しょくかん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しょくから転送てんそう
しょくかん
後漢 221ねん - 263ねん 魏 (三国)
蜀の位置
しょく領域りょういき左下ひだりした
公用こうよう 上古じょうこ漢語かんご
宗教しゅうきょう 儒教じゅきょう道教どうきょう民間みんかん信仰しんこう
首都しゅと 成都せいと
皇帝こうてい
221ねん - 223ねん あきられつみかど
223ねん - 263ねんふところみかど
丞相じょうしょうだい司馬しば大将軍だいしょうぐん
221ねん - 234ねんしょかずらあきら丞相じょうしょう
234ねん - 246ねん蔣琬だい司馬しば
246ねん - 253ねん大将軍だいしょうぐん
253ねん - 263ねんきょう大将軍だいしょうぐん
人口じんこう
221ねん900,000にん
263ねん1,082,000にん
変遷へんせん
建国けんこく 221ねん5月15にち
によって滅亡めつぼう263ねん12月23にち
通貨つうか銖銭
現在げんざい中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくミャンマーの旗 ミャンマーごく一部いちぶ
中国歴史
中国ちゅうごく歴史れきし
先史せんし時代じだい中国語ちゅうごくごばん
ちゅう石器せっき時代じだい中国語ちゅうごくごばん
しん石器せっき時代じだい
さんすめらぎみかど
いにしえこく時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい
長江ながえ文明ふみあき
りょうかわ文明ぶんめい
なつ
いん
しゅう西にしあまね
しゅう
あずまあまね
春秋しゅんじゅう時代じだい
戦国せんごく時代じだい
はた
かん前漢ぜんかん
しん
かんこうかん

孫呉そんご
かん
しょくかん
たかし
曹魏
すすむ西にしすすむ
すすむあずますすむ じゅうろくこく
そうりゅうそう たかしきたたかし
ひとしみなみひとし
りょう たかし
(西にしたかし)
たかし
(あずまたかし)
ひね りょう
(こうはり)
しゅう
(きたあまね)
ひとし
(きたひとし)
ずい
とう  
しゅうたけあまね
 
だいじゅうこく ちぎり
そう
きたそう
なつ
(西にしなつ)
りょう
そう
みなみそう
きむ
もと
あきら もと
(北元きたもと)
あきら
南明なんめい
じゅん 後金あときん
 
きよし
 
中華民国ちゅうかみんこく まんしゅう
 
中華ちゅうか人民じんみん
共和きょうわこく
中華ちゅうか
みんこく

台湾たいわん

しょくかん(しょくかん/しょっかん、221ねん - 263ねん)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいりゅう[注釈ちゅうしゃく 1]ともえしょくえきしゅう現在げんざい四川しせんしょう湖北こほくしょう一帯いったいおよび雲南うんなんしょう一部いちぶ)にてたくに

歴史れきしじょうしょく割拠かっきょした王朝おうちょう多数たすうあるが、王朝おうちょうして「しょく」とった場合ばあいおおくはしょくかんす。

概要がいよう[編集へんしゅう]

しょくたかしともさんこく時代じだい形成けいせいしたいちこくである。ともえしょく領土りょうどとし、成都せいとさだめた。

しょくかん」は後世こうせいしょうであり、正式せいしき王朝おうちょうめいは「かん」である。これはぶんみかど曹丕こうかんほろぼして即位そくいしたときに、りゅう備がかん正統せいとうぐとせんしたためである[1]したがってどう時代じだいに「しょくかん」をみずか名乗なのったわけではない。かん後継こうけいであることをみとめないたかし立場たちばでは当時とうじから「しょく」とばれた。

どう時代じだいしょうとしては、しょくかんしんからかんばれたれいがある[2]。「」は「すえ」の意味いみであり、「かん正統せいとう最後さいごいだもの」ということになる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

りゅう備の台頭たいとう[編集へんしゅう]

こうかん末期まっきしゅうまき設置せっち建言けんげんしたりゅうみずか名乗なのえきしゅう赴任ふにんし、現地げんち豪族ごうぞく助力じょりょく地方ちほう政権せいけんきずく。194ねんりゅう焉が死去しきょりゅう焉のよんなんりゅうあきらいでえきしゅうまき就任しゅうにんするが、りゅうあきら暗愚あんぐだとひょうされていた。

