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ちんみや

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ちん みや(ちん きゅう)とは、こうかん末期まっき人物じんぶつ


ちんみや
清朝時代の図像
清朝せいちょう時代じだい図像ずぞう
こうかん
大将たいしょう
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
兗州ひがしぐん東武とうぶけん
死去しきょ たてやすし3ねん12月24にちみずのととり199ねん2がつ7にち
じょしゅうしも邳郡
拼音 Chén Gōng
おおやけだい(こうだい)
主君しゅくん 曹操そうそうりょぬの
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ちん みや(ちん きゅう、生年せいねんしょう - たてやすし3ねん12月24にちみずのととり199ねん2がつ7にち[1]))は、中国ちゅうごくこうかん時代じだい末期まっき武将ぶしょうおおやけだい兗州ひがしぐん東武とうぶけん現在げんざい山東さんとうしょう聊城莘県)のひと

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

勇敢ゆうかん信念しんねんげない人柄ひとがらであり、地元じもと顔役かおやくとしてわかいころから天下てんか英雄えいゆう高名こうみょう学者がくしゃたちと交友こうゆうむすんで自分じぶんたかめた[2][3]

天下てんか動乱どうらん時代じだいはいると、まず曹操そうそうつかえた。はつたいら3ねん192ねん)、兗州刺史ししりゅうはばぐんやぶれて戦死せんしすると、「覇王はおうごう」のために兗州を傘下さんかおさめるよう曹操そうそう進言しんげんした。曹操そうそう同意どういちんみやは、先行せんこうして兗州におもむき、べつちゅうなどを説得せっとくしてまわった。この結果けっかすみきたそうあわびしんらがちんみや意見いけん賛同さんどうしたため、曹操そうそうを兗州まきむかえることができた。

曹操そうそうへの叛逆はんぎゃく[編集へんしゅう]

きょうひらた元年がんねん194ねん)、曹操そうそうじょしゅうとうけん攻撃こうげきすると、ちんみやひがしぐん守備しゅびゆだねた。しかし、曹操そうそうぐんだい部分ぶぶんが兗州をはなれたすきき、ちんみや曹操そうそうへの叛逆はんぎゃく目論もくろんだ。ちんみやは、ちんとめ太守たいしゅちょう、そのおとうとちょうすすむ従事じゅうじちゅうろうおうもととともに反乱はんらん計画けいかくして、りょぬの盟主めいしゅとしてむかれた。なおちょう邈の反乱はんらん動機どうきは、曹操そうそう袁紹同盟どうめいして自分じぶん攻撃こうげきしようとしているのではないか、という不安ふあんだったとされている[4]。しかし、ちんみや本人ほんにん動機どうき曹操そうそうへのうたがいをいたとあるのみで[5]詳細しょうさい不明ふめいである。

ちょう邈らがりょぬのむかれて曹操そうそう反乱はんらんこすと、兗州のぐんけんのほとんどが反乱はんらんがわき、曹操そうそう味方みかたしたのは鄄城・范・ひがしおもねだけであった。この3しろ荀彧ほどなつほうあつし曹洪薛悌なつめらがまもいた。ちんみやみずかぐんひきいてひがしおもね攻撃こうげきしたが、ほど昱がくらていわたしをったので行軍こうぐんおくれた。このためにひがしおもね防備ぼうびかたまってしまい、攻撃こうげき失敗しっぱいした。

きょうひらめ2ねん195ねん)、曹操そうそうは兗州へ再度さいどもどり、りょぬのぐん薛蘭ふうを鉅野で撃破げきはし、これらをすべてった。ちんみやりょぬのしたがい、ひがし緡へ出撃しゅつげきして曹操そうそうぐん攻撃こうげきしたが、曹操そうそうぐん伏兵ふくへいって敗北はいぼくした。そのりょぬのぐん曹操そうそうぐんまえ敗北はいぼくかさね、ついにちんみやりょぬのとともに兗州から逃走とうそうし、じょしゅうりゅうたよってびた。

けんやす元年がんねん196ねん)、りょぬのりゅう備を駆逐くちくしてじょしゅうれたが、まもなく配下はいかしょうである郝萌反乱はんらんこした。この反乱はんらんこうじゅんにより鎮圧ちんあつされたが、郝萌のしたから寝返ねがえ帰参きさんした曹性が「反乱はんらん黒幕くろまく袁術ちんみや」であるとりょぬのたい供述きょうじゅつした。このためちんみやかおあからめた。しかし結局けっきょくりょぬのは、ちんみや大将たいしょうであることを理由りゆうとして、これを不問ふもんにした[6]

