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曹茂

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しげる(そう ぼう、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい人物じんぶつたかし皇族こうぞくちち曹操そうそうははちょうひめ

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

たてやすし22ねん217ねん)に万歳ばんざいていこうふうじられ、よくけんやす23ねん218ねん)にひら輿こしこうあらためふうされた。

はつ3ねん222ねん)におおやけへと爵位しゃくい昇進しょうしんし、じょう国替くにがえとなり、はつ7ねん226ねん)、ちゅうおか国替くにがえとなった。

曹茂の性格せいかく傲慢ごうまんなんひとさからったため、曹操そうそうにはあいされていなかったという。曹丕ぶんみかど)の時代じだいになっても、兄弟きょうだいのうちいちにんだけおうになれなかった。

ふとし元年がんねん227ねん)、曹叡あきらみかど)の時代じだいになると聊城おうふうじられた。そのさい、曹叡は詔勅しょうちょくくだし「このころ前非ぜんぴいており、また太皇太后たいこうたいこうおぼしもあるのでおうふうずる」とつたえている。

ふとやわ6ねん232ねん)にあらためふうされきょくおうとなった。

せいはじめ3ねん242ねん)、兄弟きょうだいであった曹徽葬儀そうぎのどいたいとって哭泣のれいをとらなかったが、生活せいかつ宮殿きゅうでん出入でいりは通常つうじょうどおりとした。所管しょかん役人やくにん封土ほうど没収ぼっしゅうするべしと進言しんげんしたが、曹芳ひとしおう)の詔勅しょうちょくにより500けずるにめられた。

せいはじめ5ねん244ねん)にらくりょう国替くにがえとなった。そのさい詔勅しょうちょくされ、領国りょうごく租税そぜいおさむすくなく、曹茂が子沢山こだくさんであることを理由りゆうに、けずった戸数こすうもともどされ、そのうえさらに700加増かぞうされた。

嘉平かへいせいもと景元かげもとかく年間ねんかんなん加増かぞうけ、けい5せんりょうした。

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』には登場とうじょうしない。