207ねんころ荊州まきりゅうひょうもとせていたりゅうしょかずらあきら三顧さんこれいにてまねれる。このときに荊州・えきしゅうってまごけん曹操そうそうやぶるといういわゆる天下てんかさんぶんけいかれ、208ねんまごけんともあかかべたたか曹操そうそうやぶり、209ねんに荊州南部なんぶの4ぐん制圧せいあつした。

にゅうしょくかんちゅうおう即位そくい[編集へんしゅう]

212ねんから214ねんにかけて、りゅう備はりゅうあきら配下はいかちょうまつ法正のりまさはじめたちらの手引てびきで、りゅうあきらから領土りょうどうばい、えきしゅう大半たいはんた(にゅうしょく)。ひだり将軍しょうぐんにはちょうもとやすし、営司龐羲従事じゅうじちゅうろうせきじょうぞくりゅうともみ楊儀うまりょううまいさおといったりゅう備の初期しょき政権せいけん中核ちゅうかくとなる人物じんぶつ任命にんめいされた。

215ねんまごけん領土りょうどのことで係争けいそうになり、荊州南部なんぶぐん東側ひがしがわまごけん割譲かつじょうした。

219ねんりゅう備はかんちゅう守備しゅびしているなつほうふかしり(じょうぐんやまたたか)、曹操そうそうからかんちゅうぐんうばってかんちゅうおうになった。りゅう備の配下はいかせきはねは荊州方面ほうめんから曹操そうそうりょう侵攻しんこうしたが、曹操そうそうひそかに同盟どうめいむすんだまごけんりょこうむに荊州を攻撃こうげきされ、荊州は失陥しっかんし、せきはね捕虜ほりょとなりまごけん処刑しょけいされた(樊城のたたか)。

しょくかん建国けんこく[編集へんしゅう]

220ねん曹丕こうかんはいし、建国けんこくすると、221ねんりゅう備は対抗たいこうしてかん皇帝こうていとなった[1]しょかずらあきららにしょく法律ほうりつであるしょく制定せいていさせ、ほう制度せいど充実じゅうじつさせた。さらにりゅうともみ提案ていあんしたがい、あたらしい貨幣かへいつくり、貨幣かへい制度せいど整備せいびした。えきしゅう鉱物こうぶつ資源しげん豊富ほうふしお産出さんしゅつしたため、りゅう備はしおてつ専売せんばいによる利益りえきはかしおこうじょうつかさしおこうじょう)を設置せっちし、しおてつ専売せんばいにより国庫こっこ収入しゅうにゅう大幅おおはば増加ぞうかさせた。

222ねん、荊州奪還だっかんせきはねかたきちのためめるも、りくへりくだまえ大敗たいはいした(えびすりょうたたか)。このさいしょくぐんうまりょうをはじめとしたおもだった将兵しょうへい戦死せんししたため、おおくの人材じんざいうしない、その軍事ぐんじりょくおおいにおとろえた。同年どうねんりゅう備はまごけん和睦わぼくむすんだ。

223ねんりゅう備はしょかずらあきら後事こうじたくして崩御ほうぎょのちあきられつみかどおくりなされた。りゅう備のあとりゅうぜんぎ、しょかずらあきら丞相じょうしょうとして政務せいむった。

そのえきしゅう南部なんぶ雍闓こうじょうらが反乱はんらんこしたが、しょかずらあきららは225ねんえきしゅう南部なんぶよんぐん征討せいとうして反乱はんらん平定へいていした(みなみただし)。

しょかずらあきらきた[編集へんしゅう]

そしてしょかずらあきらたいしては、りゅう備の遺志いしきた敢行かんこうした。このきた出師すいしにあたり、しょかずらあきらりゅうぜんかなでじた『出師すいしひょう』は、当時とうじから現代げんだいいたるまで名文めいぶんとして非常ひじょうたか評価ひょうかされている。228ねん天水てんすいみなみやす安定あんていの3ぐんうばうが、先鋒せんぽう馬謖ばしょく軍令ぐんれい無視むしによりまちていちょう敗北はいぼくし(まちていたたか)、天水てんすいみなみやす安定あんていの3ぐんちょう郃らにうばかえされた。しょかずらあきら軍律ぐんりつ模範もはんてき遵守じゅんしゅせざるをない立場たちばであったため、自身じしん愛弟子まなでしである馬謖ばしょく処刑しょけいした。これが有名ゆうめい故事こじいて馬謖ばしょく」である。

