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はんあきら

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はんあきら

溧陽こうみぎ将軍しょうぐん
出生しゅっしょう 生年せいねん不明ふめい
兗州ひがしぐんはつけん
死去しきょ よしみ3ねん234ねん
拼音 Pān Zhāng
ぶん
主君しゅくん まごけん
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はん あきら(はん しょう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい武将ぶしょうつかえた。ぶん兗州ひがしぐんはつけんひとはんたいら

経歴けいれき[編集へんしゅう]

15さいまごけんけんちょうだったときに、まごけん追随ついずいはじめた。はんあきら放蕩ほうとう性格せいかくさけこのみ、わかころまずしかったが、平気へいきでつけでさけみ、出世しゅっせばらいでかえすと大言壮語たいげんそうごしていた。まごけんにその性格せいかくあいされ、募兵ぼへい任務にんむ担当たんとうし、あつまったへいたち部将ぶしょうにそのままてられた。のち山越やまこし征伐せいばつ功績こうせきげ、べつ司馬しばとなった。

中央ちゅうおう市場いちば取締とりしまやくまかされたときは、市場いちば盗難とうなん殺人さつじんがなくなった。これにより評判ひょうばんたかめ、あきらぐん西安しーあんけんちょうとなった。当時とうじ荊州りゅうひょう配下はいかものたちいく略奪りゃくだつはたらいていたが、はんあきら着任ちゃくにん侵攻しんこうしずまりかえった。また、となりたてあきら反乱はんらんきると、任地にんちたてあきらうつされ、たけたけしこうじょうくわえられた。1カ月かげつ反乱はんらん鎮圧ちんあつし、散逸さんいつしたみんあつめ、兵士へいしを8ひゃくにんほどやしけんぎょう帰還きかんした。

たてやすし20ねん215ねん)、まごけんりゅうつぶさに荊州返還へんかんもとめるがりゅう備はおうじず、りょこうむとうともに荊南さんぐんり、りょこうむさんぐんまごかわまかせてそののうちにえきかっている。

ごうこえたたかでは曹操そうそうぐんちょうりょう急襲きゅうしゅうするまえ先遣せんけん部隊ぶたいちんたけし戦死せんしし、そうけんじょもりぐんやぶ兵士へいしそうとする。このあまりに不意ふい攻撃こうげきに、まごけんぐん先遣せんけん部隊ぶたいはすっかり意気いき消沈しょうちんし、はんあきら後方こうほうからうまって前線ぜんせんおもむき、逃亡とうぼうするそうけんぐんじょもりぐん兵士へいしを2めいほどったので逃亡とうぼうしていたへいってかえしてこれとたたかったが、先遣せんけん部隊ぶたい崩壊ほうかいふせいだ。はんあきらちんたけしじょもりそうけんらの軍勢ぐんぜいれ、ちょうりょうめた。はんあきらにより士気しきくれぐんかえし、これをまごけんはんあきら現場げんば判断はんだんりょくたか評価ひょうか、この功績こうせきまごけんみとめられへん将軍しょうぐんとなり、ひゃくこう任務にんむまかされ、はんしゅう駐屯ちゅうとんした。

けんやす24ねん219ねん)のせきはね討伐とうばつでは、しゅしかとともにせきはね退路たいろ任務にんむけ、臨沮へおもむき夾石へぐんすすめた。部下ぶかうまただしせきせきたいらちょうるいりにする功績こうせきげたため、むべみやこぐんよりみこ・秭帰の2けん分割ぶんかつして新設しんせつされたかたりょう太守たいしゅまかされ、さらに将軍しょうぐん・溧陽こうとなった。

あまやすし死去しきょすると、そのぐん指揮しきまかされた。たけし元年がんねん222ねん)、えびすりょうたたかにも参戦さんせんりくへりくだ協力きょうりょくしてしょくかんりゅうやぶった。部下ぶかしょくだいとくをしていた馮習るという大功たいこうて、そのてきしょう兵士へいしおおくを殺傷さっしょうしたため、ひらきた将軍しょうぐんじょう太守たいしゅとなった。

