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はん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

はん(ご はん、? - たけし5ねん226ねん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいにかけてのうらないしゃ文則ふみのりあげしゅうかい稽郡うえおそれけん出身しゅっしんうらないに熟達じゅくたつし、はちぜっ[1]1人ひとりかぞえられた。

生涯しょうがい

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暦数れきすう[2]おさめ、風気かざけ[3]ことから、そのぐんないわたっていた。有道ありみち[4]推挙すいきょされ、招聘しょうへいされるが、みだれていることから上洛じょうらくせず[5]東南とうなん旗揚はたあげしたまごけんしたおもむいた。わざわいこと吉祥きっしょうのあるごとにその意味いみするところを推定すいていして予言よげんおこない、そのじゅつはしばしば効験こうけんをもたらしたので、さらにひろられるようになった。

たてやすし12ねん207ねん)、討伐とうばつかおうとするまごけんを「今年ことしすくないので来年らいねんいでしょう。来年らいねんにはりゅうひょう死去しきょこくほろびます」といさめた。まごけんかまわず出兵しゅっぺいしたが、くだすことは出来できなかった。

けんやす13ねん208ねん)、まごけん再度さいど討伐とうばつ同行どうこうひろちかくまですすんだときはん風気かざけ観察かんさつするや「勝利しょうりうたがいありません」といわいの言葉ことばべた。まごけんてき本拠地ほんきょちくと攻撃こうげき仕掛しかけ、勝利しょうりおさめたが、やみまぎれて逃走とうそうした。がしたかとくやしがるまごけんたいし、はんは「かならりにできます」とうらなった。すると夜明よあまえにはとらえられた。さらに前年ぜんねん予言よげんどおり、このとしうちりゅうひょう病死びょうしした。

けんやす17ねん212ねん)、「2ねんりゅうえきしゅうるでしょう」と予言よげんした。えきしゅう調査ちょうさから帰還きかんしたりょは「りゅう備の配下はいからばってしまい、死者ししゃ半数はんすうたっしているので、りゅう備の侵攻しんこう失敗しっぱいするでしょう」とまごけん報告ほうこくした。しかしまたはん予言よげんどおり、けんやす19ねん214ねん)にりゅう備はりゅうあきらくだした。

けんやす24ねん219ねん)、りょこうむ攻撃こうげきむぎじょうめられたりゅう備配せきはねは、使者ししゃおくって降伏ごうぶくもうれた。それが本心ほんしんかどうかとまごけんたずねられたはんは「むぎじょうにははしろうというあらわれています。本心ほんしんからの降伏ごうぶくではないでしょう」とこたえた。このためまごけんはんあきらめいじて、予想よそうされる逃走とうそうあみらせた。斥候せっこうむぎじょうせき姿すがたすでにないことを報告ほうこくすると、はんは「明日あした正午しょうごにはとらえられましょう」と予言よげんした。翌日よくじつ正午しょうごせきはね捕縛ほばく報告ほうこくまごけんとどいた。

りょうぐん脅威きょういとなっていたせきはね討伐とうばつもあり、まごけん曹丕たかし友好ゆうこう関係かんけいにあったが、はんは「たくらみをいているので、それにたいするそなえをおこたらないようにすべきです」と進言しんげんしていた。一方いっぽうせきはねうしなったしょくかんりゅう備は激怒げきどし、はつ2ねん221ねん)からはけて侵攻しんこうする(えびすりょうたたか)がこれについては「くれしょく両国りょうこくはやがて和親わしんするでしょう」とべた。やがて敵対てきたい関係かんけいいた一方いっぽうりゅう備死しょくかんとは同盟どうめいむすんだ。

まごけんはんじょうふとしれいにんずると、しばしばかれのもとをおとずれその予言よげん秘訣ひけつたずねたが、はんはこれをしみかくしておしえなかった。このことはまごけん不満ふまんまねいたが、はんは、自分じぶんおもんじられているのはそれが秘術ひじゅつなればこそであり、秘術ひじゅつでなくなればてられるだけとかんがえていた。

5ねん(226ねん)、はん病気びょうきのため死去しきょした。このとき長男ちょうなんすでくなり、次男じなんはまだおさなかったため、かれ秘術ひじゅつだれにもつたえられなかった。まごけんはんのような秘術ひじゅつった人物じんぶつさがすよう各地かくち命令めいれいしたが、結局けっきょくそういう人物じんぶつつけることはできなかった。

逸話いつわ

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まごけんがまだ将軍しょうぐんだったころはんは「江南こうなんには王者おうじゃがあり、からとしあたりにおおきな慶事けいじがあるでしょう」と予言よげんし、それにたいまごけんは「もしその言葉ことば成就じょうじゅしたら、あなたをほうふうじよう」とこたえていた。まごけんくれおうになったのちはんからこの約束やくそくのことをされると、かれほう印綬いんじゅあたえようとした。しかしはんはそれがかたちだけのパフォーマンスとさとり、固辞こじして印綬いんじゅらなかった。のち功績こうせき評定ひょうじょうされ、はんていこうにんぜられるところだったが、まごけん以前いぜんからはん秘術ひじゅつおしえようとしなかったことをおもし、みことのり公布こうふされる直前ちょくぜんに、はんけずってしまった。

一本気いっぽんぎ性格せいかく自負じふしんたかかったが、したしいものたちとは終始しゅうしわりのないまじわりをたもっていた。あるとき友人ゆうじんたかしあがつみおかし、それにたいするまごけんいかりは尋常じんじょうではなく、助命じょめいうようなものがいれば死罪しざいしょすと宣言せんげんした。はんあがのためにあたま坊主ぼうずにし、みずからをなわしばってまごけんした出頭しゅっとうすると、あたまゆかちつけ、ながしながらあが助命じょめい懇願こんがんした。このためにまごけん気持きもちはおさまり、たかしあがつみゆるされた。

はんまえもってみずからのると、まごけんかい、「陛下へいかはこの軍師ぐんしうしなわれることになりましょう」とった。まごけんが「わたし軍師ぐんしなどたぬのに、どうしてそれをうしなうことなどあろう」とかえすと、さらにこたえていわく。「陛下へいかぐんうごかしててきのぞときかならわたし言葉ことばってから行動こうどうこされました。ですからわたし陛下へいか軍師ぐんしなのです」と。その予言よげんどおりのはん死去しきょした。

出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ すめらぎぞうしょ)、いむたけし囲碁いご)、そう寿ひさしゆめうらない)、不興ふきょう絵画かいが)、ていおうな人相にんそう判断はんだん)、りゅうあつし天文てんもんうらないすう)、ちょういたるきゅうみやいち算術さんじゅつ)の7にん。『三国志さんごくししょ ちょういたるでんより。
  2. ^ 毎年まいとしこよみ作成さくせいするためのしょ原則げんそく
  3. ^ ふうみ、うらなうこと。
  4. ^ さときょさとせん科目かもくの1つ。
  5. ^ 三国志さんごくししょ とうけんつてちゅうこう漢書かんしょ』(しゃうけたまわちょ)には、ちょう招聘しょうへいのぞとうけんが「あげしゅう従事じゅうじかい稽のはんに(ちょう昱への)命令めいれいつたえさせた」という記述きじゅつがあり、これはまごけんつかえるまえ出来事できごととなる。ただしほんこう記載きさいはんどう一人物いちじんぶつ確実かくじつではない。