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後漢書/卷9 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

こう漢書かんしょ/まき9

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 こうれいみかどだいはち こう漢書かんしょ
こうけんじみかどだいきゅう
皇后こうごうだいじゅうじょう 

こうけんじ皇帝こうていいみなきょうれいみかど中子なかご也。ははおう美人びじんためなん皇后こうごうしょがい中平なかひらろくねんよんがつしょうみかど即位そくいふうみかどため勃海おう,徙封ひねとめおう

きゅうがつかぶといぬそく皇帝こうていねんきゅうさい。遷皇太后こうたいごう於永やすみや大赦たいしゃ天下でんかあらためあきらやすし為永ためながかんへいただしたくころせ皇太后こうたいごうなん

はつれいさむらいちゅうきゅうごと黃門こうもんさむらいろういんかくろくにんたまもの公卿くぎょう以下いかいたり黃門こうもんさむらいろういち人為じんいろう,以補宦官かんがん所領しょりょうもろしょさむらい於殿じょう

おつとり,以太じょうりゅうおそれためだい司馬しばただしたくためふとしじょう鈇鉞、とら賁。へいいぬふとなか大夫たいふ楊彪ためそらかぶとうましゅうまぎ琬為使つかいちょうほこらふとしでんちんしげる大將軍だいしょうぐん竇武とう

ふゆじゅうがつおつそうれいおもえ皇后こうごう白波しらなみぞく寇河ひがしただしたく其將うし輔擊十一月じゅういちがつみずのととりただしたくため相國しょうこく

十二月じゅうにがつつちのえいぬつかさ琬為ふとしじょうつかさそら楊彪ためひかり祿ろくくん荀爽ためそら

しょう扶風じょうおけかんやすみやこまもるみことのりじょこう熹、あきらやすしながかんさんごうかえふくちゅうひらめろくねん


はつひら元年がんねんはる正月しょうがつ山東さんとうしゅうぐんおこしへい以討ただしたくからし大赦たいしゃ天下でんかみずのととりただしたくころせひろのうおう白波しらなみぞく寇東ぐん

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だいおおとり臚韓とおるしょうかげおさむ金吾きんごえびすはははんはたつくだいたくみおさむこしこうじょうおう瓌安しゅう關東かんとうこう將軍しょうぐん袁術、かわ太守たいしゅおうただしかく而殺ただかんとおるめんただしたく壞五銖錢,さらしょうぜに

ふゆじゅういちがつかのえいぬ,鎮星、熒惑、太白たいはくあい於尾。

これさい有司ゆうしそうかずやすじゅん、桓四みかど功德くどくむべたたえむねまたきょうなつけけいかくれきょうさん皇后こうごうなみ正嫡せいちゃくごうしょうきさきみな請除尊號そんごうせい曰:『。』まごけんころせ荊州刺史ししおうあきらまたころせ南陽なんよう太守たいしゅちょう咨。


ねんはる正月しょうがつからしうし大赦たいしゃ天下でんかがつちょううしただしたくためたい

袁術はたまごけんあずかただしたくはたえびす軫戰於陽じん,軫軍大敗たいはいただしたくとげ發掘はっくつ洛陽らくようしょみかどりょうなつよんがつただしたくいれ長安ながやす六月ろくがつへいいぬ地震じしん

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さんねんはる正月しょうがつひのとうし大赦たいしゃ天下でんか

袁術はたまごけんおさむりゅうおもて於襄けん戰歿せんぼつ。袁紹及公まご瓚戰於界きょう,瓚軍大敗たいはい

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ただしたくきょくはた傕、かく汜、樊稠、ちょうわたるとうはんおさむ京師けいし六月ろくがつつちのえうまおちい長安ながやすじょうふとしつね种拂、ふとぼく魯旭、だいおおとり臚周奐、城門じょうもんこうじょうちぇれつこしこうじょうおう頎並戰歿せんぼつ,吏民死者ししゃまん餘人よにん傕等なみため將軍しょうぐんおのれ大赦たいしゃ天下でんか傕殺隸校じょう琬,甲子きのえねころせおうまことみなめつ其族。へいぜん將軍しょうぐんちょうけんため