同年どうねんふゆひねくらじょう攻撃こうげき食料しょくりょう不足ふそくにより撤退てったいするも(ちんくらたたか)、229ねんにはたけみやこ陰平かげひらの2ぐんうばった。同年どうねんまごけん皇帝こうていしょうし、しょくかんでは原則げんそくろんとしてまごけん即位そくいみとめるべきではないから同盟どうめい破棄はきすべきとの意見いけん続出ぞくしゅつした。しかししょかずらあきら対抗たいこうするために現時点げんじてんでの同盟どうめい破棄はき妥当だとうではないと説得せっとくし、しょくかんあらためて対等たいとう同盟どうめいむすんだ[注釈ちゅうしゃく 2]同時どうじに、りょう分配ぶんぱいについてもめた[注釈ちゅうしゃく 3]

その祁山周辺しゅうへんにおいてとの攻防こうぼうつづき、231ねんの祁山攻撃こうげきではふたた食料しょくりょう不足ふそく撤退てったいしたものの、追撃ついげきしてきたちょう郃を射殺しゃさつしている(祁山のたたか)。しかし、しょかずらあきら地位ちいにあったみやこまもる・驃騎将軍しょうぐんいわおがこのたたかいで兵站へいたん問題もんだいこして失脚しっきゃくし、政治せいじ軍事ぐんじ重圧じゅうあつしょかずらあきら一層いっそうのしかかることになった。233ねんにはまたもえきしゅう南部なんぶ南西なんせいえびすりゅうかぶと反乱はんらんこし、うまただしちょうらが反乱はんらん平定へいていしている。234ねんにはしょかずらあきら五丈原ごじょうげんにおいてやまいたおれ、陣中じんちゅう死去しきょした(五丈原ごじょうげんたたか)。

衰退すいたい滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

しょかずらあきら死後しごは、しょかずらあきらきたささえたが協調きょうちょうせいなんがあったのべ楊儀粛清しゅくせいされ、蔣琬中心ちゅうしんただしまこときょうちょうつばさと、かんちゅうとの国境こっきょうまもおうたいらしゅうとの国境こっきょうまも鄧芝政務せいむ軍政ぐんせい担当たんとうし、大々的だいだいてききたひかえて内政ないせい充実じゅうじつつとめた。244ねん曹爽なつほうげんかくらが侵攻しんこうしてたが、おうたいら禕らが撃退げきたいした。ではこのころ司馬しば一族いちぞく専横せんおうによって政局せいきょく混乱こんらんしており、それをきらったしょうなつこうしょく投降とうこうした。

しかし246ねんに蔣琬・ただしまこと相次あいついで死去しきょし、253ねん禕の死後しごには、最早もはやしょくささえる政治せいじはいなくなり、きょう維やちんらが国政こくせいり、きた再開さいかいされる。255ねんには大勝たいしょうしたものの、256ねんだんだにたたかではぎゃく大敗たいはいし、相次あいつきたしょく疲弊ひへいした。258ねん宦官かんがんあきら政治せいじ権力けんりょくにぎり、あきら重用じゅうようしたりゅうぜん悪政あくせいにより、宮中きゅうちゅうみだ国力こくりょくおおいに衰退すいたいした。

そして263ねん実権じっけんにぎっていた司馬しばあきらしょく討伐とうばつ命令めいれいする。きょう維らはけんかくぐん抵抗ていこうしたが、対峙たいじしているあいだ別働隊べつどうたい迂回うかいしてしょく進入しんにゅう綿めんちく援軍えんぐん到着とうちゃくするまえしょかずらられた。このらせをいたりゅうぜん南方なんぽうくれへの逃亡とうぼうはかろうとしたが、譙周反対はんたいされぐん成都せいとせままえ降伏ごうぶくしょくさんこくなかもっとはや滅亡めつぼうした(しょくかん滅亡めつぼう)。りゅうぜんなんであるりゅう妻子さいし憤死ふんしし、その成都せいとこった反乱はんらん皇太子こうたいしりゅう殺害さつがいされるなどの混乱こんらんはあったものの、りゅうぜん自身じしんたかし西にしすすむ両朝りょうちょうで「安楽あんらくこう」にふうじられ、271ねんに65さいくなるまできた。