同年どうねんたかし曹真なつこうなおちょうらがみなみぐんめ、援軍えんぐんおもむいたまごもりちょう郃に撃退げきたいされた。なつほうしょう先鋒せんぽうのうちの3まんにんひきいて、うわきょうつくってひゃくさとしゅうわたり、そこに陣営じんえいもう軍勢ぐんぜい駐屯ちゅうとんさせた。はんあきら・楊粲は包囲ほういもう突入とつにゅうできず、一時いちじてき後退こうたいした。しょかずら瑾・楊粲が手勢てぜいわせて救援きゅうえんけつけたが、なすすべをらなかった。大量たいりょうぐん毎日まいにち続々ぞくぞく中洲なかすへとわたった。はんあきらは「軍勢ぐんぜいはじさかんで、こうみずもまだあさく、まだたたかうべきではありませぬ」といた。はんあきらぐんりょく温存おんぞんすると、ぐん攻勢こうせいけていた。手勢てぜいひきいてぐんよりじゅうさとほど上流じょうりゅうき、水城みずききずいてみずめ、すうひゃくまんたばあしってだいいかだつくり、けてながし、浮橋うきはしはらおうとした。ちょうどいかだつくえて増水ぞうすいせてながそうとしたとき、この計画けいかく実行じっこううつまえなつほうしょうは曹丕の勅命ちょくめい中州なかすから撤退てったいした。くれぐんはこれを見逃みのがさず、水城みずき満潮まんちょう水軍すいぐん追撃ついげき敢行かんこうし、しょかずら瑾等とともぐんくるしめ、おおくのぐん遭難そうなんしたとある。たたかりょこうむのちいでりくこう守備しゅびにあたることになった[1]

5ねん226ねん)、まごけん江夏えなつめたが、はんあきら参加さんかした。殿軍でんぐんはんあきらまかせて撤退てったいすると、夜間やかん撤退てったい途中とちゅう混乱こんらんしょうじ、はんあきらはこれをめられず、ぶん聘は殿軍でんぐん部隊ぶたい追撃ついげき散々さんざんやぶった。しゅしかは、すぐさまってかえすとぶん聘を撤退てったいさせ、自軍じぐん撤退てったい成功せいこうしたのを見届みとどけてから自身じしん悠々ゆうゆう退却たいきゃくした。

7ねん228ねん)のいしていたたかいでは、しゅう魴がにせくだ調しらべりゃくのための曹休にてた手紙てがみなかで、はんあきらが、りくへりくだともうめじき討伐とうばつし、平定へいていした。実際じっさいにこうした命令めいれいがあったがどうかは不明ふめいである。

りゅう元年がんねん229ねん)、まごけん帝位ていいにつくとみぎ将軍しょうぐん昇進しょうしんした。よしみ3ねん234ねん)、死去しきょした。素行そこう不良ふりょう理由りゆうとして、かい稽郡強制きょうせい移住いじゅうさせられた。つまけんぎょう田地でんち屋敷やしき下賜かしされ、小作こさくじん50租税そぜい免除めんじょされた。

逸聞いつぶん[編集へんしゅう]

はんあきら性格せいかく粗暴そぼう勇猛ゆうもうであったが、禁令きんれいはよく実施じっしした。功績こうせきてることをのぞみ、ひきいるぐんすうせんにんぎなかったが、どこでもいちまん軍勢ぐんぜいのようなはたらきをしめした。またたたかいが一段落いちだんらくすると、ぐん管理かんりする市場いちばひらき、部隊ぶたい物品ぶっぴん不足ふそくがあれば、みなはんあきら市場いちば補充ほじゅうさせた。

しかし、はんあきら強欲ごうよく金銭きんせん執着しゅうちゃくするところがあり、晩年ばんねんにそれが一層いっそうひどくなって、身分みぶん不相応ふそうおう服装ふくそうこのんだり、ゆたかな役人やくにん兵士へいし殺害さつがい財産ざいさん没収ぼっしゅうするなど、不法ふほう行為こういなんこした。監察かんさつ役人やくにんがこのことをなん上奏じょうそうしたが、まごけんはんあきら功績こうせきしんでいつもつみわなかった。

