『三国志さんごくしこころざし「袁紹でん」がく『英雄えいゆう』)には遊侠ゆうきょうこのみ、ちょうはじめたく)・なにはくもとめ)・もととお)・とく瑜)・きょきょう)らの名士めいしと「奔走ほんそうとも」としてのまじわりをむすんだ。朝廷ちょうていからの招聘しょうへいにはおうじなかった。

どう世代せだいの袁氏有力ゆうりょくしゃとして袁術がいた。宗族そうぞくちょうは袁紹と袁術のいずれか[3]されており、にいた地方ちほう豪族ごうぞく子弟していはこぞって両家りょうけおもむいたが、なに顒やもと攸らは袁術のもとにはおもむかなかったという。このため、袁氏の正嫡せいちゃくであると自負じふしていた袁術ににくまれ、のち対立たいりつする一因いちいんとなった。

当時とうじ朝廷ちょうてい政治せいじ壟断ろうだんしていた宦官かんがんちょうただしらは、袁紹の行動こうどう不審ふしんおも危険きけんしていた。そのことをいた叔父おじの袁隗は、一族いちぞくほろぼすつもりかと袁紹をしかったという(『三国志さんごくしこころざし「袁紹でん」がく『英雄えいゆう』)。そのため、なんしんじょう属官ぞっかん)にされるとようやく官途かんとくことにした。もなくさむらいとらちゅうろうしょう累進るいしんし、188ねんにはちゅうぐんこうじょう西園にしぞのはちこうじょうひとつ)もねた。

189ねん5月[4]にわかかにれいみかど崩御ほうぎょすると、りゅうべんしょうみかど)を支持しじするなに皇后こうごうと、りゅうきょうひねとめおうけんじみかど)を支持しじするただしふとしきさきとのあいだ後継こうけいあらそいがこった。りゅうきょう宦官かんがんあしなえせきは、なんしん暗殺あんさつしようとはかったが失敗しっぱいし、りゅうべん即位そくいした。りゅうきょう粛清しゅくせい外戚がいせきとして権力けんりょくにぎったなんしんは、さらにじゅうつねさむらい宦官かんがん勢力せいりょく一掃いっそうを袁術とはかる。しかし、皇太后こうたいごうなに皇后こうごう)は宦官かんがんから賄賂わいろけていたので、許可きょかしなかった。また、宦官かんがんがわもしきりになんしん留意りゅういうながしたため、計画けいかく進展しんてんしなかった[5]

そこで袁紹は、ただしたく諸侯しょこう軍勢ぐんぜい洛陽らくよう召集しょうしゅうし、皇太后こうたいごう決断けつだんせまるよう献策けんさくした。そのさくなんしん採用さいようされたが、のちただしたく諸侯しょこう権力けんりょく闘争とうそう遠因えんいんとなった。なんしんは袁紹をつかさ隷校じょうにんじて、兵権へいけんあた洛陽らくよう武官ぶかんりまとめをまかせ、またとら賁中ろうしょうの袁術にめいじて宦官かんがんから武力ぶりょくげようとした。しかし、時機じきいっしたうえ秘密ひみつれ、ぎゃくなんしん宦官かんがん暗殺あんさつされた[6]。ここにいたって袁紹は宮中きゅうちゅうへいすすめ、宦官かんがん老若ろうにゃく区別くべつなく皆殺みなごろしにした[7]

そのただしたく混乱こんらんじょうじて洛陽らくようはいり、武力ぶりょく背景はいけい朝廷ちょうてい実権じっけんにぎると、袁紹とただしたくあいだ確執かくしつしょうじる。ただしたくしょうみかど廃立はいりつ諸侯しょこう提議ていぎすると、袁紹はこれに反対はんたいしてせきち、そのまま冀州逃亡とうぼうした[8]はじただしたく賞金しょうきんけて袁紹の行方ゆくえっていたが、袁氏の勢力せいりょく結集けっしゅうすることをおそれると、つみゆるして勃海ぐん太守たいしゅ任命にんめいし、邟郷こうふうじた[9]