ちん寿ひさしによれば、しょく歴史れきし編纂へんさんする役人やくにん史官しかん)を(ほとんどの期間きかんいておらず、くらしょく歴史れきし後世こうせいにあまりつたわらなかったようである。

りゅうのその[編集へんしゅう]

りゅうぜんはその先祖せんぞ代々だいだい土地とちであるかそけしゅう安楽あんらくけん安楽あんらくこうふうじられた。長男ちょうなんりゅう璿は先年せんねん戦乱せんらん先立さきだたれていたため、後継こうけいしゃめることになったが、次男じなんりゅうよういて、ろくなんりゅうまこと後継こうけいにしようとしたため、旧臣きゅうしんぶんりつらにいさめられた。271ねんに65さい死去しきょした。西にしすすむによっておもえこうおくりなされた。

安楽あんらくこういだりゅうまことは、道義どうぎうしないを度々たびたびおこない、旧臣きゅうしんなによじらに諫言されたという。最後さいごえいよしみらんまれ、りゅうまことふくめて一族いちぞく皆殺みなごろしにされた。ただ、したがえまごりゅうげんおとうとりゅうひさしまご)だけがびて、なりかんたよったという[3]

政治せいじ[編集へんしゅう]

しょくかん正統せいとうせい否定ひていしてその討伐とうばつ大義名分たいぎめいぶんとしていたため、「軍事ぐんじさい優先ゆうせんがた国家こっか」と評価ひょうかされるレベルの軍事ぐんじ重視じゅうしがたくにづくりをおこなっており、しょくかんぜん人口じんこうが90まんにんから100まんにんなのにたいし、兵士へいし官吏かんりだけで14まんにん人口じんこうの15%ちかくをめると特異とくい構造こうぞうとなっていた[4]。また、河北かほく出身しゅっしんであったりゅう備はせきちょうらととも各地かくち転々てんてんしたうえでようやく荊州の一部いちぶ勢力せいりょく基盤きばん確保かくほした存在そんざいぎず、自己じこ勢力せいりょく維持いじするためにも積極せっきょくてき軍備ぐんび増強ぞうきょう勢力せいりょく拡大かくだいつとめざるをず、しょかずらあきら提案ていあんしたぞくに「天下てんかさんぶんけい」ともしょうされる「たかしちゅうたい」はりゅう備の正当せいとうせい現状げんじょうかなった方針ほうしんであった[5]。また、りゅう備がゆたかな農業のうぎょう地帯ちたいであったえきしゅう確保かくほ城内じょうない金銀きんぎん将兵しょうへいたちにあたえてしまったのも、りゅう備の基盤きばんよわさゆえであり、そのために自己じこ政権せいけんづくりと国内こくない整備せいび必要ひつよう財源ざいげんすらも放出ほうしゅつしてしまった(しょくしょさきぬしでん』では穀物こくもつ布帛ふはくだけは回収かいしゅうしたとつたえている)[6]。そのため、りゅうともみ献策けんさくで「ちょくひゃくぜに」(1まい銖銭100まい相当そうとう)の貨幣かへい鋳造ちゅうぞうして強制きょうせいてき市場いちばながして物資ぶっしあつめることでしのぎ、一方いっぽうりゅうつぶさしたがった旧来きゅうらい豪族ごうぞく地主じぬしにはその土地とち所有しょゆう保証ほしょうすることでその経済けいざいてき打撃だげき抑制よくせいすることで反乱はんらん発生はっせいふせいだ[7]。さらにおうれんというすぐれた財務ざいむ官僚かんりょう登用とうようしててつしお専売せんばいせい機能きのうさせ、また絹織物きぬおりもの生産せいさん貿易ぼうえき管轄かんかつする「にしきかん」がもうけられるなど、財政ざいせい充実じゅうじつはかられた(ただし、これらの政策せいさく民間みんかん経済けいざいへの犠牲ぎせいともなうものでもあった)[8]。また、りゅう備の時代じだいすでしょかずらあきら国政こくせいのトップである丞相じょうしょうだけでなく、行政ぎょうせい実務じつむのトップであるろく尚書しょうしょごとね、さら地方ちほう政治せいじのトップであったえきしゅう刺史しし兼務けんむして軍事ぐんじだけでなく行政ぎょうせい経済けいざい完全かんぜん掌握しょうあくしていた[9]。なお、しょくかんでは人事じんじかんしては尚書しょうしょだい管轄かんかつしており、さら戸籍こせきについても管轄かんかつしていた可能かのうせいがあるという[10]

