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なんしん

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なんしん
清代の書物に描かれた何進
きよしだい書物しょもつえがかれたなんしん
こうかん
大将軍だいしょうぐんまきこう
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
荊州南陽なんようぐんあてけん
死去しきょ ひかり元年がんねん8がつ29にち189ねん9月22にち
つかさ河南かなんいん洛陽らくようけん
拼音 Hé Jìn
とげだか
主君しゅくん れいみかどしょうみかどべん
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なん しん(か しん、不明ふめい - ひかり元年がんねん8がつ29にち189ねん9月22にち))は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき武将ぶしょう政治せいじとげだか荊州南陽なんようぐんあてけん現在げんざい河南かなんしょう南陽なんようあてぐすく)のひと異母いぼいもうとれいみかど皇后こうごうなに)。ちちなにしんつぎおとうと義理ぎりおとうと)はなになえしゅなえ)。しょう[1]まごなに[2]

生涯しょうがい

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元々もともとなに家系かけいひつじ屠殺とさつぎょうであった。

どうぐん出身しゅっしん宦官かんがんかくまさる後押あとおしがあって、異母いぼいもうと宮中きゅうちゅうはいれいみかど貴人きじんとなったため、なんしんてられろうちゅうとなり、とらちゅうろうしょう潁川太守たいしゅてんじた。光和こうわ3ねん179ねん)にそう皇后こうごうはいされ異母いぼいもうと皇后こうごうてられると、中央ちゅうおうもどさむらいちゅうとなり、はたつくだいたくみ河南かなんいんとなった。

中平なかひら元年がんねん184ねん)、太平たいへいどうちょうかくによるはばらん勃発ぼっぱつすると、なんしん大将軍だいしょうぐんとなり、近衛このえへいひきいて首都しゅと洛陽らくよう守備しゅびし、兵器へいき修繕しゅうぜん軍備ぐんびととのえたり、密偵みっていうま元義もとよしらえる功績こうせきげ、まきこうふうじられた。またすめらぎはじめかさしゅしょくただしたくらのはたらきにより、はばらん鎮圧ちんあつされた。しかし、鎮定ちんてい各地かくちらんつづいた。

中平なかひら5ねん188ねん)、れいみかどによる軍制ぐんせい改革かいかくおこなわれた[3]西園にしぞの三軍さんぐん西園にしぞのはちこうじょう)を設置せっちしたうえれいみかど自身じしん無上むじょう将軍しょうぐんしょうし、さらにうえぐんこうじょう寵愛ちょうあいする宦官かんがんあしなえせきえて、つかさ隷校じょう以下いか総領そうりょうする権限けんげんあたえた。この総領そうりょう対象たいしょうには、だい将軍しょうぐんであるなんしん自身じしんふくまれていた。

れいみかど後継こうけいめぐりゅうべんりゅうきょうあらそうことになると、それぞれを支持しじする皇后こうごうなんれいみかどははただしあいだはげしい対立たいりつがあった。あしなえせきただしじゅうりゅうきょう支持しじしたが、ちゅうぐんこうじょう袁紹なんしん積極せっきょくてきむすびついてあしなえせきらに対抗たいこうした。

中平なかひら6ねん(189ねん)4がつあしなえせきれいみかどからりゅうきょう後継こうけいとするよう、のこみことのりあたえられたという。あしなえせきれいみかど崩御ほうぎょしたのちただしじゅうんでなんしん誅殺ちゅうさつくわだてたが、司馬しばはんかくれなんしんしたしく、計画けいかく密告みっこくしたため失敗しっぱいした。5月にりゅうべん即位そくいすると、じゅうつねさむらいちょうただしはじめとする宦官かんがん主流しゅりゅうあしなえせき見捨みすてて、なんしんくみした。その結果けっか、ついにあしなえせきならびにただしいちとう排除はいじょされ、6がつにはただしふとしきさき河間こうまもどされ死去しきょした。

