(Translated by https://www.hiragana.jp/)
許汜 - Wikipedia コンテンツにスキップ

もと

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
もと
こうかん
従事じゅうじちゅうろう
出生しゅっしょう しょう
荊州じょうぐん
死去しきょ しょう
拼音 Xŭ Sì
主君しゅくん 曹操そうそうりょぬのりゅうひょう
テンプレートを表示ひょうじ

もと(きょ し、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん時代じだい末期まっき政治せいじ

正史せいし事跡じせき[編集へんしゅう]

初期しょき事跡じせき[編集へんしゅう]

最初さいしょ曹操そうそうつかえ、従事じゅうじちゅうろう任命にんめいされていた。きょうひらた元年がんねん194ねん)、曹操そうそうとうけん討伐とうばつするためじょしゅう出征しゅっせいすると、もと汜はちょうちょうすすむちんみやおうらとともりょぬのむか曹操そうそう叛旗はんきひるがえし、兗州だい部分ぶぶん制圧せいあつした。これ以降いこうりょぬのつかえた。

たてやすし3ねん198ねんふゆりょぬの曹操そうそう敗退はいたいしてしも邳城ないめられると、もと汜とおう楷は袁術もと救援きゅうえん要請ようせいおもむいた。袁術は前年ぜんねんりょぬのとの対立たいりつ経緯けいいから、援軍えんぐん拒絶きょぜつする姿勢しせいしめした。しかしもと汜とおう楷は、りょぬのほろびればつぎは袁術がめられるばんであると口説くどき、りょぬのむすめおくるという条件じょうけんで、なにとか袁術に救援きゅうえん受諾じゅだくさせた。しかし、りょぬの曹操そうそうぐん包囲ほうい突破とっぱできる状況じょうきょうではなく、実際じっさいには袁術の救援きゅうえんることができなかった。

もと汜の器量きりょう[編集へんしゅう]

りょぬの滅亡めつぼうもと汜は荊州りゅうひょうたよりその客人きゃくじんとなった。すうねんある宴席えんせきで、りゅうひょうりゅう天下てんか人物じんぶつ議論ぎろんする機会きかいがあったため、もと汜は一時いちじりょぬのした同僚どうりょうとなったちんのぼるを「横暴おうぼうな(「豪気ごうきじょ」)人間にんげん」と非難ひなんした。りゅう備が非難ひなん理由りゆうたずねると、もと汜は「ちんのぼる客人きゃくじんしんがない。わたしなが間口まぐちをきいてくれず、自分じぶん寝台しんだいやすみ、わたしゆかかせた」とこたえた。それにたいりゅう備が「貴方あなた国士こくしとしての名声めいせいがありながら、宅地たくちもとめるばかりで、ろく進言しんげんもしなかった。ちんのぼるはそれをきらったのです。わたしなら、自分じぶん寝台しんだいどころかひゃくしゃくろうじょうて、貴方あなたゆかどころか更地さらちかせますな(ちんのぼるは、まだやさしい)。」ともと汜の小人こどもりを痛烈つうれつ批判ひはんしたため、りゅうひょう大笑おおわらいした。

これ以後いごもと汜の史書ししょ見当みあたらない。

物語ものがたりちゅうもと[編集へんしゅう]

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』でも、おう楷ととも曹操そうそうぐん包囲ほうい突破とっぱして袁術に救援きゅうえんもとめており、経緯けいい結末けつまつもほぼ史実しじつ沿ったものとなっている。ただし、りゅう備とのやりりは採用さいようされていない。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]