そのりゅう備はかんちゅうかんちゅうおうから皇帝こうてい即位そくいしたものの、荊州を喪失そうしつしてえびすりょうたたかいで敗退はいたいするなど苦境くきょうなかぼっし、しん皇帝こうていりゅうぜん丞相じょうしょうしょかずらあきらりゅう備の体制たいせいぐことになる。りゅう備のとも南中なんちゅうしょぐん反乱はんらんこし、しょかずらあきらみなみせい計画けいかくするがおうれんから反対はんたいける。しょかずらあきら計画けいかく背景はいけいの1つとして勢力せいりょく維持いじ拡大かくだいによって財政ざいせい基盤きばん強化きょうかはかろうとするものであったが、おうれん自己じこ財政ざいせい政策せいさく機能きのうしているなか本来ほんらい目的もくてきであるきた後回あとまわしにしてみなみせいおこなうメリットはすくないとみたのである。しかし、おうれん死去しきょすると専売せんばいせい不振ふしんとなり、結局けっきょくみなみせい実施じっしされ、南中なんちゅう地域ちいきから兵力へいりょく物資ぶっしることになった。ただし、「たかしちゅうたい」にもしるされたうち充実じゅうじつは荊州を領有りょうゆうしてはじめて実現じつげんできるものであり、荊州をうばわれた状況じょうきょうでは民間みんかん経済けいざい犠牲ぎせいにして軍備ぐんび強化きょうかいちこくはやきた目指めざすしかなく、しょかずらあきらの『出師すいしひょう』にも「えきしゅう疲弊ひへいせり」としるされている[11]。そのため、きたにおいてもかんちゅうなどにおける屯田とんでんてきにおける略奪りゃくだつ拉致らちおこなうことで、できるだけしょくかん物資ぶっし浪費ろうひしないようにするさくはかられることになる[12]。しかし、度重たびかさなるきたしょくかん国内こくないたいする度重たびかさなる臨時りんじ徴収ちょうしゅう実施じっしなど、より一層いっそう疲弊ひへいをもたらした。これにたいしてしょかずらあきらは、厳格げんかく法治ほうち思想しそう統制とうせい平時へいじにおける軍隊ぐんたい公共こうきょう事業じぎょうへの使用しようなどをおこない、国内こくない不満ふまんけさせる戦略せんりゃくつづけることできた体制たいせい維持いじ両立りょうりつ成功せいこうさせていった[13]

