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楊彪

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楊彪
たかし
ひかりろく大夫たいふ
出生しゅっしょう かんやす元年がんねん142ねん
つかさひろのうぐんはなかげけん
死去しきょ はつ6ねん225ねん
拼音 Yáng Biāo
ぶんさき
主君しゅくん ただしたく曹操そうそう曹丕
テンプレートを表示ひょうじ

あや(よう ひょう、142ねん - 225ねん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいにかけての政治せいじ学者がくしゃぶんさきほんぬきつかさひろのうぐんはなかげけん曾祖父そうそふ楊震祖父そふは楊秉。ちちは臨晋こう楊賜楊修つま袁術ちち袁逢姉妹しまい

先祖せんぞ

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こうかんぞくであるひろのう楊氏は、前漢ぜんかん初期しょきあかいずみこう楊喜やあきらみかど時期じき丞相じょうしょうであった安平あびらこう楊敞司馬しばむすめ婿むこ)の子孫しそんといわれるが、『漢書かんしょ』において楊敞は楊喜の子孫しそんとされておらず、実質じっしつてきひろのう楊氏は楊震におこりしたとかんがえられている(狩野かのただしただしせつによる)。

生涯しょうがい

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祖父そふは楊震の次男じなんであるが、三公みつきみまでのぼり、ちちもまた重職じゅうしょく歴任れきにんさんおおやけとなった。そのため、るいふとしじょうともしょうされ、楊彪もふとしじょういたったことから、のちよんせいふとしじょうといわれた。

最初さいしょこうれんげられたうえで、しげるざい推挙すいきょされた。さらに三公みつきみからもまねかれたが、出仕しゅっししようとしなかった。熹平年間ねんかんくるまでのむかえにおうじてろうとなり、さむらいちゅうきょうちょういんつとめた。

光和こうわ2ねん(179ねん)、宦官かんがんおうはじめ私腹しふくやしていることをつかさ隷校じょうだま告発こくはつすると、だまおうはじめ一族いちぞくらえて処刑しょけいしたため、天下てんかから称賛しょうさんされた。さむらいちゅう五官ごかんちゅうろうしょうとなったのち潁川太守たいしゅ南陽なんよう太守たいしゅつとめた。そのふたた中央ちゅうおうもどさむらいちゅう再任さいにんされ、永楽えいらくしょうふとぼくなどもつとめた。

家学かがくおう尚書しょうしょ」を習得しゅうとく教授きょうじゅした。朝廷ちょうていないにおいて、ひがしかんかん国史こくし編纂へんさんしつ)でうましょく蔡邕らと同僚どうりょうだったこともある。

中平なかひら6ねん189ねん)、ただしたく専横せんおうはじまると、つかさそらつかさとなった。関東かんとう諸侯しょこう挙兵きょへいすると、ただしたく長安ながやすへの遷都せんと実行じっこううつそうとした。楊彪はばんかのえ悪政あくせい先例せんれいくなどしてこれに徹底的てっていてき反対はんたいした。このためただしたくいかり、天候てんこう不順ふじゅん理由りゆうに、つかさ隷校じょうせん播にめいじて楊彪ら反対はんたいしゃすべ罷免ひめんさせた。楊彪は登城とじょうして謝罪しゃざいするとまたひかりろく大夫たいふ拝命はいめいし、さらにだいおおとりしょうふとしつね転任てんにんしたが、やまいのため辞職じしょくした。復職ふくしょくするとまたきょうちょういんひかりろくくんひかりろく大夫たいふ歴任れきにんした。

はつたいら3ねん192ねん)9がつつかさそらろく尚書しょうしょごととなるが、はつたいら4ねん193ねん)10がつ地震じしん理由りゆう免官めんかんされた。のちにまたふとしつねて、きょうひらた元年がんねん194ねん)7がつふとしじょうろく尚書しょうしょごとのぼった[1]