はつたいら元年がんねん190ねん正月しょうがつ[10]ひがしぐん太守たいしゅはしびかけ[11]により、各地かくち刺史しし太守たいしゅ打倒だとうただしたくへいげた。決起けっき檄文げきぶんは冀州にもとどき、袁紹もこれにおうじた[12]同盟どうめいぐんはんただしたく連合れんごうぐん)の盟主めいしゅ推薦すいせんされると、くるま将軍しょうぐん自称じしょうし、河内かわちぐん駐屯ちゅうとんした。しかし、袁紹はただしたくぐんつよさをおそれ、果敢かかん洛陽らくようめようとはしなかった。そのため、決戦けっせん主張しゅちょうする曹操そうそうらから批判ひはんされた。袁紹らの挙兵きょへいけ、ただしたくは2がつ長安ながやすへの遷都せんとおこない、洛陽らくようはなった。袁隗・袁基ら袁氏一門いちもんはことごとく処刑しょけいされた。これにたいし袁紹は、ただしたく和睦わぼくのためにおくった使者ししゃらえ、金吾きんごえびす毋班らをころしている。

191ねん正月しょうがつ、袁紹は安否あんぴ不明ふめいけんじみかどえ、かそけしゅうにいるだい司馬しばりゅうおそれ擁立ようりつ諸侯しょこうはかった。しかし、袁術や曹操そうそうなどから忠義ちゅうぎそむ行為こういであると反対はんたいされ、さらにりゅうおそれ本人ほんにんからも拒絶きょぜつされたため断念だんねんした。4月、じんたたかのちやぶれたただしたく洛陽らくようてて長安ながやす撤退てったいしたが、かつての洛陽らくよう焦土しょうどし、また諸侯しょこうあいだ内紛ないふんこり、最終さいしゅうてき連合れんごうぐん瓦解がかいした。挙兵きょへい大義たいぎうしなった諸侯しょこうはそれぞれの根拠地こんきょちもどり、自衛じえい勢力せいりょく拡張かくちょうのためしょうあらそうようになる。こうしてこうかんは、各地かくち群雄ぐんゆう割拠かっきょする内乱ないらん時代じだいはいった。

勢力せいりょく拡張かくちょう

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ただしたく征討せいとうぐん解散かいさんしたのち、袁紹はおなじ袁家の出身しゅっしんで、勢力せいりょくほこる袁術と対立たいりつふかめる。

袁紹はかんともりゅうおそれ皇帝こうてい就任しゅうにん要請ようせいしたが、りゅうおそれには固辞こじされた。りゅうおそれはかえって、自身じしん忠誠ちゅうせいあかしてるために長安ながやす使者ししゃおくり、けんじみかどほうでもりゅうおそれたよりにしようとおもうようになり、りゅうかず使者ししゃとしておくりゅうおそれ援軍えんぐん要請ようせいした。このうごきを利用りようした袁術は、りゅうかず軟禁なんきんして手紙てがみかせ、りゅうおそれ軍勢ぐんぜい奪取だっしゅはかった。

かそけしゅうにおいて、民族みんぞく政策せいさくめぐりゅうおそれ対立たいりつしてきた公孫こうそんは、冀州やあおしゅうはば討伐とうばつなどで功績こうせきげ、一方いっぽうゆうとして存在そんざいかんつよめていた。公孫こうそん瓚は、りゅうおそれぐん自身じしん従弟じゅうてい公孫こうそんこしぐん同行どうこうさせ、袁術と友好ゆうこう関係かんけいむすぶようになった。また、はんただしたく義兵ぎへいくわわるとしょうしてかん馥を攻撃こうげきするなど、軍事ぐんじてき野心やしん露骨ろこつせるようになった。

このような状況じょうきょう、袁紹はちょうらの軍勢ぐんぜい傘下さんかおさめ、さらにかん馥を見限みかぎった麴義ぐん味方みかたにつけ、軍事ぐんじてきつよぜいとなっていた。はつたいら2ねん(191ねん)、公孫こうそん瓚におびえるかん馥にこうみきかくらの使者ししゃおくり、冀州まき地位ちいゆずまきとなった[13]。このときに沮授ゆたか配下はいかとした。

