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ほうしげる

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ほう しげる(こう せい、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん時代じだい末期まっき武将ぶしょう

正史せいし事跡じせき

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姓名せいめい ほうしげる
時代じだい こうかん時代じだい
なま没年ぼつねん しょう
べつごう しょう
出身しゅっしん しょう
しょくかん はた
爵位しゃくいごうとう -
陣営じんえい所属しょぞくとう りょぬの曹操そうそう
家族かぞく一族いちぞく しょう

りょぬの配下はいかはた史書ししょ記述きじゅつ断片だんぺんてきで、『こう漢書かんしょりょぬのでんや、『三国志さんごくししょりょぬのでんちゅう引用いんようされている『九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう』などに散見さんけんされる。

あるときほうしげる食客しょっきゃくほうしげる所有しょゆうする15とううまうばい、しょうりゅうのもとにげる事件じけんがあった。これをいたほうしげるいかけてうまうばかえし、同僚どうりょうたちから祝賀しゅくがされた。またあるとき、ほうしげるは5、6せきさけ醸造じょうぞうし、さらに狩猟しゅりょうして10とうあまりいのしし捕獲ほかくした。かれはそれらを同僚どうりょうおうとをかんがえ、さきりょぬのいのしし5とう醸造じょうぞうしたさけ献上けんじょうし「将軍しょうぐんのおかげで、わたしうまもどすことができ、しょしょうわたしいわいました。さけ醸造じょうぞうし、りをしていのしし捕獲ほかくしました。まだ飲食いんしょくはしておりませんので、将軍しょうぐん献上けんじょうした次第しだいでございます」と、その許可きょかようとした。しかし、りょぬの禁酒きんしゅちゅうであったため激怒げきどし「わしみずからが禁酒令きんしゅれいしているというのに、なんじ勝手かって醸造じょうぞうし、しょしょうとともに飲食いんしょくして義兄弟ぎきょうだいちぎりをむすび、共謀きょうぼうして反乱はんらんこすつもりなのか」と、ほうしげる面罵めんばした。これに恐怖きょうふ憤懣ふんまんいだき、疑心暗鬼ぎしんあんきおちいったほうしげるは、そのまま退出たいしゅつするなりさけいのにく処分しょぶんし、しょしょうからのおくものかえした。

たてやすし3ねん198ねん)、りょぬの曹操そうそう包囲ほういされしも邳城にこもったとき、同僚どうりょうぞくそうけんとも反乱はんらんこし、ちんみや捕縛ほばくして[1]曹操そうそうぐん寝返ねがえった。これが原因げんいんで、ぞくそうけん捕縛ほばくされたりょぬの曹操そうそうによって処刑しょけいされた。

そのは、史書ししょ記述きじゅつ見当みあたらない。

物語ものがたりちゅうほうしげる

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小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、りょぬの配下はいかはちけんしょう1人ひとり序列じょれつだい8)として登場とうじょうする。曹操そうそうとのたたかいでは、曹操そうそうこういちまでめるものの、曹操そうそうぐんてん撃退げきたいされる。りょぬの酒肉しゅにく献上けんじょうするくだりは史実しじつ同様どうようだが、さらにりょぬのからばっぼう50かいけいくわえられている。そのりょぬのあか兎馬うさぎうまぬすんで曹操そうそうり、ぞくそうけん協力きょうりょくし、りょぬのちんみやこうじゅんりにしたことになっている。その登場とうじょうしない。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ こう漢書かんしょりょぬのでんでは、ほうしげるらはこうじゅん捕縛ほばくしている。

参考さんこう文献ぶんけん

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