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ちょうげん

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ちょうげん
たかし
つかさそらきょうこう
出生しゅっしょう たてやすし4ねん171ねん[1]
しゅう潁川ぐん翟県
死去しきょ せいはじめ6ねん245ねん)6がつ[2]
拼音 zhào yǎn
はくしか
主君しゅくん 曹操そうそう曹丕曹叡曹芳
テンプレートを表示ひょうじ

ちょう げん(ちょう げん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきから、さんこく時代じだいたかしにかけての武将ぶしょう政治せいじはくしかほんぬきしゅう潁川ぐん翟県(現在げんざい河南かなんしょうもとあきら禹州)。

生涯しょうがい

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わかかりしころからどうぐん出身しゅっしんからしちんもりかさねならんでられ、からしひねもりちょうごうされた。戦乱せんらんけて荊州避難ひなんし、もりかさねしげるともらした。曹操そうそうけんじみかどむかえてもとあきらくと、曹操そうそうつかえるべき主君しゅくんさだめ、たてやすし2ねん197ねん)に上洛じょうらくして曹操そうそう傘下さんかはいり、ろうりょうけんちょうにんじられた[3]県下けんかでは豪族ごうぞく勝手かってっていたが、ちょうげんおくすることなく、そのなかもっと態度たいどわるもの逮捕たいほして調しらべ、以降いこう恩威おんいあきらかとなった。

袁紹しゅうしょぐん味方みかたさそれると、おおくのぐんはそれにおうじたが、やすぐんだけはどうじなかった。このときじょうとおる曹操そうそうへの支持しじあきらかにするため、いそいで徴税ちょうぜいおこなおうとしたが、ちょうげんがこれをめさせたことにより、ぐんない安定あんていした。これよりさきどおりつま伯父おじほうおかし、ちょうげんかれ逮捕たいほした。どおり妻子さいしから助命じょめい嘆願たんがんされたが、おおやけおもんじてこれにしたがわなかった。ちょうげんどおり伯父おじ処刑しょけい断行だんこうする一方いっぽうどおり姿勢しせいには感心かんしんして、親交しんこうむすんでいた[4]

のち、中央ちゅうおうはいり、つかさそらじょうぞくぬし簿となる。当時とうじ于禁らくすすむちょうりょうの3将軍しょうぐんおもうがままにい、たがいに協調きょうちょうしないことがおおかったが、ちょうげんことあるごと訓戒くんかいした結果けっかかれらは親睦しんぼくふかめるようになった。けんやす13ねん208ねん[5]、荊州征伐せいばつさいにはしょうりょう太守たいしゅみやこただしまもるぐん兼任けんにんし、于禁・ちょうりょうちょうらの7ぐん統括とうかつした。

のち、丞相じょうしょうおも簿て、扶風太守たいしゅ転任てんにん。さらにせきなかまもるぐんにんき、かんとげうまちょうらの配下はいかだったしょぐん統率とうそつした。被害ひがいをもたらすぞくや、反乱はんらんしてひねくらてこもったりょなみらをやぶった。

せきちゅうへいうち、1200にんかんちゅう援軍えんぐんとしておくることになると、ちょうげん変事へんじこることを懸念けねんしてこれをいかけ、へいたちを慰労いろうしたが、結局けっきょく反乱はんらん発生はっせいした。このときともにいたちょうすんでは「いま本営ほんえい擾乱じょうらんおちいっていることでしょう」と帰還きかん反対はんたいしたが、ちょうげんはこれを退しりぞけて帰還きかんすると、陰謀いんぼう首謀しゅぼうしゃ処断しょだんしただけでのち不問ふもんしょし、擾乱じょうらんしずめた。そのちょうげん擾乱じょうらんもとになりかねないへいを、ひがし移動いどうすることを提案ていあんへいたちのあいだではまた不安ふあんしょうじたが、ちょうげん移動いどうするへい残留ざんりゅうするへいけてかれらのしんかせてから、最終さいしゅうてきには後者こうしゃへい脅迫きょうはく、または説得せっとくして移動いどうし、すべてのへいえることに成功せいこうした。

けんやす24ねん219ねん[5]、樊城の曹仁せきはねによって包囲ほういされると、ちょうげんろうとしてこのたたかいに参戦さんせんじょあきらともに曹仁救援きゅうえんかう。しょしょう不十分ふじゅうぶん兵力へいりょくでも、曹仁救助きゅうじょのためいそ開戦かいせんすることをもとめたが、ちょうげんはこれに反対はんたい。曹仁には救援きゅうえんがあることをらせつつ、自軍じぐんのさらなる増援ぞうえんってから開戦かいせんし、その包囲ほういくことに成功せいこうした。まごけん輜重しちょう襲撃しゅうげきするとせきはね南方なんぽう撤退てったいしょしょうはこの追撃ついげき提案ていあんしたが、ちょうげんはまたこれに反対はんたいし、せきはねかしておいてまごけんにとってのうれいとする方策ほうさくった。曹操そうそうからもまた、ちょうげんおな方策ほうさく指示しじくだされた。

のべやすし元年がんねん220ねん[6]曹丕おうとなると、ちょうげんさむらいちゅう就任しゅうにん。しばらくのちに駙馬じょうとなり、河東かわとう太守たいしゅてんのうちゅうろうしょう代行だいこうした。はつ3ねん222ねん)には関内かんないこうふうじられた。その、曹丕のだいには曹休によるぐん迎撃げいげきや、曹丕による広陵こうりょう征伐せいばつ随行ずいこうした。はつ7ねん226ねん[7]曹叡即位そくいするときょうこうすすむ爵し、りょう邑600あたえられた。曹叡のだいにはかんしゅうしょ軍事ぐんじだい司馬しば軍師ぐんしや、だいつかさみのり歴任れきにんした。

けいはつ3ねん239ねん[2]曹芳即位そくいするとかんりょうしょ軍事ぐんじかりふしせいしょく将軍しょうぐん転任てんにん。のちせい西にし将軍しょうぐんみやこただし雍涼しょ軍事ぐんじ昇進しょうしんした。せいはじめ4ねん243ねん)には老齢ろうれいやまい理由りゆう帰還きかん要請ようせいしてみとめられ、驃騎将軍しょうぐん転任てんにん。さらにせいはじめ6ねん245ねん)2がつにはつかさそらのぼったが、同年どうねん6がつ死去しきょ[2]きよしこうおくりなされ、ちょうちんあといだ。

出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 三国志さんごくしちょうげんでんに、けんやす2ねん時点じてんで27さいとあり、そこからの逆算ぎゃくさん
  2. ^ a b c 三国志さんごくししょ ひとしおうおさむ
  3. ^ 荀彧招聘しょうへいされた人物じんぶつ一人ひとりともわれる。『三国志さんごくししょ 荀彧でんちゅう『荀彧別伝べつでん』より。
  4. ^ 三国志さんごくししょ とおるでん
  5. ^ a b 三国志さんごくししょ たけみかど
  6. ^ 三国志さんごくししょ ぶんみかど
  7. ^ 三国志さんごくししょ あきらみかど