またこれより以前いぜん、袁術はまごけんしゅう刺史しし任命にんめいしていたが、袁紹は洛陽らくようはいったまごけんちからぐため、しゅうのぼる(あるいはしゅう)をしゅう刺史しし任命にんめい牽制けんせいさせることにした。しゅうのぼるまごけんあらそなかで、まごけん援軍えんぐんとして袁術に派遣はけんされた公孫こうそんえつ戦死せんしするという事件じけん発生はっせいする。公孫こうそん瓚は袁紹への敵意てきいしにし、いわかわまで出陣しゅつじんしてきた。

はつたいら3ねん192ねん)、袁紹はさかいきょうまで進軍しんぐんした公孫こうそん瓚をむかった。公孫こうそん瓚軍の布陣ふじんは、中央ちゅうおう歩兵ほへい3まんあまり方陣ほうじんき、その左右さゆう騎兵きへい1まんあまりかためるというものであった。袁紹ぐん布陣ふじんは、先陣せんじんの麴義がだてかまえた兵士へいし800にんと1000はり強弩きょうどたい指揮しきし、そのに袁紹自身じしん指揮しきすうまん歩兵ほへいつづいた。ぞくの(騎兵きへい戦術せんじゅつ熟知じゅくちした麴義の奮闘ふんとうにより、袁紹ぐん公孫こうそん瓚の部将ぶしょういむつなるなど勝利しょうりした(さかいきょうたたかい)。袁紹は一時いちじ敗走はいそうしてきた公孫こうそん瓚の騎兵きへいによって窮地きゅうちまれ、ゆたか逃走とうそうすすめられたが、戦地せんちみとどまって奮戦ふんせんつづけたという。

くろ山賊さんぞく背後はいごかれるが、反撃はんげきしこれをやぶっている。

長安ながやすにおいてただしたく暗殺あんさつされ、その政争せいそうやぶれたりょぬのたよってきた。くろ山賊さんぞく討伐とうばつりょぬのもちいたが、りょぬの戦功せんこうはなにかけるような態度たいどをとったため殺害さつがいはかったが、ちょう邈に制止せいしされた。これ以降いこうちょう邈との関係かんけいんでいった。またあわびしんは袁紹が驕慢きょうまんとなり、だいただしたくとなりつつあると予測よそくし、曹操そうそう河南かなんでの自立じりつすすめたという。

その、渤海ぐんをめぐる攻防こうぼう公孫こうそん瓚のこめしろとせず、退却たいきゃくしたところをぎゃく追撃ついげきされて大敗たいはいきっする。公孫こうそん瓚は南進なんしんしてしょぐんめるも、袁紹はすうまんぐん出動しゅつどうさせるかまえをせ、冀州・あおしゅうんで2ねんあまりの長期ちょうきせんす。結果けっかてきに袁紹はりょうまもりきった。

192ねん兗州においてくろ山賊さんぞくによる争乱そうらんきると、曹操そうそうひがしぐん太守たいしゅ任命にんめい支援しえんした。あおしゅうには臧洪派遣はけんあなとおる対抗たいこうさせた。一方いっぽうで、荊州りゅうひょうに袁術の背後はいごかせ、りゅうひょう攻撃こうげきしたまごけん戦死せんしするという戦果せんかげる。りゅうとは家族かぞくあづけるほどの友好ゆうこう関係かんけいであったが、あおしゅうはば再度さいど蜂起ほうきによりりゅう岱が戦死せんしすると、曹操そうそうあわびしんらのけいらいで後継こうけいの兗州まきされるのを容認ようにんした。

