(Translated by https://www.hiragana.jp/)
歩騭 - Wikipedia コンテンツにスキップ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

丞相じょうしょう西陵せいりょうとく・臨湘こう
出生しゅっしょう しょう
じょしゅう臨淮ぐん淮陰けん
死去しきょ あかがらす10ねん247ねん)5がつ
拼音 Bù Zhì
やま
主君しゅくん まごけん
テンプレートを表示ひょうじ

[1](ほ しつ)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだい武将ぶしょう政治せいじやまじょしゅう臨淮ぐん淮陰けんひときょうまご同族どうぞくねりまご魯班まご魯育はは)。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]
三国志さんごくし𨽥つて

中央ちゅうおう戦乱せんらんのがれて江東こうとううつった。まずしかったため、ふりえて生活せいかつかせぎ、ひる肉体にくたい労働ろうどうせいし、わかころひるふりって生計せいけいし、よる経書けいしょやその解釈かいしゃくをして勉強べんきょうをした。このときに行動こうどうともにしたのが広陵こうりょうまもるという人物じんぶつであった。あるとき生計せいけいはかるために、かいこげ[2]という豪族ごうぞくらざるをなくなった。こげ矯が騭達を見下みくだしてぞんざいにあつかったため、まもる旌が屈辱くつじょく憤慨ふんがいしたものの、騭は平然へいぜん応対おうたいしたという[3]

かんいたのち、1ねんほどして病気びょうき免職めんしょくとなったが、親友しんゆうであるしょかずらいむとともにくれぐんたという[4]

まごけんが討虜将軍しょうぐんとなり将軍しょうぐん開府かいふすると、騭はされしゅうみしお県令けんれいとなった。まごけんくるま将軍しょうぐんになるとかれがえし、ひがし曹掾とした。『くれしょ』によると、まごけんじょしゅうまきとなったときちゅう従事じゅうじとなりしげるざい推挙すいきょされたという。また時期じき不明ふめいだが、鄱陽不服ふふく住民じゅうみんであった彭虎討伐とうばつただしかさねしのげみつる蔣欽とも出陣しゅつじんしている[5]

たてやすし15ねん210ねん)には新設しんせつされた鄱陽太守たいしゅ任命にんめいされた。同年どうねん交州刺史しし、およびたてちゅうろうしょうとなり任地にんちかった[6]翌年よくねんには使つかいぶしせい南中なんちゅうろうしょうとなっている。

当時とうじの交州は、きょ一族いちぞく割拠かっきょしていた。きょりゅうひょう任命にんめいしていたよりゆききょう追放ついほうし、まごけんうしたてとして自立じりつしようとしていた。しかし騭はきょしんいだくのをし、表面ひょうめんてきには友好ゆうこうてきせっかたをしたうえで、会見かいけん斬殺ざんさつした。これにより騭の威名いめいひびくようになると、燮一ぞくまごけん従属じゅうぞくするようになった。交州刺史ししちょう殺害さつがいされたのちちょう配下はいかえびす廖・せんひろしらは交州で割拠かっきょしていたが、まごけん騭を交州刺史ししとして赴任ふにんすると討伐とうばつされた。騭は水軍すいぐんひきいて交州各地かくち転戦てんせんし、反乱はんらんすべ平定へいていした。

のべやすし元年がんねん220ねん)、刺史しししょくりょ交代こうたいすることになり、あらたな任地にんちであるちょうすなかったが、交州の人々ひとびとしたわれたため義士ぎしいちまんにんほどになったという。このころしょくかん荊州遠征えんせいし(えびすりょうたたか)、隣接りんせつするたけりょう蛮族ばんぞくもそれに呼応こおうして、不穏ふおん動向どうこうしめしつつあった。騭はまごけん命令めいれいで、蠢動しゅんどうするりょう民族みんぞくえき牽制けんせいする役目やくめにない、しょく敗北はいぼく勝利しょうりしたのち服従ふくじゅうみん平定へいていした。たけし2ねん223ねん)、みぎ将軍しょうぐんひだりまもるぐんとなり、臨湘こうふうじられた。雍闓燮をとおしてよしみもとめてくるようになると、騭はまごけんしを約束やくそくし、その服従ふくじゅうれた。その功績こうせきひらえびす将軍しょうぐんかんされ、広信ひろのぶこうふうじられた。