しょかずらあきら死後しごしょくかん体制たいせい一時いちじてき動揺どうようしたが、後継こうけいしゃである蔣琬は丞相じょうしょうにはかなかったものの、大将軍だいしょうぐんろく尚書しょうしょごとえきしゅう刺史しし兼務けんむしてしょかずらあきら地位ちいをほぼそのまま継承けいしょうした。また蔣琬はみやこただし軍師ぐんしかんぐんりょうぐんまもるぐんてんぐんさんぐんぐん中枢ちゅうすうとなる人物じんぶつ配置はいちし、ぐん安定あんていはかった。蔣琬はしょかずらあきら死去しきょすると尚書しょうしょれいとなり、すぐにあるきまもるくわえられた。同時どうじ鄧芝ぜん軍師ぐんし楊儀ちゅう軍師ぐんしこう軍師ぐんしきょうみぎかんぐんちょうつばさぜんりょうぐんおうたいらこうてんぐんとなり、くるま将軍しょうぐんとなったとともにかんちゅうぐんおよび成都せいと政権せいけんかせるやくになった[14]。蔣琬の死後しごにそのいだ禕も同様どうようであったが、これはしょかずらあきら存命ぞんめいちゅうに蔣琬はなでぐん将軍しょうぐん尚書しょうしょろう禕はなかまもるぐん尚書しょうしょれいと、いずれも軍事ぐんじけい尚書しょうしょけい職務しょくむ両方りょうほう経験けいけんしていたため、軍事ぐんじ行政ぎょうせい経済けいざい一元いちげんてき運営うんえいするしょかずらあきら政治せいじ手法しゅほう理解りかいしていたから可能かのうであったとみられている[15]。しかし、禕の没後ぼつごにその地位ちい継承けいしょうすべききょう維は、ろく尚書しょうしょごといたものの行政ぎょうせい実務じつむ関与かんよしておらず、もう1人ひとりひね祗は鎮軍将軍しょうぐんいたものの軍務ぐんむには関与かんよしていなかったため、しょかずらあきら政治せいじ手法しゅほうれなくなっていった。大将軍だいしょうぐんとして軍事ぐんじ掌握しょうあくするきょう維と尚書しょうしょれいとして行政ぎょうせい実務じつむ掌握しょうあくするひね祇は、対立たいりつする立場たちばにありながらもきた実現じつげんけて対立たいりつよりも協調きょうちょうする路線ろせんつづけた。しかし、きょう維のきた失敗しっぱいひね祇の死去しきょかれ登用とうようされた宦官かんがんあきら台頭たいとうによって、きょう維は軍事ぐんじめんではちょうつばさ閻宇尚書しょうしょがわからはしょかずらただし樊建、そして宦官かんがんあきらの3方向ほうこう反対はんたいからのげをけることになった。人事じんじあつか尚書しょうしょ足場あしばたないきょう維は、成都せいと帰還きかんすれば尚書しょうしょない反対はんたいによって確実かくじつ罷免ひめんされるため、成都せいと帰還きかんすることができなくなってしまった。しかし、反対はんたいたがいに対立たいりつ関係かんけいにあり、しょくかん末期まっき宮廷きゅうていは4分裂ぶんれつ様相ようそうせていた[16]。それでも鄧艾・鍾会のしょく侵攻しんこうさいしては、ちょうつばさしょかずら瞻・ただし厥らはきょう維とともにこれを迎撃げいげきしており、知略ちりゃく成都せいと陥落かんらくさせた鄧艾をのぞけばぐん撤退てったい間際まぎわまでんでいたなど、はげしい権力けんりょく闘争とうそうがあったにもかかわらず国内こくないにおける致命ちめいてき分裂ぶんれつ最後さいごまでしょうじなかった[17]

軍事ぐんじ[編集へんしゅう]

中心ちゅうしん発展はってんした中央ちゅうおうちゅうぐんしゅう特定とくてい地域ちいきまかされたとくひきいる地方ちほうぐんという制度せいど一部いちぶしょくにもれられた。しかし、複数ふくすうしゅう保有ほゆうするちがって、えきしゅういちしゅうのみのしょくかんではとく管轄かんかつする地域ちいき限定げんていてきである。しょく構成こうせいするかんちゅうともえしょく南中なんちゅうの4つのブロックが最大さいだいぐん管区かんくであり、かんちゅうにはへの防御ぼうぎょきた中心ちゅうしんとなるかんちゅうとくともえにはきたぐん永安えいあん守備しゅびぐん成都せいとあいだ中継ちゅうけいてんであり、その兵站へいたんささえるこう州都しゅうととくそなえる永安えいあんとく南中なんちゅう支配しはいする庲降とくがいた。そのほかにさらに小規模しょうきぼ特定とくてい場所ばしょ守備しゅびするとくとくぐんとくがいた。

またしょくかん特有とくゆう官職かんしょくとして「みやこまもる軍師ぐんしかんぐんりょうぐんまもるぐんてんぐんさんぐん」というものがある[18]同様どうよう官職かんしょくにもみられるが、しょく場合ばあいには序列じょれつとしてぐんごう優先ゆうせんするものであるという特徴とくちょうられている。この官職かんしょく丞相じょうしょう地位ちいちょうふみ司馬しば)、拠点きょてんとくとくだい規模きぼ出征しゅっせいぜん左右さゆうとくといった地位ちいわせで序列じょれつまる。いわお罷免ひめんする上表じょうひょうが、この序列じょれつしたがってつらねていることでられている[19]

しょかずらあきらぼっしたのち丞相じょうしょう地位ちいについたものはおらず、蔣琬や禕は大将軍だいしょうぐんろく尚書しょうしょごととして政治せいじ軍事ぐんじ掌握しょうあくした。ひとつにはしょかずらあきら同格どうかく地位ちいけたということがかんがえられる。また、かん復興ふっこうかかげ、ほろぼすことが国家こっか命題めいだいであり、首都しゅと成都せいと政権せいけん首座しゅざ大将軍だいしょうぐんかんちゅうから政務せいむおこな二元にげん政治せいじであってしょくかんにとっては、軍事ぐんじ組織そしき中心ちゅうしんにした政権せいけんのほうが運営うんえいしやすいという側面そくめんがあったとえる。