193ねん、袁術が正式せいしきな兗州刺史ししきむしょうようしてんできたときも、曹操そうそうめいじてただしていたたかいにおいて、袁術をあげしゅう寿ことぶきはる退しりぞかせた。同年どうねん公孫こうそん瓚がりゅうおそれ殺害さつがいし、りゅうおそれ旧臣きゅうしんがらすんで、公孫こうそん瓚にたいして一斉いっせい反乱はんらんこした。袁紹はりゅうおそれりゅうかず支援しえんしその内紛ないふん介入かいにゅうし、あわびおかたたかいで麴義やりゅうおそれ旧臣きゅうしん公孫こうそん瓚をやぶると、公孫こうそん瓚は10ねんこめることのできるとわれた難攻不落なんこうふらくえききょうじょう籠城ろうじょうした。袁紹は麴義に叛かれるなどの損害そんがいもあったが、公孫こうそん瓚の消極しょうきょくてき姿勢しせいにもたすけられえききょう包囲ほうい攻撃こうげき成功せいこうした。さらに、公孫こうそん瓚がしろがい公孫こうそんつづけくろ山賊さんぞくちょうつばめ連携れんけいしようとした作戦さくせん察知さっちし、これをやぶった。けんやす4ねん199ねん)には、地下道ちかどうすすめてえききょう陥落かんらくさせて、公孫こうそん瓚を滅亡めつぼうんだ。

このあいだ曹操そうそうじょしゅうとうけん攻撃こうげきすると、しゅれい援軍えんぐん派遣はけん支援しえんした。また、ちょう邈・ちんみやりょぬのれて、兗州において曹操そうそうたいして反乱はんらんこしたときも、曹操そうそう支援しえんした。あおしゅうまかせていた臧洪をひがしぐん太守たいしゅ任命にんめいしたが、臧洪が恩義おんぎのあるちょうすすむ支援しえんしようとしたため、敵対てきたい関係かんけいとなり、やむなくこれをたした。あおしゅうには長男ちょうなんの袁譚をおくみ、袁譚はあなとおるはらあおしゅう支配しはいかためた。また并州方面ほうめんにはこうみき派遣はけんした。じょしゅうとうけん没後ぼつごりゅう継承けいしょうしていたが、袁紹はりゅう備の支配しはい容認ようにんし、りゅう備も袁譚をこうかど推挙すいきょするなど友好ゆうこうてき姿勢しせいしめしたが、袁術もじょしゅうねらっており、りゅう備はやがてりょぬのにその地位ちいうばわれた。

けんじみかど長安ながやす脱出だっしゅつしてくると、けんじみかど擁立ようりつするかかをめぐって家臣かしんだん対立たいりつした。結局けっきょく曹操そうそうけんじみかどもとにおいて擁立ようりつすると、人事じんじ官位かんい任免にんめん干渉かんしょうし、けんやす2ねん197ねん)には曹操そうそうしのけて大将軍だいしょうぐんにんじられ、使つかいぶし大将軍だいしょうぐんとくあおかそけさんしゅうしょ軍事ぐんじ・冀州まき・邟郷こう名乗なのった。

袁紹が公孫こうそん瓚を滅亡めつぼう寸前すんぜんまでんでいたころ、曹操そうそうちょうりゅうひょう・袁術・りょぬのといったてきかかえて東奔西走とうほんせいそう余儀よぎなくされていた。袁紹は挑発ちょうはつてき手紙てがみおくったため、曹操そうそう心中しんちゅうのおだやかではなかった。198ねん曹操そうそうりょぬのくだしたが、その前後ぜんごから袁紹に敵対てきたい姿勢しせいしめすようになり、翌年よくねんにはちょう繡とちょう楊の勢力せいりょく吸収きゅうしゅうし、公孫こうそん瓚をほろぼした袁紹とならぶ、中原なかはらだい勢力せいりょくになっていった。

曹操そうそうとの決戦けっせん

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199ねん、袁術が帝位ていい自称じしょうしたものの零落れいらくし、袁紹にせることをもうてくると、袁譚に袁術をむからせようとしたが、曹操そうそう命令めいれいけたりゅうつぶさ阻止そしされた。