はんあきらへん将軍しょうぐんとなり、せきはねりにしてかたりょう太守たいしゅ任命にんめいされた。まごけんはんあきらいちりのかたなつくり、「かたりょう」と銘打めいうった[2]

三国志さんごくし演義えんぎ[編集へんしゅう]

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』においては、まごけん国主こくしゅになったのちあつまってきた武将ぶしょう一人ひとりとしてがり、まごけん将軍しょうぐんとしてなんかい名前なまえ登場とうじょうする。江夏えなつ攻略こうりゃくせんあかかべたたかい・みなみぐん攻略こうりゃくせん・濡須こうたたかい・皖城攻略こうりゃくせんせきはね討伐とうばつせんえびすりょう防衛ぼうえいせん参加さんかした。

江夏えなつ攻略こうりゃくせんではらえる。

三江みえこうたたかいではしゅう瑜の指示しじ三江みえこう陣取じんどることになりしのげみつるともだい3たいとして出陣しゅつじんした。あかかべたたかいではしゅう瑜のさくだい6じんとして3せんにんれてただしかさねむかえる。がらすりんたたかいではただしかさねとも敗走はいそうする曹操そうそうぐんにそれぞれけてときこえをあげ、四方しほう陣太鼓じんだいこがとどろきわたった。

みなみぐん攻略こうりゃくせんではしゅう瑜のんだふりにだまされたてきは、うしきん先鋒せんぽうに、曹仁はちゅうぐん、曹洪・曹純を後詰ごづめとしてちん矯だけをしろのこして夜襲やしゅうをかけてきたが、しゅう瑜の本陣ほんじんはもぬけのそらひがしからはかんとう・蔣欽、西にしからしゅうやすしはんあきらみなみからじょもりちょうたてまつきたからちんたけしりょこうむひがし西にしきたくれぐんともに曹軍を撃退げきたいした。

りゅう備がまご夫人ふじんとの婚礼こんれいのためおとずれ、のちにまご夫人ふじんれて荊州に逃走とうそうしたときは、ちんたけしとともに追撃ついげきにんまごけんからまかされるが、ちょうあきら2人ふたりではまご夫人ふじん相手あいてつとまらないだろうといわれ、まご夫人ふじん一喝いっかつされかえしている。

濡須こうたたかいでは、曹操そうそうが40まん以上いじょう軍勢ぐんぜいひきいてせる。まごけん挑発ちょうはつされたため、おこった曹操そうそう部下ぶか全員ぜんいんめいじてまごけんりにしようとしますが、このさいまごけんうしろからひだり右翼うよくまごけんぐんあらわれた。みぎからかんとうしゅうやすしみなみからちんたけしはんあきらよんにん弓矢ゆみやたい3000にんひきいててきぜんぐん撃退げきたいした。てきぐん総崩そうくずれに、曹操そうそうあめしたもと褚にすくわれた。

皖城攻略こうりゃくせんにおいて、りょこうむあまやすし先鋒せんぽうとなり、蔣欽・はんあきら後詰ごづめつとめた。

せきはね討伐とうばつでは正史せいしどおりの活躍かつやくせ、あおりゅう偃月刀えんげつとう褒美ほうびとしてあたえられる。えびすりょうたたかいでは、せきはねかたきとしてただしねらわれまわるが、このときはうまただしすくわれ、ぎゃくちゅう戦死せんしさせている。しかしつぎせきせききょうねらわれ、やはりまわった挙句あげく寝食しんしょくもとおとずれた民家みんかせききょう鉢合はちあわせし、せきはね亡霊ぼうれいひるんだところをせききょうころされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ くれしょはんあきらあまやすしきょくりょこうむ駐屯ちゅうとんぎ、りくこうまもりについた。
  2. ^ 古今ここん刀剣とうけんろく