最期さいご[編集へんしゅう]

けんやす3ねん(198ねんふゆ曹操そうそう彭城までせてくると、ちんみやりょぬのたいただちにこれを攻撃こうげきするよう進言しんげんした。しかし、りょぬの曹操そうそうぐんしもまでせてくるのをつとして、これをれなかった。りょぬのしも邳まで曹操そうそうぐんたところでしろがい出撃しゅつげきしたが、敗北はいぼくしてなりれん捕虜ほりょにされてしまい、またしも邳城ないまれたため、曹操そうそうからの勧告かんこくもあって降伏ごうぶくしようとした。しかしちんみやは、かつて曹操そうそう反逆はんぎゃくしたというふかつみっていることを自覚じかくしていたため、りょぬの降伏ごうぶく阻害そがいした。『けんじみかど春秋しゅんじゅう』によれば、ちんみやりょぬのたいし「曹操そうそう降伏ごうぶくするのは、いしけてたまごげるようなものです」などと諫言している。

ちんみやは、局面きょくめん打開だかいしようとりょぬの献策けんさくするなどしたが、採用さいようされることはなかった。同年どうねんまつりょぬの縁戚えんせきであるぞく[7]ほうしげるそうけんらが反乱はんらんこし、ちんみや捕縛ほばくして曹操そうそう寝返ねがえった[8]。これによりりょぬの戦意せんい喪失そうしつし、曹操そうそう降伏ごうぶくした。

曹操そうそう面前めんぜんてられたちんみやに「何故なぜこのようなことになったのか」とうと、ちんみやりょぬのして「このおとこわたしことかなかったためにこうなったのだ」とこたえた。さらに曹操そうそうが「老母ろうぼ子供こどもはどうするつもりだ」とたずねると、ちんみやは「天下てんかおさめるものひとおやころしたり、(そのいえの)祭祀さいし途絶とだえさせたりしないもの。はは生死せいし貴公きこう手中しゅちゅうにあり、わたしにはない」とった。このため曹操そうそうは、なみだながらに刑場けいじょうかうひねみや見送みおくった。しかしちんみやかなかったという。こうしてりょぬのこうじゅんらととも絞殺こうさつされ、もとにおいてさらくびにされた。曹操そうそうかれ老母ろうぼ家族かぞくって厚遇こうぐうし、ちんみやむすめとつぐまで面倒めんどう[4][5]

三国志さんごくし演義えんぎ[編集へんしゅう]

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、ちゅう牟県県令けんれいとして登場とうじょうする。ただしたく暗殺あんさつ失敗しっぱい洛陽らくようからした曹操そうそうつかまえている。しかしいちらえるも、曹操そうそうこころざし感服かんぷくども逃亡とうぼうする。

逃亡とうぼう途中とちゅう二人ふたり曹操そうそう旧知きゅうち間柄あいだがらであるりょはくおごいえったものの、りょはくおご家族かぞくらえられてころされるのではと疑心暗鬼ぎしんあんきにかられ、りょはくおご家族かぞく殺害さつがいする。さらにいえから途中とちゅう曹操そうそうはこの事情じじょうをまだらないりょはくおごをも、くちふうじのために殺害さつがいしてしまう。そのあまりの身勝手みがってさにあきれたちんみやは、曹操そうそう寝入ねいったすき暗殺あんさつしようとかんがえるがおもまり、一人ひとりひがしぐん[9]

そのちんみやひがしぐん従事じゅうじつとめ、じょしゅうとうけんとも交流こうりゅうつ。曹操そうそうちちかたきつためにじょしゅうもうとすると、ちんみやとうけんのために曹操そうそうを諫止しようとするが、ぎゃくののしられてわれ、ちんとめちょう邈をたよる。そして、史実しじつどおりにちょう邈らとともにりょぬの擁立ようりつし、兗州を曹操そうそうからうばう。

りょぬの曹操そうそうやぶれてじょしゅうりゅう備のしたのがれると、これに随従ずいじゅうしていたちんみやは、りょぬの進言しんげんしてりゅう備を駆逐くちくし、りょぬのじょしゅう支配しはいしゃとさせる。さらにちんみやは、袁術が派遣はけんした使者ししゃかんたね結託けったくし、曹操そうそうらに対抗たいこうしようとはかる。しかし、ひそかにりょぬの駆逐くちくねらちんちんのぼる父子ふしはばまれ、かんたねりょぬのにより曹操そうそうわたされ処刑しょけいされてしまう。そのひね父子ふし行動こうどう妨害ぼうがいされたため、ちんみやりょぬのひね父子ふし退しりぞけるよう諫言するが、れられず嘆息たんそくする。