しょくかん正統せいとう論争ろんそう[編集へんしゅう]

しょくかんさんこくのうちでもっと国力こくりょくおと国家こっかであったが、後世こうせいこった正統せいとう論争ろんそう正閏せいじゅんろん)においてはその存在そんざいおおきく注目ちゅうもくされた。

みっつの王朝おうちょう鼎立ていりつしたさんこく時代じだいであるが、ちん寿ひさしは『三国志さんごくし』のなか曹操そうそう曹丕ら曹氏のみを皇帝こうていとしてみとめ、同時どうじ皇帝こうていしょうしたりゅうまごけん列伝れつでん収録しゅうろくして形式けいしきじょうかれらを臣下しんかとしてあつかうなど、さんこくうちたかしのみを正式せいしき王朝おうちょうとしてあつかった。ただ一方いっぽうでは「春秋しゅんじゅう筆法ひっぽう」でもっしょくかんもまた独立どくりつした王朝おうちょうとしての体裁ていさいっていたことをしるし、そのうえ故国ここくであるしょくかんとも差別さべつし、その正統せいとうせいうかがわせる記述きじゅつひそかにんでいた。

あずますすむ時代じだいすすむ王朝おうちょう中原なかはらかん民族みんぞく王朝おうちょう支配しはいされ、江南こうなんのがれざるをない状況じょうきょうにあった。また、あずますすむ弱体じゃくたいで、桓温桓玄父子ふしりゅうひろしによって禅譲ぜんじょうねらわれる状況じょうきょうにあった(最終さいしゅうてきにはりゅうひろしそうひら滅亡めつぼう)。そこで禅譲ぜんじょう否定ひていするため、すすむからの禅譲ぜんじょうによってではなく、こうかんしょくかんたおしてはじめて成立せいりつしたのだという主張しゅちょうまれた。正統せいとうせい否定ひていした結果けっかしょくかん正式せいしき王朝おうちょうなす、いわゆるしょくかん正統せいとうろんこりとなった。習鑿の『かんすすむ春秋しゅんじゅう』や袁宏の『こうかん』はそのような歴史れきしかん影響えいきょうけて成立せいりつした史料しりょうである。また『よん提要ていよう』は『かんすすむ春秋しゅんじゅう』のしょくかん正統せいとうろんを、中原なかはら曹魏われてともえしょくにのがれたしょくかんあずますすむ現況げんきょうかさわせたことによるとしている。また、中村なかむらけいなんじは『かんすすむ春秋しゅんじゅう』のしょくかん正統せいとうろんを、正統せいとうせい否定ひていすることでからすすむへの禅譲ぜんじょうさいきた事件じけんにおける司馬しば行為こうい正当せいとうする(たとえば、高貴こうきごうこう殺害さつがい皇帝こうてい殺害さつがいではなく、しょくかん正統せいとうはんする僭主せんしゅ殺害さつがいとしてあつかわれる)意図いとがあったとする[20]

なおかん民族みんぞく王朝おうちょうでは、匈奴きょうどりゅうふかしみずからをかん王朝おうちょう後継こうけいしゃ位置いちづけ、同時どうじりゅうぜん諡号しごう追贈ついぞうりゅう劉邦りゅうほうりゅうしげるともまつるなど、やはりしょくかんかん後継こうけいであるとなしていた。

きたそう成立せいりつした司馬しばひかりどおりかん』はそれまでの正史せいしるい総攬そうらんする大書たいしょであるが、このなかたかししょくかんはいずれも正統せいとう王朝おうちょうみとめられていない。司馬しばひかり統一とういつ王朝おうちょうのみを正統せいとうとしてあつかっているからである。しかしその紀年きねんには便宜上べんぎじょう元号げんごうもちいており、消極しょうきょくてきではあるが正統せいとうみとめる立場たちばにあった。ところがみなみそう時代じだいになると、ふたたしょくかん正統せいとうろん脚光きゃっこうびる。おんなしんぞくきむによってみなみそう王朝おうちょうあずますすむ同様どうよう江南こうなんいやられてしまったからである。そんななかしゅは『つうかん綱目こうもく』をへんし、しょくかん正統せいとうせい宣揚せんようした。またみなみそうしょうつねもとの郝経などは『つづけ漢書かんしょ』としょうする、『三国志さんごくし』をしょくかん正統せいとうろんもとづいてさい編集へんしゅうした史書ししょあらわした。これらはいずれもしょくかん本紀ほんぎて、曹操そうそうらの存在そんざい列伝れつでんへといやっている。

