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たから

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たからたから、かん ぽう、? - 336ねん)は、あずますすむ政治せいじ文人ぶんじんれいますくれぐんうみしおけん出身しゅっしんほんぬきなんじみなみぐんしん蔡県。『すすむしょ』につてがある。幼少ようしょうから学問がくもんこのみ、のちおうしるべうえ疏によって史官しかん必要ひつようみとめられると、推薦すいせんされて国史こくし編纂へんさんにし、その才能さいのうみとめられ著作ちょさくろうとなった。そのつねさむらいにまでなった。陰陽いんよう術数じゅっすうこのみ『えき』に興味きょうみをもち、『しゅうえきちゅう』『春秋しゅんじゅうひだりはこでんよし』『しゅうかんれいちゅう』などの著作ちょさくがあるほか、神仙しんせんうらないぼく妖怪ようかいなどについての説話せつわ伝説でんせつあつめた小説しょうせつしゅうさがせかみ』をのこしている[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

祖父そふみつるの奮武将軍しょうぐんていこうちち丹陽たんようけんすすむつとめていた。

おさないときより読書どくしょこのんだという。その才能さいのうによりされて著作ちょさくろうとして朝廷ちょうていつかえた。もり反乱はんらん平定へいていこうがあり、関内かんないこうになった。

当時とうじあずますすむ中興ちゅうこうはじまったばかりであったため、史官しかん設置せっちされていなかった。中書ちゅうしょかんおうしるべもとみかどたいして史官しかん設置せっち提言ていげんし、その人材じんざいとしてたから推薦すいせんした。たからもとみかどからみとめられて国史こくし編纂へんさん任務にんむ兼任けんにんするようになった。そしてせんみかどから愍帝までの53ねん事績じせきを20かんにまとめてあらわし、『すすむ』とだいして上奏じょうそうした。内容ないよう簡明かんめいただすべきところはただし、婉曲えんきょくにすべきところは婉曲えんきょくであったため、たから良吏りょうり評価ひょうかされたという。

いえまずしかったため、みずからすすんで山陰さんいん県令けんれいとなり、さらにはじめやすぐん太守たいしゅつとめた。おうしるべまねきをけてつかさみぎちょうとなり、つねさむらいいたった[2]

咸康2ねん336ねん)にくなったという[3]

著作ちょさく活動かつどう[編集へんしゅう]

たから陰陽いんようじゅつ関心かんしんがあり、きょうぼうなつほうまさるらの著作ちょさく調しらべたりした。

たからちち生前せいぜん寵愛ちょうあいした侍女じじょがいたが、ちち死後しごはは嫉妬しっとしてその侍女じじょきたままちちはかめてしまったことがあったという。10ねんほどのちはは死去しきょすると、たからちちはかひらいてみたところ、その侍女じじょはまるできているかのような姿すがたかんよこたえており、数日すうじつにはいきかえした。はなしくと、んでいるちち侍女じじょのために食料しょくりょうってきて、生前せいぜんのときのように寵愛ちょうあいしてくれたという[4]。それからというもの、その侍女じじょ吉凶きっきょうをいいあてる能力のうりょくそなえ、やがてとついでした。

また、たからあに病気びょうきになってそのまま絶命ぜつめいしたが、いつまでたってもからだつめたくならず、のち目覚めざめて、天地てんちあいだおに様子ようすのぞいており、自分じぶんんでいるという自覚じかくはなかったとかたった。

こうした身内みうち体験たいけんしたかい出来事できごとをきっかけに、世間せけんつたわる不思議ふしぎ人物じんぶつ事件じけん記録きろくあつめてこころざしかい小説しょうせつしゅうさがせかみ』(ぜん30かん)をせんした。りゅうせたところ、たからのことを「おに世界せかいただしきつね」とひょうし、ひろ事実じじつあつめてあるが、虚実きょじつざってしまっていると意見いけんした。そのため、たからじょつくってそのこころざしべた。

著作ちょさくに『春秋しゅんじゅうひだり外伝がいでん』があり、また『しゅうえき』や『しゅうかん』のちゅうあらわし、当時とうじはよくまれたという。『すすむ』もふくめて現在げんざいほとんどつたわっていない。

すすむ[編集へんしゅう]

たからの『すすむ[5][6]にいう。ぶんみかど曹丕広陵こうりょう姿すがたをあらわすと、人々ひとびとおおいにおどろおそれて、長江ちょうこう沿ってにせ城壁じょうへきつくった。それは石頭いしあたまからこうじょうにまでおよぶもので、木材もくざい骨組ほねぐみをつくり、それにあしのむしろをかぶせ、さいかざり(かざり)をくわえて、いちばんのうちに出来上できあがった。ものたちは長江ちょうこう西岸せいがんからこれをのぞめてひどく不安ふあんにかられ、そのままぐんげた。

まごけんは、ちょういたることのなりゆきを算木さんぎうらなわせた。ちょういたるった、「曹丕はげました。しかしながら、かのえとし衰亡すいぼういたします」。まごけんった、「なんねんあとのかのえだ」。ちょういたるゆびってかぞえてった、「じゅうはちねんでございます」。まごけんった、「現在げんざいのことを心配しんぱいするのでいっぱいで、とおさきのことなどかんがえておられぬ。そんなことは子孫しそんたちのことだ」[7][8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 仲畑なかはたしん (1988ねん12月25にち). “たからえきちゅう特徴とくちょう”. 中国ちゅうごく思想しそう研究けんきゅう: 31−33. 
  2. ^ 魯迅ろじん中国ちゅうごく小説しょうせつりゃく うえ』ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、1997ねん、83ぺーじ 
  3. ^ もとかさたてやすし実録じつろくまきなな
  4. ^ 魯迅ろじん中国ちゅうごく小説しょうせつりゃく うえ』ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、1997ねん、86ぺーじ 
  5. ^ 渡邊わたなべ義浩よしひろ (2017). “たからの『すすむ』と「ひだりでんからだ」”. 東洋とうよう研究けんきゅう. 
  6. ^ 高西たかにし成介しげゆき (1998). “六朝りくちょう文人ぶんじんでん : 『すすむしょ』(まきはちじゅう)宝伝ほうでん”. 中国ちゅうごく中世ちゅうせい文学ぶんがく研究けんきゅう. 
  7. ^ 三国志さんごくし くれしょしゅつて だい
  8. ^ 竹田たけだあきら (1965). “たから試論しろん--「すすむ」と「さがせかみ」のあいだ”. 東京とうきょうささえがくほう. 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]