あきなながつかのえふとしじょう磾為ふとでんろく尚書しょうしょごと

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四年春正月甲寅朔,にちゆうしょくちょうしげる大赦たいしゃ天下でんか三月さんがつ,袁術ころせ楊州刺史ししちんあつしよりどころ淮南ワイナン

長安ながやすせん平城ひらじろ門外もんがい自壞じかいなつがつみずのととりくも而雷。

ろくがつ,扶風大風おおかぜあめ雹。はな山崩やまくずれきれふとしじょうしゅうただしまぬかれふとぼくしゅ儁為ふとしじょうろく尚書しょうしょごとした邳賊闕宣自稱じしょう天子てんし雨水あまみずさむらい裴茂訊詔ごくはらけい繫。六月ろくがつからしうし天狗てんぐ西北にしきたゆき

きゅうがつかぶとうまためし儒生じゅせいよんじゅう餘人よにんうえだいたまものろうちゅう太子たいし舍人とねりしただいしゃやめこれみことのり曰:『孔子こうし歎「がくこう」,こうのりしょ識日忘。こん耆儒ねんろくじゅうはなれ本土ほんど,營求かてとく專業せんぎょうゆいわらわ入學にゅうがく白首しらくびそらちょうのうえいぜっさかえもちちん甚愍焉。其依やめしゃ,聽為太子たいし舍人とねり。』

ふゆじゅうがつふとしがくぎょうれいくるまこう永福えいふく城門じょうもん,臨觀其儀,たまもの博士はかせ以下いかかくゆうからしうし京師けいし地震じしんゆうほし孛於てんつかさそら楊彪まぬかれふとしつねちょうあつしためそら公孫こうそん瓚殺だい司馬しばりゅうおそれ

十二月じゅうにがつからしうし地震じしんつかさそらちょうあつしまぬかれおつまもるじょうちょうためそらこれさい,琅邪おうひろし薨。


きょうひらた元年がんねんはる正月しょうがつからしとり大赦たいしゃ天下でんか改元かいげんきょうたいら甲子きのえねみかど元服げんぷく

がつみずのえうまついみこと謚皇妣王ためれいふところ皇后こうごうきのえさる改葬かいそう於文あきらりょうちょうみかどこう於藉でん

さんがつかんとげうまあがあずかかく汜、樊稠せん長平ながだいかんとげあがはい績,ひだりちゅうろうはたりゅうはんぜんえきしゅう刺史しし种劭戰歿せんぼつ

なつろくがつへいふんりょうしゅう河西かさいよんぐんため廱州。ちょううし地震じしんつちのえとらまたふるえおつみそにちゆうしょくみかど避正殿どのへい聽事にちだいいなごあきなながつみずのえふとしじょうしゅ儁免。つちのえうまふとしつね楊彪ためふとしじょうろく尚書しょうしょごと

さん輔大ひでりよんがついたり于是がつみかど避正殿どの請雨,使者ししゃあらい囚徒しゅうとはらけい繫。こくいち斛五じゅうまんまめむぎいちじゅうまん人相にんそうしょく啖,白骨はっこつせきみかど使さむらいこう汶出ふとくらべいまめためかつえじんさく糜粥,けい而死しゃくだみかどうたぐ恤有むなし,乃親於御すわぜんりょう試作しさく糜,乃知使つかいさむらいちゅうりゅうあいいずるゆずる有司ゆうし。於是尚書しょうしょれい以下いかみなまいしょうかくしゃそうおさむこう汶考みことのり曰:『にん致汶於理,つえじゅう。』これとくぜんすみ

はちがつ,馮翊羌叛,寇屬けんかく汜、樊稠擊破げきは九月くがつくわふくせいさわらにんとく以食。つかさじゅん于嘉やめふゆじゅうがつ長安ながやすもん自壞じかい。以衛じょうちょうあつしためろく尚書しょうしょごと

