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しゅうせん

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しゅう せん(しゅう せん、? - 239ねん以前いぜん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい占師うらないしあなあおしゅうらくやすぐんひと

経歴けいれき

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しゅうせんゆめうらな達人たつじんとして当時とうじ有名ゆうめいであり、その事績じせきは『三国志さんごくし』「かたわざでん[1]において記述きじゅつされている。

最初さいしょぐん役人やくにんつとめていたが、太守たいしゅ楊沛から「8がつ1にち曹公られつえくすりあたえられる、とげられるゆめた」とわれたさいに「つえちからのないものたせくすりんだものなおします。8月1にちには(当時とうじはばぞく蜂起ほうきしていた)ぞくほろぼされましょう」とうらなって的中てきちゅうさせた。

あるとき曹丕が「宮殿きゅうでんまいかわらちてつがいの鴛鴦えんおうわるゆめた」とった。しゅうせんが「後宮こうきゅうでにわかにくなられるほうがありましょう」とこたえると曹丕は「じつつくごとったのだ」とかした。しゅうせんが「ゆめであり言葉ことばとなった以上いじょう吉凶きっきょううらなえます」とこたえた言葉ことばわらないうちに、女官にょかん殺人さつじんおかしたというらせがはいってきたという。そのしばらく、曹丕は「あおからのぼっててんまでつながる」というゆめたので、それをしゅうせんたずねた。それにたいしてしゅうせんは「天下てんかのどこかで高貴こうき身分みぶん女性じょせいが、冤罪えんざいのためにぬことになるでしょう」とこたえた。このときに曹丕は甄夫じんたまう璽書を使者ししゃとどけさせており、後悔こうかいしてその使者ししゃわせたが、結局けっきょくわなかった(甄夫じん没年ぼつねんからするとはつ2ねん西暦せいれき221ねんのことである)。曹丕の時代じだいちゅうろうとされ、ふとしにんねた。

しゅうせんゆめうらないはじゅうちゅうはちきゅう的中てきちゅうし、しゅけんたいら人相見にんそうみならしょうされた。あかりみかどすえとし(曹叡のけいはつ3ねん西暦せいれき239ねんだが、しゅう宣伝せんでん記載きさいは「けいはつ3ねんぼつ」ではなく「あきらみかどすえとしぼつ」である)に死去しきょした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ちん寿ひさし三国志さんごくし』、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこはん4かん、pp.350 - 353.