同年どうねんりゅう備がじょしゅうにて曹操そうそう反乱はんらんこし、袁紹に救援きゅうえんもとめてきた。配下はいかゆたかは、この機会きかい曹操そうそうほろぼすべしと主張しゅちょうしたが、袁紹は子供こども(袁尚)のやまい理由りゆうことわった。曹操そうそうはこのときあおしゅうゆうぐんおくって牽制けんせいしつつ、すで黄河こうが布陣ふじんしていたが、袁紹がいまめてこないことをると、200ねんにはみずか軍勢ぐんぜい反転はんてんさせてりゅう備をらした。やぶれたりゅう備は袁譚のもとせたので、袁紹はこれをかくまった。

袁紹はみなみせい意思いしかため、ちんかせた檄文げきぶんみずからの支配しはいするよんしゅうし、後世こうせいに「かんわたりたたか」とばれる一大いちだい戦役せんえきのぞんだ。このさい、沮授やゆたか持久じきゅうせん主張しゅちょうし、かくしんはいらははやせん主張しゅちょうしたが、袁紹は後者こうしゃげんれた。このはやせん戦略せんりゃく不利益ふりえきかたくなに主張しゅちょうするゆたかを、袁紹はついには投獄とうごくしてしまった。

けんやす5ねん(200ねん)2がつ、袁紹はついぐんはっ河南かなんけて侵攻しんこう開始かいしした。緒戦しょせんこそ白馬はくばのべかおりょうぶんみにくらがられるなど出鼻でばなくじかれたものの、兵力へいりょく物資ぶっしまさる袁紹ぐんはじりじりと曹操そうそう陣営じんえい圧迫あっぱくし、からかんわたりへと曹操そうそうぐんやぶって進軍しんぐんした。かんわたりとりで防衛ぼうえいせんにした曹操そうそうぐんたいし、袁紹は土山つちやまきずいたり地下道ちかどうすすめたりなどしたが、曹操そうそうぐんおなじく土山つちやまきずくなどしてこれに対抗たいこうした。

あきはいると、曹操そうそうりょうしゅうなんじみなみぐん(袁紹の出身しゅっしんでもある)でははば残党ざんとうであったりゅう龔都反乱はんらんこし、袁紹はりゅう備をおくってこれを支援しえんした[14]。また、曹操そうそうぐんないでは兵糧ひょうろう枯渇こかつへい疲弊ひへい、袁紹に投降とうこうかんがえて内通ないつうするもの続出ぞくしゅつした[15]曹操そうそう一時いちじてき退却たいきゃくかんがえ、荀彧相談そうだんしていた。

袁紹は眭元すすむかん莒子りょちょうあきらよんしょうじゅん于瓊指揮しきさせ、輸送ゆそうされた食糧しょくりょう備蓄びちくした兵糧ひょうろう守備しゅびさせようとした。このときに沮授は、あつし于瓊にくわえて蔣奇別働隊べつどうたい指揮しきさせて守備しゅび万全ばんぜんにすることを袁紹に進言しんげんしたが、またしてもれられなかった。これより以前いぜん、袁紹は沮授のぐんけんけずってかくあつし于瓊にあたえるなど、袁紹ぐん内部ないぶ対立たいりつ深刻しんこくしていた。

10月、袁紹陣営じんえいもと攸は膠着こうちゃくした戦線せんせん打開だかいするべく、軽装けいそうへいもちいてもと襲撃しゅうげきすることをいたが袁紹にれられず、また家族かぞくつみおかしてしんはい逮捕たいほされたことで嫌気いやけがさし、曹操そうそう陣営じんえい投降とうこうした[16]もと攸はじゅん于瓊がまもがらす兵糧ひょうろう所在しょざい暴露ばくろした。曹操そうそう本陣ほんじん兵力へいりょく過半かはんいて出陣しゅつじんてき哨戒しょうかいもう突破とっぱして、がらす強襲きょうしゅうした。沮授は兵糧ひょうろう守備しゅび懸念けねん再度さいど直訴じきそしたが、袁紹の不興ふきょうってしりぞけられ、かく目論もくろむ(にわ仕込じこみの)かこえすくいちょうけい(半数はんすうへい手薄てうす敵本てきほんじんめ、のこりのへいがらす援軍えんぐんする)が採用さいようされた。だが、折角せっかく計略けいりゃくねらいをしぼることが出来できなかったために、味方みかたのいずれもが敗退はいたいした。結果けっかがらす兵糧ひょうろう炎上えんじょう陥落かんらくし、あつし于瓊ははいした。これがおおきな打撃だげきとなり、さらに曹操そうそう本陣ほんじん攻撃こうげきしていた高覧こうらんちょうらの寝返ねがえりなどもあり、袁紹は冀州に敗走はいそうした。