十二月じゅうにがつふん安定あんてい、扶風ため新平にっぺいぐん

これさい,楊州刺史ししりゅう繇與袁術はたまご策戰さくせん於曲おもね,繇軍はい績,まごさくとげよりどころ江東こうとうふとしでんうま磾薨於壽はる


ねんはる正月しょうがつみずのとうし大赦たいしゃ天下でんかがつおつ傕殺樊稠而與かく汜相おさむ

さんがつへいとら傕脅みかどこう其營,焚宮しつ

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ろくがつ庚午こうごちょうわたる陜來傕、汜。

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十一月じゅういちがつ庚午こうご傕、かく汜等おいじょう輿こしせん於東おひがし澗,王師おうしはい績,ころせこう祿ろくくん鄧泉、まもるじょうまごみず、廷尉せん播、大長おおちょうあきなえまつ步兵ほへいこうじょう桀、さむらいちゅうしゅてんごえこうじょう沮儁。みずのえさるこう曹陽,田中たなか。楊奉、ただし承引しょういん白波しらなみそちえびすざいらくかん暹及匈奴きょうどひだりけんおう卑,りつ奉迎ほうげいあずか傕等せんやぶこれ

十二月じゅうにがつかのえたつくるま乃進。傕等ふくらいおいせん王師おうし大敗たいはいころせりゃく宮人みやびとしょう芬、だいつかさみのりちょうよしとうみな戰歿せんぼつすすむこう陜,よるかわおつ幸安ゆきやす邑。これさい,袁紹遣はたこうじあずか公孫こうそん瓚戰於鮑おか,瓚軍大敗たいはい


けんやす元年がんねんはる正月しょうがつみずのととり,郊祀上帝じょうてい於安邑,大赦たいしゃ天下でんか改元かいげんけんやすがつかん暹攻まもる將軍しょうぐんただしうけたまわなつろくがつ乙未おとみこう聞喜。

あきなながつ甲子きのえねくるまいたり洛陽らくようさいわいちゅうつねさむらいちょうただしたくちょううし,郊祀上帝じょうてい大赦たいしゃ天下でんかおのれ,謁太びょう

はちがつからしうし幸南こうなんみや楊安殿どのみずのと安國やすくに將軍しょうぐんちょう楊為だい司馬しばかん暹為大將軍だいしょうぐん,楊奉ためしゃ將軍しょうぐん宮室きゅうしつ燒盡しょうじん百官ひゃっかん披荊とげ牆壁しょうへきあいだしゅうぐんかくようつよしへい,而委輸不いたりぐん僚飢とぼし尚書しょうしょろう以下いかさい稆,ある飢死うえじに牆壁しょうへきあいだあるため兵士へいししょころせからし,鎮東將軍しょうぐん曹操そうそうりょう隸校じょうろく尚書しょうしょごと曹操そうそうころせさむらい中臺なかだいたかし尚書しょうしょ馮碩とうふうまもる將軍しょうぐんただしうけたまわため輔國將軍しょうぐんふくかんとうじゅうさん人為じんい列侯れっこうおく沮儁ためひろのう太守たいしゅ庚申こうしん遷都せんともとおのれさいわい曹操そうそう營。

きゅうがつふとしじょう楊彪、つかさそらちょうやめふゆじゅういちがつへいいぬ曹操そうそうためそらぎょうしゃはた軍事ぐんじ百官ひゃっかんそうおのれ以聽。

ねんはる,袁術自稱じしょう天子てんし三月さんがつ,袁紹ため大將軍だいしょうぐんなつがついなごあききゅうがつかんすい溢。これさいかつえこう淮間みんしょうしょく。袁術ころせひねおうちょうまごさく使つかいたてまつみつぎ

さんねんなつよんがつ謁者裴茂りつちゅうろうはただん煨討傕,えびすさんぞくりょぬの叛。ふゆじゅういちがつとうころせだい司馬しばちょう楊。十二月じゅうにがつみずのととり曹操そうそうげきりょぬの於徐しゅうこれ