しょうみかど即位そくいも、それまで朝野ちょうや鬱積うっせきしていた不満ふまん爆発ばくはつし、とく宦官かんがん世論せろん批判ひはんびるようになった。そのためなんしんは、あしなえせきころされかけたいかりもあったため宦官かんがん排除はいじょし、袁紹ら幕僚ばくりょうたちをあつめて積極せっきょくてきはかったが、なにふとしきさきつぎおとうと宦官かんがん擁護ようごしたため、なに同士どうし対立たいりつしょうじる構図こうずになった。また、外戚がいせきであるなにとの連携れんけいによって事態じたいえようとはかっていた宦官かんがんにとっても想定そうていがい事態じたいであり、ちゅうつねさむらいちょうゆずるなんしん説得せっとくしようとしている(『こう漢書かんしょまき69なんしん列伝れつでん[4]なんしんあらそいにおよごしになると、袁紹は地方ちほうしょしょうせ、ふとしきさきらに圧力あつりょくをかけることを提案ていあんした。しかし、これにしょくちん曹操そうそうらが反対はんたいした(おうの『しょ』)。再三さいさんの袁紹による催促さいそく結果けっかなんしんはこれをれ、おうただしはしあわびしんちょうちょうりょう曹操そうそう兵士へいし兵糧ひょうろうあつめさせるとともに、ちょうげんただしたくといった地方ちほう将軍しょうぐんせた。また袁紹が大将軍だいしょうぐんいのちであるといつわって、各地かくち指令しれいしたこともあった。

このように情勢じょうせい緊迫きんぱくしていたため、袁紹はなんしんたいして宮中きゅうちゅう軽々かるがるしくはいるべきではないと忠告ちゅうこくしていた。しかし8がつなんしん警戒けいかい宮中きゅうちゅう参内さんだいしたところを、宦官かんがんだん畢嵐ひきいたへいによってかこまれ、ちょうゆずる罵倒ばとうされながら嘉徳よしのり殿どのまえ殺害さつがいされた。ちょうゆずるらはなんしん殺害さつがいするとみことのり偽造ぎぞうし、宦官かんがんらにおやぞくしていたしょうもとしょうふとしじょうの樊陵を利用りようし、へいにぎろうとした。このとき命令めいれいうたがった尚書しょうしょたいし、なんしんくびせてしめしたという。

しかし、なんしん普段ふだんから部下ぶかたいしてしたしくせっしていたため、激怒げきどしたなんしん部下ぶかたちの反攻はんこううことになった。袁術へいげ、なんしんきょくであったただしらとともに宮中きゅうちゅう突入とつにゅうし、なにふとしきさき身柄みがら確保かくほしたが、しょうみかどひねとめおうりゅうきょう)の身柄みがら宦官かんがんうばわれた。また、袁紹も叔父おじ袁隗ならびにしょくとともに、もとしょうらをおびしてり、なになえ協力きょうりょくしてちょうただしらえった。

こうして、宮中きゅうちゅうから宦官かんがんとそれに味方みかたする勢力せいりょく一掃いっそうされた。しょうみかどひねとめおう身柄みがらうばって逃走とうそうした宦官かんがん残党ざんとうらも、へんぐんひきいて上洛じょうらくしてきたただしたくから自殺じさつまれたという。しょうみかどひねとめおうただしたく保護ほごされもどることが出来できた。しかしこの混乱こんらんなかで、なになえただしにより殺害さつがいされてしまい、なにおおきく勢力せいりょくよわめることになった。

小説しょうせつ

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  • 三国志さんごくしめいしん列伝れつでん かんへん (宮城みやぎたに昌光まさみつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2018ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ なに晏の記事きじ参照さんしょう
  2. ^ 楊鑑せいなに晏叢こう』によると、なに晏はなになえまご可能かのうせいがあるとしるされている(原文げんぶんなに晏墓ざいいおりけんきた,而なんしんため南陽なんようあてじん如何いか晏為其孫,符合ふごう当時とうじ盛行せいこうそう習俗しゅうぞく。而廬こうゆうしゅ可能かのうなんなえてきせきつらぬけ如何いか晏為なんなえまごそういおりこうのりじゅん成章せいしょう。」)。
  3. ^ 石井いしいひとしくぼ添慶ぶんらによるれいみかど時代じだいさい評価ひょうか目指めざ研究けんきゅう成果せいかもとづく。『こう漢書かんしょなんしんでんによると、大将軍だいしょうぐん司馬しばであるもとりょう進言しんげんにより、なんしんれいみかど上奏じょうそうしその裁可さいかうえ実行じっこうしたことになっている。
  4. ^ 渡邉わたなべすすむさとしこうかん政治せいじ制度せいど研究けんきゅう』(早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん、2014ねんISBN 978-4-657-14701-1 だいななしょう政治せいじ空間くうかんよりみたのちかん外戚がいせき輔政」

参考さんこう資料しりょう

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  • こう漢書かんしょ/まき69
  • 石井いしいひとし曹操そうそう たけみかど』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2000ねん