5ねん226ねん)にはふしあたえられ、ちょうすなの漚口に駐屯ちゅうとんした。

りゅう元年がんねん229ねん)にまごけん即位そくいすると、驃騎将軍しょうぐん冀州まきとなり、同年どうねんりくへりくだわり西陵せいりょうみやこただしまかされた。直後ちょくごしょくさい同盟どうめいがなったため、冀州のまき罷免ひめんされている。

驃騎将軍しょうぐんになったのち軍勢ぐんぜい強化きょうかのため私兵しへいつのることをまごけんもうれたところ、たけあきらにおいて荊州の軍政ぐんせいりくへりくだともあずかっていたはんから警戒けいかいされたため、許可きょかされなかったという[7]。また、時期じき不明ふめいだがちょう推挙すいきょ軍事ぐんじたずさわらせたところ、ちょうあきらはこれをよろこばなかった[8]

まごけん太子たいしまごとうは、りくへりくだたち輔佐ほさけてたけあきら政治せいじたずさわっていたが、あるとき騭に荊州の人物じんぶつについて意見いけんもとめた。このため騭は、しょかずら瑾・りくへりくだしゅしかりょ岱・はん濬・裴玄なつこううけたまわまもるしゅうじょういしみきなど、荊州で功績こうせきげた人物じんぶつを11めいほど列挙れっきょしたのちひとし前漢ぜんかんでの事例じれいげて賢人けんじんもちいるよう忠告ちゅうこくした。

りょいちのような酷吏こくり重用じゅうようするようになると、騭は顧雍はん濬・しょかずら瑾・りくへりくだたち忠言ちゅうげんみみかたむけるよう、まごけんたいして熱心ねっしん説得せっとくした。このためまごけんのちりょいち誅殺ちゅうさつして群臣ぐんしんびた。まごけんにまた以前いぜんのような輔佐ほさもとめられると、当初とうしょ民政みんせい担当たんとうがいだとして、しょかずら瑾・りょ岱・しゅしかたちとともにこの要請ようせい黙殺もくさつしたため、まごけん以前いぜんのような輔佐ほさ嘆願たんがんされている[9]

騭はりょいち事件じけんのちにも、まごけんによく上奏じょうそうし、ずにいたものすくったことがあったとされる。ただし、まごけんすべてがききいれられたわけではなく、降伏ごうぶくしゃからの情報じょうほう大江おおえめて計画けいかくがあるといたとき上奏じょうそうしたうえまごけん対処たいしょもとめたところ、まごけん現実げんじつてきだとして一笑いっしょうされたはなし掲載けいさいされている[10]あかがらす2ねん239ねん)にはしょかずら瑾とともに、しゅうしゅうたね赦免しゃめんまごけん嘆願たんがんした。しゅしかぜん同調どうちょうしたため、まごけんもその熱意ねついほだされしゅうたねゆるになったが、しゅうたねすでぼっしていた[11]

あかがらす4ねん241ねん)のだい規模きぼきた芍陂のやく)にも、参戦さんせんしていたとある[12]ぜん琮やしゅしかひきいたぐんが荊州とあげしゅうめ、しょかずら瑾とともに荊州方面ほうめん出撃しゅつげきし、柤中を占拠せんきょし、くれぐん進路しんろ確保かくほおこなった。結局けっきょく戦果せんかげたりょう戦線せんせんくれぐん撤兵てっぺいした。