よんねんはるさんがつ,袁紹おさむ公孫こうそん瓚於えききょうこれまもる將軍しょうぐんただしうけたまわためしゃ將軍しょうぐんなつろくがつ,袁術これさいはつおけ尚書しょうしょ左右さゆうぼくしゃたけりょう女子じょしじゅうよんにち復活ふっかつ

ねんはる正月しょうがつくるま將軍しょうぐんただしうけたまわへん將軍しょうぐんおうふくこしこうじょう种輯受密みことのり誅曹みさおこと泄。みずのえうま曹操そうそうころせただしうけたまわひとしえびすさんぞくあきなながつたて皇子おうじ馮為南陽なんようおうみずのえうま南陽なんようおう馮薨。

きゅうがつ庚午こうごついたちにちゆうしょくみことのりさんおおやけ至孝しこうにんきゅうきょうこうじょうぐん國守こくしゅあいかく一人ひとり皆上みなかみふうごと,靡有しょいみな曹操そうそうあずか袁紹せん於官,紹敗走はいそうふゆじゅうがつからしゆうほし孛於だいはり東海とうかいおう祗薨。

これさいまごさくおとうとけんかさね其餘ぎょう

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ななねんなつがつかのえいぬ,袁紹薨。于窴こくけんじ馴象。これさいえつ男子だんしため女子じょし

はちねんふゆじゅうがつおのれ公卿くぎょうはつむかえふゆ北郊ほっこうそうあきらはじめふく備八佾舞。はつおけ司直しちょくかんとくちゅうかん

きゅうねんあきはちがつつちのえとら曹操そうそう大破たいは袁尚,ひら冀州,りょう冀州まきふゆじゅうがつゆうほし孛於ひがし

十二月じゅうにがつたまものさんおおやけやめきん、帛,かくゆうさんねんいちたまもの,以為つねせい

じゅうねんはる正月しょうがつ曹操そうそうやぶ袁譚於青しゅうこれなつよんがつぼく山賊さんぞくちょうつばめりつ眾降。あききゅうがつたまもの百官ひゃっかんゆう貧者ひんじゃきん、帛,かくゆう

じゅういちねんはる正月しょうがつゆうほし孛於北斗ほくと三月さんがつ曹操そうそうやぶこうみき於幷しゅうこれあきなながつ武威ぶい太守たいしゅちょうたけしころせ雍州刺史しし邯鄲かんたんしょう

これさいたて琅邪おう容子ようこ熙為琅邪おうひとし北海ほっかい、阜陵、しも邳、常山つねやまあまりょうすみきた平原へいげんはちこくみなじょ

じゅうねんあきはちがつ曹操そうそう大破たいはがらす桓於柳城やなしろ其蹋とみ

ふゆじゅうがつからしゆうほし孛於うずらおつはばぞくころせずみみなみおう赟。十一月じゅういちがつ遼東りゃおとん太守たいしゅ公孫こうそんやすしころせ袁尚、袁熙。

じゅうさんねんはる正月しょうがつつかさちょうあつしめんなつろくがつやめさんおおやけかんおけ丞相じょうしょう大夫たいふ癸巳きし曹操そうそうため丞相じょうしょう

あきなながつ曹操そうそうみなみせいりゅうひょう

はちがつ丁未ていみひかり祿ろくくん郗慮ため大夫たいふみずのえ曹操そうそうころせぶとちゅう大夫たいふあなとおるえびす其族。これがつりゅうひょうそつ少子しょうし琮立,琮以荊州くだみさおふゆじゅうがつみずのとついたちにちゆうしょく