201ねん4がつくらてい守備しゅびしていた袁紹配下はいかぐんが、曹操そうそうぐんやぶられた(くらていたたか[17]

敗戦はいせん、冀州の各地かくち反乱はんらん勃発ぼっぱつしたが、袁紹は軍勢ぐんぜいなおすとすべ鎮圧ちんあつした。また、曹操そうそうも袁紹の存命ぞんめいちゅう河北かほく侵攻しんこうしなかった。

しかしけんやす7ねん(202ねん)5がつ、袁紹は発病はつびょうし、苦悶くもんうちいて死去しきょした(『三国志さんごくしこころざし「袁紹でん」)。ふだん民衆みんしゅう仁政じんせいおこなったため、このいた河北かわきた百姓ひゃくしょうたちはなげかなしんだという(『けんじみかど春秋しゅんじゅう』)。

死後しご

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袁紹は生前せいぜん明確めいかく後継こうけいしゃえらんでいなかった。このことがかれ死後しごわざわいして、袁氏勢力せいりょく長男ちょうなんの袁譚かくからしひょうら)と末子まっしの袁尚しんはい逢紀ら)に分裂ぶんれつする。けんやす9ねん204ねん)に曹操そうそうが袁氏の本部ほんぶである鄴をとした。甄夫じんふくむ袁氏一族いちぞく妻子さいし落城らくじょうさい乱取らんどりされたという[18]曹操そうそうは袁紹のはかまつった。袁紹の本妻ほんさいであるりゅう慰労いろうし、きぬこめたまわった。

袁譚・袁尚は相続そうぞくめぐ骨肉こつにくあらそいをひろげ、その間隙かんげき曹操そうそうまれた。けんやす10ねん205ねん)には袁譚を、けんやす12ねん(207ねん)には袁尚をられ、袁氏は滅亡めつぼうした。

評価ひょうか

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三国志さんごくし』の編者へんしゃであるちん寿ひさしは、「袁紹の威容いよう堂々どうどうとしており、名声めいせい天下てんかとどろき、河北かほく割拠かっきょした」と前置まえおきしながらも、やはりおなじく群雄ぐんゆうであったりゅうひょうとをまとめて「しかし、外面がいめん寛大かんだい振舞ふるまいながら内面ないめん猜疑心さいぎしんつよく、はかりごとこのみながら決断けつだんりょくけていた。また、すぐれた人物じんぶつがいてももちいることができず、忠言ちゅうげんいても実行じっこうできなかった。長子ちょうしはいして庶子しょし後継あとつぎにしようとかんがえ、礼儀れいぎ個人こじんじょうおもんじた。だからその死後しご子孫しそん困窮こんきゅうし、領地りょうちうしなったのは当然とうぜんであった」とひょうしている。曹操そうそうまごけん後継こうけいあらそいのさいにも、袁紹とりゅうひょうしき前例ぜんれいとして言及げんきゅうされている。

人物じんぶつ逸話いつわ

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袁紹は『さんこく演義えんぎはじめ、おおくの三国志さんごくし創作そうさくでは名門めいもん出自しゅつじによって出世しゅっせしただけの暗君あんくんとしてえがかれているが、史書ししょには以下いかのような人物じんぶつぞう記録きろくされている。