あかがらす6ねん243ねんごろから、太子たいし地位ちいめぐってまごまごあらそうようになると(二宮にのみや事件じけん)、騭はぜん琮やりょ岱らとともにまご支持しじし、まご支持しじしたりくへりくだたち対立たいりつしたという[13]。しかし、騭伝やつてにおいて具体ぐたいてき動静どうせい何一なにひとかれていない。

あかがらす7ねん244ねん)、しゅしか別々べつべつ上奏じょうそうし、しょくつうじてめようとしていると言上ごんじょうしたが、まごけん自分じぶん判断はんだんわなかった。その、これにはたしてまごけんおもったとおりであった[9]

あかがらす8ねん245ねん)にりくへりくだぼっすると、よくあかがらす9ねん246ねん)そのけて丞相じょうしょう就任しゅうにんした。丞相じょうしょうになっても質素しっそ生活せいかつおくり、自身じしん勉強べんきょう子弟してい教育きょういく没頭ぼっとうしたが、妻子さいしには贅沢ぜいたくをさせていたため批判ひはんされたという。また、西陵せいりょうでの駐屯ちゅうとん期間きかんは20ねんにもたっし、その威信いしんしょくからも敬意けいいはらわれたという。あかがらす10ねん247ねん)5がつ死去しきょした。

きょうぎ、そのまご璣がいだ。しかし軍事ぐんじてき職務しょくむ継承けいしょう闡がつとめ、つづ西陵せいりょう軍事ぐんじまかされた。鳳凰ほうおう元年がんねん272ねん)、闡はまご暴政ぼうせい不安ふあんかんすすむ降伏ごうぶくし、たいして反乱はんらんこした。闡は数カ月すうかげつわたって籠城ろうじょうしたが、たのみにしていたすすむ援軍えんぐんりくこうによって大敗たいはいしたため、結局けっきょく鎮圧ちんあつされた。このため人質ひとじちとしてすすむわたっていたまご璿をのぞいて、一族いちぞく皆殺みなごろしとなった。

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

三国志さんごくし』のこころざしつてがある。『くれしょ』によると、あゆみすすむ大夫たいふである楊氏にさかのぼ一族いちぞくで、所領しょりょうったことからせいしょうしたという。先祖せんぞには孔子こうし師事しじしたという叔乗中国語ちゅうごくごばんしゃ)という人物じんぶつがいる。はたすえかんはつ動乱どうらん将軍しょうぐんとなった一族いちぞくが淮陰こうふうじられたため、以降いこうは淮陰をほんぬきとしたという。

騭が病気びょうきかんめんぜられると、しょかずら瑾やいむ畯とともにくれぐんてきた。かれさんにんは、それぞれにかくれなき名声めいせいをもって、一代いちだい俊英しゅんえいだとされた。

韋昭は、「騭はひろ哲学てつがくしょげいをきわめて、ふか通達つうたつしておらぬ方面ほうめんはなかった。性格せいかく鷹揚おうよう沈着ちんちゃくであって、謙虚けんきょひとれることができた。度量どりょうおおきく、喜怒きど感情かんじょうひょうさなかった」と評価ひょうかしている[4]

裴松は、騭はひとれる器量きりょう模範もはんとなる行動こうどうとによって、当時とうじなか有能ゆうのう人物じんぶつだとみなされる、と評価ひょうかしている。

博学はくがく多才たさいられ、性格せいかく冷静れいせい沈着ちんちゃく人当ひとあたりのいちめんがあった。人物じんぶつにもすぐれ、まごけんおおくの有能ゆうのう人物じんぶつ推挙すいきょした騭のざま正史せいしではちん寿ひさしや裴松これたたえられている。潁川しゅうあきらは、騭・しょかずら瑾・いむ畯・ちょううけたまわ顧邵人物じんぶつ比較ひかくし、賞賛しょうさんする書物しょもつのこした。ちん寿ひさししゅうあきら評価ひょうか引用いんようし、それに同意どういしめしている。