曹操そうそう以舟まごけんけんはたしゅう瑜敗於烏りんあかかべ

じゅうよんねんふゆじゅうがつ,荊州地震じしん

じゅう五年春二月乙巳朔,にちゆうしょく

じゅうろくねんあききゅうがつかのえいぬ曹操そうそうあずかかんとげうまちょうせん於渭みなみとげとう大敗たいはい關西かんさいたいらこれさいちょうおう赦薨。

じゅうななねんなつがつみずのと,誅衛じょうあがえびすさんぞく六月ろくがつかのえとらみそにちゆうしょく

あきなながつ,洧水、潁水溢。螟。はちがつうまちょうやぶりょうしゅうころせ刺史しし韋康。

きゅうがつかのえいぬたて皇子おうじ熙為ずみかげおう,懿為山陽さんようおう,ためずみきたおうあつしため東海とうかいおうふゆじゅうがつほし孛於諸侯しょこう

じゅうはちねんはる正月しょうがつかのえとらふく禹貢九州きゅうしゅう

なつがつへいさる曹操そうそう自立じりつためこうきゅうすずだい雨水あまみず。徙趙おう珪為はくりょうおうとしさいほし、鎮星、熒惑俱入ふとほろ。彭城おうかず薨。

じゅうきゅうねんなつよんがつひでり五月ごがつ雨水あまみずりゅう備破りゅうあきらよりどころえきしゅうふゆじゅうがつ曹操そうそうはたなつほうふかし討宋けん於枹罕,これ

じゅういちがつちょうしげる曹操そうそうころせ皇后こうごうふくめつ其族及皇子おうじ

じゅうねんはる正月しょうがつ甲子きのえねたて貴人きじん曹氏ため皇后こうごうたまもの天下でんかおとこ子爵ししゃくにんいちきゅう孝悌こうていちからきゅうたまものしょ王侯おうこう公卿くぎょう以下いかこくかくゆうあきなながつ曹操そうそうやぶかんちゅうちょう魯降。

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じゅうねんなつろくがつ丞相じょうしょう軍師ぐんしはな歆為大夫たいふふゆゆうほし孛於東北とうほくとしだい疫。

じゅうさんねんはる正月しょうがつ甲子きのえねしょう耿紀、丞相じょうしょう司直しちょく韋晃おこりへい誅曹みさおかつえびすさんぞく三月さんがつゆうほし孛於東方とうほう

じゅうよんねんはるがつみずのえみそにちゆうしょく

なつがつりゅう備取かんちゅうあきなながつかのえりゅう自稱じしょうかんちゅうおうはちがつかんすい溢。ふゆじゅういちがつまごけん荊州。


じゅうねんはる正月しょうがつかのえおう曹操そうそう薨。丕襲がつちょうついたちにちゆうしょく三月さんがつ改元かいげんのべやすし

ふゆじゅうがつおつ皇帝こうていへりくだくらいおう丕稱天子てんしたてまつみかどため山陽さんようこう,邑一まんざい諸侯しょこうおうじょうそうごとしょうしん,受詔はい,以天子てんししゃふく郊祀天地てんち宗廟そうびょう、臘皆如漢せい山陽さんようにご鹿しかじょうよん皇子おうじふう王者おうじゃみなくだため列侯れっこう

明年みょうねんりゅう備稱みかど於蜀,まごけんまたおう於吳,於是天下でんかとげさんふん矣。


たかしあおりゅうねんさんがつかのえとら山陽さんようこう薨。へりくだくらいいたり薨,じゅうゆうよんねんねんじゅうよん,謚孝けんじ皇帝こうていはちがつみずのえさる,以漢天子てんし禮儀れいぎそう於禪りょうおけえん邑令すすむ

太子たいしはやそつまごやすしたてじゅういちねんすすむふとしかんろくねん薨。瑾立よんねんふとしかんじゅうねん薨。あきりつじゅうねんえいよしみちゅうためえびすぞくしょころせくにじょ

史論しろん[编辑]

ろん曰:つてしょうかなえため,雖小而重,かみこれしょたから不可ふかだつうつりいたりれい而趨しゃ,此亦きゅううん乎!てんいやかん德久とくひさ矣,山陽さんよう其何誅焉!

さん曰:けんじなまたつ播國たむろおわりわがよんひゃく永作ながさくおそれまろうど