  • 袁紹の母親ははおやは婢女であり[19]凡才ぼんさいであれば、もともと史書ししょ記録きろくされるような立場たちばにはなかった。
  • 容貌ようぼう端正たんせい[20]姿すがた威容いようあり」[20]姿すがた弘雅ひろまさ[21]とあり、秀麗しゅうれい容姿ようしであった。しかし、「体長たいちょう婦人ふじん[22]ともしるされており、小柄こがら人物じんぶつであったことがかる。
  • こうかん末期まっき当時とうじよっつのしゅう支配しはいした袁紹はもっとつよもりであるとされた[10]りゅう上奏じょうそうぶんなかで「まごけんりゅう実績じっせきは袁紹の事業じぎょう比較ひかくにならない」とっている[23]
  • おっとりとして上品じょうひんで、喜怒哀楽きどあいらく感情かんじょうあらわさなかったとわれる[24]
  • ぐん軍勢ぐんぜい謀叛ぼうほんこし黒山くろやま于毒むすんでしろめたという一報いっぽうはいったとき、そのにいた席上せきじょうきゃくたち動揺どうようし、なかにはさけものもいたが、袁紹は顔色かおいろえることもなく泰然たいぜん自若じじゃくとしていた[24]
  • 公孫こうそん配下はいか騎兵きへいせんあまりが突如とつじょ来襲らいしゅうしてきたときにはゆたか避難ひなんさせようとしたが、袁紹はかぶと地面じめんたたきつけて「大丈夫だいじょうぶたるものすすんで戦死せんしするものだ」とった[24]
  • かん末期まっき王公おうこうあいだみやびであるとされたはばはばというはばひろきぬ頭巾ずきんこうむっていた[25]
  • 帰郷ききょうさい人物じんぶつ評価ひょうか名声めいせいたかもとにして、くるまいちだいだけでかえった[26]
  • 敵対てきたいしている立場たちばからかくよしみが「袁紹は人民じんみん蛮人ばんじんおんほどこしていたから、袁紹の息子むすこたちがきていられるのです」と発言はつげん[27]荀攸が「袁紹は寛大かんだいさと厚情こうじょうによって人々ひとびと気持きもちを把握はあくしていました」[28]発言はつげんしており、袁紹のみん百姓ひゃくしょうなげかなしんだことから[29]仁政じんせいおこなったことかる。

親族しんぞく

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  • 袁湯(祖父そふ
  • 袁成(ちち養父ようふ[30]
  • 袁逢叔父おじなまちち
  • 袁隗叔父おじ
  • 袁基(嫡兄か従兄じゅうけい
  • 袁術(嫡弟か従弟じゅうてい
  • 袁遺従兄じゅうけい
  • 楊彪つまあねいもうと
  • こう躬妻(あねいもうと
  • りゅう後妻ごさい
  • 袁譚長男ちょうなん
  • 袁煕次男じなん
  • 袁尚三男さんなん
  • 袁買よんなん一説いっせつあに[31]
  • こうみきおい
  • せん姻族いんぞく