もと末明ほのかはつ成立せいりつした小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』においては、『つうかん綱目こうもく』の思想しそう歴史れきしかんおおきく作用さようしたため、しょくかん正統せいとうなる存在そんざいとして物語ものがたりじょう明確めいかく位置付いちづけられている。そしてきよしはつに『三国志さんごくし演義えんぎ』を改編かいへんしたもうはじめもまたそれを継承けいしょうして正統せいとうかんつよはたらかせ、しょくかん正統せいとうとしたうえで、たかしを僭国であるとだんじている。ここにりゅう備を善玉ぜんだま曹操そうそう悪玉あくだまとする三国志さんごくしかん確立かくりつしたとえる。

歴代れきだい皇帝こうてい[編集へんしゅう]

諡号しごう 通称つうしょう 姓名せいめい 在位ざいい 元号げんごう
あきられつみかど さきぬし りゅう 221ねん - 223ねん あきらたけ 221ねん-223ねん
ふところみかど こうあるじ りゅうぜん 223ねん - 263ねん けんきょう 223ねん-237ねん

のべ 238ねん-257ねん
けい耀 258ねん-263ねん
ほのおきょう 263ねん

さきぬしこうおもというは、『三国志さんごくし』が正統せいとうとする立場たちば立脚りっきゃくしているため、しょくかん皇帝こうていを「みかど」としょうすることをけたためのものである。書名しょめいの「さきぬしでん」「おもでん」のみならずほん文中ぶんちゅうでも「さきぬし」「こうぬし」としるされ、「みかど」ではないものの実名じつめいばれていないのは、皇帝こうてい書名しょめいでは「しゅつて」としながらも本文ほんぶんでは「まごけん」のようにあつかいであることとくらべて差別さべつおこなわれている。これは『三国志さんごくし』をあらわしたちん寿ひさししょく出身しゅっしんゆえの故国ここく称揚しょうようであるとかんがえられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 三国志さんごくししょくこころざしさきぬしでん」では中山なかやまやすしおうりゅうまさる、『てんりゃく』ではひとしたけおうりゅう後裔こうえいとするなどの諸説しょせつがある。
  2. ^ なおちん寿ひさししょくこころざしおもでん」では、皇帝こうてい一貫いっかんして「おう」と表記ひょうきしている。
  3. ^ 并州、りょうしゅう、冀州、兗州はしょくかんが、じょしゅうしゅうかそけしゅうあおしゅう支配しはいするものとし、つかさ隷ははこたにせき境界きょうかいせんとして、西にししょくかんひがしめるめをかわした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 三国志さんごくししょくこころざしさきぬしでん
  2. ^ 三国志さんごくししょくこころざし楊戯つて」にある『かん輔臣さん』より。
  3. ^ 三国志さんごくししょくこころざしよんりゅう璿伝」裴松ちゅうまごもりしょく』。
  4. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P176・189-194.
  5. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P178-179.
  6. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P180-181.
  7. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P184-186.
  8. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P187-188.
  9. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P201-202.
  10. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P225-226.ちゅう(82)・(85)
  11. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P187-189.
  12. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P193-198.
  13. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P198-203.
  14. ^ 華陽かようこくこころざしななかん
  15. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P203-204.
  16. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P205-208.
  17. ^ 柿沼かきぬま、2018ねん、P208.
  18. ^ しょかずらあきらきた軍団ぐんだん組織そしき編成へんせいについて』、石井いしいひとし、1990
  19. ^ 三国志さんごくしまきよんじゅういむつたえちゅう引『公文こうぶんじょう尚書しょうしょ
  20. ^ 中村なかむらけいなんじしょく正閏せいじゅんろんいち側面そくめん」『六朝りくちょう政治せいじ社会しゃかい研究けんきゅう』(汲古書院しょいん、2013ねん)P441-459

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

こうこく 三国志さんごくし まき31-38国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルライブラリー ※明治めいじ時代じだい出版しゅっぱんされた訓読くんどくぶんである