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まご

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まご
続柄つづきがら 大帝たいていだいよん皇子おうじ

ぜん まご
称号しょうごう 魯王
おう
敬称けいしょう 殿下でんか
死去しきょ あかがらす13ねん250ねん
配偶はいぐうしゃ りゅうりゅうはじめむすめ
子女しじょ まごもと
まごいち
父親ちちおや 大帝たいてい
母親ははおや しゃひめ
テンプレートを表示ひょうじ

まご (そん は)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだい人物じんぶつ初代しょだい皇帝こうていであるまごけん庶子しょしあげしゅうくれぐんとみはるけんひと[1]ははしゃひめ[2]つまりゅうはじめむすめまごもとまごいち[3]

あに皇太子こうたいしまごとのあいだ二宮にのみや事件じけんばれる後継こうけいしゃあらそいをこしたすえまごけんより自害じがいめいじられた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

あかがらす5ねん242ねん)、あにまご皇太子こうたいしてられたさい群臣ぐんしんたちはそのはは皇后こうごうに、またまご兄弟きょうだいたちを王位おういにつけるよう懇願こんがんした。まごけん一度いちど拒絶きょぜつしたが、半年はんとし同様どうよう請願せいがんがあり、まごを魯王にふうじた。教育きょういくがかりとしてけられた。史書ししょにはその人柄ひとがらについての記載きさいはないが、ひつじから「東宮とうぐうならんでとくのある人物じんぶつとして美名びめいたかい」としょうされた記録きろくのこされている。

まごまごけんから寵愛ちょうあいされ、あに同様どうよう待遇たいぐうけ、おな宮殿きゅうでんつづけた。このあつかいが批判ひはんされると、まごけん別々べつべつみや設置せっちし、それぞれに幕僚ばくりょうをつけた。しかし、この措置そちまご不満ふまんっていた。あにとのなか険悪けんあくになった。かえって派閥はばつこうそう過熱かねつさせ、重臣じゅうしんたちんだあらそいに発展はってんした。

まご(魯王)は、楊竺ぜんまごやすしといったきや外戚がいせきまご魯班ぜん公主こうしゅ)のほかりょぜんりょよりどころまごひろしらが支持しじしていたという(『通語つうご』)。

まごけんが、2人ふたり不和ふわあんじてひと出入でいりを禁止きんしし、学問がくもんはげむよう訓戒くんかいをしたが、対立たいりつまなかった。楊竺・ぜんよせまごやすしまご廃位はいい実現じつげんさせるため、りくへりくだ顧譚といったまご支持しじするものたいする讒言ざんげんを、まごけんたいなん上奏じょうそうした。一方いっぽうまご同様どうようのことをしたことがあったという。なんまごに諫言したが、ききいれられることはなかった(「でん」)。

一時いちじまご太子たいし)の重臣じゅうしん排除はいじょ成功せいこうしたものの、騭やぜん琮といった有力ゆうりょくしゃると、まごいきおいをうしない、まごとの一進一退いっしんいったいこうそうつづいた。

あかがらす13ねん250ねん)、まごけんこうそう解決かいけつするため、どちらを擁立ようりつしても後々あとあとしこりがのここと考慮こうりょし、あらたにまごあきら太子たいしとした。一方いっぽうまごはい太子たいしとし、まごにも自殺じさつめいじたうえで、楊竺・ぜんよせまごやすしらを誅殺ちゅうさつした。『通語つうご』によると、まごたかし相談そうだんしたうえでの措置そちだったという。

貫中かんちゅう小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』には登場とうじょうしない。

子孫しそん[編集へんしゅう]

おおとり年間ねんかんまごもとくれこうまごいちあてりょうこうふうじられた。まごまご皇帝こうていとして即位そくいすると、まごもとまごいち爵位しゃくい領国りょうごくけずられ、かれらの祖母そぼしゃひめともに、かい稽郡がらすきずけん幽閉ゆうへいされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 三国志さんごくししょ まごけんつて記載きさい祖父そふまごけんほんぬき
  2. ^ まごはは直接ちょくせつ言及げんきゅうはないが、『三国志さんごくしまごでんにて、まごもとまごいち祖母そぼしゃひめ記述きじゅつされる。
  3. ^ まごいち (すな羡侯)とは別人べつじん