配下はいか

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三国志さんごくし演義えんぎ』でのみの配下はいか

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ きさきかんまきじゅうきゅう:(けんやすななねんなつがつかのえいぬ,袁紹発病はつびょう
  2. ^ きさき漢書かんしょ·こうけんじみかど》:(たてやすしななねんなつがつかのえいぬ,袁紹薨。
  3. ^ なお、袁術の同母どうぼ兄弟きょうだいに、ふとぼくまでのぼった袁基がいる。
  4. ^ こう漢書かんしょ』「れいみかど
  5. ^ 三国志さんごくしこころざし「袁紹でん」がく『英雄えいゆう』および『九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう
  6. ^ 三国志さんごくししょ「袁紹でん」によると、さらに宦官かんがんにせ詔勅しょうちょくしてもとしょうつかさ隷校じょう任命にんめいし、袁紹から兵権へいけんうばおうとした。しかし、『こうかん』などには、もとしょう河南かなんいんとあり、樊陵がつかさ隷校じょうとなっている
  7. ^ 死者ししゃは2,000にんあまりにおよび、ひげうすいためにあやまってころされたものもいたという。
  8. ^ 三国志さんごくしこころざし「袁紹でん」がく『九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう』によると、ただしたく罵倒ばとうしてったという
  9. ^ 三国志さんごくしこころざし「袁紹でん」によると、袁紹としんかよわせていたさむらいちゅうしゅう城門じょうもんこうじょう瓊・ろうなに顒らが諫言した結果けっかただしたくかんがえをえ、袁紹を勃海太守たいしゅにんじた
  10. ^ a b 三国志さんごくしこころざしたけみかど
  11. ^ 小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では曹操そうそうびかけ
  12. ^ 三国志さんごくしこころざしたけみかど」がく『英雄えいゆう』によると、冀州まきかん馥はそれまで袁紹を監視かんししていたが、決起けっき檄文げきぶんけてようやく袁紹の挙兵きょへいみとめたという
  13. ^ 英雄えいゆう』によれば、逢紀は袁紹に「公孫こうそん瓚にかん馥をめさせて、かん馥に臆病おくびょう気持きもちをいだかせたところへ、使者ししゃ派遣はけんして利害りがい損得そんとく説明せつめいさせれば、かん馥は冀州を(袁紹に)ゆずるでしょう」とかたった。
  14. ^ 三国志さんごくしちょうげんつてには、袁紹がしゅうへい派遣はけんし、しゅうしょぐん味方みかたになるようさそいをかけると、おおくのぐんがそれにおうじたとある。
  15. ^ 曹操そうそう戦後せんごにこれらの文章ぶんしょうをあえてとがめずにぎりつぶした、と『三国志さんごくし』「こころざし」「たけみかど」にある
  16. ^ 三国志さんごくしこころざしたけみかど」には、もと攸のつよ物欲ぶつよくを袁紹が満足まんぞくさせることが出来できなかったので、もと攸は袁紹を裏切うらぎったとある。
  17. ^ 三国志さんごくし演義えんぎ』において、このくらていたたかいは袁紹ぐん30まんが、曹操そうそう参謀さんぼうほどの「じゅうめん埋伏まいふくけい」によりやぶられるだい規模きぼ戦役せんえきであると描写びょうしゃされているが、正史せいしでは「たけみかど」などにたったすうぶん記述きじゅつられるのみである。
  18. ^ こう漢書かんしょ』「あなとおるでん
  19. ^ 三国志さんごくしこころざし公孫こうそん瓚伝」がく『てんりゃく
  20. ^ a b 英雄えいゆう
  21. ^ 范瞱『こう漢書かんしょ
  22. ^ 三国志さんごくしこころざしてい渾伝」がちょう璠『かん
  23. ^ 三国志さんごくしこころざしりゅう廙伝」
  24. ^ a b c 三国志さんごくしこころざし「袁紹でん
  25. ^ 三国志さんごくしこころざしたけみかど」がく『でん
  26. ^ 三国志さんごくしこころざしかずひろしつて」がく『なんじみなみ先賢せんけんでん
  27. ^ 三国志さんごくしこころざしかくよしみでん
  28. ^ 三国志さんごくしこころざし「荀攸でん
  29. ^ けんじみかど春秋しゅんじゅう
  30. ^ しょ』(おうせん)や『こう漢書かんしょ』(袁山まつせん)によれば、袁紹は袁術の異母いぼ兄弟きょうだいであるという。また、おう沈らのせつもとづけば、袁紹は袁逢の庶子しょしで、伯父おじの袁成の養子ようしとなっていだという。
  31. ^ 袁買という人物じんぶつには「袁尚のおとうと」「袁尚のあに」という2せつがある。前者ぜんしゃは『三国志さんごくししょ6づけ袁譚袁尚でんく『くれしょ』により、これによれば袁買は袁煕・袁尚ととも遼東りゃおとんのがれたという。後者こうしゃおなじく袁譚袁尚でんく『曹瞞でん』による。

系図けいず

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