逸聞いつぶん

[編集へんしゅう]
  • 降伏ごうぶくしゃから長江ながえすなぶくろでせきめてめる計画けいかくがあるといたとまごけん上奏じょうそうしたところ、まごけんわらって「長江ながえ天地開闢てんちかいびゃく以来いらいつねながつづけている大河たいがで、そんなものでせきめられるわけがない。もし出来できたらうしせんとうをごちそうしよう」と相手あいてにしなかった[10]

三国志さんごくし演義えんぎ

[編集へんしゅう]

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』では、謀略ぼうりゃくいちめん垣間見かいまみせたり、まごけんまねいた家臣かしん一人ひとりとして名前なまえがる。あかかべたたかさい降伏ごうぶく家臣かしん一人ひとりとして登場とうじょうするが、しょかずらあきら論破ろんぱ罵倒ばとうされている。

また、えびすりょうたたかいのさいりくへりくだ抜擢ばってきまごけんすすめる闞沢提案ていあんたいし、顧雍とともにりくへりくだ才能さいのう過小かしょう評価ひょうかし、その登用とうよう反対はんたいしている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ あゆみ𨽥表記ひょうきされることもおおい。
  2. ^ くれろく』によると、こげ矯はしゅうなんじみなみぐんせい羌県れいだったことがあり、こげせい羌ともばれる。
  3. ^ かい稽郡のこげせい羌は、ぐん豪族ごうぞくであって、その食客しょっきゃくたちがわがものかお横行おうこうしていた。騭とまもる旌とは、こげせい羌の勢力せいりょくしたにある土地とち生計せいけいをはかろうとかんがえたが、その一味いちみ無茶むちゃなことをされるのをおそれて、2人ふたりして名刺めいしつうふりほうじて、こげせい羌に献上けんじょうしたいとねがた。こげせい羌はおくよこになっていて、2人ふたりながたせたままにしておいた。まもる旌は無礼ぶれいけるよりかえろうとしたが、騭は、かれ勢力せいりょく利用りようすべく、またうらみをわれないためにも、かえるべきじゃないと説得せっとくした。なが時間じかんがたってから、こげせい羌はまどひらいて2にんい、まどそとべたにすわらせた。こげせい羌は、おおきなつくえにご馳走ちそうならべ、騭とまもる旌とにはちいさなおぼんったごはんあたえ、野菜やさいのおかずがいているだけであった。騭はそれをあますことなくべた。まもる旌ははらてて「こんなあつかいにどうしてこたえられるのだ」。騭がいった「我々われわれ貧乏びんぼう身分みぶんもない。だから主人しゅじん貧乏びんぼう身分みぶんのないものとして我々われわれ待遇たいぐうしたのだ。当然とうぜんのことであって、なんずかしがることがあろうか」
  4. ^ a b くれしょ
  5. ^ 三国志さんごくしこころざし ただしかさねでん
  6. ^ せき 2023, p. 147.
  7. ^ 三国志さんごくしこころざし はん濬伝 がく『くれしょ
  8. ^ 三国志さんごくしこころざし ちょうあきらでん
  9. ^ a b 三国志さんごくしこころざし くれぬしでん
  10. ^ a b くれろく
  11. ^ 三国志さんごくしこころざし しゅう瑜伝
  12. ^ 三国志さんごくしこころざし さんしょうみかどたからちょすすむ
  13. ^ 三国志さんごくしこころざし くれぬしでんく『通語つうご

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • ちん寿ひさし裴松ちゅう正史せいし 三国志さんごくし』、井波いなみ律子りつここんたかしん小南こみなみ一郎いちろう わけ解説かいせつちくま学芸がくげい文庫ぶんこぜん8かん、1992 - 93ねん)、※くれしょは6・7・8かん小南こみなみ一郎いちろうやく
  • せき史郎しろう周縁しゅうえん三国志さんごくし かんぞくにとってのさんこく時代じだい東方とうほう書店しょてん東方とうほう選書せんしょ 60〉、2023ねん5がつ31にちISBN 978-4-497-22307-4