曹操そうそうじょしゅう進攻しんこうしてくると、ちんのぼる裏切うらぎりにより、りょぬのちんみやしも邳にめられる。曹操そうそう勧告かんこくおうじて降伏ごうぶくしようとするりょぬのめ、ちんみや弓矢ゆみや曹操そうそう本陣ほんじんかさ射抜いぬく。さらに「掎角のいきおい」を進言しんげんして曹操そうそうぐんやぶろうとするが、りょぬのつまいむいてりょぬのめたため、実行じっこうめている。敗北はいぼく刑場けいじょうでの曹操そうそうとのやりりは、史実しじつとほぼ同様どうようである。

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

当時とうじ智謀ちぼうとして名声めいせいたかかったちんみやであるが、曹操そうそうぐん荀攸しも邳城を包囲ほういしたさいに「ちんみや智謀ちぼうこそあるが、決断けつだんおそい」とひょうしている。

三国志さんごくしりょぬのでんちゅうく「てんりゃく」によれば、ちんみやりょぬののために策略さくりゃくてたが、りょぬのがいつもちんみや策略さくりゃくしたがわなかったとされる。その事例じれいとしては、しも篭城ろうじょうせんさいのやりりがげられる。ちんみやは、りょぬのしろがい布陣ふじんし、みずからが城内じょうないとどまったうえで曹操そうそう背後はいご攻撃こうげきし、曹操そうそうしろめたら、りょぬのしろがいから救援きゅうえんさせるよう献策けんさくした。しかし、りょぬのつまが「曹操そうそうちんみやのように優遇ゆうぐうしていたのに、それでもちんみや裏切うらぎりました」とのむねりょぬのべたため、りょぬのひねみやさく採用さいようしなかった[10]

また、ちんみやこうじゅん深刻しんこく不仲ふなかであった。おなじくしも篭城ろうじょうせんさいに、りょぬのちんみやこうじゅんしも邳城をまもらせ、騎兵きへいひきいて曹操そうそうぐん糧道りょうどうとうとしたが、りょぬのつまちんみやこうじゅん不仲ふなか指摘してきしたためりやめている[6]

史実しじつじょうかれ行動こうどうには不明ふめいてんおおく、かく創作そうさくぶつでは知謀ちぼうけた策士さくしという人物じんぶつぞう基調きちょうとし、様々さまざまちんみやぞうえがかれている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ [1] こう漢書かんしょ こうけんじみかど だいきゅう十二月じゅうにがつみずのととり曹操そうそうげきりょぬの於徐しゅうこれ」というりょぬのぼつ年月日ねんがっぴしたがう。西暦せいれき換算かんさんりょうせんねんちゅう西暦せいれき轉換てんかんにて。なお、西暦せいれき換算かんさんだとけんやす3ねんは198ねん1がつ26にちから199ねん2がつ13にちまであり、199ねんにずれ
  2. ^ 三国志さんごくし研究けんきゅうかい へんしんせつ三国志さんごくし 最強さいきょうだれだ? 』2007ねん、36ぺーじ
  3. ^ 剛直ごうちょくれつたけししょう(わか)くして海内かいだい(かいだい)知名ちめいみなしょう連結れんけつす」(『三国志さんごくししょ7りょぬのでんちゅうさかなてんりゃく』)
  4. ^ a b 三国志さんごくしりょぬのでんほんでん
  5. ^ a b 三国志さんごくしりょぬのでんちゅうさかなてんりゃく
  6. ^ a b 三国志さんごくしりょぬのでんちゅう英雄えいゆう
  7. ^ 弼『三国志さんごくししゅうかい』がく『英雄えいゆう』より。
  8. ^ こう漢書かんしょ列伝れつでん65りょぬのでんによれば、ほうしげるらはこうじゅんとらえた、としている。
  9. ^ 曹操そうそうりょはくおご家族かぞくころしたはなしは、おうの『しょ』・かく頒の『』・まごもりの『雑記ざっき』に記録きろくされているが、この殺害さつがい正当せいとう防衛ぼうえいしるした『しょ』から後者こうしゃになるにしたがって、曹操そうそう暴虐ぼうぎゃくさが強調きょうちょうされる記述きじゅつわっている。しかも、そもそもりょはくおごけんちんみやなんかかわりがない。また、りょはくおごをもころしたとするのも演義えんぎ創作そうさくである。
  10. ^ 三国志さんごくしりょぬのでんちゅうたかし春秋しゅんじゅう』、『こう漢書かんしょりょぬのでん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]