きょうひらた2ねん195ねん)、当時とうじかく主導しゅどうけんあらそい、長安ながやす交戦こうせんしていた。傕は楊彪ら公卿くぎょうかく汜のした派遣はけんし、講和こうわもとめたが、かく汜はその公卿くぎょうたちを拘留こうりゅうした。楊彪が「群臣ぐんしんともあいあらそい、一人ひとり傕)は天子てんしけんじみかど)をおどかし、一人ひとりかく汜)は公卿くぎょう人質ひとじちる。こんなおこないをしていものでしょうか?」と批判ひはんするとかく汜はいかり、楊彪をろうとするが、ちゅうろうしょうの楊密ら左右さゆうものの諫言により釈放しゃくほうされた。同年どうねんけんじみかど長安ながやす脱出だっしゅつしたが、楊彪もこれに随行ずいこうした[2]

たてやすし元年がんねん196ねん)7がつけんじみかどとも洛陽らくようはいり、尚書しょうしょれいにんじられる。8月にはけんじみかど曹操そうそうむかえられ、もと遷都せんとした[3]。このときけんじみかど側近そっきん集団しゅうだんただしうけたまわ以下いか楊彪もふくめ、曹操そうそうけんじみかど擁立ようりつおよもとへの遷都せんとのぞんでいなかったこともあって、楊彪は曹操そうそうから警戒けいかいされた。さらに曹操そうそう天子てんし拝礼はいれいしたさい、楊彪がいろさくしたので、曹操そうそう暗殺あんさつされるのではないかとおそれたという。やがて曹操そうそうは、袁術と姻戚いんせき関係かんけいにあったことを理由りゆうに楊彪を処刑しょけいしようとした。しかしあなとおるらが弁護べんごしたためゆるされた。

おうの『しょ』によると、袁紹が楊彪やあなとおる処刑しょけいするよう命令めいれいしたこともあったといわれる。ただし『ちんしゅう』の檄文げきぶんにあるように、それ以前いぜんから楊彪は曹操そうそうきらわれていた。

けんやす4ねん199ねん)、ふとしつねとして復帰ふっきしたが、けんやす10ねん205ねん)に辞職じしょくけんやす11ねん206ねん)には、曹操そうそう命令めいれいにより恩沢おんたくこう制度せいど廃止はいしされたため、ちちだい爵位しゃくいの臨晋こううしなった。

しばらくして、楊彪はこうかん命運めいうんきたと判断はんだんしたため、あしがらなくなったという理由りゆう二度にど参内さんだいしなくなった。

の楊修は曹操そうそうつかえていたが、あるとき曹操そうそう不興ふきょうって処刑しょけいされた。その曹操そうそうは楊彪に面会めんかいもとめた。曹操そうそうが楊彪にせてしまった理由りゆうたずねると、楊彪は「きむにちあかり自分じぶんにはなかった」と心境しんきょう説明せつめいした[4]曹操そうそうはこれをいておもわず態度たいどあらためたという。

曹丕禅譲ぜんじょうによりぶんみかどとして即位そくいすると、楊彪をしてふとしじょう任命にんめいしようとした。しかし楊彪はかつて三公みつきみつとめたときに、みだれをただせなかったことを理由りゆうにこれをことわった。このため、「とくたか老人ろうじん」として表彰ひょうしょうされたうえひかりろく大夫たいふ任命にんめいされ、さらに几杖をあたえられるなど特権とっけん待遇たいぐうあたえられた。

はつ6ねん225ねん)、84さいという高齢こうれい死去しきょした。

出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ こう漢書かんしょこうけんじみかど s:zh:こう漢書かんしょ/まき9
  2. ^ 司馬しばひかりどおりかんかん53 s:zh:どおりかん/まき061#おきたいらねんおつ西元にしもといちきゅうねん
  3. ^ どおりかんかん54 s:zh:どおりかん/まき062#けんやす元年がんねんへい西元にしもといちきゅうろくねん
  4. ^ おさむため曹操そうそうしょころせみさおあやとい曰、おおやけなにやせ甚、たい曰、愧無先見せんけんあかりなおなつけろううしねぶ犢之あい」(『こう漢書かんしょ』楊彪でん)。なお、この箇所かしょから「先見せんけんあきら先見せんけんあかり)」「ねぶ犢之あい」の成句せいくまれた。